観音様系彼女の年末大セール
毎年この時期になると、ふっと思い出すことがある。
「いい子にしてたら、サンタさんがやってくるんだよ」
昔々、その昔、幼い僕に両親はこう言った。
それを真っ向から信じていい子になろうとしていた少年時代。思えばあの頃から、僕は人の顔色ばかりを伺って生きていたような気がする。
往々にして、親の言ういい子とは子供らしからぬ子のことだ。騒がず、取り乱さず、失敗せず。特に礼節は重んじる。親を敬い、親の役に立ち、親の言う通りにし、それでいて期待以上の成果を出しては親を喜ばせ、それを気負わないどころか、生き甲斐にしている風に見せかけねばならない。かつ、これらを親の望むタイミングで引き起こすことができれば完璧だ。
存外、それをやろうと試みる事自体は簡単だった。要は、「僕はいい子だからいい子になれるんだ!」という根拠のない自信と自負を持っていさえすれば良いのだから。けれど本当に実現できるかと言えば、やはり難しい。自分の基本スペックの低さが足を引っ張ってしまうのだ。
それでも自称いい子の僕は、好きな女の子の姿を目で追うのを諦める代わりに教科書を読みふけり、好きなアニメを見るのを我慢して勉強机に向かい、気になるゲーム機を買ってほしいとも言わず、友人の誘いを断って親と外出し、とても好きとは言い難い理系の大学に進学した。
さらに、実家から通える大企業に就職し、自分で稼いだお金ぐらい自由に使いたいのを我慢して、初任給はまるまる親の懐へ。到底好きとは思えない上司や後輩から押し付けられる仕事の量は減る気配が無く、それらを文句一つ言わずに笑顔で引受け、その成果をいつの間にか奪われるというサイクルはもう何度繰り返したことか。厄介事が起きれば矢面に立たされて客や取引先の顔色を伺う毎日。水面下では溺れないように必死で足をバタつかせて、人が見ているところではいつも楽しそうに、この世を泳いでいるフリをする。
赤点も、留年も、浪人もしなかった。もちろん犯罪もやってない。今のところ特にお金にも困っているわけでもないし、体だって悪いところはほとんど無い。おそらく世間一般的には、順風満帆の人生だ。
さて、こんな僕は本当にいい子なのだろうか。いや、いい子に決まっている。こんなに苦労しているのだから、絶対にいい子だ。
じゃぁ、なぜ、サンタはたったの一度も僕の元へやって来ないのだろう。
僕の心に、真冬の隙間風が吹き込んでくる。
僕は、何のためにいい子を続けているのだろうか。
と、ふと思い返したのがあまりにも遅すぎた。当時、既に齢は三十五。四捨五入したらアラフォーという奴だ。何度となく同級生や友達、同僚の結婚式に出向いてはお祝儀貧乏になり、人の幸せばかりを祝福して、その度に自分の幸せが秋の落ち葉のように空高く舞い上がって消えていくような気がしていた。もはや抜け殻となり、潰えるのを待つだけになるのではないだろうか。
このままではいけない。
僕は、自覚する中では初めての反抗期を迎えた。引き止める親の手を振り払い、分譲マンションのちらしを手に握る。まずは、親から離れ、人から離れ、のびのびできる環境作りから始めるのだ。
念願の一人暮らし。好きな時に食べて、寝て。自分で買ったマンションだから、二次元アイドルのポスターを貼るために、壁へ穴を開けても誰も怒らない。夕飯を食べながら漫画を読んでも、猫背だとか、行儀が悪いとか口煩く言う人もいない。
快適だ。
そんな独身貴族の僕の名は、岡本五兵衛と言う。生まれは昭和であって、江戸ではない。五男でもない。単に、親が人と重ならない名前にしたくて、付けられたに過ぎない。字名は餅だ。もっち、と呼ばれることもある。
確か小学校の修学旅行で長野の辺りを通りかかった際、クラスの皆で食べたオヤツが五平餅というもので、それ以来この呼び名が定着している。それでなくても、この大きな体。とは良く言いすぎか。この色白デブ体型は、紛れもなく餅と通ずるものがある。
こんな外見をしていると、大抵の人は初対面から見下してくるか、嫌悪の視線を向けてくる。自己管理がなっていないと真正面から切り込んでくるケースはマシな方で、事あるごと虐めてくる人もいる。例えば、同期の山田みたいな奴だ。だから、そんな人達の機嫌を損ねないように、僕はいい子を貫いてきた。
昔から人の顔色を見るのだけは得意だ。何をして欲しがっているのかを予想し、先回りしてやってあげると好感度はあがる。でも一歩間違うと誰かの下僕のような扱いになることもある。とにかく僕はビクビクしていた。
