死んだはずの令嬢は、棺の中で家族の本音を聞いている
――私を殺そうとしたのは、誰なのだろう。
セシリア・アシュレイは、棺の中で静かに目を閉じながら考えていた。
周囲からは、神官の祈りが聞こえてくる。
「慈悲深き神よ。若くして御許へ召されしセシリア・アシュレイ嬢の魂に、永遠の安息を――」
そこに、参列者たちのすすり泣く声が重なった。
「まだお若かったのに……」
「突然だったそうですわ」
「ご家族もお気の毒に」
「婚約者のアルベルト様も、さぞお辛いでしょうね」
背中に感じるのは、硬く冷たい棺の底。
周囲には、先ほど参列者たちが最後の別れにと供えてくれた白百合がいくつも置かれており、その濃い香りが鼻をつく。
何も知らない参列者から見れば、セシリアは間違いなく死んでいるように見えるだろう。
けれど、セシリアは生きていた。
それどころか、自ら死んだふりをして、こうして棺の中に入っている。
すべては、自分を殺そうとしている者を突き止めるために。
◆
始まりは、一月ほど前。
階段を下りている途中、背後から誰かに強く押された。
幸い手すりにしがみついて転落は免れたものの、振り返ったときには廊下に誰もいなかった。
その数日後には、中庭を歩いている最中に二階から重い植木鉢が落ちてきて、頭に直撃するところだった。
さらに先週には、出かけようとした馬車の車輪に細工がされていることを、出発前の点検をしていた御者が見つけた。
そのまま走り出していれば、途中で車輪が外れていた可能性が高いという。
こんなことが立て続けに起これば――誰かが、自分の命を狙っていると考えるのも無理はなかった。
しかも、どれもアシュレイ伯爵邸の中、あるいはこの屋敷で管理されているものに起きている。
セシリアはアシュレイ家唯一の実子であり、将来この家を継ぐ予定だった。
実母は七年前に亡くなっており、父はその二年後に再婚し、現在は継母マリアンヌと、彼女が前夫との間にもうけた娘リリア、息子ジルとともに暮らしていた。
そしてセシリアには、アルベルトという婚約者がおり、結婚後は彼がアシュレイ家へ婿入りする予定だ。
家族仲に関しては、少なくとも表向きは何の問題もなかった。
父との仲も悪くなく、マリアンヌは穏やかな継母だった。
リリアとも姉妹らしく過ごしてきたし、婚約者のアルベルトとも、情熱的とは言えないまでも穏やかな関係を築いていた。
ただ、弟のジルだけは昔から無愛想で、話しかけても素っ気なく、目が合えばすぐに逸らしてしまう。
セシリアは密かに、自分はあまり好かれていないのだろうと思っていたが、突然家族になったと言われても戸惑う気持ちは理解できたので、何も言わなかった。
だが、ジル以外との関係性の中でも、振り返れば小さな違和感はいくつもあった。
父親とマリアンヌが、時折こちらを窺うような目を向けること。
リリアから、ふと刺すような視線を感じること。
アルベルトが結婚の話になるとなぜか話題を変えたがること。
どれも、それだけなら気に留めるほどのものではない。
けれど、自分の命が狙われているのではないかと思い始めてからは、これまで見過ごしていた些細なことまで気にかかるようになった。
それに、最初に階段から落ちかけた時、
「足を滑らせたのではないか?」
「怖い思いをしたのね。でも、後ろに誰かいたところを見たわけではないのでしょう?」
と、父とマリアンヌからは優しく宥められた。
植木鉢が落ちてきたときにはリリアが、
「風で倒れたんじゃない? 最近、強い風の日が多いもの」
と笑いながら言うだけだったし、馬車の細工が見つかったときですら、父は整備を怠った使用人を叱責しただけで、誰かが意図的にセシリアを害そうとしている可能性については真剣に取り合おうとしなかった。
それはアルベルトも同じだった。
「考えすぎると、余計に怖くなる。しばらく外出を控えていればいい」
そう言ってセシリアの肩へ手を置いたが、それだけだった。
ジルには話していなかったが、どこかで階段の件を耳にしたらしく、
「どん臭いんだから、しばらく一人で出歩くなよ」
すれ違いざま、ぶっきらぼうにそう言われただけだった。
誰を疑えばいいのか。
