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「お久しぶりね。お元気でいらした?」


 随分と世話になったのに不義理なことだ、と我ながら思う。

 わたくし、フィーネリア・ディ・ラジーアントが王太子の婚約者として生きていけるのは、この男の

 ———正確には、彼の父親のおかげだというのに。


 それは、わたくしが12歳のときだ。

 政治を学びたいと()()を言ったわたくしに、どんな手を使ったのか父は宰相閣下を呼び寄せた。

 うん、頭がおかしい。

 国を動かす人に何をさせているんだ。


 けれども断る理由はない。これ以上ない人選である。

 わたくしは週に一度、我が家に足を運ぶヴィスターク宰相にこの国について、王家や貴族をめぐるあれそれ、そして国同士の関係などなど、王太子の婚約者としての立ち居振る舞いを叩き込んでもらった。

 おかげさまで、夜会でドジを踏んだことはない。

 どんな国の重鎮が目の前に立っても、どんなクソ貴族に嫌味を言われても、わたくしは常に笑みを浮かべることができる。


 「あとは貴女ならご自分で学ばれるでしょう」と手を離されて以来は先生と生徒ではなく、宰相と王太子の婚約者に相応しい交流しかしていない。

 そんなわけで、目の前の彼とこうして話すのも、随分と久しぶりである。


 腰まで伸びる美しいホワイトブロンドにスモークグレーの瞳。金細工のストラップが印象的な眼鏡のこの美男子の名は、サミュエル・ヴィスターク。

 宰相閣下のご子息だ。


 最後に話をしたのは、年始のご挨拶に伺った時だろうか。

 何せこの男、夜会やパーティーの類には殆ど姿を現さない。堅物なのだ。

 おまけに最近はご執心の娘がいるようで、その娘とそりが合わないわたくしは彼にあまり近づきたくない。そもそも、婚約者のいる身なのでおいそれと男性に近づくわけにはいかないんだけど。


 とは言え王城で声を掛けられて無視ともいかないだろう。

 さて、とその優しい面立ちのお顔を眺めると、サミュエル様は眉を下げた。


「呼び止めて申し訳ありません。」

「あら、知らぬ仲でもありませんのに、素知らぬ顔をされた方が傷つきますわ。」


 うそだけど。

 社交辞令で一応言っておくと、サミュエル様はにこりと笑った。


「そう言っていただけると嬉しいですね」


 全然思ってなさそうな笑顔だった。

 そういうとこあるよなコイツ。お互い様なので別にいいけど。


「それで、そのご様子ですとただ挨拶に呼び止めた、というわけではないのではありませんか?」


 首をかしげながら問うと、サミュエル様は視線を彷徨わせた。

 煮え切らない態度は、彼にしては珍しい。


「…相変わらず、察しはよろしいのですね。」

「はあ」


 多分、わたくしはサミュエル様にあまり好かれていない。

 それはそうだろう。堅物と評判のサミュエル様と、強欲姫と名高いわたくしでは相性最悪である。わたくしは綺麗なドレスも宝石も、煌びやかな夜会も大好きなので、噂に嘘はない。ついでに気にもしていない。

 なので、その妙にトゲのある物言いも、べつに良いのだけれど。


「あの、はっきりと仰ってくださらない?」


 我慢は大嫌いだ。

 これから王太子妃として、王妃として歩いていくならば嫌われて良い相手ではないので、もともと低いであろう好感度をさらに下げるような真似は避けるべきだろうと思いはすれど。ムカつくものはムカつくので仕方がない。

 プライベートと仕事を混同するような人ではないので大丈夫なはず、と率直に切り返すわたくしは、さてどんな嫌味が返ってくるのかとちょっと期待をしてしまう。

 のだが。

 サミュエル様は、カチャ、と眼鏡のブリッジを押し上げた。


「その、ここでは少し…どこか二人で話すことはできませんか」


 んん??


「…………あの、わたくしこれでも一応、王太子の婚約者なので、男性と、それも未婚の方と二人きりというのは、困るのですけれど」


 そんな馬鹿だっけ貴方??

 思わずぽろっと漏れ出そうで、口を押さえた。あ、白いレースの手袋に口紅付くなこれ。侍女に怒られる。


「そう、ですね。はい、それは、その、重々承知しているのですが…」


 サミュエル様の、くしゃ、と前髪を握る顔は苦悩に塗れていて、なかなか男前だ。

 真面目で堅物で聡明、とわたくしと真逆の称賛を常に浴びている彼が、こんな顔をするだなんて。何かよほどの事だろうかと、さすがに不安になる。


「では、こうしましょう。わたくしの騎士は、気配に敏感です。人が近づいている気配があれば、合図をさせましょう。それで、サミュエル様はあくまで偶然わたくしと会って世間話をしている、という体を崩さないでくださいまし。騎士にも話を聞かれたくない、などと()()は仰らないでしょう?」


