7話 死が二人を別つまでⅩⅥ
春の暖かさと日入りを一身に浴びながら、総一郎はゆったりと素振りを終えた。
庭から部屋に上がり、シャワーを浴びてリビングのソファに座る。そろそろみんなが起き出す時間だが、今日に限っては少し事情が違う。
理由は総一郎たちが成功させた、ノア・オリビア潜入捜査のためだ。あの任務の成果報告により、ARFの課題が明確化された。もっといえば、今すぐやらなければならない仕事がどっさりと押し寄せた。
結果白羽を始めとした多くの人間がてんてこ舞いになったのだ。ARFは先日から大忙しで上意下達の下意上達。トップダウンにボトムアップを繰り返して連絡が飛び交い仕事が回され、誰もが目を回してひーこら言っているらしい。
昨日の状況連絡では、アーリが過労でぶっ倒れたのを、目に色濃い隈を作った白羽が種族魔法で無理やり生き返らせて恨むような目で見られたという。あの二人は幹部でも事務仕事向きだったから、特に大変らしい。
他の幹部たち――ウルフマンやシェリルなども、例外ではない。ウルフマンは首だけなので出来ることは少ないが、それでもスラムの内部事情や秘密には詳しいためその辺りの根回しに首だけで連れまわされているようだし、シェリルはシェリルで魔法の扱いに優れるから、ARFの魔法部隊の訓練における総仕上げに監督役を任されているという。
では、総一郎はというと。
「……一人で食べる朝ご飯は寂しいなぁ」
図書が研究所で泊まり込み、清がミヤさんのところに預けられている今、家にいるのは総一郎だけだった。ARFの仕事は回されていない。大一番が控えているのだから、今は休んでおきなさい、というのが白羽の指示だった。
そんな訳で、暇を持て余している。
「今日は休日だしなぁ……」
一人で適当に作った目玉焼きのせトーストをかじりながら、もそもそと咀嚼する。家にいればいつも誰かが居る生活だったから、一人きりというのが慣れないのだ。
ぶっちゃけ寂しい。そんなに大変なら仕事振ってくれてよかったのに、というのが本音というか、拗ねる総一郎の意見だ。
昨晩深夜に久しぶりに帰ってこられた白羽は、そんな総一郎を見かねてミスカトニック川沿いの散歩を勧めてきた。しかしそこで『白ねぇとは一緒に行けないの?』とジトっとした目で見つめると、抱きしめられて大変だった。今日の夜明け前に出ていったようだが、体力とか持つのだろうか。
「どうしようかなぁ……。読書の時間は常に確保してるから、今更休日、とか言われても困るんだよなぁ……」
食事を終えて食器を洗いながら、総一郎はぶつぶつと文句を垂れる。忙しい日々を送っていると、いざ暇になったときその潰し方が分からずボーっとするしかないのが悩ましい話だ。
明日になれば学校もあるし、ARFから与えられた休日は明日までだからそれ以降はまた忙しさに身を任せればいいのだが、降って湧いた今日という時間に関しては、どうしても総一郎は持てあましてしまう。
「良くないなぁ」
またソファに深々と座り込んで、呟いた。それから、自分の言葉を確かめるように「良くない」と繰り返す。
「……出かけようかな」
総一郎、立ち上がる。時間はまた朝七時を回ったばかり。街の店もほとんど開いてはいないだろう。だが、こういうのは思い立ったが吉日。やりたいと思った瞬間に進みだすのがもっともいいのだ。
総一郎は初夏の気配に半袖シャツを着て、早朝のアーカムに繰り出した。急いでどこかへ行くときはこっそりと魔法で身隠しをして飛ぶのだが、今日ばかりは徒歩でてっくてっくと住宅街を抜けた。
「朝は旧市街から都心部に回っていこうかな」
どうせ店は開いていないのだ。ならば人が少なくて朝焼けの美しい、旧市街の景観を眺めながら歩くのも悪くない。
総一郎は自分のペースで歩いていく。たまにすれ違う人々は、ランニングをするおじいさんだったり、車道を走る洒落た形状の自転車だったり、総一郎と同じように朝焼けの街並みを楽しんでいるらしい。
しばらく歩くと旧市街に着く。レンガ造りの建物さえ残る昔のアメリカらしい街並みは、何度来ても新鮮だった。一時はウッドがアーリの家に住んでいたが、街そのものを楽しむような余裕はなかった。
好きに歩き進んでいく。知らない道に出ても、こっちかな、と体感で横道を選んで進むとまた知っている道に戻ってきたりする。そんな小さな冒険感に任せて知らない道を進んでいると、公園にたどり着いた。
