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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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4話 『おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?』XIII

 家には帰らなかった。ARFの本拠地に行くのも嫌だった。アイはもちろん、自分を知る誰かと会うのが嫌だった。


「……」


 ウルフマンは、どこかのビルの上で雪に腰かけながら日の出を迎えた。けれど、太陽は見ていない。僅かに明るくなったから、そうなのかなと思っただけだ。


 狼男の姿でいれば、凍え死ぬことはない。食事も、数日抜く程度なら我慢できる。


 雪嵐は、鳴りを潜めていた。しんしんと、静かに降っている。体にのしかかる雪を、やはり退けない。積もるままに、任せていた。


 目の前の、鼻先に満遍なく広がる白を見る。毛があるから、冷たくはない。しかし、このまま埋まってしまえば、どうなるだろう。動きたくない。考えたくない。そんな気持ちに従って何もしなければ、夜までには雪に埋もれているかもしれない。


「……ははっ」


 自分の考えがあまりにばかばかしくて、少し笑った。立ち上がる。歩く。ビルの谷間。軽く飛び越える。そしてまた、歩く。


 まだ、早朝だ。人の気配は、ない。昼になっても、ウッドの所為でかつての賑わいは戻らないだろう。ならば、良い。


「走ろう」


 一度姿勢を作る。腰に、力を溜める。解き放った。思えば狼の姿で、全力で走った記憶は少ない。もっと言うなら、走ることを目的に、全力で走ったことが。


「おっ、おっ、おっ!」


 いつもは攻撃の手段や、逃げるための方法だった。そこに求められるのは効率性。ピッグやハウンドから随分と手ほどきを受けた。彼らは技術で戦わない。技術など持っていて当たり前で、それを当てはめて作り上げる戦略にこそ意味を見出していた。


 ウルフマンは、本質的には真逆だ。指示を受けて突っ走るか、気分に任せて突っ走るか。だが、後者に任せたことはほとんどない。重要度の低い救出任務程度のものだ。そういう時、相手はほとんどギャング崩れで、やはり本気になったことなどなかった。


 だから、ノリにノった。


 ウッドに追われるような必死感はないし、ラビットを追いかけるような手の届かない感じもない。


「何だよ、おれ、速いじゃんか!」


 大きく飛び上がって、空中で一回転する。一瞬の無重力。何もかもから解き放たれる。その、まさにその瞬間、ウルフマンの脳裏に、一つの問いが現れた。


 ――――――――――――おれは、いったい何者だ?


 重力も、空気も、水も、食べ物も、敵も、味方も、人間も、亜人も、その瞬間だけは関係なかった。そこに居たのはたった一人の狼男。強靭な肉体と、脆弱な精神を持つちっぽけな少年。上下の逆転した雪降りの朝。何者ともつながらないで彼はそこに在った。


「…………ぁ」


 自由なる孤独感の中で、彼は自分を他者との繋がりでしか表せないことに気が付いた。ARFの構成員、モンスターズフィーストの元首領の一人息子、ミスカトニック大学付属校の一年、祖母の孫、アイや仙文……そしてイッちゃんの親友。


 浮遊感は終わり、バランスを崩して背中から落ちていった。雪に助けられて痛みはない。だが、なかなか深くに埋まってしまった。その上から、絶えず粉雪が振ってくる。


 無言。思い出す。昨日の事。対峙した偽物のウルフマン。勝ち残った自分。幸いにも人生を丸ごと乗っ取られはしなかった。けれど、アイは自分に刃を向けた。アイには、精巧に作られた偽物と、自分――本物のウルフマンを見分けることは出来なかった。


 そんな、浅い付き合いをしたつもりはなかった。愛見が白羽と知り合うよりも前に、仲良くなったのだ。今のスラムの片隅なんかじゃなく、もっといい家に住んでいた時から、互いの家に行き来するような仲良しだった。


 頭の鈍い自分でさえ、愛見の事はよく分かっているつもりだ。鋭い彼女からしてみれば、尚更だろうと考えていた。だから、ウルフマンにとって、昨晩の事は衝撃だった。


 しかし、愛見を責めるつもりはない。彼女が自分を大事に思ってくれていることは、疑いようのない事実だからだ。そのことは、ウルフマンの偽物を極力攻撃しようとしなかったことで分かっている。――つまり、アイがウルフマンを見分けられなかったのは、ウルフマン自身の責任だ。


