白薔薇の騎士 -1-
遠く、ラッパの音が聞こえた。
ファンファーレだろうかと、彼女は思った。
ここは宮殿の一番奥。町の喧騒など、常には、たとえ深く耳を澄ませても聞こえてはこないというのに。
気まぐれな風の悪戯だろうか。
それとも――?
「姫様」
侍女が呟いた。それに彼女は深く頷いた。「わかってる」
「……今日は体調が優れない。誰も通さないように」
「かしこまりました」
「しばらく1人にして頂戴」
いいこと、フェリーナ? 彼女は侍女の耳元にそっと唇を近づける。
「誰も。誰もよ?」
桃色の唇は濡れたように艶やかに光っている。それが少し侍女の耳に触る。彼女はビクリと身を震わせた。
「か、かしこまりました」
「いいわ……私が呼ぶまで」
そっとしておいて頂戴。
フェリーナと呼ばれた侍女は慌てた様子で頭を垂れ、他の8人の侍女たちもそれに倣って出て行った。
1人残された彼女は部屋に誰もいなくなった事を確認し、短く息を吐いた。
熱い息だった。
昂ぶる心を静めるために目を閉ざす。
もう一度耳を澄ませたが、もう音は聞こえてこなかった。静けさだけが辺りを占める。
鳥すら鳴かない。
「……」
ゆっくりと目を開け振り返った先に、上品な花瓶に生けられた薔薇があった。今朝フェリーナが嬉しそうにテーブルを飾ってたのを思い出す。
意識したのだろう、今日という日を。
そっと側に寄り、彼女はその花びらを前に跪いた。
白薔薇の向こうには、聖母の像が静かに微笑み彼女を見ていた。
◇
ハーランドは250年続く王政国家である。
気候は穏やかに、土地も豊か。
またそれを統べる王家も、代々民に慕われてきた。
現王・ヴァロック・ウィル・ハーランドも同じ。武に長け知にも秀でた王として、騎士はもちろん国民からも支持を集めていた。
ただ一つ彼にとっての不幸は、後継ぎとなる男子がいなかった事。ハーランド家は代々、男子による世襲を原則としてきた。
ただ1人の女性を愛したハーランド王は、妾を持つ事を一切望まず。
ゆえに。
彼の血を受け継ぐ子供は、1人しか残らなかった。
――1人の、姫しか。
◇
「これよりここに、薔薇の御前試合の開会を宣言する!」
文大臣の宣言により、その場は割れんばかりの喝采に包まれた。
声と熱気はその場にとどまらず、闘技場の外まで伝わり、城下の街並みが一瞬揺れるほどであった。
花火が上がり紙吹雪が舞い、大人は歓声を、子供は跳ね回って喜ぶ。
4年に1度の国を挙げての祭り、薔薇の大祭の幕開けである。
1週間に渡って行われるこの祭り、街は露店や出し物などによって大いに盛り上がるが、人々が最も関心を寄せるのが、祭りの開幕宣言ともなるその行事。
薔薇の御前試合。
齢17歳以上、それ以外に資格は問わず。騎士であろうが傭兵だろうが、街の力自慢とて構わない。
戦う勇気があるならば。勝ち上がる実力があるならば。
4年に1度開催されるその試合に勝ち抜いた者は、『薔薇の騎士』の称号が与えられ国の誉れとされる。
そしてその『薔薇の騎士』に許されるのは〝赤い薔薇〟の称号。
「出場者数、見られたか?」
文大臣コーリウスは控えの間まで戻ると、傍にいた男に声を掛けた。
地大臣クトゥはコーリウスに軽く会釈し、眉を寄せながら答える。
「……陛下はどうなさるおつもりでしょうか」
「違わんだろうよ、わが殿は」
そういうお方だ――六人いる大臣の中、最も在務歴が長い彼は、遠い眼差しで窓から望む空を見た。
「優勝した者には、〝白薔薇の称号〟を与える。それが何を意味するか。願わくば、それに値する者が勝ち上がる事よ」
従来、優勝者に与えられる称号は〝赤薔薇〟。〝白薔薇〟の称号を得る事ができるのは、この国においてただ一人。
――ハーランド国を背負いし者。
ハーランド王家、国王にのみ許される〝白薔薇〟の称号。
「それが定めやもしれぬ」
今年の薔薇の御前試合、優勝者には〝白薔薇〟の称号を渡す。それはつまり、ハーランド王のただ1人の姫君との婚儀を許すという事。男子なきハーランド王が出した苦渋の選択であった。
「……何にせよ急務なのじゃ」
文大臣は眉間にしわを寄せる。
「『白薔薇の騎士』――事は拙速を要する」
文大臣の様子に地大臣は一瞬辺りを気にした後、声を潜めて言う。
「捨て駒です」
「否定はせん」
それを聞いて地大臣は、唸るように声を震わせた。
「……果たして、誰が勝ち上がるのでしょうな」
「すべては神の思し召しのままに」
そう言い、文大臣は胸元の十字架をそっと握り締めた。
◇