 わたくしじゃあるまいし、とは言わないが察したのだろう、サミュエル様は眉を寄せつつも頷いた。

 それを見て、わたくしが軽く指を振ると、びく、とサミュエル様が肩を揺らす。


 わたくしの隣に立った、騎士に驚いたのだろう。

 無精ひげと左目の上を走る大きな傷が印象的な騎士アイザックは、気配を消すのがとてもうまいので仕方が無い。

 にこ、と微笑む自分の顔はさぞ悪役じみているだろうなあ、と自覚しつつ、わたくしはアイザックの腕にそっと手を添えた。

 騎士にエスコートされているところを見れば、誰もサミュエル様と密会しているだなんて思わないだろう。

 ついでに侍女二人も、わたくしの側による。


 主人が誰かと話をしている時に、側に仕える者が距離を取るのは当たり前の事だ。それも身分の高い者同士の話にじっと聞き耳を立てる従者などいるわけがない。

 そんなわけで、騎士と侍女がすぐ側にいる、誰がどう見ても「会ったばかりの瞬間」という絵の完成である。

 サミュエル様は、ふむと満足するわたくしの隣に視線を向けた。


「貴殿がアイザック殿だろうか。父から話を聞いている。とても優れた武人だと」

「勿体ないお言葉です」


 穏やかな笑みを浮かべるアイザックは、幼い頃からわたくし専任の護衛騎士として働いてくれている。かつては王宮の騎士だったらしいが、怪我を理由に役職を降り、そこを父が攫ってきたらしい。

 本人の意思を確認せず上役同士でやり取りし、退任したその日に文字通り連れ去ってきたのだという。

 わたくしの我儘は多分、父譲りなのだなあと幼いながらに思ったのだけれど、アイザックは「そうですねえ」と楽しそうに笑ったので良しとしている。


 そんなアイザックは剣も魔術も一流で、鍛え抜かれたがっしりとした身体に似合わず、とても身軽で俊敏だ。

 騎士ってより、あれだ。あれっぽい。8年前からわたくしの頭の中にいる、OLの「私」が好きだった漫画に出てくる、そう、忍。忍っぽい。音もなく現れ、瞬きの間に姿を消したり、気配を殺したりできるとことか。

 アイザックは魔術っていうより忍術って言った方がしっくりくる。


 ——そういえば。


 わたくしが今生きているこの乙女ゲームの世界のキャラクターデザインをした、「私」が神様と崇めていた漫画家は、よくサミュエル様のようなキャラを描いていたような。眼鏡で敬語で腹黒、みたいな。

 あの忍者の漫画にも、たしかサミュエル様と同じような、異国の血が入った金髪の、いつも笑顔を浮かべている腹黒キャラがいたのではなかったか。

 殿下のような、わかりやすくキラキラとした美貌ではないけれど、静かで美しい笑顔の下にある、研ぎ澄まされた鋭利な刃。腹に渦巻くほの暗い雰囲気。


 あら?


 わたくしは、ぱちりと瞬きをする。

 今までサミュエル様のお顔をじっくり眺めたことはなかったけれど、こうしてみればあの忍によく似ている。

 わたくしの前世だか未来だかの「私」が気に入っていたのは違うキャラだったようだけど。


 …悪くないわね?

 なるほど「私」と「わたくし」では趣味趣向も違うのか、と妙に感心していると、くん、とアイザックが腕を引いた。

 顔を見ると、呆れたような顔をされている。

 あ、やばい話聞いてなかった。


「…えっと、サミュエル様、もう一度仰っていただけます?」


 素直に言うと、サミュエル様は恥じ入るように眉を寄せた。


「すみません、貴女の動揺ももっともです。」


 あ、いやそうでなくて聞いてなかったのでですね、あの、


「ですが、お願いです。あなたの15歳の誕生日をお祝いされるパーティーの招待状を、エリーザに渡さないでいただきたいのです。」


 …なんて?


「…一応伺いますけれど、わたくしとあの娘の間に起きたことはご存じかしら?」

「…ええ。」


 あの娘、という言葉にサミュエル様は嫌そうに眉を寄せた。

 いやこっちが嫌な顔したい。


 ———あの娘。エリーザは、今ではみられない希少な光魔術の遣い手だ。

 一年前、突如能力が発現したとかで城が保護し殿下がお側にいたのだが、すったもんだの末、今は神殿が預かり「聖女」と呼ばれている。

 実に、乙女ゲームのヒロインらしい人生を歩んでおいでだ。


 そう、乙女ゲームのヒロインなので。

 無邪気に殿下にすり寄り、無邪気に無礼な振る舞いをするので、随分とわたくしは気を揉んだのだった。


 とはいえ、どんな傷もたちまち癒す光魔術を遣える聖女は、国の宝である。

 神殿と王家の間に妙な軋轢を生まないためにも、わたくしは彼女をパーティーに招待しなくてはならない。


 それがわからない人ではないだろう。

 暗に、何言っとんだお前、と目を細めると、サミュエル様は頭を下げた。

 ぎょっとするわたくしは次の瞬間、口をあんぐりと開けてしまう。


「私に招待状を預けてくれませんか!」


 馬鹿なの?


