悪役令嬢の結婚式で王子が駆け落ちしました。ですが式は予定通り進行いたします。
王都大聖堂の鐘が十二回鳴り響いた。
高い天井を支える白い柱には青と銀の花飾りが巻かれ色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が長い赤絨毯を照らしている。王族や国内の有力貴族だけでなく周辺諸国から招かれた賓客までが見守るなか、セシリア・フォン・ローゼンは祭壇の前に立っていた。
腰まで届く白銀の髪には王家から贈られた青い宝石の髪飾り。長身を包む婚礼衣装は淡い青を基調とし銀糸で公爵家と王家の紋章が刺繍されている。澄んだ蒼い瞳は目の前の婚約者に向けられていた。
冷たい美貌に感情を見せない悪役令嬢。そう噂されることの多いセシリアだが今は式次第に間違いがないか確認しているだけだった。王家と公爵家の婚姻に失敗は許されない。
新郎のアルフレッド第一王子は絵本から抜け出してきたような青年だった。短く整えた金髪に明るい碧眼、金糸の刺繍が入った白い礼装をまとい肩から王家の象徴である赤いマントを垂らしている。背が高く顔立ちも整っており黙って立っていれば理想的な王子にしか見えない。
黙って立っていれば、である。
祭壇の中央には王都大聖堂を預かる大司教エルネスト・クラウゼがいた。六十五歳になる小柄な老人で肩まで伸びた白髪を後ろで束ね、長い白髭を丁寧に整えている。金糸の聖印が入った純白の法衣をまとい穏やかな榛色の瞳で二人を見比べると儀式用の銀杖を床についた。
「それでは誓約の儀に移ります。新郎アルフレッド殿下」
「はい」
「あなたはセシリア・フォン・ローゼンを妻とし、健やかなる時も、病める時も――」
荘厳な声が大聖堂に響き招待客たちが息を潜める。しかしアルフレッドはセシリアを見ず招待客の席に視線を向けていた。
視線の先には男爵令嬢リリア・エヴァンスがいる。柔らかな栗色の髪と大きな茶色の瞳を持つ小柄な少女で華美ではない淡いクリーム色のドレスが素朴な可愛らしさによく似合っていた。王立学園でアルフレッドと知り合い、卒業後も王宮へ出入りしている令嬢である。
リリアは不安そうに両手を胸元で握っていた。アルフレッドと目が合うと彼は決意を固めたように大きくうなずく。
セシリアはわずかに眉を寄せた。嫌な予感がした。
「新郎アルフレッド殿下。誓いますか?」
エルネストに問われアルフレッドは胸を張った。
「誓えない!」
大聖堂中に声が響き渡りエルネストの銀杖がかすかに傾く。セシリアは目を閉じた。やはり嫌な予感ほどよく当たる。
「私は偽りの愛に縛られることはできない!」
アルフレッドは赤いマントを翻し招待客の席へ駆け出した。
「リリア、行こう!」
「えっ。今ですか?」
「今だからこそだ!」
リリアは立ち上がったもののその場で固まっている。
「でもまだ式の途中ですし。昨日でもよかったのでは?」
「昨日では駆け落ちにならない!」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ!」
アルフレッドはリリアの手をつかんだ。彼女が鞄を持ちたいと訴えても「愛があれば荷物など必要ない」と取り合わない。
「お財布が鞄の中にあるんですけど。殿下はお金を持っていらっしゃるんですか?」
「私がいる。王子だぞ!」
「それは身分であって所持金ではありませんよね?」
その疑問には答えずアルフレッドは彼女の手を引いて走り出した。突然の行動に警備の者たちも動けなかった。第一王子を力ずくで止めてよいのか判断を迷ううちに、二人は赤絨毯を駆け抜けていく。
「待ってください。靴が走るためのものでは――きゃっ!」
リリアが絨毯の端につまずきアルフレッドもつられてよろめいた。二人そろって前の席に座っていた伯爵の背もたれに衝突する。
「何をしているのですか殿下!」
「すまない!だが今は一刻を争う!」
「少なくとも私の帽子を返してから争ってください!」
伯爵の帽子をマントに引っかけたままアルフレッドは再び走り出した。リリアが必死についていき二人の姿は開かれた大聖堂の扉の向こうへ消える。
重い扉がゆっくりと閉じた。楽団員は楽器を構えたまま動かず聖歌隊の少年は口を開けたまま固まっている。誰も言葉を発しなかった。
