四日目 東へ続く鉄路
窓の外から明かりが差し込み目が覚めた。「もう朝か」そう思い、スマホを探す。眩しい画面に映された時刻は3時。東に行けば日の出が早くなるというのはなんとなく知っていたが、ここまで早いとは思わなかった。北海道は1時間の時差を作ってもいいと思う。
もう少し寝ても良かったが、昨日は移動中によく寝たこともあって、もう眠気は無い。今日の計画を考える。今日は網走監獄を観光したあと、釧路を経由して根室まで行こうと考えている。しかし、ここで問題がある。網走監獄の開館は9時。そこから網走駅までは徒歩50分ほどかかる。しかし、今日のうちに根室へ行くには10時24分に網走を発車する列車に乗らなければいけない。つまり、50分かけて網走監獄へ行き、20分観光、その後また50分かけて網走駅へ行かなければならない。ちょうど良いバスもなさそうだ。仕方ないので歩くことにした。
釧路まで行けば、根室までの列車は18時59分まで2時間間隔であるようだ。しかし、釧路と根室を結ぶ花咲線という路線は景色が良いらしい。なので明るいうちに行こうと思っている。なので、1本前の16時11分発に乗ろうと思う。
宿の予約はまだ早いのだが、いくつか安いところを探しておく。どうやら根室は民宿が多いらしく、3000円前後くらいだ。今は早いので、10時くらいになったら電話をかけようと思う。
網走方面の始発は7時43分だ。まだ時間はあるので散歩でもする。服装は長袖長ズボン。今日も晴れそうだ。まだ太陽は見えなかったが、早朝に外を歩くことがこんなにも気持ちの良いものだったのかと気付かされる。すれ違う人が「おはようございます」と言う。そういえば地元にいた頃はすれ違う人に挨拶をしていたものだ。初めて東京に行ったときは癖ですれ違う人に挨拶をしてしまったこともあったっけ。今では知らない人から挨拶されることに驚いてしまっている。
宿に戻り、シーツを外し、荷物をリュックに詰め、背負う。もう一度部屋を見渡し、忘れ物がないか確認をする。そして南京錠をテーブルの上に置き、僕は部屋を出た。列車の時間まであと10分。今日も快晴。僕は靴を履き、外に飛び出した。
駅のホームには高校生が2人いた。地方になれば列車の利用は高校生がほとんどになる。地元の松江も時間帯によってはそうだった。高校生はみんなスポーツメーカーのロゴが入ったウィンドブレーカーを着ていた。
小さな2面2線のホームに網走行の列車がやってきた。1両のキハ40。もう名前も覚えた。僕は高校生の列の一番うしろに並び、列車に乗った。
しばらく山の中をゆっくり走っていた。しばらくすると、池が見えて、近くの道路に車が走っているのも見えた。やがて高い建物が見え始めたと思えばすぐに列車は終点の網走に到着した。
僕は改札を出て、スマホの地図の網走監獄へのルートを辿る。朝ごはんはまだ食べていないが、途中にコンビニはあるようだ。朝ご飯を食べる時間を考えれば丁度よい時間に到着しそうだ。どこか懐かしいボウリングセンターを見ながら僕は早歩きで目的地へ向かう。
途中の交差点でコンビニに寄った。東京でもみかけるチェーン店だったが、もはやこっちのほうが懐かしく思えた。北海道へ来てからずっとコンビニだが、今まではまだ北海道限定のコンビニだったから良しとしていた。しかし、これはどうだろう。まぁ、今回はこれで良しとしよう。僕は東京を思い出す店内でサンドイッチと水を買った。
時間に余裕があったので近くのレンガに腰を掛け、サンドイッチを食べた。観光地で名産品を食べるのも良いが、こうやって知らない町でコンビニのサンドイッチを食べるのも旅という感じがして良い。
サンドイッチの包装をコンビニのゴミ箱へ入れ、再び歩き出す。池を眺めながら歩いていると、網走監獄と書かれた看板が見えた。僕はその矢印の方向へ歩く。
山の中を歩くこと10分、赤レンガの建物が見えた。僕は先へ進み、受付へと向かった。時刻はちょうど9時、ここにいられるのは20分間だけ。僕はチケットを購入するとすぐに中へ向かった。