アーカムにも森があったのか、と当たり前の事実に驚きながら、道を進んでいく。桜は旬を過ぎて散り、気づけば青々とした若葉をつけている。場所によってはハナミズキが花をつけていて、今更に春の終わりを感じ始める。
「……忙しかったもんな」
総一郎がそんな風にしみじみ歩いていると、ベンチに座って暇そうに呆ける、一人の少女を見つけた。
青葉ざわめく緩やかな風の中で、彼女は静かにまどろんでいるようだった。手元には読みかけらしい本があって、それが寝ぼけた手つきでもって曖昧にページが開かれている。
総一郎は、その光景にただ見とれるしかなかった。少女の短い金髪と、趣味の良さを感じさせる小さな三つ編み。白っぽくて若々しいシャツと淡い暖色の丈の長いスカートが、少女と初夏にあまりに似合っていたから。
だが、見惚れている場合ではなかったのだと思う。呆然と見つめる時間なんてなかったのだと。少女とてまどろんでいるだけで眠っているのでないのだから、自分の傍らに立つ人物に気付かない訳がなかったのだ。
「……アレ? あなたは……」
総一郎はその声を聴いてハッとした。ついで、後悔が押し寄せる。今から逃げるのはあまりに不自然で、それは総一郎の望むところではなかったから。
「――やぁ、また会ったね。こんなところでどうしたの?」
総一郎は何でもない風を装って声をかけた。それに反応して少女が口元を綻ばせるのを見るだけで、胸の高鳴りを感じる。そして、そんな自分自身を浅ましく、醜く思った。
ローレル・シルヴェスター。かつて総一郎が決別をした少女。愛するが故に、別れざるを得なかった彼女。触れ合うのはおろか、会話も、遭遇することすらいいとは言えない。そのはずなのに総一郎は、自らが自らに禁じた行為を犯している。
「つまり、流石に暇すぎて飽きてきたって?」
「そうです。しばらく休暇だと言い渡されても、他の人たちは全員仕事なのです。一人で物事を楽しむ、というのも悪くはないと思いますが、限度があります。最近はウィンドウショッピングにも、食べ歩きにも興味がわきません」
ローレルはそう語り、ため息を吐いた。なるほど、総一郎とは程度が違えど、彼女もまた暇なようだ。それがどこか嬉しくもあり、そう感じる自分を唾棄すべきだとも感じる。
「それで、あなたはどうしてここに?」
ローレルに尋ねられ、嘘を吐けばいいのに、総一郎は馬鹿正直に答えてしまう。
「俺もちょうど暇でね。最近忙しかったから、休日の楽しみ方をすっかり忘れてしまったんだ。それでひとまず外に出ようと思って、歩いてたらここについてた」
「ふふっ、似た者同士ですね」
「……そうだね。ちょっと奇跡的なくらいに」
言いすぎですよ、とローレルは微笑む。記憶を失っているから、ちょっとした偶然だと思うのだろう。だが記憶を持ち続ける総一郎にとっては、奇跡に他ならない。そしてその軌跡は、きっとアナグラム演算によって整えられたものだ。
出来すぎた偶然は、カバリストにとって奇跡の名を借りた必然だ。薔薇十字団は総一郎とローレルの再開を望んだのだろう。だからローレルを暇にした。きっとその他にも手を回した。そしてその成果がここに実を結んだ。
それが分かっていてなお、総一郎の心はローレルとの会話にほぐされてしまう。白羽に支えられて、ナイと戦うと決めて、それでも総一郎はローレルと共にあれることに幸福を感じるのだ。
罪深い、と思う。だがそれを表情には決して出さない。ローレルに、何も勘繰られたくないから。勘ぐられれば――きっと何かが破綻する。
「でも、嬉しい偶然であるのは確かです。前に道案内されたお礼が出来ていなかったのが、ずっともやもやしていました」
そう言ってベンチから立ち上がるローレルに、総一郎はキョトンとする。それから彼女は振り返って、その短くも趣味のいい、金髪の小さな三つ編みを揺らした。
「どうせ二人とも暇なら、一緒にお出かけしませんか? お礼も兼ねて、お昼ご飯をご馳走します」
青々とした木々を背景にしたその輝かんばかりの微笑に、総一郎は瞬間言葉を失った。それから戸惑いがちに「いや、そんな。悪いよ」と苦笑しながら遠慮を示す。
「悪くはないです。むしろ、お礼が出来ていないというこのもやもやを解消できない方が、私にとって悪い状態です。まったく、グレアムも何故連絡先を渡すだけ渡して聞かないのか……。ともかく、遠慮される方がよくないのでぜひご馳走させてください」
「俺、そんな大したことしてないよ?」
「――お嫌ですか?」
「……そんな表情は卑怯だな。君を前にバッサリ『嫌だ』なんて言える人なんて居ないよ」
「ふふっ、お上手ですね」
