白薔薇の騎士 -3-
闘技場から引き上げるカーキッドは、カインの姿を見止めニヤと笑った。
「待ってるぞ」
投げるように言って、奥へと去って行く。
カインは一瞥もくれなかった。
ただ、兜の隙間から息がこぼれ出た。
熱い息だ。
熱気に、彼自身の心まで犯されてしまうようだ。
いいや、もう浮かされているのだ、その熱に。
両手を握り締めた。火蜥蜴の髭で縫いこまれた手袋は、簡単には破れない。
――直に、名が呼ばれる。
カイン・ウォルツ。
この名を背負って戦った。
あの人の目の前で。
それは、万死に値するか?
命を破り、欺き、ここまでやってきた。
血族を貶めるは、神に仇なすのと同じ。そう教えられてこれまで育ってきたが。
――譲れないんです、父上。
「準決勝第二試合!! 西方、マルセ・ガイナス!! 東方、カイン・ウォルツ!!」
会場にはまだ先程の試合の余韻が残っている。
マルセは嫌そうに辺りを見回す仕草をしたが、カインは動かなかった。
白亜の胸甲、腕は自由だ。足の装甲もまだ傷一つない。白銀に光っている。
「始め!!」
前の試合と一転、声がかかるや否や、カインが走り出した。
突きの構え。
狂犬のごとく走り来るカインに、マルセは正眼で迎え打つ。
剣と剣、ぶつかり合う音は響くほどではない。力と力でぶつかった前の試合とは腕力が違う。
マルセは一瞬、突きの軽さに戸惑った。
彼も伊達に、第十三師団の総隊長を務めてはいない。13歳で見習いとして仕官し、今年で18年。出場者の中でもベテランの域にある彼が。
(カイン・ウォルツ)
未だかつて聞き覚えがない。
しかしこの構えは見覚えがある。同じ剣さばきをする人物を知っている。
マルセの頭の片隅に、まさかという言葉が過る。
数度の打ち合い。マルセの早い打ち込みにもカインはしっかりついてくる。彼の連撃は騎士団でも有名で、受け止める事ができる者はそう多くない。
だが、カインは受け、流す。かわし、さらに打ってくる。
(早い)
マルセの右足が砂煙を立てた。
打ち込む隙は与えていない。にもかかわらずこの剣士は。
(俺よりも早いのか?)
マルセが肩に掲げた剣を、一刀、振りかざした。
甲高く響く音が。
劈くのではない、この音は。
波紋として広がる。
どこに? と問うた自分の問いに、マルセは間髪入れず答えを導き出す。
(俺の腕にか)
心にか。
力は決して重くはない。腕力はマルセの方がよほど上だ。
(なのに)
腕がしびれる。
力がない分、それを補う速さがカインにはある。
(こんな剣士が)
連撃のマルセ。そう呼ばれてここまできた。
だが目の前にいるこの者のそれは。
――マルセが足を薙いだ。
だがカインの足はもうその場になかった。
影が落ちた。
マルセははっと顔を上げた。
天空に、その者は剣を振りかざし。
まるで宙を舞うかのように、高く飛び。
――ああ。
雲の隙間から差す太陽が、まっすぐ瞳に飛び込んできた。
目が焼かれた。
そこにマルセは答えを見た。
最後の一刀、受け止められたのは、マルセの誇り。
弾かれた剣は宙を舞う。
それが地表についた時。
――カインがマルセの喉元に、剣を突きつけた瞬間であった。
◇
――定めだよ。
20年前聞いたのあの声が耳元で蘇る。
すべては定め。選ぶのは我らではない。
導くのはすべて、
「この剣か」
湧き起こる渦のような大歓声の中さえ、王の声ははっきりと常と変わらずグレンの耳へと届いた。
「懐かしいな」
グレンは答えなかった。
「まるで昔のお前を見ているようだ」
「……」
ただ頷く。
頷いて、神に問うしかもはや残される道はない。
(呼ぶのか?)
あの魂を?