最近は会社の飲み会にも行っていない。人と関わることに疲れてしまったし、今は逃げ込むのにうってつけの我が城もある。わざわざ窮屈な思いをしに、戦場へ向かうことなどないのだ。
テレビをつけると、クリスマス特集の歌番組が流れていた。ラブソングなんて、あまりにも喧嘩を売っている。すぐに消した。
開けっ放しのカーテンの向こうに見えるのは地上五階の夜空。闇の中で、外灯が放つ光に照らし出された細雪がキラキラ踊っている。
「サンタ、来ないな」
今年もきっと来ない。
それでも、いつか本物のいい子になって、奇跡みたいな良いことがやってきたらいいのに。って思いながら、冷える窓際に立ち尽くしていた。
――ピンポーン
インターホンが鳴った。もう二年も経つというのに、この家にはまだ、僕と引越し業者以外の人が入ったことが無い。
僕は、ネットで買った本でも届いたのかと思いながら、印鑑を握りしめて玄関へ向かう。宅配業者ならば、こんなジャージ姿でも恥ずかしくはない。
「はーい」
何も考えずに鍵を開けて、ドアを開けた。
「へっ?」
ここで一つおさらいしよう。
いい子は、インターホンが鳴っても、すぐさま扉を開けてはならない。ちゃんと誰が来たのかを確認してから解錠するのが鉄則。なぜなら、そこに予想外の人物が立っていた場合、とてつもなく挙動不審になってしまうからだ。現に僕は今、大切な印鑑を落っことしそうになっている。
「こんばんは」
目の前に立つ女性の名は、多恵子さん。ダッフルコートにチェックのマフラーを巻いている。確か一年半ぐらい前に、僕の職場へ異動してきた子で、入社年から逆算すると、おそらく僕よりも四歳下というアラサーだ。名前の通り、昭和っぽい奥ゆかしさを醸し出していて、僕が密かに憧れている人物でもある。
だけど、どうしてここに?
男慣れしていないのか、こちらに視線を合わせては逸らすということを繰り返す初々しい仕草。身体の凹凸は少ないが、顔立ちはけっこう整っている。でも、今時っぽいメリハリの効いた化粧には興味が無いようで、いつもスッピンに近いナチュラルメイクだ。
そんな一見地味な多恵子さんだが、仕事は早いし、よくデキル。じゃぁ、それを鼻にかける傲慢チキなタイプや、いつもイライラしていて忙しないのかと言えばそうでもない。どうしてか、彼女の周りはいつも優しい空気に包まれていて、僕には時々後光さえ差しているように見えるのだ。きっと、前世も今世も良い行いを重ねてきた人なのだろう。彼女の前だけは、僕も顔色を伺おうなんて不埒なことは思いつかない。近くにいられるだけで自然と心が凪いで穏やかになり、ありがたーい気分にさせられる。
つまるところ、彼女は観音様系美人というものにカテゴライズされるのである。
生きていく中で、人の顔色は伺うことは多少なりとも必要だけれど、仏様にはそんなことをしなくても良い。ただそのご尊顔を拝するだけで全てを許してもらえるような気がしてしまう。きっと、僕のことなんか全てお見通しなのだ。その上で、あの神秘的な微笑みを向けてくださっているのであれば、もう僕は自分を飾ったりはしない。素っ裸になって、「こんな者ですが、どうぞ」と言わんばかりに、自らをお供え物にして差し出したくなる。
「もっちさん」
こちらを見上げる多恵子さんが囁いた。その声がまたイイのだ。こんな至近距離で聞いてしまうと、意識がホワイトアウトしそうになる。
「どうぞ」
差し出されたのは、こぶりな白い箱が入った袋だった。何とか意識を正常値に引き戻し、慎重にその袋を受け取ってみる。
「ケーキを持ってきました」
そう言い切った瞬間、多恵子さんは大きなクシャミをした。恥ずかしかったのか、俯いて顔を赤らめる。師走の玄関先は寒いのだ。ビル風に煽られて、彼女のマフラーの先っちょがひらひらと舞っていた。まるで僕を唆すかのように。
僕はゆっくりと唾を飲み込んで、勝負に出る。
「あの、狭いですけど、どうぞ」
多恵子さんは、僕の家の初めてのお客さんになった。
◇
今日は三連休の中日で暇だったので、幸い部屋は昼間のうちに掃除してあった。それでも、多恵子さんに見せられないものは置いていないだろうかと、彼女を家に上げた後になってから不安でたまらなくなり、自分の家にも関わらずしばらく落ち着くことができなかった。
何より、あの多恵子さんが自分の部屋にいる。いつも職場でしか会えない人と休みの日に会えるだけでも興奮するのに、今の彼女が腰掛けているのは僕のベッドだ。