伺うような悲しげな上目遣い。それから、花開くような笑顔。柔らかな態度とこの芯の強さに懐かしくなる。ああ、そうだ。こんなローレルが好きになったんだと思って、それから多くに罪悪感を抱いた。
結局断り切れずに、暇な休日を共に過ごすことが決まる。ローレルにとってはお互いに名前も分からないのにグイグイ距離感を詰めてくるのは、カバリストの策略か否か。知るべきと考えたが、ローレルに精神魔法を使いたくなかった。
八時半を回った辺りで、ローレルは立ち上がり総一郎を連れて都市部へと向かった。旧市街から都市部にかけての道のりは少し長く、到着して少し歩くと次々に店が開き始めた。
「それで、何処へ向かうの? また食事時って時間ではないけど」
「気になっていたアンティークショップがあります。ただちょっと怪しいと言いますか、一人で入るのが勇気のある店で……」
「君結構俺の事都合よく使うね」
「む、意地悪言わないでください。でも、調べた限りいい店なんですよ? 後悔はさせません」
ローレルと行動を共にしてしまっている以上、総一郎にはもう後悔も何もない。心情的にはこの上なくて、同時に多くの人間の人生を狂わせた自分が、という罪悪感に押しつぶされそうになる。
いっそここで、『灰』で罪悪感を誤魔化してしまえば。そんな事すら考える。だが、今そうすればきっと、総一郎は戻っては来られまい。そしてすべての責任を投げ出して、それこそ業を忘れ仙人にでもなるしかないだろう。
「どうかしましたか?」
突如として黙り込んだ総一郎に、ローレルは尋ねてくる。「少し考え事だよ」と受け流し、「それでその店はどちらに?」と話を変える。ローレルの前で考え込むのは危険だ。カバラで看破されたとき、総一郎はどうしていいか分からない。
ならばもう、楽しむしかないと総一郎は覚悟を決める。とたんに軽く浮つき始める心に、総一郎は自分が言い訳を求めていたのだと知った。罪悪感が募るが、仕方ない。いずれやるべきことを果たす。それさえ忘れなければいいのだ。
都市部とスラムの狭間のような街並みの中、深く地下に潜る階段を下りて行った先に、その店はあった。色合いの深い木製の扉を開けると、九時を知らせる鐘が荘厳に響いた。威圧的な音の源を探すと、人間ほどもある機械仕掛けの時計がそこにあった。
実物サイズの鳥が仕掛け扉から出てきて、くるっぽー、と間抜けな鳴き声を上げて引っ込んでいく。
「ドンピシャのタイミングでしたね。これが見たかったんです。次に行きましょう」
「嘘でしょ? え、欲しいものとかはないの?」
「ありますけど……一応お礼の観光所巡りですから。私が選んでいる時間あなたは暇でしょう? それはお礼とは言えません」
「……」
絶句。と共に、相変わらずだという感想を抱いた。かつての凄絶なまでの克己心は、まるで顔色を変えずに自分の心を制御してしまうほど成長したらしい。
「なら、俺が少し見ていきたいから、付き合ってくれないかな」
そういうと、ローレルは驚いたように目を丸くして、それから「分かりました。じゃあ少しここで時間をつぶしましょう」と表情を華やがせる。
店内を進む。シックな店内に並べられているのは、椅子や机といった大型のものではなく、その場で買って持ち帰れるような小物ばかりだった。どうやら入り口の巨大時計はかなりの例外で、客寄せの目玉に過ぎないのだろう。
ここのどこが怪しいんだ? と首をかしげると、奥の方でカウンターに座る店主らしき人物を見て納得した。ロングドレッドの髪をバンダナで覆い、目も確認できないほど黒いサングラスをつけている。
ヒッピーじゃん、と総一郎は思う。前世の情報しか知らない総一郎にとって、ヒッピーはほとんど衰退したものだ。だがこうやって続いているということは、伝統を排し自由を重んずるヒッピーもまた、伝統の中に置かれるようになったということなのか。
「あ、これ可愛いですよ」
ローレルの声につられて移動すると、サイケデリックなデザインの壁掛け小物があった。どこからどう見てもヒッピーらしいインテリアだが、その古ぼけ方はアンティークショップにふさわしい重厚さを醸している。
「ヒッピーとアンティークの融合……?」
何だかあり得ないものを見せられているような気持ちになる。よくよく気づくと流れている曲自体も前世有名だったイギリスのバンドのものだ。子供のころにそのバンドのリードボーカルがエイズで亡くなっていたな、なんてことを思ったりする。
「ずいぶん古い曲だな」
「ん……お客さん、この曲が分かるか」