 え、逆にこれ、わたくしなんかが思いもつかない、すごい作戦の為だったりするの?いやなんの作戦かしらんけど。


「……理由を伺っても?」


 平静を装って訊ねるわたくしに、手を添えているたくましい腕がわずかに揺れた。

 聞こえなくてもわかるぞ「ぱっかー口開けといて何を今更」って笑ってやがる。

 こっそり腕をつねるけれど多分、効いていない。くそう。

 こちらの攻防を知らず、サミュエル様が続ける。


「その、あ、貴女が招待状を出せばエリーザはパーティーに来るでしょう。」


 そりゃあその為の招待状ですからね。

 お優しい聖女様は、悪女と謳われるわたくしの招待であっても無視はしないでしょうし、揉め事を起こしたくないのは神殿も同じだろうから。

 何が言いたいのだと、首をかしげるとサミュエル様は頭を下げたまま言った。


「わ、私が、彼女を誘いたいのです」

「は」


 思わず声が漏れた。


「エ、エスコートを申し出ればよろしいのでは…?」

「それだと!」


 がばっと頭を上げたサミュエル様に驚き、思わず一歩引く。

 サミュエル様はつらそうに、眉を寄せた。悩ましいそのお顔は悪くない。


「先を越されるかもしれない!パーティーの事を知る前に、私が最初に声をかけたいのです!」


 頭は悪いけど。

 え?プライベートと仕事を混同するような人ではない、とか言ったの誰?わたくしね!

 でも真面目で堅物で聡明で、わたくしと真逆の人間って言ったのは世間だ!!面白みがない人間だって言ったのはヴィスターク様だ!先生だ!!


「彼女は今や、この国の誰もが恋焦がれる聖女です!美しい彼女の隣にありたいと望む男は、私だけではないのです。まだ誰にも招待状を出していないのでしょう?どうか少しだけ、少しだけ待っていただけませんか、哀れな私に慈悲をいただけませんか!」


 やめてその顔でこれ以上言わないでー!!!


 耳をふさぎたい。もういっそ倒れたい。

 なんだこのヘタレ。招待状出さなくたってパーティーのことなんか誰かが言うに決まってんだろ普通に誘えよ。君も招待されているんだろう?私にエスコートさせてくれないか?って言えばいいだけじゃん言ってこいよ誑しこんでこいよその顔ならいけるってそのヘタレ感隠しときゃいけるって無駄な方向に頭使ってんじゃないよみみっちいズルとか思いついてんじゃないよこの国大丈夫かなお願い先生100歳超えてねずっと健康でいらしてね!!!!!!!!


「…わかり、ました…」

 

 やめてやめてパアッって満面の笑顔で見てこないで可愛いとか思ってないから。

 ギャップ萌えとか知りたくないんで大丈夫です。


「おわかりかと思いますが、そう長くは待てません。来年の今頃は王太子妃であるわたくしにとって、今回のパーティーの準備はとても重要なものです。パーティーに不備があれば、わたくしが公務を行うことに不安を覚える貴族も出ましょう。招待状が遅れるなど、あってはならないのです」

「勿論、承知しております。貴女のご慈悲を忘れません」

「あくまでヴィスターク宰相への恩義ですわ。覚えていただくのはそれだけで結構です」


 むしろこれ以上巻き込まれたくない。

 二度とその美貌を崩さないでくれ、とわたくしは背を向けた。


「それでは」

「ええ、それでは夜会で」


 できれば夜会で話しかけてほしくない。

 あの小娘の横でやにさがった顔をしたサミュエル様は見たくないんだが。

 ドレスを翻しげっそりするわたくしに、アイザックが「お嬢様」と声をかけてきた。


「今どきの若者って独特だねぇ。おじさんビックリしちゃった。」

「わたくしもビックリしてるから一緒にしないで。」


 侍女二人も心なしか顔色が悪かった。

 幻想が崩れる瞬間とは悲しいものである。






「え?噓でしょう?」


 さて翌々日。

 王城から屋敷へ帰ってすぐに、エリーザ嬢の分と合わせた二通の招待状をサミュエル様に最速で届けさせたわたくしは、応接間でうなだれるサミュエル様と対面していた。


「…言わないでください…」


 こいつ、真正のヘタレだったか…。

 いや、じゃなけりゃこんな頭の悪い話が思いつくわけがないのだった。頭が悪いのはわたくしの方だったわねうるせぇ!