多恵子さんは、物珍しそうに部屋の中を見渡していた。特に、本棚に詰め込まれた少年漫画が気になっている様子だ。
「読んでいいですよ」
多恵子さんは嬉しそうに本棚へ近づいていったが、すぐにその歩みを止めた。
「先にケーキを食べましょう」
そこからは、少し焦った。これまで客なんて来たことがなかったものだから、まともな食器がなかったのだ。コップもだ。でも多恵子さんは、和皿で構わないと言って、自ら小さなホールケーキを切り分けると、手際よく二人分を盛り付ける。僕はその隣でインスタントの珈琲を淹れた。
食べるのはコタツだ。中で身動ぎすると、足が彼女にぶつかってしまった。目が合ったのは一瞬だった。
食べるのは無言だ。
白い生クリームに覆われたケーキの中にはいろいろなフルーツが入っている。苺、キウイ、蜜柑。入っていた箱には賞味期限を示すシールも貼られていなかったし、ケーキ自体のデコレーションも売り物してはシンプル。しかしながら、味は大変美味い。甘党の僕が太鼓判を押してもいいぐらいの格別さだ。
多恵子さんの方を見ると、彼女も黙々とケーキをつついていた。どことなく、不貞腐れているように見える。そうだ。僕は肝心なことを言えていなかった。
「ケーキ、美味しいです。ありがとうございました」
多恵子さんは、仄かに笑った。
「あの、このケーキって」
その時、口の中に異物感を感じた。多恵子さんがいない方角を向いて、ベロリと舌を出してみる。出てきたのは小さく折り畳まれた紙だった。
「もっちさん」
「は、はい!」
「それ、何と書かれていますか?」
どうやら、このケーキはフォーチュンクッキーみたいなものだったらしい。僕はベトベトの紙を破かないように気を遣いながら、そっと開いていく。そして現れた文字の並びに、思わずヒュッと息を飲んだ。
「私、内容を知らされていないんです」
これを読めというのか。
そんなこと、できない。できないと思いながらも、咄嗟の嘘もつけそうにない。
「このケーキを運んできた人に、何でも言うことを聞いてもらえる券、です」
声は自然と尻すぼみになってしまった。
「では、私に何か命令してください。それを聞いたら私、もう皆さんの所に帰りますので」
薄々分かっていたことだ。今日、多恵子さんは山田の奴が毎年のように主催しているクリスマスパーティーに参加していたのだろう。そこで運悪く罰ゲーム的なものをせねばならなくなり、不本意にも僕の家に来てしまったということにちがいない。
「何にするか決まりましたか?」
多恵子さんが僕を急かせた。やれやれ。あさって出勤したら、きっとこのことで散々弄られることになるのだろう。この券を使っても使わなくても、どうせ変な目で見られることになる未来は解っている。ならば、この機会に我が観音様へ一つお願い事をしてみようか。こんなチャンス、逃せば一生やってこないに決まってる。
「あの、本当に何でもいいんですか?」
「はい。何でもいいです」
キッパリと言い切る多恵子さん。多恵子さんの足が僕の膝を蹴った。僕は何かに怯えてブルリと震える。
「じゃぁ、あの」
多恵子さんを今夜、好きにしてしまいたい。
なんて、言える勇気があるならば、今頃僕はモテていて、一人暮らしなんてしていないだろう。
多恵子さんは期待の眼差しを向けていた。
「えっと、今夜」
多恵子さんは観音様なので、やらしいことはしたくない。仏様は穢れてはいけないのだから。でも、できるだけ長く近くにいてほしい。ほんの一時でいいから、自分のモノになってほしい。だから――。
「あなたを抱きしめて、寝ていいですか」
多恵子さんはコタツから這い出ると、三指をついて頭を下げた。
「中野多恵子、謹んでお受けします」
◇
多恵子さんは、急にウキウキした様子で残りのケーキを平らげると「お風呂もらいます」の一声と共に洗面所の方へと消えていった。
その後、何となく彼女の名残がある風呂場で僕も汗を流し、少し早いけれどベッドに入ることにする。多恵子さんには、僕のパジャマを貸してあげた。明らかにサイズが大きすぎるので、下のスボンは履いていない。襟元は深いVネック状態になっていて、前開きのボタン沿いの隙間から見える白い肌と、裾から伸びるむっちりとした太腿は、明らかにこちらを誘っている。
うっかり鼻息が荒くなってしまったことに気づいて、トイレに駆け込んだ。
流されちゃだめだ。