「おれは、おれが、おれたらしめる、……うぁ、訳分かんなくなってきた」


 思春期の少年少女は、大抵自問するものだ。曰く、自分は何のために生まれて来たのか。曰く、自分は何であるのか。


 ウルフマンは、それを問うべき時期にはすでにARFに加入していて、自分は亜人差別の撤廃者たる自覚と自尊を手に入れていた。もちろん、これは悪い事ではない。自らを明確に規定できれば、その人格は安定する。


 だが一方で、それは乗り越える壁を避けてきてしまったとも形容できた。


 ウルフマンはその場でしばらくジタバタしていたが、結局立ち上がってビルから飛び降りた。変身を解く。服を着替える必要はない。対亜人商戦に長けた日本人たちは、異常なまでの伸縮率を誇る服装の類をアメリカに流通させてくれたのだ。その網目を、ウルフマンの毛はすり抜けて伸びる。


 とはいえそれらは肌着に近く、冬の真っただ中で十分とはとても言えない。ARF用として各地に設置された小さな拠点に足を運び、かるく上着を選んで、羽織った。


 街に出る。やっぱり、人はいない。街の途中で見つけた高時計を見ると、六時ぴったりだった。


「……そこまで早朝って訳でもないのか」


 ぽつりとつぶやいて、通りすがる。昨日降った処女雪に足跡をつけて進む。空は灰色。音は息を殺している。眠っているのだ、と思った。街が、冬眠している。


 ジェイコブは、上着のポケットに手を突っ込んだ。すると、財布が入っている。開けると、ちょっとした金額。数日程なら、食べられるだけのドル。


 開いている店を探す。カフェなどは、当然のようにclosedの札。結局、コンビニエンスストアでサンドイッチを買った。美味しいというほどではない。不味くもないが。


「……何やってんだろ、おれ」


 食いながら、独り言を漏らした。聞く人は誰もいない。もし、と考える。もし誰もいなかったら、ジェイコブと言う少年は何者になっていたか。


「父ちゃんが居なかったら」


 ARFには入っていただろう。けれど、もっと暴力的だったかもしれない。ハウンドと手を組んで、悪徳組織を壊滅させていた自分が目に浮かぶ。


「シラハさんが居なかったら」


 きっとジェイコブは行動を起こさなかった。亜人差別の現状を、怒りと諦念をもって見過ごした。


「ヒルディスさんが居なかったら」


 野垂れ死んでもおかしくない。彼は、ジェイコブにとって第二の親だ。腹を空かせてどうしようもなかった時、何度も助けてもらった。


「マナさんが居なかったら」


 間違いなくこの世にジェイコブはいない。祖母が勘違いと共に襲い掛かってきたとき、必死になって自分を助けてくれた。


 祖母には今でも戦って勝てる自信がない。あの老狼は、アレで元一大ギャングのボスの母親だったのだ。誘拐犯を引き裂いたことなど、両手では数えきれない。


「……婆ちゃんが居なかったら」


 ジェイコブは目を瞑る。サンドイッチの最後を口に放り込む。


 立ち上がる。また当てもなく歩き回る。散歩だけでも時間は過ぎた。八時を回る頃、何となく学校に向かった。


 少し、人の気配。ちょっと躊躇って、しかし進んだ。でも、人の多そうなところは避ける。階段裏を覗くと、薄暗がりが魅力的に映った。そこで横になって、瞼を閉じた。


 夢。目の前に、鏡がある。鏡の向こうで、狼男は問うてくる。


「お前は誰だ」


 答える。


「ジェイコブ・ベイリーだ。ARFのウルフマンだ」


「そんなことは聞いてねぇよ。他人につけられた名はどうでもいい。お前は、お前自身をどう言い表す」


「……どういうことだよ」


「感じるままに言えばいい。お前は誰だ」


「おれは……おれだ。うん、おれ以外の何物でもない」