「…会いには行かれましたのよね?」

「勿論です!昨日も、一昨日も、エリーザは本当に可憐でした。私に、いつも笑顔で疲れませんか、となんと優しい子でしょう」


 聞いてねぇし連日行っとんのか暇か。


「では私を癒していただけませんか、とかなんかと言ってさっさとお誘いになればよろしいでしょうに」


 け、と吐き捨てたいのを我慢して紅茶を飲み込む。

 顔を上げると、サミュエル様は真っ赤な顔でわたくしを見ていた。


「で、殿下はそのような事を仰るのですか…?」

「…………あくまで例えでしてよ。」

「そ、そうか。」


 べ、べつに城に行く度に言いくるめられて殿下の部屋に拉致されたりなんかしてない。断じてしていない。

 ここ一年、「フィリア」と呼ぶ声がとみに甘い気がする、なんてことはない。ないったらないってば。


「…フィーネリア嬢。」

「な、何です」


 ちら、とこちらを伺う、眼鏡の向こうにあるスモークグレーの瞳が揺れている。

 だからその苦悩する美男子的な顔をやめてほしい。内容はくだらないのに。


「私がそんな事を言って、エリーザは、その、不快に思わないでしょうか?」

「あら」


 なるほど。

 確かに好意を持っていない男性に言われたら気持ち悪いな、と頷きかけて、でもと首をかしげる。

 好意が少しも無いならば、労わるような言葉はかけないだろうし、


 相手は、このサミュエル・ヴィスタークだ。


「問題ないのではありませんか?」

「そう、でしょうか…」


 今まで散々世の女性たちに騒がれてきたくせに、何を腑抜けているのか。


「あの、サミュエル様、ご自分が女性に人気があることは、ご存じですわよね?」

「それは私の家柄や立場に騒いでいるのでしょう。こうして話せば、殿下には遠く及ばず、そのうえ私がいかに計算高く、性格が悪いのか気付くはずですよ。」


 貴女のようにね、とにこりと笑われて、わたくしは思わず「まあ」と口を開けてしまった。


「何を仰っているのかしら。貴方、自分がどれほど魅力的かご存知でないの?」


 ぱちん、と弾けるような瞳は理知的で、けれど暖かい色をしている。

 存外幼い表情に、なんだか腹が立って、わたくしは思わず捲し立てた。


「ストラップのついた眼鏡は洒落ているし、それがとてもよく似合う品のあるお顔立ちをしていらっしゃいますわ。立ち姿も綺麗ですし、殿下とは違う男性らしい美しさに気づかないほど女が馬鹿だとお思いですの?大体、計算高くて性格が悪い?何が悪いのでしょう。簡単に他者に踊らされるような間抜けな男が、次期宰相などと務まりましょうか。貴方はいずれ、わたくしと共に殿下をお支えする方なのですから、むしろ自信を持つべきです。わたくしは貴方の理知的で穏やかな美貌の裏にある、毒々しいお顔こそに期待しておりますわ。」


 むしろそっちが見たいのだヘタレないでくれ、とはさすがに我慢したけれど。

 ふんと腕を組むと、サミュエル様はぽかんと口を開けて、それからぎぎぎ、と軋むように両手を上げた後、変なポーズで天を仰いだ。


「……ちょっと、大丈夫ですか?」

「…………大丈夫ですフィーネリア嬢が意外と恥ずかしい方で驚いただけです」


 どういう意味だ。


 はあと眼鏡を外して目元を抑える意味不明な男に、わたくしは「それより」と顔を上げるように促した。

 きっ、と睨むとサミュエル様は気まずそうに視線を逸らす。

 なるほど、自覚はおありらしい。


「当家へヴィスターク家の方の訪問がありますのは光栄ですが、パーティーはまだ先でしてよ」

「…そのように遠回しに仰っていただかなくとも、わかっています。婚約者のいる女性の家に、それも先触れもなしに訪れるなど、紳士にあるまじき行動だと、わかっています。申し訳ありません」


 くたりと力が抜けるように頭を下げる姿はもう、情けないの一言だ。

 サミュエル様の旋毛が綺麗だなんて知りたくなかった。


「わかっているだろう事をわかっているうえで申し上げていることも、おわかりよね?」

「はい…」


 はあ、とわたくしは溜息を飲み込まなかった。


「サミュエル様、わたくしあの娘にさんざん言いましたのよ。婚約者のいる異性に一人で近づくな、と。わたくし、間違ったことは言っていないわよね?」

「はい…」


 良かったここを否定されたらさすがにブチ切れだった。


「貴方、今わたくしに同じ真似をさせているっておわかりかしら?わたくし、これじゃ恥ずかしくて世間に顔向けできないわ」

「いや、貴女の評判は元々そんなに良くないので心配いりませんよ」

「今すぐ招待状送ってもいいのよ」

「すみません申し訳ございません」


 頭割ってやろうかな。この綺麗な顔を氷像にした後、割ってやろうかな。

 なかなかいい考えな気がするけれど、人としてのモラルは捨ててはいけない。

 わたくしはぐっと手を握って、魔力を練りたい気持ちをこらえる。


「それで、今日は何をしにいらしたの。こんな馬鹿げたことをするほどの事なんでしょうね?」

「一緒にエリーザに会いに行っていただけませんか…?」

「帰れ!!!」


 告白しに行くのに勇気が出ないから一緒に来て?なんて言う仲でしたっけわたくし達?!


「いいじゃないですか私達の仲でしょう!」

「どんな仲よ!」

「同じ父に育てられた仲です!」

「拡大解釈にもほどがあるわよわたくしの父はミハエル・カエスト・ラジーアントだけでしてよ!」


 こんな兄弟はいらない。



 なんとかサミュエル様を追い出したわたくしに、アイザックはのほほんと笑った。

「お嬢様、敬語とんでってたねぇ」

「はっ!」




 さて翌日。

「…冗談でしょう…」

「来てしまいました」


 えへ。じゃねぇ。来ちゃった♡じゃねえ。


 馬車に乗ろうと上げた右足でそのまま、長いおみ足を蹴飛ばしてやりたくなって、思わず手を貸してくれていたアイザックの手を握り締める。

 ぎしりと音を立てた手袋に「あいたたた」とアイザックが気の抜けた声を上げた。絶対痛くないくせにふざけるアイザックにすら腹が立ったので、爪を立ててやった。「いっ」て多分それはほんとのやつ。


