2 塩と蜜
異都の女性たちには日暮れ時、連れ立って出かけるところがある。
異都には古い時代に流れ込んだ海水で、塩の木が乱立する洞窟がある。塩分が多すぎて作物を作るには向かないが、仕事が終わった後の夕涼みの場所にはちょうどよかった。
環が灯りを持ち上げると、真っ白に結晶化した木立が照らし出される。何度見ても、塩の木は潔白な美しさがあった。
「お腹が空いてもなめてはだめだよ。濃い塩分で出来ているから倒れてしまう」
年配の女性にたしなめられても、女性たちの多くが塩の木を指先でこすって口に運んでいた。癖になると彼女らは笑う。
環は素直な子だった。いけませんと言われたら、それを守る子だった。塩の木の白さを汚すのを嫌って、手を触れようともしなかった。
「今日は食料保存について教えてやろうね」
家に帰る前のひととき、女性たちは知恵を持ち寄って小さな会合を開く。
環は子どもをようやく卒業したような年だ。いつも教えてもらう側で、半ば遊んでいる女性たちの中でいささか熱を入れて学んでいた。
「これでいい?」
「ちょっと詰めすぎてるね。上の方、少し出そうか」
環のまじめさは笑われることはあっても、嫌われるには至らない。またこの子はと女性たちに呆れられながら、何だかんだで世話を焼かれていた。
ふいに環は背筋がしびれるような感覚を抱いた。
振り向くと結晶化した木々がある。洞窟の中を迷路のように分けていて、視界が悪い。
環も大人のしきたりで髪を結っている。さらしていた首筋に塩の水がしたたり落ちただけなのに、一瞬夫に噛まれたように感じた。
柳石は時々戯れて環の首筋を噛む。痛くはないが、朝になってもじわりとした熱を持っている。
柳石は環を大切に扱ってくれる。結婚してもうすぐ一年が経つが、具合の悪い環を気遣って細やかに看病をしては、腕に抱いて眠っている。
たぶん女性たちが密かに耳打ちしている夫婦の営みを、自分は知らないのだろう。環はぼんやりとそう思うが、そこに立ち入ろうとはしなかった。
「どうしたの?」
一人の女性が足を投げ出しているのに気付いて、環は声をかける。
「塩に漬けた野菜なんておいしくない。砂糖漬けが食べたいわ」
それは女性たちにはよくある言葉だったのに、環はすっと足元が遠くなっていくような感覚がした。
塩を取りすぎるのはよくないよ。柳石はそう言って、異都で一般的な塩漬けをあまり環に食べさせない。
代わりに環を背中から抱えて、よく食卓に山と盛られた砂糖漬けを見せた。
お砂糖はぜいたくだと環が怯えると、柳石はいいんだよと微笑む。
戯れがなければ退屈だろう? たっぷりお食べ。そうささやいた柳石のぞっとするほど甘い声音を思い出して、環はしゃがみこんでいた。
目が覚めると、柳石に背負われていた。環が目覚めたのに気付いたのか、柳石は振り向いて問いかける。
「気分は? どこか痛いところは?」
心配そうな声で、もう数えきれないほど問われた。
環には両親の記憶がない。柳石が環の父親がわりだった。
いつからだったのかはわからないが、柳石は昔から環の庇護者だった。環が転んだだけで抱き上げてどこも怪我がないか丹念に確認した。少し熱を出しただけで枕元から離れず、朝まで起きていた。
環にとって、柳石はまだ夫というより優しい父に近い。
だから結婚する前をまるで覚えていないのも、きっと覚えている必要がないほど今と同じ関係だったからなのだろうと思う。
「眠っておいで。じきに洞だ」
大丈夫と答えることもできずぐったりと体を預けた環に、柳石は安心させるように言った。
意識がさらさらと塩の木のように崩れていく音を聞きながら、環は目を閉じた。
異都の四季はいびつで、豊穣の季節も惑うようにやって来る。
光に当たらずに育った植物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。
坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸っていた。
季節がよくなったからか、環は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、柳石の前でも時々は言葉らしいものを口にした。
「環?」
柳石が糸を紡いで織物をしていると、眠っていた環が身を起こして彼を見上げた。
環は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに柳石はうなずいて、織物には短すぎる糸束を環の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ環は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
仕事には至らなくとも、環が元気に過ごしているなら喜ばしい。柳石は環の頭をなでて、環のなすままにしていた。
ふと柳石は環の作った拙い結び目に目を留めると、環を抱いて立ち上がった。
今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。柳石は煙を吸わないように環の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
環を隠すように羽織で包みながら、柳石は坑道を滑るように歩いた。
半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もないが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。柳石は洞の壁から張り出した枝を絞って、白く濁った樹液をこぼす。
「お前が病になるたびに来ている洞だが」
異都の病人は粥では治らない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような病人のために、異都の住民はしばしば病人を白い樹液の取れる洞に連れてくる。
「お前はいつも一滴も樹液を飲んでくれなかった。どんなに痩せても、飲まなければ治らないと言い聞かせても嫌がった」
柳石は洞の壁に手を滑らせて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、その樹が異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。病人にとっては何よりの恵みだが、環には別のものに見えていたに違いなかった。
柳石は石になった蝶々を見上げて、独り言のように言う。
「お前はいい子だ。……もっと悪い子に育てたなら生きやすかっただろうにと、思うだけだ」
結局、環は壁を一度も見ることはなく、柳石の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。