国王は威厳ある髭の下で唇を震わせていた。五十五歳になる彼は白髪の混じり始めた金髪とがっしりした体格を持ち、若い頃は自ら軍を率いた英雄として知られている。今は片手で胃の辺りを押さえていた。
エルネストも沈黙している。数え切れないほどの婚姻を執り行い花嫁が緊張で気を失ったことも、新郎が指輪を落としたことも、親族同士が席順をめぐって口論を始めたこともあった。しかし新郎が誓いを拒み招待客の令嬢を連れて走り去ったのは初めてである。
十数秒後、エルネストは銀杖を立て直した。
「本日の婚姻の儀はいったん中断といたします」
「中断で済むのか、これは」
「私も判断に迷っております」
エルネストが正直に答えると大聖堂は一気に騒がしくなった。第一王子が駆け落ちした。相手はエヴァンス男爵令嬢だ。ローゼン公爵家への侮辱ではないか。隣国の王族まで来ているのに外交問題になるぞ、と声が飛び交う。
やがて視線がセシリアに集まった。婚礼衣装を着たまま置き去りにされた花嫁なら傷つき、怒り、泣き崩れるだろう。誰もがそう考えている。
セシリアは婚礼衣装の裾を持ち上げ国王に向き直った。
「陛下。近衛を動かしてもよろしいでしょうか」
「息子を捕らえるのか?」
「王位継承権を持つ第一王子が護衛を伴わず王都へ出ました。誘拐、襲撃、事故のいずれが起きても王家の失態となります」
セシリアは招待客の席を見渡した。
「加えて殿下はエヴァンス男爵令嬢を連れ出しています。本人の意思による同行か、殿下による強要か、現時点では確認できません」
「リリアは自分でついていったように見えたが」
「『今ですか』と三回ほど疑問を呈していました」
「二回ではなかったか?」
「絨毯につまずいた際にも小声で一度申しておりました」
「よく聞いていたな……」
「婚姻の儀の最中でしたので」
国王は額を押さえたあと近衛を動かす許可を出した。セシリアは大聖堂の後方に顔を向ける。
「ガイ騎士団長」
「はっ」
すぐに近衛騎士団長ガイ・ベルグが立ち上がった。百九十センチを超える長身に全身鎧をまとい短く刈り込んだ黒髪と鋭い灰色の瞳を持つ。左頬には古い剣傷が走りその姿は壁というより城門に近かった。
「殿下とエヴァンス男爵令嬢を保護してください。殿下が抵抗した場合は多少手荒でも構いません」
「王子殿下ですが」
「王子殿下ですから」
「承知しました」
ガイは迷いなく答えた。国王が「顔は殴るな。明日の御前会議に出さねばならん」と小声で付け加える。
「腹ならよろしいでしょうか」
「できれば手足にしてくれ」
「善処します」
ガイは部下を率いて大聖堂を出ていった。その背中を見送ったセシリアのもとへ料理長が駆け寄る。
「セ、セシリア様!料理はいかがいたしましょう!」
「予定どおり提供してください」
「予定どおりですか?しかし婚礼が……」
「すでに前菜の盛りつけは終わっているのでしょう。婚姻の儀は中断しましたが招待客の空腹まで中断する必要はありません」
「かしこまりました!」
続いて楽団長が駆け寄った。演奏を続けるよう指示されても用意しているのは婚礼用の曲である。
「では二曲目から祝宴用の曲に変更を」
「何を祝えばよろしいのでしょうか」
セシリアは少し考えた。
「両国の友好を」
「急に規模が大きくなりましたね」
「小さくなるよりはよいでしょう」
「承知しました」
今度は司会役の伯爵がずれた帽子を直しながら進み出た。セシリアは披露宴を国際親善晩餐会へ変更し各国の賓客には王国側から事情を説明して正式に謝罪するよう命じる。
「婚礼用に用意した装飾は?」
「そのままで構いません」
「新郎新婦の肖像画がありますが」
「布をかけてください」
「引き出物には二人の名前が刻まれています」
「文字の面を下にしてお渡ししましょう」
「そこまでして配るのですか?」
「返品できませんので」
「ごもっともです」
動揺していた使用人たちが一斉に動き始めた。セシリアの指示に従い婚礼会場は見る間に国際親善晩餐会へ姿を変えていく。
その様子を楽しそうに眺める招待客がいた。隣国の第二王子レオン・アルヴィスである。