「…ご用件は」

「その、エリーザの事なんだが」

「やっぱりいいです。聞きません。尋ねません。即刻お帰りください。」


 急いで馬車に乗り込むと、サミュエル様が「待ってくれ」と駆け寄ってくる。

 アイザックはすっとその前に立った。ふざけていても、さすがわたくしの護衛騎士。


「ヴィスターク様、申し訳ございませんがお嬢様はこれから外出されます。どうか次は、宰相閣下と共にお越しください。先触れをお待ちしております」


 嫌味と警告も忘れないアイザックは、本当に優秀な騎士なのだ。

 わたくしに背中を向けていてもわかる、ほんのりと滲ませた殺気も良い塩梅である。

 礼儀を欠きまくっているとはいえ、一介の騎士が宰相の子息に殺気などと首を跳ねられ兼ねない問題だけれど、本来サミュエル様は賢いはずなので。己の無礼な振る舞いを考えれば、容認すべきラインくらいは知っているだろう。

 そのラインを、アイザックは読み違えない。

 両手は後ろに組んでいるのに、剣を揺らすような、あからさまでけれど油断ならない、殺意と呼ぶには甘い殺意。


「…アイザック殿、頼む。どうか、フィーネリア嬢と話をさせてほしい。」


 大抵の者は腰を抜かすだろうそれに、サミュエル様は食い下がった。

 その根性は、認めてやらないことはない。私は努力する人間が、嫌いではないのだ。

 いや、こいつ方向性間違えてるけどな。


 はあ、と溜息をつくと、アイザックは何を言うのか察したのだろう、殺気を収めた。

 すっと大きな背中が避けると、汗を浮かべたサミュエル様が眉を下げる。

 お遊び程度とはいえ、正面からアイザックの殺気を受けたのだ。負担は相当だろう。


「その気概に免じて、聞いて差し上げてもよくってよ。ただし、これが最後ですからね。」


 馬車の中から尊大に言うと、サミュエル様はほっとしたように笑い、アイザックが「最後になるかなあ」と呟いた。やめろ。



「それで?」


 向かい合った馬車の中。問いかけると、サミュエル様はカチャリと眼鏡を押し上げた。


「聞いてくれますか」

「聞かせに来たんでしょう」


 そうですけどね、と項垂れるサミュエル様は、わたくしの隣に座るアイザックを見上げる。

 外出の予定を変更したくない、かと言って屋敷の前で押し問答するわけにもいかない、ということでサミュエル様にはご同行いただくことにした。

 けれど二人きりで馬車に乗ればそれはそれで問題なわけで、アイザックが同席している。

 アイザックが同じ馬車に乗っても不満を口にすることはなかったが、まさか今更「アイザックの前で話したくない」などと言わぬだろうと首をかしげると、サミュエル様は「貴殿も」と眉を下げた。


「貴殿も、私を情けないと思うだろうか…」


 あら情けないと口に出したことは無いはずだけれど。さすが人の機微には敏いのだろう。

 で、なんでこんな事になってるかな、と頭を抱えたいのはこちらだ。


 問われたアイザックは、ちらりとこちらを見やる。

 正直に答えていいのか、と伺う視線こそが何よりの答えだとわかったのだろう、サミュエル様は「そうか…」と丸まった。


「あー、まあ、男ってのはそういうもんでしょう。どれだけ鍛えようと、この世でただ一人、惚れた女の前では役に立ちゃしませんよ」

「…貴殿でもか」

「おじさんなんて、傷だらけですよ。」


 けらけらと笑うアイザックに、まあ、なんというか、わたくしだって思い当たる事が無いわけではない。


「男女も年齢もなく、恋って人を馬鹿にするのねぇ」


 こちとら振り回され続けてはや8年。この世界が乙女ゲームの設定と同じだと気付き、いつかは惨めな最期を迎えるのだろうと思ってでも諦めきれなくて、気付けばわたくしは殿下の一番近くにいる。

 何度も繰り返し、恋をしている。


「めんどうなものね」


 ふ、と笑うと、サミュエル様と目が合った。

 いつかのように眼鏡の向こうで目を見開いた美丈夫は、「驚きました」と体を起こした。


「え?」

「貴女、そのように笑われるのですね…」


 そんな顔ってどんな顔だ?

 隣を見ると今度はアイザックが頭を抱えている。え?そんなヤバい顔してたの?

 なんだかよくわからないが、殿下の事を考えてにやついていたのかもしれない。

 気を引き締めよう、と背筋を伸ばしわたくしは「それで」と再度問いかけた。なかったことにしよう。


「また招待状を渡せなかったと言うのではないでしょうね」

「あ、いえ招待状は渡せました」

「まあ!それは良かったわ!」


 これでようやく各所にも発送ができる!!!とは言わず、「おめでとうございます!」と思わずサミュエル様の両手を握った。このまま遅れてしまったらどうしようと正直、気が気ではなかったのだ。

 次期王妃の才覚を示す為にも完璧に準備をしなくてはならないのに、招待状が遅れるなどそんな地獄はご免被る。


「頑張りましたのね」


 ぎゅ、と男性らしいごつごつとした手を握ると、サミュエル様は真っ赤だった。

 よほど頑張ったのだろうな。


「…あ、あの、有難う、ございます…」

「では今日のご相談とは、もしかして彼女にドレスを贈りたいとか、そういったことかしら?ええ、ぜひ任せてちょうだい!」


 あの小娘のドレスを選ぶなんてパン屑ほども楽しくないが、これでこの話が終わるなら別だ。ヴィスターク宰相への恩も少しは返せるのではないだろうか。

 なに、二人はわたくしがいかに親切だったかをヴィスターク宰相へ話してくれればいい。ヴィスターク宰相ならばきっとそれを有力貴族にそれとなく話してくださるだろうし、サミュエル様と聖女の結婚式でわたくしの名前が出ればもう、完璧である。

 わたくしを「強欲姫」と素敵なニックネームで呼ぶ貴族の皆々様も、静かになるのではないだろうか。

 楽しい未来に、にこにこと提案すれば、サミュエル様は真っ赤な顔のまま、眉を下げた。


「貴女は、私がエスコートを断られるとは考えもしないのですのね…」

「え?」


 断られたの?