僕は地図を見つけ、どうしても行きたかった場所を探す。網走監獄といえばここだろう。放射状に建てられた舎房。どうやら五翼放射状房と呼ばれているらしい。僕はここへ向かった。
中へ入ると、「中央見張」と書かれた小さな部屋があり、そこから5つの方向に建物が続いていた。説明には「この中央見張りから脱獄者がいないかを監視していました」と説明がある。中央見張と書かれた部屋に入ると、確かに全方向を見ることができた。よくできている。
奥へ進み、牢屋の中を覗いてみた。部屋はダブルベッド一つ分くらいだろうか。思ったよりは広く感じた。しかし、ここで人間的な生活ができるかと言われれば、それは疑問である。犯罪を犯さないよう生きていきたい。
しばらく見たところで時刻は9時15分。そろそろ出発しなければ列車を逃してしまうので、僕は網走監獄を後にした。ゆっくりできなくて少し残念だが、またいつか行けば良い。そう思った。
ところで僕がこの日一番最初に帰った観光客だと思ったが、今少し前を歩いている男性のほうが早かった。僕と同じ列車に乗る人なのだろうか。少し気になったが、今話しかけると、駅まで気まずいのでそれは辞めておいた。
僕は歩きながら根室の民宿へ電話をした。一件目はもう空きがないと言われたが、2件目で空いていたのでそこに決まった。3000円で個室という破格だ。
ところで交差点を2回曲がったが、前の男性はまだいる。少し急ぎたいので、ここは追い抜くことにした。すぐ後ろまで近づき、一気に歩く速度を上げる。追い抜いた瞬間に声が聞こえた。
「ちょっと君」
どこから聞こえたのか分からなかったので辺りを見回す
「あ、私です。驚かせたかな」
さっきまでずっと前を歩いていた男性だった。30代くらいに見える。
「あっ、いいえ、大丈夫です」
「君も10時24分発の列車かい?」
「あっ、そうなんです」
「同じ時間に網走監獄を出たからそうだと思ったよ。この時間なら普通に歩いていれば間に合うから良かったら一緒に行かない?」
明るい感じの人だった。
「いいですよ、一緒に行きましょう」
人柄の良さについ承諾してしまった。
「君は今どんな旅をしているの?」
「はい、鉄道で北海道を一周しようと思ってまして、昨日稚内から来たところです」
「そうかそうか、どのくらいいるの?」
「1週間です」
「1週間!?それは北海道の広さ舐めてるよ。観光なんてできないんじゃない?」
「どうですかね。そういえばあまり観光をしていないような気がします」
「でしょう」
「でも、非日常の世界にいるのが好きなんです。忙しい日々から距離を置いて旅をする。それこそが一番の目的です」
しばらく間があった。そして
「そうか、確かにそうかもな。若いのにいい考えをもっていて君は素晴らしいよ」
そう褒められた。自分でもこの4日間ですごく変わったなと思う。
「ところで君はどこから来たの?」
「東京です」
「東京か~、昔住んでいたけど今は地元の浜松に帰ったよ。あっ、静岡県のほうね。みんな東京に憧れて上京するけど、結局地方に帰るんだよね」
僕も東京に憧れた人間の一人だ。でも今は将来どうしようか迷っている。
「僕も地元に帰ろうか迷っているんですけど、どうしたら良いと思いますか」
僕は聞いた。
「今は自分の居心地の良い場所を見つければ良いと思う。東京の居心地がよけれは東京に住めば良い。地元が良いなら地元に帰ったら良い。この旅で北海道が良いと思ったら北海道に住んでみるのもいいと思う」
僕は黙って聞いていた。
「ただ、地元に帰っても、昔とは違う。友達はみんな遠くへ行っている。みんなが集まっていた学校という場所も今は無い。だから地元が一番居心地の良い場所なのかは分からない。そういうもんさ」
そうか、そういうものなのか。
「君はまだ若い。だから自分の居場所を今のうちに見つけなさい。それを見つけられたらこの先の人生はきっと明るいものになるから」
