7話 死が二人を別つまでⅩⅦ
昼食をどこで済ませようという話になって、総一郎はミヤさんの店を勧めた。観光客は絶対にスラムなど行かないから新鮮だろうと思ったし、都市部の小洒落た味付けには飽き飽きしているだろうと考えたのだ。
スラムという話はあえてしなかった。今のスラムは都市部の活気と反比例するかのように人気がない。そしてここで言う人気がないというのは、人の目が届かないから危険というのでなく、犯罪者そのものが居ないという意味だ。
となれば危険そのものがないのだし、下手なことを言って怖がらせるのもよくない、と総一郎は考えたのだ。荒れた街並みにローレルは訝しげな顔をしているが、ミヤさんの店に着くと緊張を解いたのが分かった。
「いらっしゃい総一郎! あら、何そのかわいい子! ミヤさんその子初めて見たわよ!」
「えっと……お店の方とお知り合いなのですか?」
「まぁね。こちらの女性は……少し食事を一緒にすることになって」
「ああ、まだあんまりって感じ? ならちょっと自粛しておこうかしら。ささ、中に入って。ミヤさん腕によりを掛けちゃう」
ミヤさんはそう言って、店内に二人を招き入れる。休日だが人のいないスラムではミヤさんの店もほとんど人が入っておらず、その為かグレゴリーも居ないようだった。ローレルがいるから話しかけられることはないだろうが、居ないだけで少しホッとする。
「何だか隠れ家的なお店ですね」
ローレルは店の内装を見回しながら言った。総一郎は頷いて答える。
「うん。最近は世間のそれこれで人がいないけど、味は確かだから安心して」
「私の母国とは違うらしいですね」
まさかスムーズに自国の自虐に入るとは思わず、総一郎はどう言っていいか迷う。過去の記憶があれば脊髄反射で返せばいいが、目の前にする彼女はそうではない。そこそこ楽しい一日だった、で済ませてさして記憶に残すこともなく帰ってもらいたいのだ。
そういう意味では、アンティークショップの一幕は少し失敗だった。とローレルのブレスレットを見る。まさかあれほど気に入るとは思っていなかったのだ。今も隙あらば石を撫でているのを見るに、あの店のことは忘れてはもらえまい。
だが、連れ合いが誰だったかなどというのに関しては、人間の記憶は曖昧なもの。この店で奢られたらすぐにでも別れよう。とまだ一緒に居たい気持ちをどうにか押し殺す。
「……マーマイトがありません」
「いやある訳ないでしょ」
脊髄で突っ込んでしまった。
キョトンとした顔でローレルが見てくる。総一郎は何も言ってないですよアピールで、横を向いて何とか咳き込んだ。それを見て、少女は少し考え込むように少年を見つめてくる。穴でもあけようとしているのか。
「じゃあベジマイト……ダメですね。こちらもないようです」
「……」
総一郎は、突っ込みたい気持ちをグッとこらえる。何故ローレルはイギリス産のまっずいペーストや、その類似品を求めるのか。確かに昔ローレルがそれらを使った料理で総一郎をうならせたことはあったが、アレは彼女の腕によるものでマーマイトのお陰では決してない。
「じゃあハギスは……うーん」
そろそろ言った方がいいのだろうか。ここはイギリス料理店じゃないよ、と。
「あっ、スターゲイジーパイはありました。これにしましょう」
「うっそぉ! え!? どこに!?」
メニューに素早く目を通すが、どこにもあのイギリス産の魚パイの名前はない。魚のパイとだけ聞くと美味しそうに聞こえる、何故か魚が縦に刺さっていて、さながら星を眺めているようなパイの名は、やはりメニューには載っていない。
そこでハッとして、総一郎は顔を上げた。するとローレルがこちらを見て、笑いをこらえるように口を隠して肩を震わせている。
「……謀ったね?」
「何のことでしょう。それはそうと、UKについて詳しいようですね。ではフィッシュ&チップスを頼みましょう」