 マジで?

 思わず「私」がひょっこり顔を出しそうになって、慌てて席に戻る。

 

「こ、断られましたの…?」

「あ、いや、その保留、といいますか考えさせてほしいと…」

「うそでしょう!」


 あんの小娘マジでかサミュエル・ヴィスターク様だぞこの顔面とこのステータスだぞ何の不満があるんだ!

 一瞬で頭に血が上りそうになって、こほん、と隣で咳をする音に我に返った。


「すみません、おじさん最近カゼ気味で」

「まあアイザック。気付かなくてごめんなさいね。あとで薬を届けさせますわ」

「光栄です」


 けほけほとわざとらしいアイザックには、後で良い酒をプレゼントしようと決める。

 わたくしの真意が伝わったのだろう、アイザックはにこりと優しく笑ってくれた。


 気を取り直して、とサミュエル様に向き直ると、馬車が停まってしまった。

 目的地に着いたのだろう。

 思わず眉を寄せると、サミュエル様はにこりと笑った。


「どうぞ、私の事はお気になさらず」


 気にするわ。めっちゃ気になるわ。

 とはやっぱり言えないので仕方がない。扉の向こうの御者と話すアイザックに頷くと、アイザックが扉を開けた。


 アイザックの手を借りて馬車を降りると、サミュエル様も後に続く。

 世にも珍しいツーショットに、集まっていた人々が驚いたように固まった。

 ただでさえ、街中でラジーアント家の家紋が入った馬車は目立つ。わたくしがいるのだと気が付いて人が集まってきていたので、いい見世物だ。くそう。


「御機嫌よう。みなさん、お変わりはなくて?」


 とりあえず、にこりと微笑む。

 自分の顔面が悪役のそれであることは重々承知しているが、すっかり慣れている市民の皆々様は両手を振って歓迎してくれた。


「お待ちしておりましたお嬢様。ヴィスターク様にも足を運んでいただけ、恐悦至極に存じます」


 すいと進み出て頭を下げたのは、この商店のオーナーを務めるジェイクだ。

 顔を上げるように言うと、ジェイクはにこりと人好きのする笑顔を浮かべた。


「次期宰相として町の視察をしたいと、お嬢様にご相談なされたと伺いました。国のことを真にお考え下さる方々を頂きにお迎えできる我が国は、なんと幸せでありましょうか。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」

「とんでもない。皆さんがいてこその国。このように素晴らしい国のために尽くせる私達こそ、幸運ですよ」


 ま!実際のところ今考えてるのは女のことだけどね!


 よくもまあ恥ずかしげもなく言えるもんである。

 いや国の事を考えているのは嘘じゃないだろうけど、視察ってのはわたくしが家の騎士を走らせて伝えた嘘なのに。


 いきなり宰相閣下のご子息が現れれば従業員たちも仕事どころではなくなる。突然のVIPの来訪ほど迷惑なものはないだろうと、使いを出したのだ。

 全速力で掛けてくれた騎士と馬には後で褒美を出そう。それから、わざわざ店の前で「二人でいる理由」を大声で説明してくれたジェイクにも。

 うっかり、わたくしとサミュエル様が二人っきりでお出かけ♡なんて噂が立たないように配慮してくれたのだ。なんて気が利くのだろう。

 わたくしは万感の思いを込めてジェイクの名を呼んだ。


「歓迎してくれて嬉しいわ。」

「勿体ないお言葉です。」


 にこりと笑うジェイクの笑顔は癒し系だ。

 そんな癒し系ジェイクの店が取り扱うのは、貴族向けの高級シリーズから、庶民向けの安価なシリーズまで幅広いラインナップとその質の良さが売りの化粧品だ。支店は街にあるが、貴族街に本店がある。

 本店と言っても、貴族との売買は専用の馬車で屋敷まで出向くから、御用聞き用の事務所のような、貴族用シリーズの倉庫置き場のような場所なんだけれど。

 反対に、支店には実際に足を運びたい客の為に、すべてのシリーズが並べられ丁寧な接客を受けることができる。貴族専用の入り口や接客ルームもあり、頭のおかしい貴族がほかの客とトラブルを起こさない配慮もあるので、誰もが安心して訪れることができる、わたくしのお気に入りの店だ。


「好調なようね」


 一般客用の扉、といっても貴族の屋敷と遜色ない立派な建物は、誰も拒まない。

 お小遣いで子供が買えるような小さなバームもあるので、「行くだけで楽しいのに気が付けば必ず買い物をしてしまう店」と評判なのだとか。

 文字通りその扉を開いてくれる従業員に微笑みかけると、悪どいだろうわたくしの笑みにも、にこりと微笑み返しお辞儀をしてくれた。

 うん、いい店だ。


「お嬢様のおかげです」

「まあそうね」


 謙遜せずに頷くと、ジェイクは笑った。


「それで、わたくしが頼んだ商品を見せてくださるのよね?」

「ええ、こちらにどうぞ」


 ジェイクにエスコートされ店内に入ると、商品を見ていた女性達が驚いたような顔でこちらを見ている。

 「おじょうさまだ!」と声を上げた小さなレディには手を振っておいた。ほっぺを真っ赤にしている様子が大変可愛らしい。気分が良くなったわたくしは、二階のテーブルセットの椅子に腰かけて、ジェイクを見上げた。