後ろへ流した黒髪に紫がかった灰色の瞳を持つ。長身で細身だが礼装の上からでも無駄なく鍛えられていると分かる。銀の装飾だけを施した漆黒の礼装をまとい華やかなアルフレッドとは対照的な落ち着きを漂わせていた。
「セシリア嬢」
「レオン殿下。このたびは見苦しいところをお見せいたしました」
「私はまだ何も見苦しいとは言っていませんが」
「外交の場では相手が口にする前に問題を把握するのが基本です」
「なるほど。あなたは泣かないのですね」
「泣けば殿下が戻ってくるのであれば努力いたします」
レオンは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「戻ってきてほしいのですか?」
「護衛のもとで安全に戻ってきていただかなければ困ります」
「夫としてではなく、第一王子として?」
「ほかに何かございますか」
「ありませんね」
レオンは楽しそうに笑った。
◇
その頃、アルフレッドとリリアは大聖堂前の広場で立ち尽くしていた。
「馬車がない……」
王族の婚礼とあって大聖堂の周辺は厳しく交通規制されている。招待客の馬車は指定された待機場へ移され道端に気軽に使えるものなど一台もなかった。
「殿下、移動手段は用意していなかったんですか?」
「駆け落ちは突然するものだろう」
「昨日から何度も今日逃げるとおっしゃっていましたよね?」
「計画された衝動だ」
「その言葉、成立していますか?」
アルフレッドは細かいことはいいと切り上げ国境を目指して走ると言い出した。だが王都から延びる街道は三本ある。東は隣国、西は山岳地帯、南は港町。どの道を選ぶかは決めていなかった。
「まずは王都を出る。人の少ない門からだ」
「王都に門は四つありますけど」
「……南門だ」
「どうして南門なんですか?」
「暖かそうだからだ」
「季節はどこも同じだと思います」
二人はひとまず南へ歩き出した。しかし婚礼用の革靴を履いたアルフレッドは十分ほどで足を痛めリリアも裾の長いドレスを両手で持ち上げながら必死に歩いている。
「駆け落ちというのはもっと馬で草原を走るものだと思っていました」
「私もそう思っていた」
「馬は?」
「ない」
「お金は?」
「王子である私に金を要求する者はいない」
「それは王宮の中だけでは?」
「試してみれば分かる」
二人は通り沿いの貸馬屋へ入った。馬を二頭借りたいとアルフレッドが堂々と告げると店主は婚礼衣装姿の二人を上から下まで眺める。
「銀貨六枚です」
「私はアルフレッド第一王子だ」
「銀貨六枚です」
「顔を知らないのか?」
「王子様が女の子と二人で歩いて貸馬屋に来るわけがないでしょう。うちにも事情がありますから先払いです」
アルフレッドは礼装の胸元や腰回りを探ったが王族の礼装に財布を入れるポケットはない。
「リリア」
「お財布は大聖堂の鞄の中です」
「愛で何とかならないか」
「店主さんが愛を代金として受け取ってくだされば」
「受け取らないよ」
店主は即答し二人を貸馬屋から追い出した。
さらに三十分歩いたところでアルフレッドの腹が鳴る。朝食を取らなかったのは結婚ではなく駆け落ちに緊張していたからだという。
「殿下は意外と繊細なんですね」
「褒めても食べ物は出ないぞ」
「褒めてはいません」
焼きたてのパンの香りに吸い寄せられ二人は店頭に丸い白パンや果実入りの菓子パンが並ぶパン屋へ向かった。
「一つもらおう」
「銅貨二枚です」
「私はアルフレッド第一王子だ」
「さっきも同じことを言って貸馬屋を追い出されていませんでした?」
パン屋の女主人が通りの向こうを指さすと貸馬屋の店主がこちらを見ながら首を横に振っている。
「では王宮につけておけ」
「王宮から注文書を持ってきてください」
「王子の顔が注文書だ」
「その顔でパンは焼けません」
アルフレッドは言葉を失い、リリアは申し訳なさそうに頭を下げた。二人が立ち去ろうとした時、女主人が大きなため息をつき形の崩れた白パンを一つ紙に包んで差し出す。
「売り物にならないやつだ。持っていきな」
「恩に着る!リリア、半分に分けよう」
アルフレッドが割ったパンは八対二ほどの大きさに分かれた。大きい方を自分の口へ運ぼうとしたところでリリアの視線に気づき彼女に差し出す。
