第五章(12) 月への扉
最後に、とても難しい頼みごとをしてしまうかもしれません。
彼女はそう、恐る恐る口にした。
とても残酷で、過酷で、身勝手な頼みごとかもしれません、と。
……彼女は覚醒したというのに、どこかひどく怯えていた。
「話してごらん、妹よ」
だからメサニフティーヴは、優しく促した。
「私は、全てを聞こう」
――月を染めた赤色は「『戦竜機』となった竜の負の感情」だと言う。
悲しみ。怒り。憎悪。苦痛の中にある魂が放つ、それ。
「『戦竜機』は、竜の魂すらも使った兵器。不死身の仕組みは、魂が歪んでしまっているため……本来なら魂は月に還りますが、死ぬことが許されなくなった身体の中、魂は囚われ、還ることができなくなりました……永遠の苦痛の中に在るのです」
しかし、放つ感情だけは、月へと昇る。月へと昇り、徐々に包んでいった。
だから月の光が弱くなっていたのかと、メサニフティーヴは気付く。
負の感情が月を覆っていっていたために、その光が地上に届かなくなってきていたのだ。
そして竜は力不足となり、より人間に捕まり、『戦竜機』が増えて。
「……ついに、皆の負の感情が、月を完全に包みました」
月の光は、負の感情に染まった。その禍々しい光は、『戦竜機』を刺激し、力を与え、暴走させた。
それが先程起きたことの、真相だった。
フェガリヤは言う。
「彼らは……いまはもう、憎悪のみで動いています。全てを憎んでいます。全てを殺し、破壊していくでしょう……竜も、人も、世界も」
そして赤い月の問題は『戦竜機』を暴走させるだけではない。
「赤い光……赤い負の包みにより、死んだ竜の魂も、月に還れなくなりました……月への道が、閉ざされたのです」
まさに月は、汚染された状態だった。狂ってしまった。
本来は竜を癒す力を持ったもの。竜の還る場所。竜の心。
もう竜を癒す力はない。還ることもできない。憎悪に染まった心。
「向かうべき場所を失った魂は、死んだ肉体から動けません。生きる屍となり、身体こそ腐っていきますが『戦竜機』と似たような存在になっていくでしょう。世界を滅ぼしていくのです」
世界を育むために存在していた竜が、その逆の存在となる。
月の輝きを持つ少女は、顔を伏せ、瞼を閉じた。
彼女の説明は、つまり。
「……我々に、救いはなくなった、ということか」
『戦竜機』にも。竜にも。先にあるのは、苦痛のみ。
月に還り、優しい光の中で微睡むことは、もうできなくなった。
「……いいえ。女神はこれを予期していました。だからこそ涙一雫を、ある竜に落としました」
と、フェガリヤは頭をゆるゆると振る。
「その竜に、自身の分身というべき命を授けました。そして……私が生まれました」
竜の卵から生まれた少女は、毅然と顔を上げた。
「行き場を失った竜と、金属と肉の牢獄に捕らわれた竜、その魂を導く存在として」
それが彼女の生まれた理由。それが彼女が背負っていた使命。
「私は、月と繋がっています。赤く染まったと言えども、それは負の感情が月を包んでいるから……あの赤色の向こうに、本来の月はまだ確かにあります。私は、その月への扉です。皆を導き、月へと還すための扉なのです」
少女から光が溢れ出る。月の光。黒い竜を、優しく照らす。
けれども少女は、悲しげに微笑んでいた。
「月が赤く染まること。それは避けられない運命でした……だからこそ、女神は私を地上に落としました。その時に備えて」
彼女が空を見上げれば、破れ目の深紅の夜空、中央に毒々しい月が浮いている。
「時は来ました。私は使命を全うしなくてはなりません……竜を救う旅に、出なくてはなりません」
「……旅?」
そこまで話を聞いて、初めてメサニフティーヴは首を傾げた。
フェガリヤは頷いた。そして一度俯くものの、かすかに眉を寄せて、黒い竜をもう一度見上げた。
「はい、月に還れなくなった竜全てを、導かなくてはなりませんから……でもそれは、危険な旅。導くことも簡単ではありません。心を忘れ暴走する彼らと、戦う必要があるでしょう……でも、私には導く力があっても……戦う力は、ないのです……」
――とても難しい頼みごとをしてしまうかもしれません。
彼女は最初にそう言っていた。とても残酷で、過酷で、身勝手な頼みごとかもしれませんと。
ああ、とメサニフティーヴはかすかに目を細める。
――なるほど、そういうことか。
「兄様、ごめんなさい」
彼女はまず謝った。そして。
「……手伝って、ほしいのです」
それは間違いなく過酷な旅になる。いつ終わるかもわからない。
何度も戦うことになるだろう。何度も傷つくことになるだろう。
フェガリヤが月の光を持っているため、怪我は治すことができる。けれどもそれ故に、旅はより過酷となる。死ぬことを、許されない。
だが、彼女が願う前に、メサニフティーヴはもう心を決めていた。全てを理解すると同時に、決めていた。
「もちろん、手伝うとも、妹よ」
だから彼女は自分の妹として生まれてきたのかもしれない、と思う。
だから自分は、彼女の兄になったのかもしれない。
「お前は大きな使命を背負って生まれてきたのだな……そうであるのなら、私はお前の武器となり、盾となろう」
それが使命であると、喜んで自らに課そう。
「一体どこに、愛する妹の頼みを断る兄がいるというのだ?」
微笑み、兄がそっと妹の頭に自身の頭を寄せれば、妹は目を大きく見開いてきょとんとしていた。二つ返事で聞いてもらえるとは、予想外だったのだろう――そう思うと、少しだけメサニフティーヴは悲しさを覚えた。
もっと信頼してもらえる兄になりたかった。
ならば、なろう。
「に、兄様……大変な旅になるのですよ! 本当に、それでいいのですか!」
フェガリヤは自身が願ったにもかかわらず、慌て始める。優しい妹のことだ、本当は巻き込みたくなかったのだろう。
けれどもメサニフティーヴは、ぜひ巻き込んでもらいたかった。
「お前と一緒なら」
何者であれ、唯一の家族。妹。
「私はお前の兄。過酷な旅であるというのなら、なおさら共にいかなくてはならない」
先程は守れなくて済まなかった、と謝る。そして。
「もう二度と失敗はしない。だから私を連れて行っておくれ――愛する妹よ」




