間の悪い令嬢はお嫌いですか
くわんくわんくわんと場違いにも間抜けな音を奏でている銀の皿を掴むと、雑音のなくなったその場で俺は現実を直視せざるを得なくなった。
厨房の隅で公爵令嬢に押し倒され、その現場を王子とお相手の女性に目撃されるという現実を。
俺の上に乗り上げたままのご令嬢、ロザリア・ガートネットは、そこにいるアドニス・ユクレシア王子の婚約者だ。
さてどんなお咎めがくるやらと覚悟したのもつかの間、王子は呆れたように言い放った。
「君と騎士団長の関係は噂通りだったようだな。そちらも仲がいいようで安心した。
だがいかに逢瀬といえど、女性からというのはいささか好ましくないのではないか?」
俺との仲を咎めるでもなく、憤るでもなく、これか。
まあ、ついさっきまで別の女性と濃厚なキスシーンを披露していたくらいだしな。
「……そうですわね……」
どうにか一言発したロザリア嬢は、はた目には羞恥で顔を上げられないようにでも見えているのだろうか。
俺からは、その傷つき今にも泣きそうな様子が丸わかりなのだが。
「アドニス様、邪魔をするのは無粋ですわ。お菓子はまた別の機会に作りましょう」
王子の袖を引く女性の名はヒルデ・ベニトイユ、可憐な容姿が評判の男爵令嬢だ。
仲睦まじく去り行く後ろ姿を見送りながら、俺ことウォルター・ラドベリルはどうしたもんかとため息をついた。
「…巻き込んでしまって申し訳なかったわ」
ロザリア嬢はゆるゆると体をどかすと、そのまま床に座り込んでしまう。
「いえ、いつものことですから。さあ体を冷やしますよ」
このまま放っておけば、ずっとへたりこんだままだろう。
手を取り起き上がるのを手伝ったところで、バランスを崩したロザリア嬢が倒れそうになる。
慌てて抱えたその時、背後でガタリと音がした。
「っまあ、大変失礼いたしました!」
慌てて厨房を出ていく後姿は、この城で一番の噂好きと名高い侍女だったように思う。
よりによってなぜ今ここにいるのか。
これも一日と経たないうちに尾ひれつきで城内に広まるのだろう。
いつものことだ。
「…本当にごめんなさい」
「お茶でも飲みますか。俺でよければお淹れしますよ」
ちょうどのどが渇いたと厨房に立ち寄ったところだったのだ。
1人分淹れるのも2人分淹れるのも変わりはしない。
「それなら、作っておいたズコットがあるわ。ちょうど完成品を取りに来たところだったの」
力なく微笑むロザリア嬢の目じりには、わずかに涙がにじむ。
ズコットは王子の好物のひとつだ。
けなげにも何度か作っては、王子に渡せずに別の誰かの腹に収まっているのを俺は知っていた。
さて。
まあお分かりだと思うが、俺とロザリア嬢は王子の言うような仲ではない。
ズコットを取りに来たらしいロザリア嬢が、厨房の奥でいちゃつく王子たちに気づいて足を止めたところに俺が参入。
俺が声を上げそうになるのを慌てて止めようとしたロザリア嬢がつまづき、俺を巻き込んで倒れ。
降ってきた皿の音を機に、王子たちが俺たちに気がついたと。
さっきの惨状は、まあおそらくそんなところだろう。
このなんとも不憫なご令嬢は、いわゆる間の悪さにかけて――俺の中で――定評がある。
池に落ちそうになったヒルデ嬢をかばった際に、王子から贈られたというネックレスを池に落とし。
あげくヒルデ嬢を突き落とそうとしたと周囲に誤解されて王子からおとがめを受け。
ネックレスを探しにこっそり戻って足を滑らせ、すんでのところで俺が救出したり、代わりに俺が池に入って探し当てたりしていたところを先の侍女に見られて、あらぬ噂が舞い。
舞踏会では、王子からの誘いがなく壁の花となり。
唯一声をかけたナンパな伯爵令息を断っているうちに、王子とダンス中のヒルデ嬢のドレスにワインをひっかけ。
釈明のひとつもさせてもらえず、命令を受けた俺に引っ立てられて舞踏会場を後にした。
ちょっとは気晴らしになるかと庭園の散策に付き合っていたら、やっぱり侍女に見られて誤解を生んだ。