魚のフライとポテトの盛り合わせことフィッシュ&チップスは、普通にメニューに載っていた。これもイギリス料理だが、他の国でも食べられる程度には美味しい。ちなみにイギリス本場より他の国の方がおいしい料理でもある。
ミヤさんに注文して、それからローレルはどこか含みのある笑みを向けてくる。総一郎は降参して、両手を上げて質問を促した。
「単刀直入に聞かせてください。私たち、昔どこかで会いました?」
思った以上に核心を突いてくる質問だった。だが、総一郎は今朝から常にこの種の問いを危惧してもいた。だから、スムーズに返答する。
「昔も何も、先日あったお礼ってことで今一緒に居るんじゃないか」
「はぐらかさないでください。それよりももっと前に、ということです」
「うーん……。申し訳ないけれど、記憶にないかな」
アナグラムをそろえながら、総一郎はしらばっくれる。カバリストであればあるほど、この総一郎の嘘には騙されるだろう。しかしローレルは、なおも食い下がった。
「ではアプローチを変えましょう。UKに詳しいようですね」
「多少はね。昔、住んでいたから。話を聞くに、君もそうみたいだね」
「私、記憶に穴があるんです」
その告白に、総一郎はすんなりと言葉を継げない。だが、誰しもだろう。誰しもこんな告白を聞いて、絶句するに決まっている。
「……ほとんど初対面の俺なんかに、そんな重大な話していいの?」
「あなたは、その、初めて会ったって気がしないんです。これは、道案内をしてもらったときから感じていました。ですから、何か知っていれば、と」
「それは、どういう……」
ローレルは目を伏せる。言葉を探すようにブレスレットの輝石を撫で、それから話し始める。
「私は、ジュニアハイスクールに居た一年ちょっとの時間に、ところどころ穴があるんです。ぽっかりとした穴が。その時期を知る友人たちは、全員がその間の記憶について話してくれません。誰かの言葉で真相を知るべきではないなどと、よく分からないことを言って」
その言葉に、少し安心する。あのカバリスト達とはいえ、総一郎が涙を呑んでの決断までは冒涜しなかったらしい。
「すいません。本当に知らなかったなら、それでいいんです。でも、もし知っているなら教えてください。私は――私はあのたった一年弱の記憶を埋めるためだけに、今まで必死になって生きてきたんです」
「そんなことを言われても」
「何かが、何かがあるはずなんです。あの記憶を失った直後、私は自分が何をすればいいのか分からなくなりました。ほとんどのことが手につかなくて、その理由も分からなくて、ただ――ただ、闇雲に研鑽だけを積みました」
視線をあげる。昔と何も変わらない、まっすぐでひたむきな克己心がそこに宿っている。
「私は知りたいんです。私は何を失って、何を求めて頑張ってきたのかって。今の私は、その為だけに生きているんです。それを取り戻さないと、その為に生きてきた自分が間違っていたのかも分かりません」
総一郎は、今すぐにでも言いたかった。また会えてうれしいと。ずっと愛していたと。けれどその先にあるものが何かは分かっている。だからこそ、かつてローレルの記憶を完全に破壊したのだ。破壊。何かがきっかけで取り戻されることがないように。
「……ごめん、本当に知らないんだ。確かに俺も、君とはとても仲良くなれそうという気はする。その意味で、初対面とは思えないっていうのは同意だ。けど、知らないものは知らないよ。君が、その記憶を失ってしまったように」
総一郎は苦笑して、申し訳なさを前面に出して謝罪する。ローレルはその様子をじっと見つめてから、「そうですか。変なことを聞いてごめんなさい」と素直に頭を下げてくる。そのタイミングだった。
「なぁーに二人して頭下げあってんのアンタら。まぁいいわ。ほら、あっつあつのフィッシュ&チップスよ! 出来立てをご賞味あれ~ってね」
