第五章(10) 再会と赤い月
「フェガリヤ、早く乗れ」
震える声で妹を急かし、急いでこの場からの逃走を図る。しかし突如、右側から衝撃に襲われた。黒い身体に、鋭い爪による切り傷が生まれる。だがそこには何もいない。誰もいない。
とっさにメサニフティーヴが息吹を吐けば、何かが間近で悲鳴を上げた。宙が波打つ。瞬く何者かが輪郭を得て姿を現す。
ハイムギア。
否、友であった竜。友であった――『戦竜機』。
人工物を組み込まれた灰色の身体。生々しい施術の跡。頭にはいくつかの針。そして顔には仮面のようなものが取り付けられていたが、見える瞳はぎらぎらと奇妙に輝いていた。爪と牙が不気味なほどに伸びている。
「ハイムギア様! そんな……」
フェガリヤが悲鳴を上げた。しかし名前すらももう届かず、ハイムギアは再び姿を消した。
即座にメサニフティーヴは身構えたが、間に合わなかった。身体を爪で切り裂かれる。噴き出た血が大地を染め、黒い竜は転がる。背に乗っていた銀色の少女も、大地に投げ出される。
ハイムギアが人間の指示を受けて止まる。人間達はメサニフティーヴに群がれば、竜捕獲用の網を投げた。網は絡まり、竜を拘束する。
「――やめて! 兄様にひどいことをしないで!」
起き上がったフェガリヤは、血を吐くかというほどの叫びを上げて、人間達に突っ込んだ。体当たりをするものの、軍人相手にはかなわない。
「なんだこの……変な髪色の女の子は」
人間の一人があっという間にフェガリヤの手を拘束した。
「もう……もう竜にひどいことをしないで!」
それでも彼女は暴れ続けていた。声は震えていた。怒りではなく、悲しみに。と、暴れる足が、人間の足を蹴った。当たるとは思っていなかったのだろう彼は、予想外のことに手を放してしまった。銀色の少女は、地面に倒れる。
誰かが舌打ちをした。フェガリヤを睨む瞳が、槍を握った。
フェガリヤが顔を上げれば、頭上でその切っ先が月光を反射させていた。
――次々に地に落ちていく竜の悲鳴。大地が血と涙で染まっていく。
――駆動音を轟かせながら人間の指示に従う『戦竜機』達。どれほど傷ついても再生し、死ぬことのない彼ら。擦り切れるまで動かされる。かつての仲間を仕留めさせられる。
――谷への脱出を図っていた老いた竜や子供の竜の元にも、『戦竜機』は追いついた。次々に捕まっていく。
「もう……限界よ」
竜の命とは何なのか。人間に心はあるのか。
竜に命と心があることを、彼らは知らないのか。
「――怒りと悲しみが、月を覆う」
その時、フェガリヤは。
自らの心臓を狙う槍ではなく。
遥か彼方、空に浮かぶ月を見ていた。
「月が、彼らの想いに包まれる……」
――天が揺れた。空気が震えた。世界が怯えた。
槍を構えていた人間が大きくふらつき倒れる。網に捕らわれているものの、飛び出そうとしていたメサニフティーヴが突然の異変に辺りを見回す。
何者かの悲鳴。それは竜のものだったか、人間のものだったか。
そしてフェガリヤは月を見上げたまま。
――世界を冷たく照らしていた月の光が、暗くなった。
「――月が!」
人間の一人が気付いて指さす。皆がその指先、天を見た。
銀色の月。竜に力を与えてくれた光。
竜の心。竜の還る場所。その、月が。
――まるで血のような赤色が、端から滲みだす。出血しているかのようだった。たちまちに赤色は月を覆い、光は禍々しい深紅となった。
息も詰まるような赤色が世界を照らす。世界にのしかかる。
人間達がざわつく。竜達も悪夢のような異変に震えた。
赤い月の下、世界は沈黙に包まれた。その沈黙を――あまりにも歪で、生き物のものとは思えない咆哮が破く。
『戦竜機』の、いくつもの咆哮。まるで発作のような金切り声。狂気と怒りを孕んだそれはこだまする。世界中に響き渡る。
そして彼らは暴れ出す。先程まで人間に従っていたにもかかわらず、背に乗った者を振るい落とし、爪を振るう。牙をむく。
敵味方は関係ない。『戦竜機』は目に映るもの全てに襲いかかり始めた。竜にも、人間にも、同じ『戦竜機』にすらも。自身の身体を、他者の血で染めていく。
「一体……一体何が!」
メサニフティーヴを囲んでいた人間達も、自らが連れてきた『戦竜機』に襲われていた。その隙に、黒い竜はなんとか網を抜け出していた。
「――こうなることは、予期していました」
震える、か細い声。立ち上がったフェガリヤは、未だ月を見上げていた。赤い光を帯びて、銀の髪も毒々しい光を返す。
「……還ることのできない魂の想いが、月を包んでしまったのです」
「フェガリヤ……?」
何を言っているのか、兄にはわからなかった。
しかし妹の様子は、まるで何かを思い出したようで。
狂った『戦竜機』の一体が、人間を噛み殺し投げていた。次にフェガリヤを標的に定めると、翼を広げる。
気付いてメサニフティーヴは白い息吹を吐いた。『戦竜機』が怯む。その間に、フェガリヤに背に乗るよう促す。
何が起きているのかわからなかった。ただ恐ろしいことが起きている、それだけはわかった。
ならば。
ならば妹を守るしかない。この場を離れて、安全な場所に避難するしかない。
フェガリヤはすぐに背に乗ってくれた。黒い竜は痛みも身体の重さも忘れて羽ばたく。
とにかくいまは、逃げなくてはいけなかった。
何より――背で妹がひどく震えているのを、感じていた。
しかしいくらか飛んでその場を離れたところで、突然右の翼の付け根に激痛が走った。
――自分の翼がちぎれる音を、初めて聞いた。
完全にちぎれたわけではなかった。ちぎれかけていた。そこには何の姿もなかったが、噴き出した血を浴びて、竜の輪郭が浮かび上がってくる。
ハイムギアが翼に噛みついていた。
人間の指示により停止していた彼。他の『戦竜機』と同じく、暴走していた。
宙で転がるようにメサニフティーヴは体勢を崩した。落下していく。その重さにハイムギアは耐えられず口を離す。
黒い竜は真っ逆さまに落ちていく。その背を離れた、銀色の少女も。
そうして兄妹が落ちていったのは――闇を湛えた、深い亀裂。
大地が割れた場所。危険だからと、里では近づかないように言われていた場所。
小さな妹が闇に呑まれていくのを兄は見た。直後、跳ねるようにして岩壁に身体をぶつけつつ、メサニフティーヴも闇へ落ちていく。
ハイムギアは追ってはこなかった。最初こそ、闇に飛び込もうとしたものの、あまりにも見えない深淵に兵器はたじろいだ。と、その頭上を仲間であるはずの『戦竜機』が飛んでいく。
ハイムギアは吠えれば、先程の獲物は死んだとみなして、新たな標的を追い始めた。




