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3 夏至

 一年で一番昼が長い日、異都の人々は石のように眠って過ごす。

 蛇の毒を調合した香を洞に焚きしめて、無理やりに冬眠状態にする。もちろん体に良いはずはない。体に麻痺が現れることもあり、病人はそのまま目覚めなくなることもある。

 けれど人が暗闇の中で火を焚かずにはいられないように、異都の人々は太陽の力が一番強い一日を眠ることでしか過ごせなかった。

 太陽、神、恐怖。それらが一つにつながる日に環は柳石と結婚した。

 一年前の夏至の始まりも静まり返った朝だった。

 その日、柳石は環に朝食を取らせると、手を引いて坑道を歩き出した。

 荷物といえるほどのものは持っていなかった。柳石はよく引っ越しをして、環もそれに慣れていた。

 人々は眠りにつき、灯りも残らず消えていた。水の音はやんで、植物も色を落としていた。世界が柳石と環を残して滅んでしまったようだった。

「……こわい」

 環がぽつりとつぶやくと、柳石が足を止めて振り向いた。

「眠らなきゃだめ。神様に怒られる」

 環の言葉は、子どもがわがままを言うように聞こえただろうか。柳石は環の頬を両手で包んで、あやすように問う。

「どうした、環? 引っ越しなど何度もしただろう?」

「やだ……!」

 とうとう泣き出してしまった環を抱き上げて、柳石は彼女の背中をさする。

「少しなら神様は見逃してくれるよ。よしよし、泣くな……」

 柳石は環を抱えても足取りを緩めなかった。環はしがみつくように柳石に腕を回して、しゃくりあげて泣いていた。

 やがてたどり着いた新しい洞は、蒼白く光る壁に四方を塞がれていた。肌が粟立つような冷気が立ち込めていて、環は震える。

 そこには既に食卓も椅子も置かれていて、生活に必要なものはひととおり揃っていた。  

待ち構えているような家具がひどく冷えていて、環には恐ろしかった。

「新居の祝いだ。お食べ」

 柳石は環を敷布の上に座らせると、携えていた唯一荷物らしい鞄の中から金属の筒を取り出す。

 彼は蓋を開けて環に見せる。中に氷が入っていた。異都では氷は金よりも貴重で、それを甘くして食べるのは女性たちのあこがれだった。

「食べたくない。眠りたい」

 環は顔を背けて、まだ涙の跡が乾かない頬を押し付けるようにして膝を抱えた。 

 きし……と環の座る場所が音をたてた。環は思わず顔を上げる。

 環は座ったとき、少し奇妙な感じがしていた。敷布は台の上に広げられていた。椅子よりも広い台で、奇妙に柔らかい。

 台がきしんだのは、柳石が環の足の間に膝をついたからだった。まるで環の足を閉じさせないような仕草で、環はつっと冷たい汗が流れる。

「り、柳石……さま」

「環、悪い子になれ」

 彼がつぶやいた声は、柔らかく環の首を絞めるように聞こえた。

「楽になるんだ」

 柳石が伸ばした手は傷一つない美しい手だったのに、環には魔性のもののように見えた。

 得体の知れない恐怖がせりあがってきて、環はひきつれたような悲鳴を上げていた。






 一年前の夏至の日、環の長い初夜が始まった。

 異都では初夜の晩、一日も早く子を授かるのを願って閨の中で花嫁に薬草粥を食べさせる。環はそれを一口含んだ途端にもどして、水も果物も飲み込めなくなった。全身に発疹が出来て、ほとんど血でできた尿をひとしきり流した後、意識が濁って呼びかけにも応じなくなった。

 柳石はその間、環の体を抱いて子どもをあやすようにさすっていた。それが始まった環には、他にどうしてやることもできなかった。

 二人の洞の入り口には、毎日のように祝儀の品が届いた。人々は新たな夫婦を外に出すまいとでもするように、うず高く入り口に品を積んだ。

 また一人入り口にやって来て、立ち去った気配を確かめた後、柳石はゆっくりと目を開いた。

 やせ細った環の呼吸を頬に受けながら、泣きそうな目で見返す。腫れた発疹の跡が残る額をなでても、環は動かない。

「お腹が空かないか、環」

 星が最後にまたたいて消えるように、環の体はひどく熱かった。柳石は切望するような声で問うと、環を抱えたまま洞の入り口に向かう。

 柳石は先ほど置かれた祝儀が喉通りのいいものであることを期待しながら、紗をかきあげて入り口を覗き見た。

 けれどその新たな祝儀は、食べ物ではなかった。底から編み上げた、食べ物を入れるには大きすぎる籠。

 赤ん坊をあやすゆりかごの前で、柳石は足を止めた。

 無心に手を伸ばして笑っていた赤子。初めて出会った頃の環の姿が目の前をよぎる。

 瞬間、柳石はゆりかごを蹴飛ばして洞を出ていた。始めは早足だったが、次第に走り出す。

 通り過ぎた人々がいたのなら、何事かと思っただろう。いつも滑るように足を進める柳石が坑道を走っていく。それも蜜月にある妻を抱えて、まるで怒っているように前を睨みつけていた。

