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作者: 鳥久保咲人

 昨日、彼が残したキスの痕のひとつをじっと見つめる。足の、親指と人差し指のちょうど真ん中を口に含んだ痕。彼の残した赤が腫れて盛り上がっている。今までのどの彼よりも赤くて強い痕。傷になるほどの愛の証。ふいに足を攣ったようにピンと伸ばして身体をくねらせた。時間が経つにつれ、痒みともどかしさが伴ってくる。いても立ってもいられないほどの痒みともどかしさ。それが快感なの、とは彼には言えない。

 そんなことを言ったら彼はきっと調子に乗ってしまうから。それはちょっと悔しい。

 彼は夕方から夜中にしかやって来ない。鍵をかけていないワタシの部屋にこっそりと無断で入ってきて、そっとワタシの身体に生肌に触れ、なぞり、吸い付き、噛み付いて痕を残して去っていく。他には何もしない。何も言わない。ただワタシに震えるほどの快感を与えていく。それが唯一の愛の証とでも言うように。

 彼はもしかしたら性交不能者なのかもしれなかった。それでもワタシは満足だった。きっと、これが世に言う純愛なのだろうと思えたから。

 欲を言えば時には何か言ってなじってほしいし、愛の言葉のひとつでも囁いて欲しいけれど、彼はサディスティックだから何か言ったところで聞いてはもらえないのは解っていた。だからワタシも何も言わない。彼が部屋から去る姿をじっと見つめるしかない。

 カーテンのはためく自室の窓から空を見上げた。マンションの七階の窓からははみ出すほどの空が見える。どこからか花火の打ちあがる音が聞こえる。ビルが視界を塞いで火花は見えない。音の出るたびに空がほんのり色づくのは分かった。

ぼうっと外を見ていると、夜が艶めかしい、どろりとした闇を纏ってこちらを眺めてきた。息をゆっくりと長く吐く。夜風が気持ちいい。夏の夜の匂いに心が躍る。彼はあちこちで花火が打ち上げられるこの時期になると頻繁に会いに来てくれる。夏が過ぎるとほとんど会いに来てはくれない。浮気をしているのは感づいている。何も、言わないけれど。

 彼はワタシがティシャツやキャミソールやショートパンツのパジャマで寝るのを知っていて、肌の露出するこの時期になって夜毎ワタシの肌に口を這わせ吸い付くように愛撫することをワタシは知っていた。だからワタシはわざと露出の多い寝具で眠る。そんなワタシの心に気付いているのかは分からない。爽やかな夜風のせいで彼に嬲られた痕がひんやりとしてまたその痕をなぞってうっとりとしてしまう。

 今日も遠くで祭りの音が聞こえてくる部屋でペディキュアを塗りながら彼の来るのを待っている。電話番号も知らないアナタをワタシは呼ぶことが出来ない。じっと、ひたすら彼が来るのを待つしかない。待っている時間は苦痛ではないけれど、恋焦がれた少女のような心地になる。

 すると、彼のやってくる音が耳元で聞こえた。はっとして辺りを見渡す。少し声が耳障りに思うことがあるけれど、彼はそれを楽しんでいるようだった。ワタシは彼に向かって言った。

「嫌がるワタシを楽しんでいることくらい、ワタシだって判っているのよ。本当に罪なひとね。それでもワタシはアナタとの逢瀬の夜をうっとりとする心地のなかで、アナタが残してくれる腫れ上がる痕を数えながら朝を迎えるの。アナタ、知らないでしょう?」

 網戸をしない開け放たれた窓の先には深い闇が広がっている。視線を滑らかに泳がす。自分の白い太腿に口付けの痕がいくつも出来ている。足の付け根に出来た痕に触れると背筋がもぞもぞとした。すると、彼がベッドにあがってきた。するりと足に触れ、ティシャツの裾から頭を入れようとする。ワタシはつい身体を固くする。でもそれを彼は嫌がることを知っているからすぐに力を抜く。何度目の愛撫でも戸惑ってしまうワタシに彼は大胆にも触れてきた。噛み付き、痕をつけたすぐ隣にまた痕をつける。ワタシは声を漏らし、首を仰け反らせた。触れ方がくすぐったい。身をよじって抵抗する。止めて、と呟いても彼は止めてくれない。止めて、は嫌だと違うことを彼はよく解っている。ワタシは彼の残していく痕を撫でる。そっと撫でる。

 それにしても今日の彼は大胆だった。彼はこれこそが愛の証なのだというようにワタシの足に噛み付き、ほんの小さな傷跡が出来た。彼はその小さな傷口に自分の唾液を注入するように口をつけた。毒素が身体に回っていくのを想像した。彼の噛んだ痕の痒みに耐え、それでも口元でにやりと微笑む。息が荒くなるのを抑えながら上から彼に言った。

「ねぇ明日も会える? きっと来てね? ワタシ、アナタのつけた足の指と指の間の痕がいちばん気に入っているの。これはなるべく早く消えないようにたくさん掻いて血を出して傷にしてみたの。ねぇ、ワタシ、足を噛んでもらうのがいちばん好きなの。またしてね?」

 彼は口付け以外に何もしない。口づけこそが自分の純愛の証明とでも言うように彼は無口で貪欲でサディスティックだった。ワタシは明日も来てくれる保障もないのに、明日も会えることを願って痒みで眠れないままに明け方、彼を送り出す。


 そんな夏のある日、寝ている間に彼が耳元で声をかけた。ワタシはその声が耳障りでつい反射的に彼を殴った。寝ぼけていたということもあった。近くにあった雑誌で殴った。家の物を投げ、振り回した。彼はベッドに倒れた。彼はその後、細い足の動きが止まり、ついに胴体もぴくりとも動かなくなってしまった。ワタシは彼の亡骸をじっと見つめた。しかし彼のほかにも代わりはいくらでもいた。別に彼だけがワタシに痕をつけてくれるわけではなかった。ワタシはべっとりとした赤い血にまみれた彼を見下ろした。彼は白いシーツの上、濃赤のワタシの血の上で息絶えていた。

 ワタシの好悪によってのみワタシの彼は選ばれる。どんなに愛していてもワタシの好悪によって彼は生かされ殺される。相手が動物でも人工物でも愛が成り立つならワタシはワタシの好悪によって彼を一生のパートナーとして選ぼう。毒素のあるキスでワタシを犯そうとするサディスティックな彼を。そう思い直して頷いた。

 ワタシはもう動かない彼に言った。

「ねぇ、あなたもワタシじゃなきゃだめだったわけじゃないでしょう? ワタシもあなたじゃなきゃだめだったわけじゃないわ。じゃあイーブンね。許して頂戴。楽しかったわ」

 ワタシは彼を白いティッシュに包んでぎゅっと握りつぶしてゴミ箱に放り棄てた。白いまるまったティッシュはゴミ箱に吸い込まれていった。

 ワタシは無意識に手足の赤い痕を掻いた。ふっくらとした赤い痕は口付けの痕よりも切り傷の痕に近かった。と、そこに他の男が部屋に入ってきた。ワタシは彼に微笑みかけた。

「あら、いらっしゃい。あなたの性別は分からないけれど、そんなことはワタシには関係ないわ。ねぇ、だってあなたも今夜無条件にワタシのことを愛してくれるんでしょう?」


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