誰なら信じていいのか。
そんな中で唯一信じられたのが、幼い頃から自分に仕えている侍女のヴェラだった。
事情を聞いたヴェラも、
『偶然で片づけるには、少々続きすぎております』
と、密かに彼らについて調べるセシリアを手伝ってくれた。
すると、父が最近頻繁にとある場所へ出かけていることや、マリアンヌが使用人の一人へ何かを頼み、密かに金を渡していること、リリアやアルベルトについてもあることが分かった。
そんな矢先のことだった。
先日、家族とアルベルトを交えた晩餐の席で、ジルがセシリアへ杯を差し出した。
「……ほら」
いつもどおり、愛想の欠片もない声だったが、セシリアは何気なく杯を受け取った。
だが唇へ近づけた瞬間、違和感を覚えた。
感じたのは、微かに甘い、熟れすぎた果実のような香りだ。
セシリアは幼い頃、亡き母から薬草や毒物について一通り教えられていた。
『あなたはいずれ、この家を継ぐのです。自分の口へ入るものくらい、自分で守れるようになりなさい』
母はそう言って、貴族社会で悪用されることの多い毒についても知識を授けてくれた。
その中に、この香りを持つ毒があった。
確か、即効性が高く、少量でも命を奪う代物だ。
――やっぱり、誰かが自分を殺そうとしている。
そう思った瞬間、恐怖より先に頭が冴えた。
セシリアはすでに決めていた。
もし次に明確な殺意を向けられたなら、それを利用しよう、と。
そのことは、ヴェラにも伝えていた。
セシリアは一瞬だけ壁際のヴェラに目配せすると、杯へ口をつけたふりをする。
それから数秒後、胸を押さえて椅子から崩れ落ちる。
「……っ、あっ、かはっ!?」
「お姉様!?」
「セシリア! ど、どうしたんだ一体!」
部屋中に悲鳴が響く中、ヴェラが真っ先に駆け寄ってきてセシリアの手首へ指を当てる。
もちろん脈はある。
けれどヴェラは、すぐに蒼白な顔を作ると頭を上げた。
「……お嬢様が、息をしておられません」
その後、以前から協力を頼んでいた老医師が死亡を確認したように見せかけてくれた。
この国では、医師による死亡確認の後に葬儀が行われ、それを終えてから当主が王家へ正式な死亡届を提出することになっている。
つまり、今のセシリアは周囲から見れば死者ではあるものの、公的な記録の上ではまだ生きている。
こうしてセシリアは死んだのだ。
少なくとも、見た目の上では。
◆
葬儀は翌日すぐに行われた。
そして、葬儀の最後には、この国に古くからある習わしが待っている。
死者と親しかった者が一人ずつ棺の傍へ残り、誰にも聞かれぬよう最後の言葉を告げるのだ。
自分の周りにいる人々が、いったい何を隠しているのか。
死人を前にした彼らなら、きっとその一端を見せる。
セシリアはそう考えていた。
やがて神官の祈りが終わり、参列者たちが徐々に広間から退出していくと、扉が閉まり、一人分の足音だけが棺へ近づいてきた。
「……セシリア」
震える父の声がセシリアの耳に響く。
葬儀の最中、父は何度も涙を拭っていたのを、薄く開けた目でセシリアは確認していた。
娘を突然失った哀れな父親だと、誰もがそう思っただろう。
父はしばらく黙っていたが、やがて、大きな溜息とともにひとり言のように呟いた。
「……お前が死んだときは驚いたが、だが……これで、ようやくどうにかなりそうだ。しかしお前の母親も余計な遺言を残してくれたものだ。セシリアが二十歳になるまで財産には手をつけるな、などと……」
亡き母には、婚姻の際に実家から持参し、アシュレイ家の財産とは別に保全されていた多額の財産があった。
母の死後、それらはすべてセシリアが相続している。
ただ、まだ成人していないため管理だけは父に任されており、母の遺言によって、父が勝手に売却したり使ったりすることは禁じられている。
そしてこの国では、未婚で子のない者が亡くなった場合、その財産は最も近い血縁者へ渡る。
今のセシリアなら、それは父だった。
「借金さえなければ、私だってこんなことは考えなかった。少しくらい取り返せると思ったんだ。最初はほんの遊びだった。だが負けを取り返そうとするたびに……」
父の声は、言い訳を重ねるほど小さくなっていく。