だって、あの多恵子さんなんだぞ。
息を整えるのに三分もかかってしまった。
1メートルもない廊下を挟んで入った寝室。既に部屋の電気は消されていて、ベッドの布団は膨らんでいる。
「あの、入ります」
「どうぞ」
もはや、どちらが家主か分からない。
布団の中は、いつものようにヒンヤリとはしていなかった。多恵子さんの温もりが伝わってくる。
先程僕は、トイレの中で覚悟を決めた。このまま本当に何もしないまま帰してしまっては男が廃る。多恵子さんだって良い年した大人だ。彼女だって多少の覚悟をもっているに違いない。だから有言実行。彼女の隣で朝まで寝るのだ。
僕は寝返りをうって、そっと多恵子さんの方を向いた。うちのベッドは、デブにも余裕のサイズでキングベッドだ。それでも大人二人が横になると、それなりの密度になる。
さて、抱きしめたいと言ったものの、どこをどう触ったらいいのだろう。多恵子さんは僕と違って華奢なのだ。せっかく降臨した観音様が自らの手の中でへし折れるようなことがあってはならない。などと回りくどいことを考えていたら、多恵子さんが先に動いた。
「もっちさん、約束は果たしますよ」
多恵子さんの手が僕の脇のあたりに届いた。そのまま、パジャマの裾を捲りあげて、直接素肌に触れてくる。何度か乾布摩擦のように手を小刻みに往復させると、彼女はほおっと色っぽい溜め息をついた。
「思っていた通り、スベスベでした」
自慢じゃないが、肌は年の割に張りがあるし、キメも細かい。だが、男がそんな良い肌だったところで、デブはデブだし、自慢にはならない。だから、決して褒められた気はしないのだけれど、彼女に触れられると身体が自然と熱くなる。
「くすぐったいです」
これ以上触られたら、いくら多恵子さんが相手でも、いろいろ保証できかねる。せめてもの抵抗で、もう止めるように促したつもりだったのだが、彼女はさらなる攻勢をかけてきた。
「これ、ぽろっと外して、私のおっぱいにくっつけられたらいいのに」
多恵子さんは僕の腹の肉を摘んで、自分の胸にピタリと当てていた。そう、当たっていた。
「分かりました。痩せます」
つまるところ、太り過ぎだと言いたいのだろう。
情けないやら、恥ずかしいやら、いけないことを考えてしまうやらで、精神的にギリギリになる。多恵子さんの顔は暗闇でよく見えないけれど、どこか嬉しそうな気配があった。
そして、彼女の手がそろそろと下に降りてくる。
え?
そこ?
ズボンの腰ゴムを引っ張る多恵子さん。その中に指を差し込み始めた。何かのメーターが振り切れそうになった瞬間、布団の中の彼女がこちらを見上げる。
「体を冷やしてはいけませんから、ちゃんとお腹をお片付けしておきましょう」
そう言って、パジャマの上の服をズボンの中に押し込まれてしまった。ほっとした。そして、ほっとした自分が少し情けなくなった。
「私、眠くなりました。そろそろ寝ましょう」
「はい」
「約束通り、抱きしめてください」
ちょっと悩んで返事した。
「はい」
多恵子さんが、可愛い。
初めて、彼女が観音様ではなく、一人の女の子に見えた。
もう迷わない。
ギュッと抱きしめてみると、多恵子さんは僕の肉に挟まれて少し窮屈そうだった。息ができているか心配になって腕を緩めてみると、彼女はもう寝息を立てていた。疲れていたのだろうか。ぐっすり眠っている。寝顔を見ていると幸せな気分になる。もしかして僕は、このまま成仏してしまうんじゃないだろうか、などと考えているとあっという間に時間が過ぎて、結局眠りについたのは朝方だった。
◇
翌日は、起きたらもう昼だった。多恵子さんはいなくなっていて、テーブルには食事が用意されていた。冷蔵庫の中にはほとんど食材が残っていなかったはずなのに、よくもこんなに上手く和風定食が作れるものだ。味は、彼女のように優しくて控えめだった。
さらにその翌日は仕事。いよいよ年の瀬で、社内は何となく浮き足立っている。同期の山田は、朝一番から冷やかしてきた。
「多恵子ちゃん、どうだった?」
多恵子さんはお前のせいで、不幸にも僕と一夜を共にしてしまったんだぞ。などと、わざわざ非難めいたことを言おうとは思わない。僕は多恵子さんを抱きしめて寝た。ただその事実だけを胸の中にそっと仕舞って、山田のことは無視をする。奴は何か知ってる風なフリをしていたけれど、気にしない。僕の思い出は僕だけのものだ。