 けれど柳石は誰とも出会うことはなかった。真夜中、人々は自らの洞の中で閉ざされた愉しみにふけっている頃だった。

 坑道から外に出ると、黒々とした空が二人を包んだ。光のない夜、柳石は環を揺さぶる。

「環、思い出せ。お前はいつでもここから出られる。私と夏至に結婚さえしなければ、太陽はお前を迎えてくれる」

 柳石は悲痛な声で言う。

「いいんだ。捨てていい。私が一人に戻るだけだ」

 唇をかんで、柳石は環をかき抱く。

「どうして私を選んだんだ。どうして……今もお前はここにいる?」

 そのとき、空を光が走った。閃光が夜空を一瞬だけ明るく染めて、遠いところに消えていく。

 それでも闇に跡をつけるようにして消えない残光を見て、柳石の体が震えた。

 胸が不自然な音を立てて、指を伸ばしたくなる衝動が蘇る。まるで恐怖、けれどなぜか愛おしい感覚だと、遠い昔に環が話していた。

「……環」

 柳石は土の上に膝をついて、押し殺した本心を口にする。

「すまない、嘘だ。ここにいてくれ」

 柳石の頬から、環の頬に一粒の涙が落ちた。

 そのわずかな水が植物の最初の恵みとなるように、環のまぶたがぴくりと動いた。







 また今年も夏至が近づく。

 豊穣の季節の後、坑道にはどこからか暖かくも冷たくもない霧が流れ込む。濃厚な白色をしていて光を通さず、灯りが役に立たない。人々は道に迷い、時には岩場で足を踏み外して命を落とす。

 けれど霧に惑い命を落とした者は、むしろ幸運だと言われた。異都の夏は厳しい。暑さで心身ともにやつれて最期を迎えるよりは、誰かに命の灯を吹き消されるように終わるのもそれほど悪くないと人々は言った。

 坑道の中は手を伸ばしてもその手の先が見えず、人々はめったなことで出歩くことはなくなった。

「こちらに行きたいか?」

 分かれ道で立ち止まった環に、柳石が訊ねる。

 環は虚ろな目で右の坑道を見やって、そちらに足を向ける。柳石はそれを止めることなく、今日も二人は坑道を往く。

「呼んでる」

 環の言葉に柳石は目を細める。環が時々思い出したように坑道を曲がるままに任せた。

 環は半刻ほどなら歩き続けられるようになった。水さえ自力で飲めなかった頃に比べればめざましい回復だった。

 同じ道を何度も通り、しばしば来た道を引き返す。何かを探しているように目をこらすこともあれば、何かに怯えたように表情を強張らせることもある。

「危ない」

 ふいに柳石は環の手を引いて引き寄せる。カラリと環の足元の小石が転がって、見えなくなった。

 気づけば二人は崖の縁に立っていた。崖の下からは白い霧が湧き出て、化け物が吐息をこぼしているようだった。

 環は崖の下に目をこらして、恐れと恋しさがないまぜになったような声で言う。

「お母さん」

 柳石はうなずいて、環と同じように霧の生まれる先を見やる。

「「黄泉(よみ)」……という。異都の底にある国だ」

 霧を頬に受けながら、柳石は懐かしそうに話し始める。

「黄泉は神々が集う、華やかな国だった。お前の母はそこの女王だったんだよ。美しく聡明な方だった」

 柳石は目を伏せて声を落とす。

「だが、お前の姉たちは欲深く、残酷でね。女王を死の神に凌辱させて地底につなぐのと引き換えに、地上を切り分けて支配した」

 見上げた環の頬をなでて、柳石は言う。

「神々は瀕死のまま地上をさまよって、影だけが異都でうごめいている。死の神は女王を犯すのに夢中で、神々を地底に迎えようとはしない」

 柳石は言葉を切って、ふいに柔らかく笑った。

「私は彼女らに感謝しているよ。ただの死の神の影だった私が……こんな宝物を抱いていても、誰も取り戻せない」

 環の額と自らの額を合わせて、柳石は緑の瞳を輝かせる。

「出会ったときからお前に焦がれて焦がれて、今も狂っている」

 環は涙をこぼして、柳石に手を伸ばした。

 しがみつくように柳石の背に腕を回した環を、柳石はそっと抱きとめた。


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