こんな調子が続き表情が乏しくなっていたロザリア嬢だが、俺といるときには和らいでいるらしく、噂に拍車をかけているらしい。
まあそうだろ、どんなに想っていようが、あの状態の王子に和らいだ表情を見せられるとかどんな強心臓だ。
お。今日のズコットもなかなかだな。
酒の入り具合なんか、実に俺好みだ。
無言でぱくつく俺の向かいで、ロザリア嬢は静かにカップを傾けていた。
茶葉の量も蒸らし時間も適当な俺の淹れた紅茶を、文句一つ言わずに飲んでくれる。
かしましい世のご令嬢たちと違い、落ち着いた風情を好ましく思う。
地味だと評される顔立ちは整っていて、わずかでも和らいだ表情のロザリア嬢はとてもきれいなのだ。
できればずっと見ていたいと思えるほどに。
カップの中身が少なくなってきたのをみとめて、2杯目を注いでやる。
そこにミルクを少しと、角砂糖を一つ。
何度かお茶を共にしているために好みを覚えてしまった。
「ありがとう」
さっきよりは顔色の良くなったロザリア嬢とは逆に、俺の心中は穏やかではない。
なぜなら、次の会議辺りで俺の配置先が決まるのだ。
西の国境沿いがきな臭くなってきたから、おそらく防衛の援軍として駆り出されることだろう。
向こうに行ってしまえば数年は帰ってこられない。
その間、このご令嬢は誰の理解も得られずにひとり涙をこらえて過ごすのだろうか。
お飾りの正妃として迎えられ、寂しい余生を送るのだろうかと、そんな思いが胸をよぎる。
王子はあの通りだ。
きっと婚約破棄することを厭わないだろう。
噂を真実にしてみないか、と一言告げれば。
何か変わるのだろうか。
ロザリア嬢の胸元には今も、あの日のネックレスが輝いている。
俺の上でうなだれていた時の表情からも、王子を想っていることは疑いようもない。
不器用にも一途に想い続けるこのご令嬢の心が変わることなど、この先望めるのだろうか。
ああ、もう紅茶の残りが半分だ。
俺の手元のズコットもあと一口分しか残っていない。
食べきってしまえば、皿を片付けてこの茶会はお開きになるだろう。
今言わなければ、次に会うのは数年後かもしれない。
張りつく喉を潤そうと自分のカップに手を伸ばしたところで、ロザリア嬢が口を開いた。
「…お噂を耳にしました。西へ行かれるかもしれないと。
わたくしがさきほどのように巻き込んでしまったばかりに、危ない地へ赴かれるとか」
「俺の役職からすれば当然のことです。貴方が気に病む必要はない」
変な誤解をさせてしまっていることに驚き、慌てて訂正を入れる。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す様子から見るに、自分のせいで俺が飛ばされると疑ってもみなかったのだろう。
いったい誰だ、そんな噂流した奴は。
「おそらく配置先は本当になるでしょう。私はその間、貴方を一人残すことが心配でならない」
この流れなら言えると意気込んだ俺は、次の瞬間、目の前で朱に染まっていく頬に目を奪われた。
潤んでいく瞳に、せわしなく震えるまつ毛に、リンゴ色に染まる頬に、俺はようやく思い至る。
ズコットが、俺の好物でもあったことに。
「あの……、その…、ウォルター様は…」
ロザリア嬢には珍しく口ごもる様子に、その先が気になって仕方ない。
これはもしかするともしかするのだろうか。
言わせたいという思いと、俺から言わなくてはという思いとがせめぎあう。
握りしめた拳の感覚がない。
心臓が耳元で脈打っているようだ。
まず名前を呼んで、それから噂を、真実に…………
いや待て。
この愛らしい一面を、次に見られる機会があると思うのか。
結果。
なんとも情けない話だが、俺は欲望に負けた。
ロザリア嬢が顔を真っ赤にして必死に伝えた言葉は表題のとおりなわけだが。
俺の返事など決まりきっているので、ここでは省略させていただこう。