どうか、どうか、それだけは――。
◇
――4年に1度の薔薇の大祭。その日のためにこの国は動いている。
街の至る所が薔薇によって飾りつけられ、国の内外から人が集い、露店が所狭しとひしめき合い、場所さえあれば様々な出し物によって埋め尽くされている。遠方からこの時を狙って商売にくる者も多い。
だがそれはすべて余興。
薔薇の御前試合。いかに華やかな街並みとて、不随。
武芸に覚えのある者ならば、栄誉を目指し自らの腕を鍛え磨く。
4年に1度のこの日、この瞬間のために。
――最終日、決勝戦。
商売人も職人も、ハーランドに住まうならば、結果を知らずに祭りは終われない。
今年の〝薔薇〟は誰か。誰を持って終わり、始まるのか。
ましてや今年の称号は、違ういつもとは違う意味合いを持つ。
今日、国家の行く末が決まるのだと、誰もが感じている。
国の命運を決する、運命の日になる事を。
「いい風だ」
闘技場の観客席を斜めに下ってくる風は、集う人々の熱気を帯びて蒸せるような熱さを含んでいる。
風に混じる砂の匂いに、我知らずカーキッドは目を閉じ深く思いを馳せた。
兜をかぶらぬ彼の髪が、風と共に自由に遊ぶ。
揺蕩う色は黒。ハーランドの民に黒髪はいない。髪は茶か金、瞳は翠か碧が主。色素の薄いハーランドの民の中で、彼の姿は明らかに異国の民である。
万が一ここでカーキッドが勝ったなら、異国の血が王家に混ざるのか? ハーランドの王族は、この国でも最も穢れなく気高いと言われている。
髪はまばゆいほどの金糸、瞳は空のごとき蒼。
現王ヴァロック・ウィル・ハーランドの妻も、存命の頃は国の至宝と謳われた。
――その血を受け継ぐ、ただ一人の姫は?
カインは兜を取らない。
……本当は、吹き抜ける風に髪を遊ばせたい。
だが今は。
吐息に混じる焔の熱に浮かされ、この白い大地にて舞い踊りたい。
◇
「あ、あ、あ……」
フェリーナの奇声に、部屋の外にいた兵士や侍女も振り返る。
「ひ、姫様っ……」
今日はいよいよ決戦の日。
ついに決まるのだ、この国の運命も、姫の運命も。
試合を見に行きましょう、陛下の所に行きましょう――だから、固く禁じられるにもかかわらず扉を開けた。
だが。
扉を開けてすぐに異変に気付いた。明らかに人の気配がないのだ。
飾り立てた細工、上質な部屋。どこも荒らされていない、どこにも異変はない。
ただ1つ。部屋の主がいない事以外。
「姫様っ……」
異常を聞きつけた他の侍女と兵士が飛び込んでくる。
「姫のお姿がない」
「探せ!!」
「あ、あわわ……」
フェリーナは震えながら窓辺に寄る。開け放たれた窓からは裏庭がよく見えた。
オヴェリアはここから見る景色を愛していた。庭一面に咲く白い薔薇がよく見えると、窓辺に腰かけて眺めている事もあった。
『ねぇ、フェリーナ』
侍女と兵士たちが血相を変えて部屋を飛び出していく。
一人取り残されたフェリーナは、その場にへなへなとへたり込んだ。
『白薔薇の花言葉、知ってる?』
……いつだったか、姫はそんな言葉を口にした。
第12代国王、ヴァロック・ウィル・ハーランドのただ一人の娘、王女オヴェリア・リザ・ハーランドは。
『〝愛〟とか、そんな感じですか?』
『うふふ。赤薔薇はそうね。〝情熱〟〝愛情〟〝美〟……〝熱烈な恋〟〝灼熱の想い〟――その色のままに』
『熱烈な恋、でございますか。素敵ですね』
『でも白は違う』
『?』
『蕾は〝処女の心〟。枯れた薔薇は〝生涯の誓い〟。そして大輪の花に込められるのは、〝心からの尊敬〟〝無邪気な想い〟そしてもう一つ』
姫はそうして笑った。
白薔薇の意味は? フェリーナは記憶に問いかける。白薔薇が持つもう1つの意味を、姫は何と言った?。
部屋の花瓶には白い薔薇が、今朝整えたのと同じ姿でそこにあった。姫に喜んで欲しくて、笑って欲しくて、その一念で活けた物だった。
オヴェリアの笑顔は、フェリーナにとって何にも代えられない。
「姫様」
涙が浮かんだ。