「……こちらが君の分だ。私の愛を受け取ってくれ」
「いえ、半分でいいです。それに愛ではなくパンです」
どうにか半分ずつ食べ終え二人は再び南門を目指した。しかし門が見えるより先に石畳を揺らす馬蹄の音が響く。黒い騎馬が道を塞ぎその先頭には全身鎧をまとったガイがいた。
「アルフレッド殿下。お迎えに上がりました」
「私は戻らない。これは真実の愛なのだ!」
「勤務中ですので後でお聞きします」
ガイが馬から降りて一歩近づくとアルフレッドは一歩下がった。
「王子である私に逆らうのか!」
「陛下の命令です」
「父上は私たちの愛を理解していない!」
「私も理解しておりません」
アルフレッドはリリアを連れて逃げようとしたが、彼女は足が痛くて走れない。自分が抱えて走ると言ったもののアルフレッドも先ほどから足を引きずっていた。
「愛があれば走れる!」
アルフレッドは腰を落とし両腕に力を込めてリリアを抱え上げようとする。
「ぬっ……。もう少し近くへ」
「近くにいます」
「では少し跳んでくれ」
「その方法で抱き上げられても不安です」
ガイがアルフレッドの肩をつかんだ。
「帰ります。歩いて帰られますか。それとも運ばれますか」
「王子として命じる。離せ!」
「運ばれる方ですね」
ガイはアルフレッドを肩に担ぎ上げた。
「降ろせ!私は荷物ではない!」
「荷物の方が静かです」
「不敬だぞ!」
「承知しております」
アルフレッドがリリアに助けを求める一方で彼女は騎士たちが用意した馬車を見ていた。
「乗ってもいいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「リリア!」
「もう歩けませんので」
二人の駆け落ちは大聖堂を出てから一時間半で終わった。
◇
その頃、大聖堂では豪華な食事が振る舞われていた。婚礼用の料理は急遽開かれた国際親善晩餐会に供されている。招待客たちは当初こそ戸惑っていたが料理と酒が進むにつれて表情を和らげていた。
楽団は軽快な曲を奏で、新郎新婦の席があった場所には各国の使節が語り合うための円卓が置かれている。エルネストは祭壇の脇で静かに葡萄酒を飲んでいた。
「大司教様もお飲みになるのですね」
「本日は神もお許しくださるでしょう」
「許されなかった場合は?」
「神罰が下る前に飲み終えます」
エルネストは杯を傾け長く生きているが今日のような婚姻は初めてだとこぼした。
「婚姻は成立しておりません」
「だからこそ困っているのです」
そこへ大聖堂の扉が開いた。泥で汚れたアルフレッドがガイに首根っこをつかまれて入ってくる。その後ろから騎士に支えられたリリアが続き招待客たちは一斉に振り返った。
会場を見渡したアルフレッドは目を見開く。誰も悲嘆に暮れず、料理を食べ、酒を飲み、談笑している。
「何をしている!式は中止だ!」
その声で楽団の演奏が止まり司会役の伯爵が進み出た。
「はい。中止となっております。現在は国際親善晩餐会でございます」
「なぜ私の結婚式が国際親善晩餐会になっている!」
「殿下が新婦ではない女性を連れて退場されたためです」
「私の席はどこだ!」
「撤去いたしました」
戻せと命じられても現在は隣国の使節団が使用している。アルフレッドが自分より使節団を優先するのかと問い詰めると伯爵は当然のように答えた。
「国際親善晩餐会ですので」
アルフレッドは言葉を失った。そこへ式が始まった時と変わらず白銀の髪も婚礼衣装も整えたセシリアが歩み寄る。
「お帰りなさいませ、アルフレッド殿下。お怪我はございませんか」
「ない」
「エヴァンス男爵令嬢は?」
「足が痛いです」
リリアの答えを聞きセシリアは使用人に医務室への案内を命じた。しかし彼女は慌てて首を横に振る。
「その前にセシリア様へお詫びをさせてください。私、こんなことになるとは思っていなくて」
「殿下から何も聞かされていなかったのですか?」
「駆け落ちするとは聞いていました。ただ私は式の前か、せめて式が終わった後だと思っていたんです」
「式が終わった後では殿下は既婚者になります」
「そうですよね。だから私も変だと思ったんです」
「私たちの愛を証明するにはあの瞬間しかなかったのだ!」