多恵子さんは、いつも通りだった。何もかも。挨拶以上の接触は無い。僕達はお互いの電話番号も知らないままだし、次に会う約束も無い。これからもただの同じ職場仲間として、粛々と会社の売上に貢献すべく身を粉にして働くのだ。
慌ただしい日は駆け足で過ぎていく。
そして今日は、大晦日だ。
例年ならば、その一年の出来事を何気なく振り返るものだが、今年は違う。ついつい頭に思い浮かべてしまうのは、多恵子さんのことだ。
あの日、本当に彼女はここにいたのだろうか。自宅のベッドに座って、部屋の中を見渡してみる。あれから、たったの一週間しか経っていないのに、嘘みたいに感じた。あの時のことは、自分の妄想が作り出した夢だったかのだろうか。
その時、玄関の方でガチャリとドアが開く音がした。
まさか、泥棒か。
忍び足で寝室を出て、廊下を覗く。
そこに立っていたのは――。
「中野さん?」
もしかして、鍵が開きっぱなしだったのだろうか。
「こんにちは。先日もっちさんが寝ている間に、すぐそこのホームセンターで合鍵を作らせてもらいました」
どういうことだ。言葉は耳から入ってくるのに、意味は頭に入ってこない。
「あなたは、悪い子です。クリスマスには、私というサンタが来たにも関わらず、相変わらず意気地がないままでした」
ん。悪い子?
僕は悪い子なのか?
「でも、来年から心を改めるのであれば、私から一足早いお年玉を差し上げましょう」
「お年玉ですか」
「はい。私の気持ち知ってる癖に、もう知らないフリをするのはやめてください」
多恵子さんは、重そうな荷物を床に下ろすと、ダッフルコートのポケットから紙切れを一枚取り出した。
『この紙を持ってきた人に何でも言うことを聞いてもらえる券』
もしかして、と思った。多恵子さんを見る。彼女は真剣そのものだった。
「もう、間違えないでくださいね」
え、でも、それって。
どうしたらいいのか分からなくなって、身動きできなくなった僕。それに耐えかねたらしく、多恵子さんは怒った顔をする。彼女は、呆れたように溜息をつくと、持ってきた紙袋のうちの一つを手に取った。ちらっと見えた中身は、ちょっと古いゲーム機らしいパッケージの箱。何をするのだろうと見ていたら、その箱から何かシールを剥がしている。そして――。
「今ならば、大安売りです」
大安売りの赤いシール。それが彼女の頬に貼り付けられていた。
「これで、どうですか?」
当初観音様だった彼女が、今では俗にまみれた凡人に見える。こんな僕でも、手が届くような気がしてきた。
「買います」
「もう一声、ほしいです」
「一生大切にします」
「よろしい」
その後僕は、多恵子さんに誘われて、初めての極楽浄土を見た。
ちなみに、大きな荷物の中身は、彼女のお泊りグッズとゲーム機。そして手作りお節だった。美味だった。
◇
春。僕と多恵子さんは婚約して、結婚式場を予約した。挙式は秋だ。山田は、二次会の幹事を任せろと息巻いている。
大晦日の日から付き合い出した僕たちは、少しずつお互いの事を知っていった。僕は漫画好きなのを暴露し、彼女はゲーム好きなのを公表。意外とこの手の物の好みが似ていたので、話が盛り上がるようになった。好きな物を語る時の多恵子さんは、表情がくるくる変わる。それがまた、可愛い。自然体でいてくれているのだなと思うと、ほっとする。
多恵子さんといると、楽しい。楽しいことが増えると、他の些細な辛いことや面倒なことも簡単に乗り越えられるようになる。人の顔色を伺ってビクビクすることも減った。好きな人と両思いになることで、こんなに心が強くなれるなんて全然知らなかった。
やっぱり多恵子さんはすごい。観音様のように、実は悪い子だった僕にまで手を差し伸べて、こうも救ってくれたのだ。
仕事帰り、遅くなる日は多恵子さんがうちに泊まることも多くなった。彼女の手料理を食べるようになってから、いつの間にか間食が減り、僕の体重は少しずつ減少。以前と変わらず、肌は餅触感だが、秋までにもう少し痩せれば、結婚写真だって見れたものになるだろう。もう誰にも餅と呼ばれない体型になってやる。でも、多恵子さんのことは餅並みの粘着質さで、ずっとずっと愛したい。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
多恵子視点側のお話も書いてしまいました。
『餅系彼氏の攻略法』
https://ncode.syosetu.com/n2808fe/
よろしければ、一緒にお楽しみください!