「今年の御前試合は恐ろしい。最後までたどり着くには、一体どれだけ勝たねばならぬのか」
「史上最多数か。街のごろつきまで混ざっているそうな。優勝してやると大見得を切っておる者もおったわ」
「愚かな事よ。我ら騎士が後れを取るものか」
「大よその予想では、やはり近衛師団のシュリッヒ殿が強いか」
「あの方は別格。武大臣殿が出場なされぬ今回、やはり本命はシュリッヒ殿」
「対抗馬は?」
「第一師団のルータスか、第十三師団のマルセか……」
控え室にて。
出番を待つ騎士たちの会話に、少し離れた所から笑いが起こった。明らかに小馬鹿にしたその笑いに、騎士たちの表情が強張る。
「無礼な。何がおかしい」
「いやいや。ご苦労な事だなと思って」
男は黒い鎧を身にまとっているが、騎士のそれではない。
「誰が本命だとか、対抗だとか、自分が行く気ないじゃねぇか」
「――!」
「俺の中で優勝は俺。それ以外にない。勝つ事以外、俺の頭ん中にはねぇの。負けるつもりならさっさと棄権しろ」
「何だと貴様!」
「その鎧、貴様はっ」
「出場者の身分は問わず」
ヘヘヘと笑って男は鼻を掻いた。「いい王様だ」
「最後まで勝ち残った奴がこの国の王。わかりやすくていい。この俺が王なんざ、笑っちまうがな」
「貴様……傭兵隊長カーキッド」
「まぁせいぜい楽しもうや」
そんな彼の脇を、一人の剣士がすり抜けた。
控室の出口に向かうその剣士、白銀の鎧をまとっていた。彼の気配に、カーキッドがチラリと視線を向ける。
「……楽しみだねぇ」
それだけ呟いて、胸元から煙草を取り出した。
――そして、その白き剣士は。
ガシャリ、ガシャリ
鎧が重い。
騎士が戦場でまとう完全鎧ではない。腰から下は大腿部まで、上半身は腹から胸を覆っているが、関節の部分に柔軟性が見て取れる。兜も軽量を重視した物だ。
――己の分はわきまえている。
でも、戦わなければならない。
行かなければならない。これは定めだ。
出口が見えてくる。あの光をくぐれば、そこは大観衆が見守る闘技場。
もう引き返す事はできない。
少し心が重くなる。だが歩みは止めない。
歩く。
面甲を下げる。面差しが隠れる。
ガチャリ、ガチャリと続く鎧の音が、胸の高鳴りと共鳴して行く。
――歓声が、耳に。
「父上」
唯一白日にさらされた口元が、きゅっと引き結ばれる。
◇
王の閲覧席からは競技場が一望できた。
「少し、風が強うございますな」
この国における最高の権力者、ヴァロック・ウィル・ハーランド。その傍らに立つのが武大臣グレンであった。
グレンはそっと風避けを動かし、王を労わった。
「すまんな」
「いいえ」
「……すまん」
ハーランド王と武大臣グレンは共に今年齢50を迎える。
「姫様はお加減が優れぬとの事ですか」
「うむ」
半ば諦めたように、王はため息を吐いた。
「陛下も、なにも初戦からご観戦なさらずとも」
じっと眼下を見据える王に、グレンは苦笑混じりにそう言った。
「お前も付き合わずともよいぞ」
「私は、興味がありますゆえ」
「儂とて同じだ」
「は」
「思い出すなグレン。そなたと儂、腕を鍛え、競うようにこの試合に出た。懐かしい」
「あなたは〝白薔薇の騎士〟という立場をお持ちなのに」
「〝白〟〝赤〟同時称号は、結局、そなたのせいで叶わなかったわ」
グレンは苦笑し、緩く敬礼をする。
「本来は、そなたに渡したいのだがな」
試合が始まろうとしている。
第一試合はハーランドの騎士と、白き鎧をまとう剣士。
「わしの後は、本来はそなたこそが」
「何を仰せやら」
「グレン」
「ウィル様」
呟き、グレンは王の体に心を傾けた。
「気弱になってはなりませぬ」
「……ありがとうな、我友」
彼の腕がもう、自分の意思ではままならない事をグレンは知っている。かつては勇猛に地を蹴った足さえ、今では杖がなければ這う事もできぬのも。
「始め!!」
闘技場から審判の声が響いた。その声がグレンには重く突き刺さった。
(終わりの始まりだ)
結果は時間が出すだろう。
彼の体が病魔に蝕まれていなければ。彼に息子がいれば。
まして、もし。
(黒い竜など現れなければ)
この試合はどういうものになっていただろうか?
ただ、今見ている世界は1つ。
(歴史が変わる)
王はそれを見届けようとしている。
誰が勝ち上がり、最後へとたどり着くのか。誰がこの王の前に頭を垂れ、その剣を受け取るのか。
白い薔薇が導くのは、どの腕か。
否――魂か。
(我はただ、彼に寄り添うのみ)
生涯仕えると決めた、一人の王と。
すべての結末をこの目に刻もう。