「だが、お前が死んで……助かったと思ってしまった。ありがとう、セシリア」
セシリアは目を閉じたまま、唇を噛んだ。
父が賭け事を好んでいることは知っていた。
生前の母も幾度となく『ほどほどになさってください』と苦言を呈していたし、今回ヴェラと調べる中で、父が最近頻繁に賭博場へ出入りしていることも突き止めていた。
けれど、まさか母の遺産を当てにしなければならないほどの借金を抱えているとは思わなかった。
しかし、それだけではなかった。
「……毒殺だなどと騒がれては困る。借金のことまで調べられれば、真っ先に私が疑われるからな。使用人たちにも口止めした。あとは葬儀を終え、急病だったとして届け出ればいい」
セシリアは胸の奥が冷えていくのを感じた。
自分を殺した犯人ではない。
だが父は、自分の保身のために娘の死因を隠そうとしていたのだ。
告白を終え、スッキリしたような面持ちの父が去ると、次に入ってきたのはマリアンヌだった。
「セシリア……本当にかわいそうな子」
継母の声には、慈しみの心が滲んでいるように聞こえ、わずかにセシリアの心が揺らぐ。
だが次の瞬間、マリアンヌの声が変わった。
「――でも。これでようやく、リリアがこの家を継げるわ」
セシリアの心臓が跳ねる。
思わず息を呑みそうになるのを堪え、胸が大きく上下しないよう、浅く静かに呼吸を続ける。
「ふふっ、あなたが悪いのよ、セシリア。何度やっても、運よく助かってしまうんだもの。階段でも、庭でも、馬車でも。せっかく使用人にお金まで払って協力させたのに、全部無駄になってしまったわ。最初から毒にしておけばよかった」
頭の中で、これまでの出来事が一気につながった。
セシリアの指先が、わずかに震えそうになる。
……自分を殺そうとしていたのは、継母だった。
「あなたという直系の跡取りがいなくなれば、主人にリリアを正式な養女として迎えさせればいい。あとは王家へ後継者変更の申請を出すだけだもの」
確かに、制度上は可能だった。
アシュレイ家に血の繋がった後継者がいなくなった場合、当主は遠戚の親族を養子に迎え、王家の許可を得て後継者に据えることができる。
そしてマリアンヌ自身が、この家の遠戚に当たる貴族の出身であり、その娘であるリリアなら身分上の問題もない。
マリアンヌが棺から離れていくと、セシリアは深く息を吸いたくなる衝動を必死に抑えた。
犯人は分かった。
けれど葬儀はまだ終わっていない。
次にやって来たのはリリアだった。
「お姉様……」
嗚咽混じりに、鼻を啜る音がする。
声だけを聞けば、本当に姉の死を悲しんでいるようだった。
けれど、父とマリアンヌの本音を続けて聞かされた今のセシリアには、もうその涙を素直に信じることができない。
そして、その疑いはすぐに正しかったと分かった。
「私……知っていたの。お母様がお姉様を嫌っていたことも。階段のことも……今回の毒のことも。でも黙ってたの。だって、お姉様がいなくなれば、私がこの家を継げるでしょう?」
リリアはそこで一度言葉を切った。
そして、先ほどまで泣いていたとは思えないほど弾んだ声で続ける。
「それに、アルベルト様だって私のものになるもの。ごめんね、お姉様。でも、お姉様はずっと私に優しかったから……きっと恋人関係になった私とアルベルト様のこと、許してくれるわよね?」
――二人が密かに会っていること自体は、ヴェラと調べる中ですでに分かっていた。
一年前から人目を避けて何度も二人きりで会っているし、男女の仲なのではないかという疑いも抱いていた。
それでも、本人の口から、母親が自分を殺そうとしていることを知りながら黙っていたことや、アルベルトとリリアの関係を聞かされれば、胸が張り裂けそうにならないはずがなかった。
その後妹と入れ替わるようにして、聞き慣れた革靴の音が近づいてきた。
アルベルトだ。
足音が棺の前で止まる。
しばらく沈黙していたアルベルトは、悲しむ素振りを見せることもなく、小さく笑った。
「……ふん、婚約解消の話を切り出す手間が省けたと思えば悪くないか」
もともとアルベルトに激しい恋心を抱いていたわけではない。