「ジェイク、今店内にいる方達の代金はわたくしに請求してちょうだい。シリーズは問わないから、スタッフにも好きに接客するようにお伝えなさい」

「みな喜びます」


 ふふ、と嬉しそうに笑う顔はやっぱり癒し系だ。

 スタッフに指示を出している間に、置かれたティーカップに手を伸ばすとサミュエル様が「なるほど」と呟いた。


「強欲で我儘と言われる貴方が市民には慕われている、というのはこういう事だったのですか。いつもこのような事を?」

「…いつもでは無いわよ。欲しいものをつくらせた時には、それ相応の礼をしているだけでしてよ。ついでに言うと、今日はいつもより騒がせているようだから」


 金をバラ撒いて人気取りをしているみたいに言わないでほしい。

 嫌悪感を隠さずに嫌味を言うと、サミュエル様は「失礼」と笑んだ。いつもの、ちょっと嘘くさい綺麗なやつだ。


「請求書はヴィスターク家へまわしてください。騒がせている謝礼はせめて私が」

「結構よ」


 すっぱりと切り捨ててやると、サミュエル様はクスクスと笑った。

 品の良い笑い声を聞きながら、わたくしは「ねえ」と口を開く。


「保留ってなんですの」

「…聞いてくださるんですか」


 サミュエル様の声は、少し驚いているようだった。

 ジェイクが戻って来ればすぐわかるように、わたくしは視線を戻さずに「気になるじゃない」と眉を寄せる。多分、凶悪な顔になっているだろうけれど、サミュエル様は小さく笑った。


「貴女、いろいろ損してますよ」

「損?冗談でしょう。欲しい物は欲しいだけ手にして、言いたい事は言ってきたわ。」


 誰にどう思われたって何を言われたって、わたくしは笑い返してきた。

 強欲と呼ばれるわたくしに向かって何を仰るやら、である。


「舐めないでほしいわね」

「そういう意味じゃないんですけどねぇ」


 はは、と漏れた楽しそうな笑い声は、けっこうレアなのでは。

 ちょっと見たかったかもしれない。


「……いいんですよ。彼女の隣は、私には不相応なんです」

「…世界で一番おもしろいジョークだわ」


 「私」の記憶が確かならば、サミュエル様も所謂「攻略対象」ってやつのはずだ。だったら、ヒロインの相手役として不足があるわけがない。

 不器用でヘタレで情けないけど、みっともないくらいに一人を想うこの男が不相応などと。


「次に言ったら張り倒すわよ」

「過激ですね」


 楽しそうに笑っている場合じゃないと思うんだけど、とじろりと睨めば、サミュエル様は困ったように眉を寄せた。


「本気で、そう思っているんです。私は、ものを知らなすぎた」


 私は、と続く言葉はとても静かだ。


 思えば、不思議なものだ。

 いつもわたくしを批難するように嫌味を言うから、この男はわたくしの事が嫌いなんだろうと漠然と思っていた。お互いにそれで困ることはないからどうと思ったことも無かったが、気づけば隣でこんな静かな声を聞いている。


「私はこれまで、友人と呼べる親しい存在もいませんでした。」


 ぱちん、とわたくしは瞬きをする。

 ちら、とこちらをみたサミュエル様は、「おかしいですよね」と笑うがしかし。

 自慢じゃないがわたくしも友人はあまりいない。というか、少ない。というか、そんなに、ほぼ、まあ、いない。


「お、おかしくは、ないんじゃないかしら…」

「貴女は本当に…」


 いや、そんな、なんか感極まるみたいな顔して見られても違うの慰めているわけでも気を遣っているわけでもなくってね?

 つい、と視線を戻すと、サミュエル様が小さく笑ったのがわかった。

 もういいや、いい感じに勘違いしといてもらおう。


「…初めてだったんです。あんな風に、微笑みかけられることも、私の話を聞いてくれる人も、気遣ってくれる人も」


 ヴィスターク先生は、厳しい人だった。

 完璧なものなどこの世には存在しないと言いながら、完璧であれと笑う厳しさを優しさだと知っているけれど。他人のわたくしにあれだけ厳しかったのだから、自身の跡を継ぐサミュエル様への厳しさはどれほどだろうか。

 自分の仕事にも一切の妥協を許さないという宰相の背中を、サミュエル様はどんな思いで見ていたのだろう。


 ま、わたくしの知ったこっちゃないのだけれど。


「孤独が嫌なら地位をお捨てになれば良いかと」

「さすが父の生徒ですね」


 あは、とこぼれた緩い笑いに思わず眉をひそめる。サミュエル様は「そうなんですよね」と笑いのにじむ声で続けた。


「嫌なら抗えばいい。貴女のように、あるいは彼女のように。立ち向かい、声を上げるべきだったんですよ。何もせずに欲しいものが無いと一人で拗ねて、優しい手を求めて…ただの子供ですよね。いや、初めて出会った人なのだとそれでは雛の刷り込みですよ。人ですらない」