僕は彼の言っていることがわからない部分も多かった。でも、確かに自分の居場所があることは大事なことだと思う。学生の時、一緒にふざけていた仲間たちは今思うと僕の居場所だったような気がする。
僕たちはその後会話のないまま、網走駅に着いた。あと発車まであと10分。トイレを済ませ、既に入線していた、しれとこ摩周と書かれた銀色の列車に乗り込んだ。
進行方向とは反対方向の後ろ向きの座席に座り、SNSを覗くと、みんなもう出発しているようだった。ユキさんは札幌へ向かい、レナさんは網走へ向かうようだ。Ayuさんは音威子府でそばを食べている。みんながそれぞれの目的地へ向かう中、偶然途中で出会い、話しかけてくれた。そう考えると、なんかすごいものに思えてきた。
「この釧網本線は景色がきれいだよ」
スマホの画面を眺める僕に、男性は言ってきた。
「そうなんですか。それは見なきゃいけませんね」
「それに右側の席に座ったから絶対に見逃せないよ」
僕はそう言われ、スマホをポケットにしまった。
「じゃあ、私は写真を撮るからここを離れるね。一人旅楽しんで」
そう言われ、僕は再び一人になった。
列車が出発すると、進行方向左側、つまり、僕の右にある窓の外には海が広がっていた。朝は寒かった網走も、この時間になれば暖かくなる。なので、乗客はみんな近くの窓を開けた。僕も窓のレバーを両手でつかみ、窓を上にスライドさせた。
稚内を離れてから見ていなかった久しぶりの海に気分が高揚する。車内には潮風が吹付け、車内にぶら下がっている広告がバサバサと音を立てる。この時間は地元の学生は乗っていない。観光客ばかりだ。潮風を浴びる人、車窓を眺める人、一眼レフを片手に車内を歩き回る人など様々だ。
列車は知床斜里駅に到着した。乗客のほとんどが降りていった。網走で話していた男性もここで降りていった。車内はさっきのにぎやかな様子から一転、乗客は2人になった。
知床斜里駅を出発すると。海から離れ、山の中へと進む。途中の清里町駅では部活帰りと思われる高校生が乗ってきた。網走を出発して1時間、昼も近づいていた。
しばらく経って、僕は車内を散策してみた。とは言っても1両の小さな列車。それでも少し体を動かしたくなったのだ。僕は列車の後ろまできてみた。この列車は運転席が小さく、列車の真後ろの景色を見ることができる。閉ざされた貫通扉のガラスから外を見てみた。すると、そこには一直線に伸びる鉄路がどこまでも続いていた。明らかに僕を乗せた列車が通った道。それがどこまでも続いていた。やがて鉄路はカーブを描き、再び直線となる。それを何度も繰り返した。
緑駅を出発し、しばらくすると湿原へと入った。列車は釧路湿原の中を突っ切るように入っていく。車窓からはいくつもの湖のようなものが見られる。エゾシカも見られた。他にもいろんな動物が見えたが、名前までは分からなかった。美しい景色に感動する間もなく、また美しい景色が流れてくる。ほとんど観光ができないと言っていたが、この列車からの景色こそが観光だった。
釧路湿原を抜けると、建物が増え始めた。東釧路を出発してからは高い建物も多く見られ、やがて列車はスピードを落とし、やがて停まった。
ホームと改札の間の扉を抜け、切符を改札機に通した。時刻は13時30分を回ったところ。3時間は乗車していたようだが、美しい景気の連続でそう長くは感じなかった。
次に乗る予定の16時11分発根室行の列車までまだ2時間半ある。まだ昼ごはんを食べていなかったので、とりあえず駅近くで食べることにした。
釧路駅には和商市場と言う有名な市場がある。そこでは、最初に白ごはんをもらい、そこに海鮮を乗せていくことができる。釧路では勝手丼と言うらしい。下関で一度やったことがあるのでなんとなくイメージは着いた。
駅をでて、噴水を眺めながら和商市場へと向かう。入り口が分からなかったが、地元の人と思われるカップルが入っていったので、着いていった。
中へ入ると、多くの商店が並んでいる。平日の2時なのでそこまで混んではいなかった。僕はまず、ご飯を買った。
「すみません」