それでも、穏やかで誠実な人だと思っていたし、この人となら落ち着いた家庭を築いていけると信じていた。
だが、ヴェラと調べる中でリリアとの関係を疑うようになってから、その気持ちは少しずつ冷めていき、今では全く気持ちはなかった。
「とりあえずリリアにはしばらく大人しくしてもらわないとな。姉が死んですぐでは外聞が悪い」
やはり妹との関係は事実らしい。
しかも。
「……ああ、そっちよりエマの方をどうするか。子どもができたなどと今さら言われてもな。リリアに知られれば面倒だし……いや、その前にクララとソフィーにも口止めを――」
クララとソフィーについても、ヴェラの調査ですでに名前は掴んでいた。
アルベルトがリリア以外の女性とも会っていることは分かっていたのだ。
けれど、エマという女性の存在も、その彼女が身ごもっていることも初耳だった。
やがてアルベルトの足音が遠ざかり、扉が閉まる。
棺の中で、セシリアはじっと目を閉じたまま動かなかった。
調べていたから、何も知らなかったわけではない。
父にも、マリアンヌにも、リリアにも、アルベルトにも、それぞれ何か隠し事があることは分かっていた。
それでも心のどこかでは、自分の考えすぎであってほしいと思いたかった。
何か事情があるのかもしれない。
話を聞けば納得できるのかもしれない。
そんなわずかな期待が、まだ残っていたのだろう。
けれど、本人たちの口から本音を聞いてしまえば、もう誤魔化しようがない。
悲しかったし、腹も立つし、悔しかった。
今すぐ棺から起き上がって問い詰めたくなるほどに。
それでもセシリアは、指一本動かさなかった。
泣くことも怒鳴ることもせず、ただ死体らしく静かに横たわりながら、胸の奥に湧き上がる感情を必死に押し殺した。
まだ、終わっていない。
再び扉が開き、最後の一人の足音が近づいてくる。
やや乱暴な歩き方は、いかにも彼らしい。
義理の弟のジルだ。
毒入りの杯を渡してきたのは、ジルだ。
マリアンヌが犯人だったとはいえ、息子である彼が何も知らなかったとは限らない。
ましてジルは普段から自分に冷たいし、話しかけても目を逸らす。
何か贈っても「いらない」と言われることすらある。
正直、嫌われているのだとずっと思っていた。
そして、足音が棺の前で止まった。
「…………」
ジルは何も喋らない。
長い沈黙が、場を支配する。
あまりにも長い長い静寂の後、ぽつりと掠れた声が落ちた。
「……姉さん。ごめん」
セシリアの身体が強張る。
謝るということは、リリアと同じように、やはり、ジルもマリアンヌが自分を殺そうとしていることを知っていたのだろうか。
胸の奥がどんどん冷えていく。
自分が家族だと思っていた人たちの中に、信じられる者など最初からいなかったのだ。
そう思った瞬間、どうしようもない寂しさが込み上げた。
だが次に続いた言葉は、想像とは違った。
「母上が姉さんに渡せって言ったから……何も考えずに渡した。でも、あれに毒が入ってたんだよな。母上がやったんだろ……? ごめん。俺がもっとちゃんと気を付けてればよかった。最近、姉さんの周りで変なことばっかり起きてたのに……」
ジルの声は明らかに震えていて、そのうちにその声に小さな嗚咽が混じった。
セシリアは驚き、ほんの僅かに瞼を持ち上げる。
棺の傍で俯いていたジルの頬を、涙が伝っていた。
あの無愛想で、滅多に表情を変えないジルが、声を殺して泣いている。
それを見ているだけで、セシリアの胸が締めつけられた。
「……俺が……もっと、姉さんのそばにいればよかった。ちゃんと見てれば……こんなことには、ならなかったかもしれないのに……っ」
途切れ途切れの声に、後悔が滲む。
しばらくして、ジルは乱暴に涙を拭うと、涙の残る目で棺を見つめたまま続けた。
「姉さんは、ずっと俺のこと気にかけてくれてたよな。それなのに俺は、ずっと冷たい態度ばっかり取ってた。でも本当は俺――姉さんのこと、ずっと好きだったんだ。家族としてじゃなくて、一人の女性として」
それは、まったく予想だにしなかった、あまりにも突然の告白だった。
セシリアは危うくしっかり目を見開きそうになり、慌てて瞼に力を込めた。
――好き?