「ならば、お前は誰だ?」


「……だから、おれだろ?」


「お前はお前だろうよ。だが、お前は本当に『おれ』か? そもそも『おれ』とは誰だ?」


「だから、おれはおれだ」


「そのとき、お前は誰だ?」


「おれだ」


「『おれ』とは?」


「……おれ、だよ。狼男だ」


「じゃあ、狼男じゃなかったとき、お前は誰だ」


「は?」


「ん?」


「お前は人間の姿と狼男の姿のどちらにもなれる。人間のとき、お前は誰だ?」


「……黒人?」


「黒人と言うだけならお前の他に掃いて捨てるほどいる。そんなものはお前ではない。お前は誰だ」


「おれは、……お前だ」


「そうだ。お前はおれだ」


「じゃあ、お前は誰だ?」


「おれだ」


「だが、お前が誰だかわからねぇ以上、おれもまた、おれが誰だかわからない。だから聞くぞ。お前は誰だ」


「おれは……おれだ」


「ならば、お前は誰だ」


「おれは、……おれは」


「誰だ?」


「おれだ」


「ならおれとは何だ?」


「……………………………………………………………………分からない」


「じゃあ、おれは誰だ?」


「誰だよ、お前」


「お前はおれだ」


「おれは、誰だ?」


「誰だよ、おれ」


「おれって何だ?」


「何だよ、おれ」


「おれ?」


「おれって?」


「意味が分からない」


「お前?」


「おれ」


「え?」


「お前?」


「誰?」


「おれ?」


「誰?」


「誰?」


「おれって?」


「え?」


「誰だよ、お前」


「お前は、おれだ」


「じゃあ、……おれは誰だ?」




 飛び起きた。全身冷や汗でびっしょりだった。頭を抱えた。顔を覆った。嗚咽した。崩れた。


「…………ッ、……ッ! ゥァ……、―――――ッ!」


 ただ震えた。それ以外出来なかった。縮こまって、物陰に隠れて、荒く息を吐いた。


「誰、誰だ? おれは、おれは……!」


 呼吸さえままならないような気持になった。今までどうやって立ち上がっていたのかを忘れた。どのように食事をし、どのように眠りにつき、どのように生きてきたのか分からなくなった。


 這いずるようにして、暗がりから出る。時刻は大分回って、夕方五時を回っていた。十時間以上も寝たのか、と呑気に考える自分と、そんな事などどうでもいいと喚き散らす自分がジェイコブの中で分裂した。


 人は、来た時よりもさらに居なくなっているようだった。少なくとも、この周囲には息遣いを感じない。何故そんなことが自分には分かるのだと訝った。狼男の力だと誰かが答えた。その誰かが自分自身であることをジェイコブは理解できなかった。よたよたと立ち上がって、転びそうになりながら校舎を出た。


 夜は、ウッドの時間だ。奴に怯えて、人々は家の中に引きこもっている。だから、ジェイコブの挙動不審な動きを見咎める者はいなかった。幸運にも、警察官も巡回していない。


 酔ってもいないのに千鳥足で、ジェイコブは再び街の暗がりに身を投じた。レンガ作りの壁を背に座り込み、俯いて動けないでいた。


 空を見上げるのが、怖かったのだ。あの、雪を吐き出すとぐろを巻いた闇。それはジェイコブにとって、ウッドの象徴のようなものだ。


 誰にもバレないで、夜が過ぎるのを待つつもりでいた。新たに『ハッピーニューイヤー』が増えるという話は聞いていたが、義憤は自我崩壊の恐怖に呑まれて消えた。


 それから二時間程度、ずっとそのまま息をひそめていた。通りがかる人もいない。ジェイコブは、きっと今日は、『ハッピーニューイヤー』を作れるほどの人は街に現れないだろうと考えた。それならば、誰も被害に遭わずに済むだろう、と言う免罪符だ。