「はいいらっしゃ~い」
「ごはんの中をお願いします」
「はい160円ね~」
僕はリュックから財布を探し、160円払う
「お兄さんはここは初めてかな」
長袖長ズボンにリュックと言うごく普通の格好をしていたが、旅人だと分かったのだろうか。
「はい、そうです」
「だったら、ここにある店を回って、好きな魚があったら店の人に言ってね。そしたら店の人がどんぶりに乗せてくれるから」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
「楽しんでいってね」
僕は財布をリュックにしまい、どんぶり片手に店を探す。外から見ると小さく見えたが、中に入ってみると多くの店があることが分かる。勝手丼以外にも、家で料理するようなものや、食堂も見られた。勝手丼をやっているのは家族連れと観光客が多い印象だった。
一周してみたが、よく分からなかったので、なんとなく安そうな店に行った。
「いらっしゃい、ここに来るのは初めて?」
店のおばあさんが声を掛けてきた。
「はい、ですが注文のやり方はごはんを買ったときに聞きました」
「そうかい、じゃあ欲しいのあったら言っていってね」
僕はどんぶりを渡す。
僕はあまり魚の知識がなく、とりあえず良く食べるものを探していった。
「それじゃあ、サーモンと、タコと、ハマチお願いします」
四角形の札を探しながら僕は注文していく。おばあさんが手際よくどんぶりのごはんに乗せていく。
「他にはもういいかい?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、合計で300円です。今日はどこからお越しで?」
「あっ、はい、東京からです。今北海道一周しているところなんです」
僕は財布の中から100円玉を探しながら答える。
「それはまた遠くからお越しで。じゃあ、ハマチ一つおまけしておくね」
「あっ、いいんですか!?ありがとうございます」
僕は100円玉3枚を渡す。
「はい、300円ね。ありがとう」
「ありがとうございます」
おばあさんは僕にお辞儀をすると、次のお客さんに笑顔で話し始めた。
市場の中央にある席に僕は座る。パイプ椅子が少し懐かしい。当たりを見渡すと、どんぶりから溢れるほど乗せている人、とりあえず3つほど乗せている人、ごはんだけで食べている人など様々だった。みんな個性があっておもしろい。
僕は醤油をかけて食べることにした。
まずはハマチを食べた。するとどうだろう、寿司とは違う独特な食感だ。惜しむことなく口へ放り込んだごはんに包まれたハマチは新鮮だった。いや、昔の人はこれが普通で、寿司のほうが新鮮だったのかもしれない。いずれにしても、新鮮で美味しかった。
次にサーモンを食べてみる。これはすごく美味しかった。回転寿司で食べているサーモンももちろん美味しいのだが、このサーモンは柔らかくてすごく美味しい。これが100円なのだから驚きだ。
最後にタコを食べてみる。実はタコを食べるのが初めてなのだ。なんとなく寿司とは合わない気がしていて、今まで避けてきた。僕は恐る恐る口に運んだ。なんというか、少し硬めの食感が心地良い。そしてうまい。これが初めてなので、普段食べるようなタコと比較できないのが少し悔しい。だが、とてつもなく美味しいのだろう。僕は一口一口大事に食べた。
胃袋が幸せになると、列車まであと1時間半になっていた。特にやることもないので、釧路の街を散歩することにした。
和商市場を出ると、赤茶色の釧路駅が見える。改めて見ると、随分と古そうな駅だ。地元松江から1時間ほどの場所にある米子駅もこのような雰囲気だった気がする。
街を歩いていると、いくつか大型商業施設が見られた。しかし、入ろうと思い近づいてみると、もう営業していなかったりする。他にも、スーパー銭湯やホテルなんかもテナント募集の張り紙があったりと駅前は寂しいものになっていた。それでも駅から少し離れた大通りでは多くの店が営業していたり、新しい建物があったりと随分賑やかだった。生活の足は鉄道から自家用車へと変わったからなのだろうか。