ジルが、自分を?
セシリアの冷たくなりかけていた心臓に熱が灯り、うっかり大きく跳ねる。
無表情のままではあるが、セシリアはかなり動揺していた。
そんな彼女に気づくはずもなく、ジルの言葉は続く。
「けど俺は弟だし、姉さんにはアルベルトがいた。こんなこと知られたら困らせるだけだと思って……だから、近づかない方がいいって思ってた。姉さんがアルベルトと結婚するのは嫌だった。でも、姉さんが幸せなら、それでいいって……そう思ってたのに」
今までのジルの態度が、セシリアの中で少しずつ別の意味へ変わっていく。
ずっと、自分を嫌っているのだと思っていた。
けれど、本当はまったく逆だったのだ。
「こんなことになるくらいなら、嫌われたっていいから、ちゃんと言えばよかった」
そしてジルは一度息を吸うと、今度は迷いを振り切るようにはっきりと言った。
「姉さん……好きだ」
好きだと言った。
また言った。
それから少し間を置き、ジルが掠れた声で続ける。
「それと……母上がやったっていう証拠も、俺なりに集めた。葬儀が終わったら、全部王都の司法官に出すつもりだ。それが、姉さんを守れなかった俺にできる、せめてもの償いだから」
けれど、その頃にはセシリアの意識は別のところにあった。
ジルの口から紡がれた、あまりにも真っ直ぐで熱のこもった告白。
胸の奥が、先ほどまでとはまったく違う理由で激しく脈打っている。
どくどくと鳴る心臓の音が、棺の外にまで聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
そして動揺のあまり、ほんの僅かに身じろぎした、その瞬間。
ゴンッ。
肘が、棺の側面に当たった。
「…………」
「…………」
気まずい静寂が流れる。
「……え?」
ジルの声がした。
セシリアは目を閉じたまま、このまま死体を演じ続けるべきか考える。
しかし今の音は、あまりにも不自然すぎる。
セシリアは観念して恐る恐る目を開くと、棺を覗き込んでいたジルと、真正面から目が合った。
なので、仕方なくセシリアは口を開いた。
「……ええと、久しぶりね、ジル」
「…………姉さん?」
信じられないものを見るように目を見開くジルに、セシリアは気まずそうに笑う。
「ええ。その、ちゃんと生きているわ」
数秒、ジルの顔から一切の表情が消えた。
けれど次の瞬間、
「姉さん!」
「きゃっ」
勢いよく抱き起こされたかと思うと、強く腕の中に抱き締められる。
「生きてる……本当に、生きてる……!」
「ジ、ジル、苦しいです」
「よかった……っ、本当に、っく、よかった……」
セシリアの肩へ顔を埋めたまま、ジルは再び泣き出した。
そのあまりの喜びように、セシリアも胸が熱くなる。
だが、しばらくして顔を上げたジルが、まじまじとセシリアの顔を見たあと、ふいに固まった。
かと思うと、みるみるうちに顔がくなっていく。
そのままがばっとセシリアを離して彼女から距離を取ると、ジルは視線を逸らしながら尋ねる。
「……あの、あれ、だよな。さっきのって……もしかして聞こえてたり、した?」
セシリアはどう答えようか悩んだが、結局申し訳なさそうに頷いて認める。
するとジルは両手で顔を覆った。
「……最悪、もう死にたい」
「あの、ジル、私のお葬式でそれを言うのはやめて?」
その時、扉が静かに開いた。
入ってきたのはヴェラだった。
当然彼女は、棺の中で身体を起こしているセシリアを見ても、驚く様子はない。
「ヴェラ。少し待ってちょうだい。まずジルに説明するわ」
セシリアは、自分が死を偽装した経緯を手短にジルへ説明した。
ジルは途中で何度か驚いた顔をしたものの、最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、それまで静かに待っていたヴェラが、いつもの淡々とした調子で口を開く。