二皿おいて、ついでにドリンクをサービスしつつミヤさんは「ごゆっくりー」と厨房に引っ込んでしまった。やっぱり嵐だ、とミヤさん登場前と後の雰囲気の差に思う。その活気にあてられ、ローレルなど目をぱちくりさせていた。
「す、すごい人ですね。ビックリして何の話だったのか一瞬忘れてしまいました」
「ミヤさんはきっと、食事中まで辛気臭くするなって言いたいんだよ。じゃあ、いただきます」
「そうですね。いただきましょう――うーん……。やっぱりマーマイトが」
この店を選んでよかった、と総一郎は感じる。他の店なら食事中も、先ほどのようなローレルの勘繰りにびくびくしなければならないところだった。だがここなら、食事と歓談に集中していられる。
そう思うと、少し名残惜しく感じるところだ。この食事が終われば、ローレルとはもう話すことはない。だが、これでいいのかもしれなかった。明るく話をして、それで未練をなくそう。総一郎はそう決めて、ローレルに話題を振る。
総一郎が二人分の会計を済ませたところで、ローレルが「次はどこに行きます?」と尋ねてきたので首を傾げた。
「……? 昼食までって話じゃなかったかな?」
「お礼が済むまでっていう話でしたからね。私もまさかこの流れで奢られてしまうとは思っていませんでした」
総一郎は手に持った、しまいかけのカード入れを見た。それからしばらく沈黙する。普段奢られることに慣れていないから、いつもの癖でやってしまったのか。
「……しまった。どうしよう」
「まさかお礼相手に恩を上乗せされてしまうとは……。不覚です。お昼ご飯はあなたのおススメできたので、夜は私のおすすめの場所に行きましょう」
「あ、このまま続行するのこれ」
「私はどうせ、今日一日暇ですから。最後の休暇を誰かと楽しく過ごせればいいな、とは思いますけど」
「断らせる気ないでしょ」
「え、私そこまで強く誘ってましたか……?」
キョトンとさせてしまって、総一郎は口元を押さえて自重の構え。軽快な会話を交わすと昔のノリを思い出してしまって、つい強めに返してしまう。
「失礼。まぁその、なんて言うか、……間違えて払ってしまったのは俺だし、俺だって今日は何もないからね。このまま帰ったらやっぱり暇を持て余してしまう」
そういうと、ローレルはパッと花開くような笑顔を総一郎に向けた。胸の奥で温かな気持ちが宿る。同時に、その温かさに冷や水を掛けられるような感覚が背筋を冷やす。
――先ほどの食事で未練をなくすと決めたのは誰だ。他ならぬ自分自身ではなかったか。
ぐ、と内臓に負荷がかかったような気持になる。苦しさ。今日だけだ、と言い訳をして少し軽くなる。そんな自分をまた追い詰める声がする。「今日だけ」はすぐに「もう一日だけ」になる。それが続けば「もう一か月だけ」「もう一年だけ」と増えていく。
お前はそうやって、どれだけ――を先延ばしにするつもりだ。
「大丈夫ですか? 顔色が良くありませんが……」
ハッとして、また考え込んでいた自分に気付く。ローレルの前で罪悪感にくすぶるのは愚策だ、今は黙っていろ。と糾弾する声をねじ伏せた。それから、自分自身に強く言い聞かせるのだ。
――本当に、今日だけだ。今日で終わり。ローレルと安穏と過ごせる幸福な一日は、今日を最後にこの世には存在しない。
そうすることで、総一郎の心は平穏を取り戻す。「少し食べすぎたみたいだ。次はゆっくりできるところに行きたいな」と誤魔化した。精神魔法での防御を完ぺきにして、嘘のアナグラムを徹底的に隠して。
「そう……ですか? 無理に付き合っていただく必要はありませんよ? 元々ここで別れる予定だったんですし――」
「大丈夫だよ。それに今君と別れることになったとしても、俺はそれこそ、家に帰って寝るくらいしかやることがないんだから」
「疲れた大人みたいなこと言いますね」
「え、俺オッサン臭い?」