しばらく歩いていたが、特にやることもなくなったので、駅に戻った。釧路駅にはこれから乗る花咲線のポスターが大量にあった。もう生活の足と言うよりは観光需要なのだろうか。列車の時刻まであと40分。駅のコンビニで缶コーヒーと水を買い、駅の待合室に行った。
ダラダラとスマホを見ていると、時間の流れは早いもので、花咲線根室行きの案内があった。改札前まで行くと、電光掲示板の16時11分根室行きのところには既に「改札中」の文字があった。僕は北海道フリーパスを改札に通す。
地下通路を通り、ホームに行くと、銀色の列車が1両停まっていた。先ほど釧網本線で乗ったものと同じものだ。乗客は案外多く、もう少し遅かったら座れなかっただろう。僕は進行方向の向きの窓際の座席に座る。
しばらくして、ブザーとともに扉が閉まる。運転手が運転席につくと、列車はゆっくりと釧路の街を走り出した。
車内は観光客と思われる人が7割、高校生が3割と言ったところだろう。そこには大きなリュックを持った旅人だけではなく、家族連れの観光客も見られた。
次の東釧路駅を出発すると、線路は2つに分岐しており、その右側を走る。左側は先ほど乗ってきた釧網本線だ。
釧路を離れるに従って、建物も徐々に減っていく。2つ先の別保駅を出発すると、先ほどまで見られていた家や車はほとんど見られなくなった。
気温も徐々に下がり、全開だった窓は閉められ、JNRと書かれた扇風機は、やがて動くのをやめた。それでも1両の小さな列車は135キロ先の街を目指して山の中を駆け抜けていく。きしむ音と時折大きな警笛を鳴らしながら。
ほとんど駅に停まることなくコトコトと走ること約40分、門静駅で2人の乗客を降ろし出発すると、、海が見えた。ずっと山の中を走っていて、海から離れて言ってると思ったから驚いた。釧路を出たときには太陽の光でよく見えていた窓枠の落書きは、曇り空で見えづらくなっていた。
すぐに列車は厚岸駅に到着した。ずっと家すら無いような場所を走ってきたが、突然大きな街が現れた。ここで多くの人が降りていく。地元の人が多そうだ。乗客は釧路駅を出たときの半分くらいになった。
十数名ほどの乗客を見送った列車は、再びゆっくりと走り出す。外は雨が降り始めた。正確には雨が降っている場所に僕がやってきたのだろう。
厚岸を出発すると、列車は海岸線を走っていく。海は近く、今にも線路が海に沈みそうなほどだ。やがてそれは川となり、湿原となった。別寒辺牛湿原というらしい。雨の中、大きな水たまりに囲まれた線路をゆっくりと辿る列車は、まるで水面上を走っているみたいだった。その美しさに、大きなカメラで写真を撮っていた男性も、撮ることを忘れて景色を眺めている。
別寒辺牛湿原を抜け、再び山の中へ入ると、辺りは暗くなってきて、外の景色もあまり見えなくなっていた。終点まで約30分。少し暗めの蛍光灯がついた静かな車内でゆっくり過ごすことにした。
ぼーっと過ごしていると、誰かが笑顔でこちらを見てきた。地元の農家のおばあさんだろうか。
「あなた見ない顔だね。地元の人かい?」
「いいえ、今旅をしていて、今日は根室で一泊します」
「そうなのかい。それはたくましい」
「ありがとうございます」
実際には現実から逃げただけの人間である。
「そうそう、根室は札幌の方と違って日の出が早いから、早く寝るんだよ。ご飯を食べたらすぐに寝なさいね」
「そうなんですか、分かりました!」
「ピンポンパーン、間もなく、西和田です」
アナウンスが流れる。
「じゃあ、私はここだから。良いご旅行を」
その後もおばあさんはなにか大きな声で喋りながら、去っていった。
やがて動き出した列車は、時速40キロにも満たないような速度で走る。しばらくすると、運転席から「ジリリリリン」とベルの音がした。少し遅めの放送が消える前に、列車は停まった。