「お嬢様、調べていた件についてですが……いくつか証拠が揃いました」
「聞かせてちょうだい」
ヴェラによれば、父の多額の借金を示す記録に加え、マリアンヌが事故の前後に複数の使用人へ金を渡していた事実もやはり確認できたという。
「ただ、何を命じられたのかまでは、まだ口を割っておりません」
「それなら、もう分かったわ」
セシリアは棺の中で聞いたことを、簡潔に二人へ伝えた。
マリアンヌが三度の事故も、今回の毒も自分が仕組んだと認めたこと。
父がセシリアの死を利用して母の遺産を得ようとしていたこと。
そしてリリアとアルベルトの裏切りも。
話を聞いたヴェラの表情が険しくなる。
「……では、すべて繋がりましたね。今回お嬢様を毒殺しようとした件につきましては、お嬢様が棺の中でお聞きになった言葉だけでは、証拠としては弱いかと」
「そうね。せめて裏づけになるものが一つでもあればいいのだけれど」
するとここで黙って話を聞いていたジルが、声を上げた。
「待って。俺も証拠を持ってる。母上が毒を買った店を突き止めている。支払いの記録もある。俺が杯を渡したことも、全部証言する」
「ジル……でも、いいの? だって彼女はあなたの本当の母親で」
けれどジルは、怒りを滲ませた目でセシリアを見返すと、ゆっくり首を横に振った。
「関係ないよ。姉さんにしたことを、許すつもりはないから」
セシリアは小さく息を吐いた。
そして、覚悟を決めたようにヴェラの方を見た。
「ヴェラ。皆を呼んでちょうだい。それから、司法官にも使いを」
「承知いたしました」
◆
ヴェラが部屋を出てから一時間ほど経った頃、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。
その頃には部屋の隅に呼ばれた司法官が二人、静かに控えており、ヴェラからすでに事情と証拠の概要を聞いている。
やがて扉が開き、入ってきたのは、父とマリアンヌに、リリア、アルベルト、そしてヴェラだった。
全員が一カ所を見て、一斉に立ち止まる。
棺の中から身体を起こしているセシリアと、その傍らに立つジル。
そして、部屋の隅にいる司法官たち。
「セ……セシリア?」
父が震える声を出した。
セシリアはゆっくりと棺から降りる。
するとジルが一歩前へ出て、彼女を庇うように父たちとの間に立った。
「……姉さんに、近づかないで」
まだ目元は泣いたせいで赤い。
それでも、こちらを守ろうとする背中には迷いがなかった。
その姿に、セシリアの胸が少しだけ温かくなる。
「大丈夫よ、ジル。でも――ありがとう」
セシリアはそう言うと、そっと彼の腕に触れてからその横へ並ぶ。
そして改めて父たちへ向き直り、にっこりと笑った。
「はい、お父様。ご覧の通り、私は生きております」
「な、なぜ……」
「簡単なことです。私は最初から死んでなどおりません。自分を殺そうとしているのが誰なのか知るために、死んだふりをしていただけです」
「そんな……!」
真っ先に声を上げたのはマリアンヌだった。
その顔から、さっと血の気が引く。
セシリアは静かに首を傾げた。
「どうなさいました、お義母様。まるで私が生きていては困るようなお顔ですわね」
「そ、そんなこと……!」
「そうですか。ですが残念ながら、先ほど皆様が私の棺の前でお話しになったことは、すべて聞かせていただきました」
その言葉で、空気が凍りついた。
「な……何を馬鹿な!」
父が声を荒らげる。
「棺の中で聞いたというだけで、そんな話が通るものか! 証拠はあるのか!」
「ええ。だからこそ、こちらの方々にもお越しいただきました」
セシリアが視線を向けると、部屋の隅にいた司法官の一人が一歩前へ出た。
「アシュレイ伯爵。すでにアシュレイ嬢と侍女ヴェラ嬢、それからジル殿から、証拠と証言を預かっております」
父の顔が強張る。
続いてヴェラが淡々と告げた。
