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第二章(05) 『屍竜』

 湖畔からは少し距離をとった。それでも十分に歌声が聞こえるであろう場所に、フェガリヤは佇む。


 メサニフティーヴはその背後で身構えた。何かあった際、妹を連れて空に逃げる予定だった。


 天高くには未だ赤い月が輝いている。黒いマントを身に纏っているが、清らかな銀髪を流す少女を照らし出す――禍々しい舞台だった。銀色が赤に染められ、鮮血を思わせる輝きとなる。


 だがフェガリヤは立ったまま胸の前で手を組むと、声を響かせ、湖に向かって歌い始めた。


 彼女から放たれ始める、銀の月の光。それは彼女と繋がった月の光。彼女を通して、地上に溢れ出る。赤い光を圧し返し、死の空気が息を呑んだかのように渦巻き、逃げるようにその場から散っていく。


 竜に安らぎを与える子守唄はよく響いた。小さな胸から生まれ、唇が紡ぐ、癒しの歌。彷徨う者の魂を救う、神聖な導き。放つ光は徐々に増していく。

 けれども漆黒の湖は、やはり光を吸い込むばかりで、反射することはない。


 しかし、かすかに波打った。ぬるりと蠢き、その波は大きくなる。

 湖畔に寄せた波は岸辺を大きく叩いた。手を伸ばすようにフェガリヤの足元まで寄せたものの、捕まえることはなかった。


 湖が膨れ上がる。まるで天に引っ張られているかのように、その水面が立ち上がった。

 そして、皮がむけていくかのように、湖に潜んでいたそれが姿を現す。


 ――黒く、だが所々に生々しい赤色を持った、巨大な泥。強い腐臭に湖を囲む木々が震え上がった。

 山のようなそれは、死に腐った何体もの竜が溶け合った集合体。ほとんど原型は残っていないものの、間違いなく竜であったものだった。ところどころに、くすんだ鱗が見えた。大小さまざま、全てが腐敗に黒っぽく汚れているが、元はそれが別々の色だったのだとうかがえる。


 泥の中から突き出している白いものは骨か。それがいくつか。まだ腐り落ちていないところもあるらしく、肉をぶら下げた骨もある。突き出た手はぶらぶらと揺れて、まるで誘うかのようだ。泥の山には口らしきものも見え、牙が不規則に並んでいた。ゆっくりと巨躯が動けば、肉と体液が滴った。死そのものであり、生きる者に対して毒となるそれは、すでに死んだ地面を更に死で染める。


 本当に竜であったのか。

 これほどにもおぞましいもの、存在しているのか。


 『屍竜』の集合体は、まるで首を伸ばすかのようにフェガリヤへ近付く。大きな影が落ちる。

 影の中は暗闇。恐怖にフェガリヤは声が出なくなった。


 止む歌声。『屍竜』の集合体は、捕食するかのごとく、ゆっくりとフェガリヤに覆い被さっていく。ぼたぼたと垂れ落ちる、腐った肉。転がる骨。それらに触れてしまったのなら、肌は爛れ、酸を浴びたかのように溶けるだろう。

 フェガリヤのすぐ真横に、肉が落ちた。地面がじゅうと音を立てる。もう退かなくては危険な状況だった。

 けれども少女は、見た。


「……あなた達」


 肉の中に埋もれた、腐りかけの瞳、いくつもを。

 星のようにあるが、輝きはもうない竜の瞳。それでも彼らは、フェガリヤを見つめていた。彼女から放たれる月の光を受けて、生の輝きのない瞳は、再び光を得る。


 地面を震わせるような低い唸り声。『屍竜』の身体が震え、より腐肉が垂れ落ちる。


「――退くぞ、フェガリヤ!」


 これ以上は危険だと、待機していたメサニフティーヴは判断した。翼を広げ、その腐肉を浴びるのも覚悟で『屍竜』の下に滑り込もうとしたが、


「待って、兄様」


 フェガリヤが後ろ手で兄を制した。

 『屍竜』は身を乗り出すようにフェガリヤを見下ろしたまま、動かない。

 不思議なことに、巨体から滴り落ちる肉や体液は、フェガリヤを避けるようにして地面に落ちていた。まるで、彼女に触れさせるわけにはいかないというように。

 数々の目は、フェガリヤを見つめたまま。歪な口いくつかが、何か囁くように蠢いている。


「……ありがとう。みんな、優しいんですね」


 フェガリヤは微笑んだ。

 ……子守歌が再び紡がれる。

 『屍竜』の集合体の影の中、月の光は輝き続ける。

 竜を導く光。竜が求めた輝き。


 やがて――泥の山のところどころが、光を放ち始めた。

 悲しげな声が漏れた。それは『屍竜』の一体からだったのか、それとも全ての『屍竜』の意思によるものだったのか。

 醜悪でおぞましい姿の山は、燃えるように光に包まれていく。


 ついに光が弾ければ、巨大なその姿は消えてしまった。散り散りになった光は、小鳥のように戯れあう。そして感謝を告げるようにフェガリヤの周りを漂えば、彼女の光に溶けていった。


 彼女を通して、月へ還る。

 月へと還り、柔らかな微睡に沈む。


「お休み、みんな」


 すべての光を抱いて、銀の少女は目を瞑った。

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