わざとらしくショックを受けた顔をすると、ローレルはクスクスと上品に笑って「おかしな人ですね、あなたは」と言った。それから「冗談を言える元気があるなら、杞憂だったみたいです」と。
「じゃあ、ゆっくり出来るところに――と、少し聞いてもいいですか?」
「うん、どうぞ」
「……あなたは、ミスカトニック大学の高校生ですよね」
「大学っていうか、付属のね」
「ミスカトニック大学の図書館に入れてはもらえませんか!? その、大学に籍を置く人間の案内でしか部外者は入ってはならないって」
「あー……確かに、気にもしてなかったけど学生証を提示しないと入れてもらえないよね、図書館」
行きたいの? と聞くと激しくローレルの首が上下する。半ばヘッドバンキングを疑うような首肯だ。よほど気になるらしい。
「なら、ご案内しようかな。ちなみにどんな分野が気になるの?」
「最近気になるのはロボット工学系です! 微細なコンピューター同士を電磁で制御して、スライムさながらに自由に扱えるNCR! 人間としか思えない挙動と言動を実現する高性能AI! 感情を有するアンドロイド! アメリカには夢が詰まっています!」
ローレルらしからぬ熱の入った説明に総一郎は、そういえばローレルも好奇心の犬の仲間だったな、と再確認。実は知り合いにNCRの開発者が居るんだよという話をしながら大学へ向かう。
図書館内に学生証を使って案内すると、ローレルは大量の蔵書に目を輝かせて震えていた。武者震いという奴だろうか。総一郎の入学当初も、このちょっと常軌を逸した蔵書量には感嘆にため息を落とすしかなかったのを思い出す。
「さ、さっそく向かいましょうっ。席、取っておいてください……!」
小声で叫ぶという器用なことをして、ローレルはとても勢いのいい早歩きで本棚の影に姿を消していった。一生懸命なのはローレルの魅力だよなぁとか思いつつ、総一郎は席に座る。
こうしていると、思い出さざるを得ない。かつてローレルと共に、他の貴族の子らを無視して二人だけで勉強したあの日々を。あの頃、総一郎にはローレルしかいなかった。ファーガスやベルなどもたまに会ってはいたが、ローレルを中心に日々が過ぎていった。
ベル、と思う。ノア・オリビアに与していることが判明した以上、薔薇十字団はARFの襲撃対象だ。だが、ローレルはどうなるのだろうか。ずっと休暇だったと聞いている。それを鵜呑みにするなら、彼女はノア・オリビアにとは関わっていない。
そうであればいい、と思う。そうであってほしいと。そのために、彼女の記憶を壊したようなものだ。ローレルを危険に巻き込まないために。
だが、カバリスト達はここに連れてきた。それだけでも、総一郎は許せない思いがある。アーカムはとても危険で、普通に生活するだけでもそれなりに対策が必要となる。それに、連れてきたのはカバリスト達だ。ただ観光という訳ではあるまい。
「……ローレルを傷つけるような選択の末に、奴らがここに居るなら」
総一郎は躊躇わないだろう。そして何もかもをかなぐり捨てるだろう。総一郎の中の修羅は常に異次元袋の中に収納している。その気になれば、一秒で総一郎は人間を捨てられるのだ。
「……落ち着け、俺」
足元が近づいてくるのを察知して、総一郎は自らに冷静さを取り戻させる。それから、静かな声で聞いた。
「どう? お目当ての本はあった?」
ニコッと笑ってローレルは分厚い本を何冊も積み上げる。それから、得意げに言った。
「大量です。ちなみにこの中でおススメとかあったりします?」
「サラ・ワグナー著のものは全部おススメだよ。この中には……これとこれかな」
「さっき話していた先生ですね。じゃあ、一緒に読みましょう。いろんなことを教えてください」
その言い方少しエッチだな、と思ったがもうかつての距離感ではないので黙っておいた。昔のように叩かれるならまだしも、戸惑われたらダメージがデカすぎる。