 はあやれやれ、と首を振る様子はまるで他人事のようだ。気づいていないのか開き直っているのか。ツッコミを入れるべきか否か悩んで、そっとしておくことにした。


「…貴女と話して、諦めがつきました。私を私として見てくれるのは、彼女だけではない。私次第だったんですよ」


 まずそれに気づくべきでした、とサミュエル様は嬉しそうに笑った。

 悔やむような物言いのわりにすっきりした顔で笑うので、なんだかこちらが寂しい気持ちになってしまう。散々振り回されたし、情けないところも見せられてうんざりしたけれど、無かったことにしなくたっていいじゃないか。

 例え、思い込みだったとしても。自分が未熟だったとしても。


「それに気づいたのは、貴方にとって彼女が特別だからでしょう。やっぱりそれは、恋なのよ」


 わたくしにとって、どうしたってあの人が特別であるように。


「誇ればいいのよ」


 誰にもそれを否定する権利など無いのだから。



 ふ、と思わず笑うと、サミュエル様は口を開き、すぐに慌てて閉じた。

 視線を戻すと、ジェイクがトレイを手に戻って来ている。

 細工が美しいトレイには、リップが数本並んでいる。


「お嬢様、次期宰相様が尊いお方であるのは存じ上げておりますが、そろそろ僕にも構っていただけませんか」

「まあ、ジェイク貴方いつからそんな上手になったの?」


 ほっこりするような笑顔に、あまぁい言葉、そしてキラキラと並ぶ可愛らしいリップ達!

 感動するわたくしに、ジェイクは嬉しそうに「とうぞ手に取ってみてください」と笑った。

 うっ、かわいい。


 手に取ったリップは、さらに可愛かった。

 キャップには青い薔薇がキラキラと咲いていて、そこから菫色のツタが全体をくるくると美しいデザインを描いている。


「お嬢様をイメージしたデザインにしてみました」

「わたくしのイメージ?」

「ええ、美しいアイスブルーと菫色を再現するのに、工房の連中はかなり苦労したそうです」

「本当に上手ね」


 くすくすと笑いキャップを外すと、リップ本体は、なんと綺麗なブルー!

 しかも、銀色で細く薔薇が描かれているではないか。ああ、キラキラと光るパールがもう…


「なんて可愛いの…」


 OLの「私」の知識でも、こんなに手がかけられたリップはそれなりに高価だったはずだ。この世界で初めて見る色とデザインのこのリップには、どれほどの値がつけられるのか。

 思わずため息すら漏れる、この可愛いさよ…!


「まだ誰も手にしたことのない、お嬢様だけのリップ。いかがでしょう、ご期待に添えましたでしょうか?」


 ジェイクは自信のない商品をわたくしの前に出しはしない。

 これは、ただの確認。わたくしの「お墨付き」が出たと、周囲に知らせるためだ。

 だからわたくしは、少しだけ声を大きくして答えた。


「これ以上ない出来だわ、ジェイク・ローハン。褒美を取らせましょう」


 謙遜も否定もせず、ジェイクはにこりと笑った。

 誇らしそうなその笑顔を見るのが、わたくしの楽しみの一つだ。


「ところでジェイク、わたくし深いワインレッドのリップも欲しいのだけれど」

「そう仰ると思って、他の色も作成中です。今までにない色のリップというのは楽しくなりまして。それで、このシリーズにお嬢様の名前をいただきたいのですが、お許しいただけますか?」

 

 この世界にはまだ、塗らないか、塗るか、べっとり塗るか、くらいの匙加減しかない。

 こんなにキラキラした真っ青のリップなんてぶっとんだ物をつくりあげたジェイクなら、「私」がいた世界のように様々なリップを生み出してくれるだろう。


「無論、このアイスブルーはお嬢様だけの色として、誰にも販売いたしません。収益についても、ご相談したく」


 後半部分は小声で。生々しいお話は別にしましょう、とばかりの気が利く男に、わたくしはさてと考える。わたくしは常に欲しいものがたくさんある。

 それを叶えてくれる場所は、一つでは足りない。


「ごめんなさいね、わたくし、強欲で我儘なのよ」


 一か所だけに肩入れはできないのだ。こう見えて、次期王妃なので。

 わたくしが笑うと、ジェイクはわかっていたのだろう、恭しく頭を下げた。


「ご無礼をお許しください」

「良くってよ。わたくし、貴方の抜け目がない上に少しも怯まないところが昔から気に入っているのだもの。そうね、わたくしの名前はあげられないけれど、何か良い名前を考えてあげるからお待ちなさい」


 これくらいなら、他の店でも通るだろう。今後、わたくしの望みを叶えてくれた商品には、頼まれれば同じことをすればいいだけだ。


「ところで、早速このリップを付けてみたいのだけれど、よろしくて?」

「ええ、ご案内いたします」


 人の目のあるところでお化粧直しはちょっと、とお願いをするとジェイクが手を上げる。

 すぐに女性スタッフがこちらへ来て、綺麗に礼をした。


「サミュエル様、少し失礼するわね」

「ええ、どうぞごゆっくり」



 にこりと微笑むサミュエル様の顔は、すっかりいつもの姿だ。

 化粧をするより立派に顔を変えられる、彼のそんなところがわたくしは、わりと好きだと思った。







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