白薔薇の向こうには、聖母の像がある。
その時、まるで降りてくるかのように、聖母の像と姫の姿が重なった。
「白薔薇の意味は、」
聖母の像は美しく微笑み、あの日のオヴェリアとなって語り出した。
『〝私はあなたにふさわしい〟――選ぶのよ、白い薔薇は。自らで』
己にふさわしい者を。
◇
――始めの号令は、聞こえなかった。
そんな形式的な声が上がるより先に、2人は疾うに準備ができていた。
カーキッドは最初から剣を構えた。
カインも同じ。準決勝と違い、両手で正眼に構え動かない。
(始めからわかってた)
カーキッドは内心言う。否、それは言葉よりももっともっと溶けるような思い。
(こいつと打ち合う事になる)
最後は、必ず。
彼の試合を全部見てきたわけではない。しかし。
――カイン・ウォルツ。
この国にこんな剣士がいたかのかと。
彼は騎士じゃない。まして自分のような濁った剣でもない。
純粋、無垢。
色に例えるならば、如実なほどはっきりとした白。
ジリと、わざと足元に音を立てる。カインの視線は揺るがない。
昇り立つようだ、まるで闘志が、白く神々しいほどの光を放って。
でもまだだ。まだ緩い。
淡い光。求ているのはこんなものじゃない。
――カーキッドが先に動いた。呼応するように、カインも動いた。
剣が交わる、雷鳴のような音が鳴る、だが余韻すらも両断する。
連続して、カインは剣を振り仰ぐ、横に薙ぐ。
カーキッドの剣は重い。重量とスピードを伴う剣。
ハーランド最強とも言われる近衛師団の団長を打ち負かしたのだ。
身長の高低差も重圧に加算される。はたから見れば、カインが一方的に打ちのめされているように見える。
ズドン、ズドンとのしかかる鉛の剣技を前に、剣に亀裂が入るような錯覚をカインは覚える。
受け止める腕は鎖帷子に覆われているが、か細く、一瞬誰もがなぜこんな小さな者がここにいるのかと目を疑った。
だが、事実彼はここにいる。
自らの力のみで様々な猛者を倒し、騎士を圧倒し、300人近くいた者たちを押しのけた果てに、この場所に残ったのだ。
それは偶然ではあり得ない。
――必然。その名の下に。
地面を転がり、乱撃を避ける、カーキッドの剣は地表に吸い込まれる。
だが寸前で横薙ぎに、砂煙を伴い襲い掛かる。切っ先の先はカインの首へ。
ギリギリかわす。反射神経にカーキッドは感嘆した。
「いいぞ」
もっとだ。
上から串刺すように突く、突く、もう1つ。
全部かわし、カインは跳ねるように飛び上がる。そのまま体をひねり、カーキッドに打ちかかった。
胴体を打つ、カーキッドの体が一瞬よろめく。そこに追撃を入れる。
だがそれで倒れる男ではない。迫った剣、2打目は弾く。そして一転、カインの脇を一気に狙う。
カインは両腕で剣を持ち、何とかそれをやり過ごす。そして一歩間合いを開けた。カーキッドも後追いはしない。
2人の間に距離が生まれる。
「ハァ、ハァ……」
熱い。吐く息が、苦しい。
こんな兜、投げ打ってしまいたいとカインは切望した。
だが。
(まだ、外せない)
視界も悪い。でも見える。仰ぎ見れば壇上に国王がいる。
ハーランド王が見てる。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
剣を握り締める。ぎゅっと、ぎゅっと。
感じる、鼓動。
――ここまできたら、もう。
「はっ!!」
打つしかない。
脚力上げろ。
走りくるその足が速くなったのをカーキッドは感じた。
白い気配が膨らむ、解き放たれようとしている、広がる。
「そうだ」
もっとだ!!! そう叫び、受け止める。
耳を劈く、それは音となる。
悲鳴に聞こえる。剣が上げる悲鳴。
無理しているのはどちらだ? カインか? それともカインの力量に耐えかねている剣の方か?
(こいつが今閉じ込めているものは何だ?)
打ち合いながら、カーキッドは思う。初めて見た時から思ってた。
(思いか? 信念か?)
それとも。
宿命か?
