炎の坂道
サーシャらは、彼女が死にゆくのを見届けなければならないと思った。
マズルも、キャスに抱き起こされたまま、その様子をじっと見つめていた。
周囲を、街が燃える音が絶えず鳴っている。火の粉がぱちぱちと音を立てている。
「馬鹿ね、さっさと逃げないと、死ぬわよ」
メローラの声はもう弱々しいものだった。
「何を言うのですか。1人では死なせません。もはや死が避けられぬのなら、見届けさせて下さい」
サーシャは泣いていた。
メローラは笑い声を立てた。
「あなたこそ、何を言っているの?あたしはあの世から、あなたとこの国がこれからどう歩むか見届けるという楽しみが残っているんだから……」
にっこりと微笑む。
「これまで何度も死に掛け、不思議と生き残ってきた。ついに、やっと死ねるの。むしろ嬉しいのよ」
それは、あまりにも悲しすぎる。何て悲しい事を言うのか。
サーシャは口に出せなかった。
「あたしに同情しているなら、あなたは馬鹿よ」
メローラは大きく息を吐いた。
「ひ、姫様……」
ふと、もう1つの弱々しい声が聞こえた。
サーシャがその方向を向くと、キャスが「駄目です」と慌てた口調でマズルを諌めていた。
キャスの諌めるまでもなかった。彼はそのまま意識を失ってしまった。
マズルを刺した張本人のルキも、起き上がって呆然としている。
ふいに、メローラが先程とは打って変わって、大声で笑い出した。まだどこにそんな力が残っていたのか、と思う程であった。
「メローラ姫!」
サーシャは思わず呼び掛けた。
だが、メローラは無視して笑い続ける。
この時のメローラの笑い声を、彼らは終生忘れる事が出来なかった。
燃え盛る王都への、嘲りか、もしくは鎮魂歌か。サーシャにはその時、何故か双方に聞こえた。
笑い声が途絶えたのは唐突だった。
「メローラ姫!」
「姫様!」
サーシャらが覗き込むと、メローラは目を閉じ、穏やかな顔をして、動かなかった。
もう、動く事はなかった。
サーシャ、スレス、キャス、マズルを抱えたロークらは炎燃え盛る王都からの脱出を図った。
ルキはいつの間にか姿を消していた。
熱と熱風とが、彼らに絶え間なく襲い掛かり、火傷を幾度も負った。
街は燃え、崩れ、断末魔を上げているように思えた。
「姫様、頑張って下さい!」
キャスが熱風から顔を腕で庇いながら言う。
サーシャ姫は頷くのみであった。
その侍女スレスも、疲れきって言葉も発せないようだ。
ロークはマズルを背負い歩く。
炎は街や道を覆い、何度となく迂回して避けて通らなければならなかった。
とある路地に差し掛かったところであった。
逃げ遅れた人々がサーシャ姫を見るや否や、「姫様」と駆け寄ってきたのだ。
サーシャは疲れきっていたが、出来る限り誠意を以て応えた。
「皆さん、さあ一緒に行きましょう」
「姫様だ」
「姫様、あの世でもどうかわたくし達の側に」
「おお、姫様」
「姫様、ああ姫様……」
人々はサーシャに手を合わせ、お祈りをし、すがり付いた。
「姫様!」
キャスが彼らからサーシャを連れ離す。
「姫様じゃない。女王陛下だ……」
「そうだ、陛下が亡くなられたんだ……そうだ、女王陛下だ」
人々の表情は恍惚としていた。
辛過ぎる現実から必死に目を背けようとする姿がそこにはあった。
「皆様、そんな事言わずに、逃げるのです!生きるのです!」
サーシャが叫ぶ。
生より死を選ぶような者を見るのは、もうたくさんだという思いが、サーシャにそう言わせたのである。
それからは人々を伴っての脱出行であった。
彼らが王都を抜け出したのは、明るくなり始めた頃であった。
煤にまみれ、火傷を負い、疲労した彼らは、自分達が助かった事を知ると、その場に倒れ込んだ。
特に、サーシャとスレスは地面に横たわり、ぜえぜえと息をしている。
マズルも危険な状態であった。
熱した剣で止血したものの、傷は深く、衰弱は激しかった。
キャスとロークは、自身も疲労しているにも関わらず、軍医を探し出し、診てくれるよう懇願した。
突然訪問を受けた軍医は戸惑ったが、マズルの診察を始めたのであった。
王都は未だに燃え続けていた。
まるで、メローラの怨念の残滓であるかのように。
しばらくして、イチデン軍総大将のジャイル・ブックスが彼らを訪なった。
ジャイルは、勝手に彼のもとを脱出したサーシャの事を責めはせず、むしろ労った。
「ご無事で何よりです」
サーシャは鬱々とした顔で応えた。
「メローラ姫は、亡くなられました」
ジャイルは、しばし無言だった。
「そうですか」
とだけ言った。
彼に保護されたサーシャ達は、丁重に扱われた。治療と食事と寝床を与えられ、礼を以て応対も受けた。おかげで彼女達は、あくまで身体的には、元気を取り戻していった。
マズルも、懸命な治療もあり、体力は回復した。だが、足は恐らく動かないだろう。動けるようになったとしても、これまで通りとはいかない、との軍医の言葉であった。
それでも生きていくのだ。メローラ姫の最期の命なのだから。たとえ生き地獄となろうと。それを見越した姫の悪意の命令なのか、それともただ単に死なせたくなかったのか。それはもう、誰にも分からない。
数日後、連合軍は、サーシャ・デキウ姫をナツル国の新たな王として擁立した。
頭上に王冠を戴いたその夜、サーシャは夢を見た。
彼女だけでなく、あの場にいた皆が終生忘れえぬ光景だ。
彼女達は逃避行を続けていた。地獄から抜け出そうと。
眼前には坂道が続いていた。
徒でさえ疲労した彼らにはきついものがあった。
サーシャとスレスは、熱で息もし辛い上、体力も限界をとっくに迎えていた。キャスもぜえぜえと息をし、ロークも大男とはいえ、マズルを背中に背負っている。
だが、ここしか道はなかった。
坂道である。
炎が燃え盛り、熱風吹き荒ぶ、炎の坂道である。
しかしそれは残酷な程、美しい光景だった。