「旦那様の多額の借金。それから、お嬢様の死に毒物が関わった可能性を知りながら調査を止め、使用人たちへ口止めしたうえで、急病として死亡届を出そうとなさっていたこと。奥様から使用人たちへ渡された不自然な金銭。リリア様とアルベルト様の密会を示す書簡。その他にも、すでにいくつもの記録を確保しております」
「そんな……!」
「そして、お義母様」
セシリアはマリアンヌを見る。
「お義母様が階段の件も、植木鉢も、馬車への細工も――そして今回の毒も、ご自身で仕組んだとお話しになったことも聞きました」
「死人のふりをして盗み聞きした話など、証拠になるものですか!」
「それなら、俺が証言する」
マリアンヌの言葉を遮るようにジルが言った。
「母上が毒を買った店は分かってる。支払いの記録もある。俺に姉さんへ杯を渡させたことも、全部話す」
「ジル……あなた、自分の母親を裏切るの?」
「母親だからって、姉さんを殺そうとしたことまで庇うつもりはないよ」
静かな声だが、そこに迷いは一切なかった。
マリアンヌは唇を震わせ、それ以上何も言えなくなって黙り込む。
その横で、リリアとアルベルトも青ざめている。
セシリアは二人へ目を向けた。
「もちろん、あなたたちのことも聞いていましたよ」
「お、お姉様……!」
「リリア。あなたがお義母様の計画を知りながら黙っていたことも」
リリアの顔が凍る中、セシリアはアルベルトへ視線を移す。
「それからあなたについては――リリアだけではありませんでしたのね。クララとソフィー。それから、あなたの子を身ごもっているエマという女性について、どのお話から伺えばよろしいですか?」
「な……」
他の女性の存在は初めて聞いたらしい。
リリアが驚いた顔でアルベルトを振り返る。
「アルベルト様……?」
「…………」
アルベルトは唇を噛み締めると、無言でリリアから顔を背ける。
その沈黙が答えだった。
「ひ、ひどいわ、私のこと愛しているって言ったのに!!」
「っ、本命はお前だったんだ!」
「そういう問題じゃないわ!!」
リリアが罵りながらアルベルトにつかみかかるが、今のセシリアにはもうどうでもよかった。
止めることもせずに、セシリアは静かに息を吐いた。
もう、これ以上聞く必要はない。
司法官が改めて一歩前へ出る。
「あとは我々がお預かりします。関係者には、それぞれ改めて事情を伺いますので」
その言葉を聞いて、セシリアはようやく肩の力を抜いた。
◆
その後の処理は、驚くほど早かった。
司法官による正式な取り調べが行われ、ヴェラとジルが集めた証拠に加え、関係した使用人たちからも証言が取られた。
死亡偽装に協力した老医師、は、司法官へ事情を説明したが、正式な死亡証明書は発行していなかったこともあり、処罰されることはなかった。
マリアンヌは殺人未遂の容疑で拘束された。
リリアについても、母親の計画を知りながら黙認していたことを追及されることになった。
父については、セシリアの死に毒物が関わった可能性を知りながら調査を止め、使用人へ口止めをしたうえで、急病として死亡届を提出しようとしていたことが問題視された。
殺人未遂そのものへの関与は認められなかったものの、当主としての責任を問われ、王家から家督の返上を命じられる。
その結果、父は当主として不適格と判断され、王家の承認を経て、家督と爵位はセシリアへ譲られることとなった。
もちろん、アルベルトとの婚約も解消した。
彼については浮気相手の存在が次々と明るみに出たうえ、身ごもっている女性への責任も追及され、ついには実家からも見放されたと聞いている。
そして数週間後。
取り調べを終えた父は、領地から離れた小さな屋敷で蟄居することになった。
マリアンヌとの婚姻も解消され、彼女は今も裁きを待っている。
リリアも一定期間拘束された後、遠方に住む母方の親族へ引き渡された。
今後、アシュレイ家への出入りは許されない。
アルベルトも、もうセシリアには関係のない人間だ。