割って入ったアルフレッドをリリアは困ったように見た。
「でも馬車もお金もなく国境の場所も決めていませんでしたよね。南門を選んだ理由も『暖かそうだから』でした」
招待客の間からかすかな笑いが漏れアルフレッドの顔が赤くなる。
「とにかく私はセシリアとは結婚しない。愛しているのはリリアだ。ゆえにここで正式に婚約破棄を宣言する!」
「承知いたしました」
セシリアが手を伸ばすと侍女は待っていたように一枚の書類と羽根ペンを差し出した。彼女は祭壇脇の台に書類を置き迷いなく署名する。
「ローゼン公爵家は王家からの婚約解消の申し出を受諾いたします。こちらが合意書です。殿下もご署名ください」
「なぜ用意してある。いつからだ」
「必要になると予測し半年前に用意いたしました」
「半年前?」
「殿下が王宮の庭園でエヴァンス男爵令嬢に『君の瞳は朝露に濡れた木の実のようだ』とおっしゃった頃からです」
「見ていたのか!」
「庭園の改修予算について庭師長と話しておりました」
何も言わなかったのかと責めるアルフレッドにセシリアは何度か婚姻の意思を確認したと告げる。そのたび彼は「王子としての責任は果たす」と答えていた。
「その翌日、エヴァンス男爵令嬢へ王家の宝物庫から持ち出した首飾りを贈られました」
「愛の証しだ」
「宝物庫の管理責任者が泣いていました」
「なぜ私を止めなかった!」
「三度止めました」
「もっと強く止めるべきだった!」
「殿下は成人しております」
アルフレッドは何か言おうとして口を閉じた。セシリアは彼に羽根ペンを差し出す。
「ご署名を」
「……もっと悲しめ」
「はい?」
「婚約者が別の女を選んだのだぞ。泣くなり怒るなり私を責めるなりするものだろう!」
「ご希望であれば形式上の抗議文を後日お送りいたします」
「そうではない。私を愛していたのではないのか!」
セシリアは少しだけ目を細めた。
「私たちの婚約は十二年前、王家と公爵家の間で結ばれたものです。私は王子妃となるために外交、法務、財政、歴史、語学、儀礼を学びました。王家を支え国に尽くす覚悟もございました」
「ならば――」
「しかし殿下個人を愛していると申し上げたことは一度もございません」
大聖堂が静まり返るなか、リリアが「それはそうですよね」と小さく呟いた。
「リリア?」
「殿下もセシリア様に愛しているとおっしゃったことはあるんですか?」
「婚約者なのだから言わなくても分かるだろう」
「私には毎日おっしゃっていましたよね?」
「それは君が特別だからだ」
「セシリア様にも言わないと分からないと思います」
どちらの味方なのかとアルフレッドが声を荒らげるとリリアは今はセシリアの味方だと答えた。足を痛めた自分のために椅子と冷たい布を用意してくれたからだという。
「パンしかくれなかった殿下より親切です」
「あのパンは半分に分けただろう!」
「最初、八割取ろうとしましたよね」
招待客の間から今度は隠しきれない笑い声が上がった。国王が重々しく立ち上がる。
「アルフレッド、署名しろ。お前が望んだ婚約破棄だ」
「そうですが……」
「王族の婚姻を子どもの遊びと思っていたのか」
国王の青い瞳から疲労が消え、代わりに一国を治める王の厳しさが宿っていた。
「本日の件については後日改めて処分を申し渡す。しばらく公務から外れ王宮の一室で自らの行いを振り返れ。リリア・エヴァンス嬢についても事情を調査する。本人の意思を無視して連れ出したのであればお前の罪はさらに重くなる」
「彼女は私を愛している!」
全員の視線を受けたリリアは困ったように首を傾げた。
「好きではありますけど結婚するかどうかはもう一度考えたいです」
「なぜだ!」
「駆け落ちするならせめて馬車とお金くらい用意できる方がいいので」
アルフレッドが衝撃を受けた顔で固まる。国王は羽根ペンを取り息子の手に握らせた。
「署名しろ」
「……はい」
アルフレッドは婚約解消の合意書に署名した。セシリアは内容を確認して侍女に預ける。
「これで婚約は正式に解消されました」
周囲から安堵とも困惑ともつかない息が漏れエルネストが銀杖をついた。
「本日の婚姻の儀は不成立となります」
「大司教。神の教えにこういう時の言葉はあるか」
