ナツルの姫
「あの娘、どう思う?」
ジャイルは腕を組みながら、腹心のホイルに尋ねた。
「利用価値はありましょう。ただ……」
ホイルは黙った。
「何だ?言え」
「あの姫は、何か企んでいるかもしれませぬ。あの時語った言葉は本心かもしれませぬが、用心に越した事はないでしょう」
「うむ、それにしてもあの娘、気に食わん」
ジャイルは吐き捨てた。
「復讐のみが我が生きる道と言わんばかりだ」
「結構ではありませぬか。我々にはどうでもよいことです」
ホイルは淡々と言う。
ジャイルは鼻を鳴らした。
「俺はあまり面を合わせたくないな。毒気にあたる」
彼の野心を達成させる良い武器にはなりそうな娘ではある。ただ、いけ好かないのだった。それならば単に、馬鹿なお飾りの姫で良かった。あのような、情念の持ち主は何をやらかすか分かったものではないし、過去しか見てないような女は嫌いだ。
その当の姫は大人しくしているようであった。
礼儀作法は身に着けているだし、仕草も上流の者のようで、いよいよナツル王国の姫君だった事は確信に近いものになっている。
だとすればこれまで、どうやって生き延びてきた?
(まあ、俺の気にするところではない……)
ブックス家の侍女ゼイは、メローラの事を礼儀作法のしっかりした娘だと思った。自分より一回りくらい若い彼女は、やはりまだ信用ならぬ娘である。それも屋敷にやってきた頃は、庶民の着るような薄暗い服を着ていた。それが今や着飾られ、それも着られている感じが全く無い。そこがどうもいけすかなかった。
姫を騙る詐欺師ではあるまいか。との疑いは晴れない。
「お食事をお持ちしました」
「ご苦労様」
メローラはにこやかに言った。
そして小麦粉をこねて焼き、ヤギのチーズで味付けしたニミーを口にする。
ニミーは口に入れ頬張ると、香ばしい匂いと共に、なめらかな味が口いっぱいに広がる。メローラも気に入っていたようだ。
だが、今日は違っていた。
じょりじょりと音がゼイにまで聞こえてきた。
ゼイはほくそ笑みそうになるがこらえる。姫の名を騙るならばそれくらいは耐えて気丈に振舞って欲しいものだ。そうでないにしても馬脚を現すくらいはあるだろう。
横の侍女は既ににやにやしていた。名をモウといったが、神経質そうな顔をしている。
砂をいれてやったのだ。庭にある砂を拝借したのだ。
メローラが侍女二人を見上げる。その時お留守だったのか、肘をぶつけて皿を落としてしまった。
激しい音を立てて床に砕け散る。
ゼイは溜息をつきながら、「箒と塵取りを持ってきて」とモウに言った。
「姫様、危ないですから……」
あまりの動揺に気が動転でもしたのだろう。
メローラが立ち上がって床に落ちた皿の破片を拾おうとしたのだ。
「もっとよく見てから動いて下さい」
その口調は冷淡そのものだった。
次の瞬間、メローラが飛び掛ってきた。
腕に首を締め上げられ、首元にはちくちくと痛むものがあった。
「ひ、姫様!」
ゼイは驚愕と戦慄に襲われた。何が起きたのか一瞬分からなかった。
ゼイの肩にメローラの咀嚼物が吐かれる。
「ひいっ」
「イチデンでは砂を入れるのね。あたしには高尚過ぎて分からないわ。なんせ市井に下りてから長いから」
耳元で囁かれる。
首を見ると、メローラの手に皿の破片が握られており、それが首元に突きつけられていた。
「あたしの故郷ナツルでは、おいしいものを食べさせてもらったお礼に、相手の首に赤いネックレスをつけてあげるのよ」
「お、お……おやめ下さい……」
がたがたと震える。
「どうして?あたしはただお礼がしたいだけなのに……」
メローラがくつくつと笑った。
皿の破片が首元をなぞる。血がにじみ出てくる。
「お許……お許しを……」
ゼイは泣きじゃくった。
「なら、これから舐めた真似すんじゃねえぞババア」
血の底から響く声のようにメローラの声は聞こえた。
後ろから蹴飛ばされ、床に倒れこむ。
その時皿の破片でいくらか切り傷を負ったが、ゼイはそれどころではなかった。
扉が開きモウが入ってくると、部屋の中の光景に唖然とした。
「ごめんなさいね。手間かけさせて。あたしが悪いのに」
メローラはにこやかに言った、
ゼイは床に四つんばいになっていたが、そそくさと立ち上がった。
メローラにとっては待ち続ける日々だった。ジャイルが自分をどうするつもりなのかはまだよく分からなかったが、丁重に扱われているところを見ると、いずれ政治的に利用するつもりなのだろう。それはそれで構わないが。
傀儡にでも何にでもなろう。ナツルを滅ぼせさえすればいい。たとえ売国の姫と罵られようとも、その怨嗟の声を伴奏にしてあざ笑ってやるのだ。国が滅ぶ悲喜劇を。
ジャイルから、イチデン王に謁見させるとの話があったのは屋敷に来てから一月程たった頃であった。
とある洞穴。
そこに一人の男がいた。髪を長く伸ばし、乱れきったその髪と服は、一見彼を浮浪者のように見せた。
だが、彼のその煮えたぎる瞳は、ある一点を見据えていた。
「……ナツルの姫か……」
彼が振り返ると幾人もの影があった。
「使えるかもしれん」