第1話 薄闇の都市
ルミエルは地下世界で最も恐ろしいものを知っている。
とはいえ、地下世界は旧世界――人がまだ地上に住んでいたころ――に比べ、種を多く減らしている。
恐れるものなど数が知れていた。
地下世界で最も恐ろしいものとは何か?
それは旧世界で培わられ、人類と同じく地下の世界の住民となったモグラの亜人、モグモグ族か?
違う。ルミエルたちと姿形こそ異なり、皆屈強な体をしているが、彼らは基本的には温厚な種族だ。地下世界で人類が文明を維持できているのは、人以上の膂力を持つ彼らの存在に他ならない。
種族が異なるが故の差別や偏見は、数百年たった今も地下世界の端々で起こっているものの、人類が地下に居を構えて以降、彼らは共に生きるパートナーである。
では、旧世界ではミミズと言われ、今では地下世界を縦横に這い、所かしこで地震や落盤を起こすワームか?
確かに地下世界で地震や落盤は脅威だ。居住区に現れては暴れ、モグモグ族を好んで捕食すること自体は恐ろしいが、ワームという生き物は灯火の放つ光に弱い。
地下世界の一つの街に匹敵するほどの巨体をもつ母体クラスでなければ、人間の大人が数人集まれば十分に対処できる。
脅威ではあるが、常に灯火使いであるウィルと共にいるルミエルには、恐怖を抱くにはいまいちスケール不足だ。
なら極め付け。
太陽を失った極寒と闇の世界、地上に適応し獣から進化した者たち、ナイトウォーカーか?
ナイトウォーカーとは単一の種族ではなく、人類が地上を去ったのちに、残された既存の種から独自に進化した者たちをさす。
彼らは概ね肉食で、ワーム以上に獰猛だという。地上の寒さを逃れるため、極稀にルミエル達の住む地下世界に紛れることがあるが、それは地下世界のうちでも、地表に近い区画に限った話だ。
ルミエルがウィルと旅を始めてから一年、知識として知ってはいたが、未だ影も形も、目撃情報すら耳にしたことがなく、そもそも存在自体がおとぎ話の域を出ない。
――ならば、最も恐ろしいものとは何か?
「今何時だ? 言ってみろ」
ウィルは声を荒げることもなく静かに言った。
細く険しさのある瞳が、鋭くルミエルを見据える。
灯火使いのウィル・オウィプス。年は二十の初め頃だろうか。鍛えられた無駄の無い体躯は、主に灯火達が羽織る外套の上からでも、旅の険しさを如実に物語っている。
鋭い瞳に清閑な顔つき、低い声の調子から、ウィルとはじめて出会う人は、いつも彼が怒っているのではと勘違いすることが多いが、それは大きな誤りだ。
あまり表情には出さないだけで、ウィルにも喜怒哀楽は当然ある。
好物のミートパイを食べてるときは口元を綻ばせるし、生まれて初めて訪れる都市区画についた瞬間は、細く閉じた瞼の向こうに少年のように目を輝かせることだってある。
翻せば、今どう見ても怒りに満ちている青年、ウィルは、実のところ怒っているわけではないのだ。
「じゅ……十一時、です」
「…………」
「……ふっ」
「…………ふ?」
「ふざけるな馬鹿がああぁぁッ!」
ただ怒っているのではなく、滅茶苦茶怒っているのだ。
ウィルの身体に帯びていた燐光が一気に赤みを増し、炎のような猛りをみせた。
灯火や灯火使いと呼ばれる人間は、感情をエネルギーして体外に放出することができる。光色は赤、感情は怒り。その勢いと輝度はまさしく憤怒のそれだ。
「昨日宿で別れた時、俺は何時に灯火台の前で集合と言ったか覚えているか?」
「……九時です」
「今は十一時だ。差は何時間だ?」
「…………二時間です」
ウィルが帯びる輝きが、一瞬ふっと止んだ。
例えるなら嵐の前の一瞬の静けさ。台風の真っただ中、その中心部の空白を垣間見た、そんな刹那。
「二時間……二時間だ!! そもそも俺等灯火の役目とは何だ?!」
「……灯火台を灯すことです」
ごう、と再びウィルの体から炎が吹き荒れる。
「違う。俺たち灯火は、地下に暮らす全ての人たちの生活を支えている。
昼夜を分けるための明かりも、街中を移動するための動力も、 街は全て灯火台によって機能していることくらい知っているだろう。俺たちの働きぶり一つが街の生死に関わることもある。お前は街を二時間殺した、その自覚はあるか?」
「……もう寝坊はしません」
「あのぉ、そろそろよろしいでしょうか? 灯火のお嬢さんも反省していることですし、そろそろ充填をしていただくということで」
申し訳なさそうに中年男が二人の会話に口を挟んできた。
機材や計器でごったがえしの部屋の中、所狭しと立ち並ぶ機材の合間から様子を何度も伺っていた姿が目に入らなかったわけではないが、ウィルの怒りにルミエルはそれどころではなく、今の今まで気がつかなかった。
ここは街の中心部にそびえる灯火台のとある一室。
ルミエルとウィルは、街の灯火台に明かりを灯すため、ここに足を運んでいたのだ。
「……そうですね、随分とお待たせしました。残りの作業を済ませてしまいましょう」
ウィルがそう返すと、中年の男は部屋の隅の扉に向かい、どうぞと促す。
仕草がやけに丁寧なのは、きっとルミエルを待つまでの間、ウィルの怒りの矛先を一身に受けていたからに他ならないだろう。
それについて一切触れたくなかったルミエルは、未だ赤みを帯びるウィルから目を逸らすことなく、心の中で「街の人ごめんなさい」と何度も謝りながら、二人の後をついていった。