 静かだった。二時間もすれば、息も整った。落ち着いている。落ち着きながら、動き出せない。


 本当なら、行かなくてはならないと分かっているのに。


 そんな折、彼の目の前に現れる者があった。


「あ、狼さんみっけ」「みっけたー」


「……うげっ」


「うげって言われたー」「失礼なー!」


 目の前で騒ぎ出す金髪の双子。ヴァンパイア・シスターズ。たまに本部で遭遇するが、正直平時でもあまり会いたい相手ではない。端的に言って、トラブルメイカーなのだ。


「まぁ、いいや」「そんなことより」「そうそう! そんなことより」「これ!」


 喧しく騒ぎ立てながら、ヴァンプは手紙を差し出した。聞けば、ヒルディスからの伝言だという。


「指令書だから」「どうするか聞いて来いって」「人使い荒いよねー」「ねー」


 開くと、簡単な問いがそこに記されていた。ジェイコブは、顔を顰める。


「ヒルディスさん、アンタ、甘すぎるよ……」


 ――――ウッドの相手の代役を見繕った。今晩の予定だけ、明らかにしてくれ。


「……本当、組織の長なんだから、もっと非情なくらいでいいだろうが……! あの人は、あの人は……ッ」


 拳を固めて、壁を叩く。傷ついたのは、ジェイコブではなかった。感情の昂りに応じて変化した狼の拳は、レンガよりもずっと頑丈だ。


 強い、と思う。体は、間違いなく。あとは、心だ。心が、強くなければ。


「……伝えてくれ。今日も、ウッドの相手はおれがする」


「そう言った時は」「止めろって」「言われてるんだけどもー」「もー」


「一応聞くけど、どうやって」


「んー」「血を吸って同類に?」「でもウッドって夜型だよね?」「意味なーし」


「そうだろ? ほら、ヒルディスさんとこに言って来いって。狼男の吸血鬼なんか洒落にもならないぞ」


「強そうだけどねー」「格好いいと思う」「じゃあやっちゃう?」「止めるとかは置いといて」


「マジでやめてくれ、頼むから」


「はーい」「はーい」


 睨みを利かせると、微妙に不貞腐れた様子でヴァンプは闇に溶けていった。吸血鬼。負ける事はないが、勝つことも容易ではないと思わせられるだけの多様な能力を持っている。


「……何度見ても、言葉も出ないな、あれは」


 ため息をついて、立ち上がった。双子の気の抜けた問答が、かえって張り詰めすぎていたジェイコブの感情を緩めてくれた。


「おし、……おし、おし……、――――――おしッ」


 無理やりに、気合いを入れる。ウッドがどれほどのものだ、と思う。真正面から冷静にぶつかりあえば勝てる、とヒルディスが言ったのだ。それを少年が信じられないほど、あの猪は不誠実ではない。


「……ふー」


 ちょっと調子が戻ってきたのを感じて、ジェイコブはウルフマンとなってビルの上に駆け上った。そして、適当に屋上の広い建物を探して、座した。自分は小細工に向かない。ならば、奴が来るまでに何かをする必要などない。


 気配が来たのは、そう夜の更けない頃の事だった。


「……来たな、ウッド」


 ウルフマンはのそりと体を起こして、静かに臨戦態勢に入った。振り向けば、いつもの通り奴がいる。ウルフマンよりよっぽど細身で、しかし悪魔のような頭脳を持つ仇敵。


 ウルフマンは、考える。今まで、他人を気にして一度もまともに戦ったことがない相手。しかし、今日は認識違いを起こす仲間も民間人もいない。図らずして、ウッドと対決する最高の条件がそろったことになる。


 問題は幻覚世界に飲み込まれることだが、あれは強い催眠状態によるものだ、とヒルディスから聞かされていた。つまり、一度眠気に倒れないとあのようなことにはならない。とすれば、今はまだ掛かっていないはずだった。ついさっき、夜になったばかりのはずだから。あるいは、先ほどの夢がそうだったのか。


 そのように、決して鋭くはない思考の元、ウルフマンはウッドの策略に対する抵抗案を自身の中で立証していく。故に、一度聞き逃した。いや、あるいは脳が、聞き入れるのを拒否したのかもしれない。


「……は? 今何て言った?」


 目の前で、にこやかにこちらに手を伸ばすウッドは、まるで幼子に言い聞かせるような穏やかな口調で、ウルフマンに語り掛ける。


「そう、怖い顔をするなよ。ご苦労だった、と労っているんだぞ、こっちは」


「違ぇよ……、違ぇよ! お前! 今、何て言ったかって聞いてんだよ!」


「何を怒っている。全く」


 激昂するウルフマンに、肩をすくめるウッド。奴は再び、狼男に告げるのだ。


「ともかく、昨日は面白い見世物をありがとう。さぁ、俺の中に戻ってこい。“ウルフマン”」


 風が強く吹き始める。吹雪が、始まっていた。


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