(ならば俺が)
その殻、叩き割ってやる。
解き放て。俺はそれが見てみたい、と。
(あの瞬間)
大会初日、初めてすれ違ったあの時から。
なぜだか魅入られたようにずっとカーキッドは、そう思っていた。
その一刀は、今大会カーキッドにとって一番早く、一番重く。
電光の刃。
――かつて遠い異国の戦場で、鬼神と謳われた1人の剣士、カーキッド・J・ソウル。
その一撃が、入った。
受け止めた剣は砕けた。
頭に打ち込まれる寸前でどうにかかわした、その体。
だが面が。兜が剣圧を避け切れなかった。
留め具が割れた。
そしてその面甲も、砕け散った。
「――」
風が入る。
心地よかった。
熱すぎた息が解き放たれる。
カイン・ウォルツ、そう名乗ったその剣士は、一つ、諦める。
兜を取った。そしてそのまま脱ぎ捨てた。
砕けた兜は意味をなさぬ。
もう、いい。
だが剣は残ってる。
半分折れたけど、まだ心は折れてはおらぬ。
「……ッ!!!」
誰もが息を呑んだ。
薔薇の御前試合、決勝戦。目の前に対峙している2人の剣士。
傭兵隊長と、もう一人の白き鎧の剣士は。
「あ、あれは……」
大臣は血相を変える。
だが、王と武大臣は揺るがない。
見据える、そこに立つ者の姿を。
結い上げていてもわかる、黄金の糸のごとき髪。
快晴の空よりも青い、宝石よりも澄んだ色を持つ瞳。
かつてその母は至宝と呼ばれた。
その血を受け継ぎ。
歴代王の中でも随一と言われた剣の腕を持つ現王の血を受け継ぐ、たった1人の。
「オヴェリア王女……!!」
王は鼻を鳴らす。
「剣は捨てろと、あれほど命じたのに」
「……」
「指南はお前だな、グレン」
「……処罰は受けます」
「愚か者」
だが王は仄かに笑った。
――定めだよ。
またあの声がした。
「へぇ、女か」
カーキッドは口笛を吹いた。
カイン――オヴェリアは答えなかった。
「通りで剣が軽いわけだ」
ヘヘヘと笑って見せるが、内心カーキッドはゾクゾクした。
(いい)
空気が変わった。
「その砕けた剣で俺と戦おうって?」
閉じ込められていた何かが放たれた。
これはいい。この感触は。
「面白ぇ」
この状況でその目をするか? そんな目ができるのか?
この女、
(俺はこいつに会うために)
ここに来たのか。
――誰か剣をよこせ。カーキッドがそう叫ぼうとしたその時。
わっという歓声が起きた。カーキッドとオヴェリアも、それを振り返った。
王が、立っていた。
オヴェリアは目を疑った。病を患うハーランド王は、杖なしではもう立つ事ができない。
そしてその腕では、それを持ち上げる事できないはずなのに。
王は剣を手に携えている。
彼が持つのは一刀。生涯ただ一つの剣。
――白薔薇の剣。
彼は剣を、競技場に向けて投げた。
悲鳴が起こった。
剣は弧を描き、白い砂の大地に落ちた。
カーキッドは動かなかった。ただニヤリと笑ってそれを見ていた。
オヴェリアは大地に落ちた剣を見、しばらく微動だにしなかったが。
カーキッドに背をさらし、歩き出した。
急襲には絶好。だがカーキッドは黙認する。
オヴェリアが剣を取るのを見。
抜くのを見。
それが太陽を浴びて光るのを見。
――悲しいまでに昂ぶる気配が、口元をほころばせる。
もう我慢できない。いやむしろ笑おう。「ははは」とあらん限りの声を上げて。
オヴェリアは剣を構えた。
その柄に鮮やかに彫られていたのは。
白い薔薇の証。
これが、白薔薇の剣。
思ったより軽い。
いいや、それよりも何よりも。
(父上)
これが、白薔薇の。
(母上)
剣。
――声を上げる、一刀、斬り結ぶ。
斬撃。交わした音は、今までと違う。
波紋どころじゃない、風圧を伴う。
二刀目、脇からの突き上げ。
カーキッドはそれを簡単に受け止める。弾き飛ばす。
――運命をも、共に。
今ここにある、この国で最強の剣。
腕力は圧倒的にカーキッドが上なのに。
押し勝負、なぜ互角?
弾き返す、カーキッドが間合いを取る、オヴェリアはそれを嫌ってさらに詰め寄る。
早い、早い。
連撃のマルセを倒したそのスピード。
疾風。いや、光。
カーキッドの表情から、初めて、笑みが消える。
押し勝負。男の脳裏をもう一度その言葉が貫いた刹那。
消えた。
足元に深く、腰を落としたオヴェリアが、カーキッドの懐へ入り込む。
しかし頭上がガラ空きだ。脳天に入れようとしたその刹那。
もう、遅い。
一閃。
薙いだ彼女の剣は、真一文字に空気を斬り裂いた
黒い鎧は衝撃を見事に、吸い込んだ。
カーキッドがここにきて初めて立ってられないと感じた。思わずついた膝。
その額に。
――近衛師団長シュリッヒを圧倒したその男に。
突きつけられた、白い薔薇。
300人の頂点に立ったのは。
「定めか」
王は呟く。その瞳には涙が浮かんでいた。
「陛下」
「……」
「あの剣は、私に似ているんじゃない」
あの姿、あの技は、陛下がかつて振るった剣、そのものです。
「……」
目を閉じる。聞こえてくる絶叫に近い大歓声。