列車を降りると目の前に温度計があった。気温は13度。11月終わりの風が吹いている。おととい稚内のホテルで見ていたテレビでは東京で気温35度到達というニュースがやっていたのが嘘のようだ。
駅を出て、僕はスーパーに向かう。しかし寒い。北海道は涼しいと昔誰かが言っていたが、涼しいどころではない。すれ違う人を見ても、みんなジャケットを羽織っている。
スーパーに着いた。店内は暖房が入っていて暖かい。僕は唐揚げ弁当と明日の朝食べるおにぎり、それとホットコーヒーをレジに持っていった。
レジ袋を片手に今日の宿に向かう。午前中に予約していた3000円の民宿である。僕はホットコーヒーで体を暖めながら歩いていく。
スマホのマップで今日泊まる民宿を表示していたが、どうも家が集まっている場所にあるようで、分からなかった。看板も見当たらない。1、2分ほどさまよっていた。
「あのー、山本さんですか?」
極寒の暗闇の中で突然声を掛けられてつい「うぁ」っと声が出た。
「あ、すみません。ここの民宿の者ですが、人違いでしたか?」
「いいえ、今日予約していた山本です。お世話になります」
「ありがとうございます。寒いでしょうから中へどうぞ」
案内されたのは普通の一軒家だった。しかし、リビングには3人のおじさんがくつろいでいて、様々な方言が飛び交っている。
「こちら、今日宿泊する山本さんです」
「はじめまして、山本です。東京から来ました」
一斉にこちらを見る。
「おー、東京の人ってばい、シティーボーイやっか」
「若い人やな、今日はよろしくな~」
方言が強くで半分聞き取れない。
「でも、育ちは松江なので、田舎者ですよ」
「松江と言ったら~、松江城があるね~」
「おう、俺もわっか時佐賀からバイクで行ったことあるばい」
「佐賀からバイクで行ったん?大変やったとちゃう?」
「下道で行ったばってん、1日かかったばい」
「それは大変やね~」
中々会話に入れない。
「山本さん、宿の紹介しますね。ここはご覧の通り、交流する場所です」
「はい」
「そして」といって奥へ案内される。
「こちらがトイレとお風呂です。共用になってますので譲り合ってご利用ください」
「分かりました」
それからもごみの分別や、冷蔵庫にある有料のジュース、近くのコンビニなどが紹介された。
「最後にお部屋ですね。鍵はありません。布団は予め敷いてあります。毛布が足りなければお貸ししますが...」
「すみません、薄着しか持っていないので貰ってもいいですか?」
「分かりました。このあとすぐお持ちしますね」
「ありがとうございます」
「帰られる際はそのまま帰っていただいて大丈夫です。お声掛けいただく必要もありません」
「分かりました」
「説明は以上です」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
毛布を受け取ったところで、唐揚げ弁当を食べる。部屋の外からはおじさん達の声が聞こえる。今日が初対面だとは思えないくらいに仲が良い。僕で言う稚内で知り合った3人のようなものなのだろう。
そういえばみんな何をしているのか気になり、SNSを開いた。しかし、まだ夜の8時前ということもあり、何も投稿はなかった。ダイレクトメッセージには1件の着信があった。Ayuさんからだ。
「昨日送るの忘れてました。宗谷岬での写真です」
そこには4人の楽しそうな姿が写っていた。つい昨日の写真なのになんだか懐かしくなる。いつも遊んでいる友達のような写真。でも、もう4人で集まることはないのだろう。
時刻はまだ20時ではあるが、根室は朝が早いらしいので、シャワーを浴び、歯を磨いた。さっきまで楽しそうに話していたおじさん達は部屋に戻ったようだ。そして、今日撮った写真の中から4枚を選び、投稿する。特にいいねが欲しい訳では無く、旅の中で知り合った人たちに今日の報告をしたかったのだ。
明日は日本の最東端、納沙布岬に行って、その後、函館に向かおうと思っている。明日も長い旅になりそうだ。僕は毛布にくるまり、高ぶる気持ちを抑えながら目を閉じた。