「神は人に試練を与えると申します。ですが少々加減というものを覚えていただきたいですね」
「同感だ」
国王が深くうなずくとガイがアルフレッドの肩をつかんだ。
「参りましょう、殿下」
「自分で歩ける!」
「では歩いてください」
アルフレッドは数歩進み靴擦れの痛みに顔をしかめる。
「……肩を貸せ」
「先ほど荷物扱いするなとおっしゃいましたので」
「今は王子として命じる!」
「承知しました」
ガイは再びアルフレッドを肩に担ぎ上げた。
「肩を貸せと言ったのだ!肩に載せろとは言っていない!」
「結果として私の肩を使用されています」
「降ろせ!」
騒ぎながら二人は大聖堂を出ていきリリアも医務室へ運ばれた。扉が閉まると楽団長がセシリアを見る。
「演奏を再開しても?」
「お願いします」
軽快な音楽が戻り招待客たちは再び席について食事と会話を始めた。セシリアはようやく小さく息を吐く。
「お疲れのようですね」
隣にはレオンが立っていた。
「疲れていないように見えましたか」
「完璧に見えました。婚礼衣装のまま婚約者の駆け落ちを処理し外交問題を回避して晩餐会を成立させた。私の国の宰相でもここまで手際よくはできません」
「お褒めいただき光栄です」
レオンは給仕から二つの杯を受け取り一つを差し出した。
「葡萄水です。酒ではありません」
「ありがとうございます」
セシリアが口にした冷たい葡萄水は乾いた喉を潤した。
「今日のことであなたを悪く言う者はいないでしょう」
「明日には『王子を追い詰めて駆け落ちさせた悪役令嬢』という話が広まっていると思います」
「人は事実より面白い話を好みますからね」
「慣れております」
「ではさらに面白い話を加えても構いませんか」
レオンが微笑む。
「内容によります」
「婚礼当日に捨てられた悪役令嬢がその場で隣国の王子に求婚されたという話です」
セシリアは杯を持ったままレオンを見た。
「冗談でしょうか」
「半分は」
「残りの半分は?」
「本気です」
レオンの灰紫色の瞳から笑いが消えた。以前からセシリアの能力を高く評価しており両国の通商協定がまとまったのも彼女が双方の利害を整理したからだという。
「あれは王子妃教育の一環です」
「婚約が解消された今、その能力をこの国だけに留める理由はない。王妃候補として我が国へお迎えしたいと考えています」
周囲で話を聞いていた貴族たちが息を呑んだ。長い沈黙のあとセシリアは静かに杯を置く。
「本日、私は早朝から婚礼衣装を着せられ、祭壇で置き去りにされ、王子の捜索を命じ、婚礼を晩餐会へ変更し、婚約解消の手続きを終えました」
「はい」
「その直後に次の婚姻を検討するだけの余力はございません」
「では返事は後日で構いません」
「最低でも一か月はお待ちください」
「一か月後に返事をいただけるのですね」
「検討を始めます」
「十分です」
レオンは再び柔らかく笑った。
「ところで婚礼用の料理が残っています。花嫁が食べないのは料理人に失礼では?」
セシリアは料理の並ぶ卓へ目を向け朝から何も口にしていないことを今になって思い出す。
「確かにそのとおりです」
「ご一緒しても?」
「これは国際親善晩餐会です。隣国の王子を拒む理由はございません」
二人は並んで卓へ向かった。その背中を見送りながらエルネストは残っていた葡萄酒を飲み干す。
「婚姻は成立せず外交関係だけが深まるとは」
隣にいた国王が重いため息をついた。
「我が国は有能な公爵令嬢を失うかもしれんな」
「ご子息が逃げた結果です」
「分かっている」
「追いかけますか?」
「息子の二の舞いは避けたい」
「賢明です」
国王は遠くの卓でレオンと話すセシリアを見た。婚礼衣装をまとった悪役令嬢はもう誰にも置き去りにされた花嫁には見えない。
その日の婚礼は失敗に終わり第一王子の駆け落ちも失敗に終わった。しかし用意された料理はすべて振る舞われ、外交上の問題は回避され、国際親善晩餐会は盛況のうちに幕を閉じた。
後世の歴史家はこの日についてこう記している。
アルフレッド第一王子が真実の愛を求め大聖堂から逃亡した日。
そして――悪役令嬢セシリア・フォン・ローゼンが役立たずの婚約者から逃げ切ることに成功した日、と。