ローレルが一人はしゃぎながら小物を見ているのをしり目に呟くと、店主が反応した。総一郎は古ぼけた記憶を頼りに、会話に応じる。
「もうほとんど古典に分類される曲ですよね。あまり詳しくはないんですが」
「知ってるだけで十分詳しいと思うがな。彼らは伝説だ。ちなみにこの曲の名前はな……」
店主は、ポンポンとスピーカーを叩く。よくよく見れば、機械に繋がっているそれからして、もうアンティークと言っていい代物のようだ。
歌は母親を呼び、そして人を殺してしまったと嘆く。銃で人を殺してしまったと。
総一郎の眉が歪む。すぐに直し、カバラで誰にもバレていないと確認する。ローレルは小物を手に取って楽しんでいる様子だ。
「彼女とデートかい? 初々しいな」
「いえ、少し行動を一緒にする機会に預かっただけですよ」
「それはまた随分と固く捉えるんだな。しかし、彼女はそうは思ってないかもしれんぞ」
「……そんなことないですよ」
ローレルをちらと見やる。自分が話題になったのに気付いたのか、彼女はこちらを見つめていた。軽く手を振ると、にっこりと笑ってまた小物を手に取り始める。
「可愛らしい子じゃないか。きっとお客さんに気があるぞ」
「ハハハ……。ほとんど初対面ですから。俺はともかく、彼女はそうは思ってませんよ」
「何だ。じゃあお客さんの片思いか」
BGMが歌う。別れの時間だと。自らはもう裁かれねばならないのだと。だから何もなかったかのように、明日も生きて行ってくれと。
「……複雑なんです」
「そうか。余計なことを言ってしまったらしいな。ひとまず、この店はいくらでも居ていい。買っても買わなくてもな」
「そんなこと言っていいんですか? こんな立地のアンティークショップなんて商売あがったりって気がしますけど」
「元々道楽で始めた店だ。大抵はあのバカでかい時計を見に来て、しばらく店内をうろついて何も買わずに出ていく。だがたまに運命の出会いを果たす客がいる。そういう客のために、この店はあるんだ」
「なるほど。ではお言葉に甘えて、ゆっくりさせていただきます」
言って、ローレルのもとに向かう。それから声をかけようとした直前に、BGMが歌った。
――僕は死にたくない。ときどき思うんだ。生まれてこなきゃよかったって。
喉に言葉が引っかかって、口から出てこなくなった。だが一瞬だ。総一郎は平然を完璧に装って、彼女の背後から指をさす。
「これなんかもいいんじゃない?」
「あ! 本当ですね。宝石みたいできれいです」
色合いの不可思議な磨かれた丸石を、小さな縄で縛ったアクセサリー。前世では露店を見ればどこにでもあるような商品だが、今の世にはここにしかないのかもしれない。
ローレルは総一郎が勧めたそのネックレスがいたく気に入ったようで、手に取って見上げるようにじっくりと眺めている。そんな気に行ったなら買ってあげようか、と言いかけて、今はそんな関係性ではないのだと思いなおした。
「これ、最初はきれいな石に過ぎないと思っていたのですが、違うのですね」
ローレルはぽつりと呟いた。「そうなの?」と聞く。
「はい、角度によって色が変わるんです。横から見ると翡翠っぽくて、上から見ると青、下から見ると黒……。いくら見ていても飽きません」
買います、と言ってローレルは立ち上がった。それからまっすぐにレジに向かい、手早く支払いを済ませて戻ってくる。その表情はまさにほくほく顔で、さっそく手に巻き付けてブレスレットにしてしまう。
「似合ってますか?」
嬉しそうに聞いてくるから、「もちろん」と即答した。それから店主の言葉を思い出して続ける。
「まさに運命の出会いって感じだね」
「……!?」
ローレルは顔何故か真っ赤にして、総一郎を見た。それからブレスレットを見つめて、恥ずかしそうに「はい」とはにかむ。冗談めかして続けた。
「縄の部分がちょっとチクチクしますが、それも含めて愛おしいです」
「そうなんだ。欠点まで愛されるなんて、君が持ち主でそのブレスレットは幸運だね」
「そうでしょう? 私はこうと決めたらとことんなんです。いまだに昔の宝物を大切にしているくらいですから」
あなたは何も買わないのですか? というローレルに、総一郎は頷く。
「大丈夫だよ、俺はもう運命の出会いは済ませてるから」
「えっ」
ドキリとしたらしいローレルに、総一郎は「さっきのBGMだよ。名前は聞いてるから、音源を探して家でも聞こうってね」と告げる。ほっと胸をなでおろす彼女は、そのまま店の扉を開いた。