Drop.009『 Stir〈Ⅱ〉』【3】
「……そう……ですよ」
すると、法雨は、妙に高く可愛らしくわざとらしい――甘えた声色を作って言った。
「じゃ~あ~、次のお着換えの時間もぉ~、桔流くんのその色白なお肌が見られるのぉ~、法雨ぃ~、すっごぉ~く楽しみにしてるねっ?」
(……駄目だ! 強すぎる! ――いや。別にキスマークなんて付けて出勤するような展開にはならねぇけど!! ――でも、花厳さんとの今の関係も、流石にまだ知られたくないし。――ここで、ここで負けるわけには……!!)
法雨のその圧倒的な攻めに脳内でパニックを起こしながらも、桔流は自分を奮い立たせ、なんとか言葉を紡ぐ。
「……ハ、ハハ。ちょっと何言ってんのか意味がよく分からないですね」
しかし、そんな桔流にも、法雨は無慈悲であった。
先ほどと打って変わり、声を低くした法雨は、
「逃がさないか・ら・ね」
と言いながら、桔流の尾の下側を、根元からなぞりあげた。
すると、全身の毛を逆立て、己の太い尾をぶわりと一層太く膨らませた桔流は、声にならない声とともに背を仰け反らせた。
「――~~~ッ!!」
そんな桔流の様子に満足げにすると、法雨はいつも通りの声色で、楽しげに言った。
「ふふ。相変わらず感度がイイわねぇ。桔流君。――可愛い。――こんな事なら、もう一回くらい食べておくべきだったかしら」
「ちょっと、法雨さん!! 吃驚するからやめてくださいよ!!」
未だ尾をなぞりあげられた余韻が残っているのか、二倍増しで太くなったままの尾をひしと抱きしめ、桔流は言った。
法雨はそれに、また楽しげに笑う。
「ふふ。敏感なんだから」
そして、その後。
実のところ、過去に何回か法雨に“喰われている”桔流は、無事に着替えを終えるなり、スマートフォンを鞄に放り込んだ。
そして、相変わらず嬉し楽しとしている法雨にぎこちなく退勤の挨拶をすると、更衣室を後にした。
✦
そんな桔流が、更衣室を出て行った後の事。
桔流が居なくなった更衣室で、法雨は小さく笑った。
(ふふ。まだ肌寒いのに、慌てん坊な春だこと……)
そして、何気なく、桔流が出て行った扉を見やると、着替えを終えた法雨はしばしの間を置き、近場の椅子に腰かけた。
「………………」
法雨はその中、ひとつ思い出すと、誰にも届く事のない言葉を、心の中で紡いだ。
(ねぇ。桔流君)
自身が経営するバーで、初めて桔流と出会った夜――。
(もうそろそろ、アナタも、――その指輪から解放されてもいいんじゃないの)
法雨は、そんな――、今となっては懐かしい、とある夜の事を思い出していた。
✦
更衣室から逃げるように退場した後。
桔流は、予定通りの時刻に花厳と合流した。
「――わ……。どうしたの……? ――何か、嫌な事でもあった?」
待ち合わせ場所は、バーから少し離れた駐車場だった。
そんな駐車場に現れた桔流は、酷くむっすりとしていた。
花厳は、桔流のその様子に思わず尋ねた。
すると、桔流はむっすりしたまま答えた。
「いえ何も。――ただ、花厳さん。“死ぬほどいいタイミングだったな”って思っただけです」
「え?」
花厳がそれに首を傾げてから、またしばし経った頃。
自宅への道を辿りながら、“何が死ぬほどいいタイミングだったのか”――の説明を受けた花厳は笑った。