そうして大勢いた家族がいなくなった屋敷に残ったのは、新たにアシュレイ女伯爵となったセシリアと――ジルだけだった。
もちろん、屋敷が空っぽになったわけではない。
ヴェラをはじめ、昔から仕えてくれている使用人たちは変わらず残ってくれている。
女伯爵として引き継がなければならない仕事も山ほどあったし、忙しさという意味では、寂しさを感じている暇などないくらいだった。
それでもふとした瞬間に、この屋敷から家族と呼んでいた人たちがいなくなったのだと実感することがある。
彼らに裏切られたことはもう知っているのに、胸の奥に残る寂しさだけは、どうにも消えてくれなかった。
その数日後。
セシリアが執務室から出ると、大きな鞄を持ったジルと鉢合わせた。
「……ジル?」
「母方の祖父のところへ行く」
少し前から、マリアンヌの父――ジルの祖父が、彼を引き取ると申し出ていることは聞いていた。
父とマリアンヌの婚姻はすでに解消されている。
ならば、母方の家へ戻るのが一番自然なのだろう。
「そう……」
セシリアは、それ以上何も言えなかった。
ジルが自分をどう思っているのか、セシリアはもう知っている。
その気持ちに応える覚悟もないまま、寂しいからという理由だけで引き留めることはできなかった。
「……元気でね、ジル」
自分ではちゃんと笑ったつもりだった。
けれど、言葉にした途端、胸の奥が想像以上に沈んだ。
これで本当に、この屋敷から『家族』と呼べる人間は誰もいなくなる。
そ う思ってしまった自分に気づき、セシリアは慌ててその考えを打ち消した。
けれどジルは、しばらくセシリアの顔を見つめたあと、眉を寄せた。
「姉さん。……寂しい?」
「え」
図星だった。
けれど、セシリアは必死で否定する。
「い、いいえ。ヴェラもいますし、屋敷のみんなも残ってくれています。仕事だってたくさんありますから――」
「そういうことじゃなくて」
言葉を遮られて、セシリアは黙る。
そんな彼女を見て、ジルは少し困ったような顔をした。
「俺がいなくなるの、寂しい?」
「…………」
そんなふうに真っ直ぐ聞かれてしまえば、誤魔化すことができず、ついぽろりと本音が漏れる。
「……少しだけ」
本当は少しどころではなかったが、それ以上を口にするのはずるい気がして、セシリアは俯いた。
「でも、自分勝手な感情であなたを引き留めるつもりはありません」
ジルは何も言わなかった。
それからしばらくして、手にしていた鞄を見下ろし、何かを考えるように小さく息を吐く。
そして――なぜか鞄を床へ置いた。
「……ジル?」
「祖父には、もう少し待ってもらう。……もう少し、ここにいる」
思わぬ答えに、セシリアは目を瞬いた。
「でも……私に気を遣わなくてもいいのよ?」
けれどジルはその言葉をきっぱりと否定した。
「違う。姉さんが寂しいなら残る、じゃなくて。俺も、もう少しここにいたいからいる。それならいいだろ?」
あまりにも真っ直ぐに言われて、今度はセシリアが言葉に詰まった。
それだけで、胸の奥にあった寂しさが、ほんの少しだけ軽くなる。
「……はい。それなら」
「うん」
ジルは床に置いた鞄を、今度は自分の部屋へ戻すために持ち上げた。
その姿を見ながら、セシリアはふと思う。
以前と同じ『姉と弟』には、もう戻れないのだろう。
ジルの気持ちを知ってしまったし、セシリア自身も、彼をただ無愛想な弟だと思っていた頃とは違う。
それに、彼はしばらくしたら、今度こそ本当に出て行くだろう。
けれど、それまではせめて。
「ジル。ありがとう」
セシリアがジルの背中にそう声をかけると、一瞬だけ振り向いたジルが、少し照れくさそうに笑った。
「……うん」
これから先、何がどう変わっていくのかは分からない。
けれど今は、この屋敷にもう一人いてくれることが、素直に嬉しかった。
そう思いながら、セシリアは自分の仕事へ戻っていった。




