九話
嵐はミノタウロスから距離を取ることができた。
さっきは分析に集中していたせいで接近に気付くことができなかったが、これからはそんなことには陥らないだろう。もう、分析は完了している。
相手の異能は単純な筋力増強。それと顔の変質。大きく上げてこの二つだろう。ランクで言えばBと言ったところだろうか? この程度ではAには届かないだろう。それがミノタウロスの異能に対する嵐の評価だった。
嵐は腰に巻いてある剣帯に手を伸ばす。今剣帯に差してあるナイフは十八本。嵐の主要兵装はこのナイフであるが、服の上からばれない程度しか持てないので、大した量を持ち歩くことはできない。
嵐はナイフを人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指の間にそれぞれ一本ずつ計三本はさむ。それを両手にする。これだけで簡易のナックルダスターの完成だ。
それを握ったまま、嵐はゆらりと体を揺らめかせる。
それはミノタウロスの目には、テレビにノイズが走ったように、少しぶれたように映った。だが、その一瞬後には変わらない嵐の姿がミノタウロスの視界に入ったので気のせいだと考えることにした。
この姿になると体格も大きくなり、筋力もつくが、思考能力が低下してしまうのだけが難点だった。
『来ないなら俺から行くぞぉ!』
ミノタウロスは荒く気炎を吐くと、距離を詰めるために駆け出す。嵐はそんなミノタウロスの姿を見ても微動だにしない。
嵐をヘヴィーアックスの射程に収めると走った勢いをヘヴィーアックスに乗せて振り下ろす。
ヘヴィーアックスは嵐の体を立て一直線に貫いた。
『ん?』
ミノタウロスは首をかしげる。相手にしっかりと当ったはずなのに、手ごたえは全くなく、それこそ霞を切ったかのような感じだったからだ。それに、嵐の体からは血も溢れず、ただその場に残っている。
「後ろですよ」
そんなミノタウロスの背後で聞こえる声。
『ブモッ!?』
ミノタウロスは野生の勘ともとれる直観に従って脇に転がる。
一瞬前までミノタウロスの頭があった位置を刃付きの拳が通り抜ける。少しでも判断が遅れていたらミノタウロスの頭は引き裂かれていたことだろう。
ミノタウロスは倒れたまま、その尋常ならざる膂力を使ってヘヴィーアックスを振る。
「おっと」
そんな間の抜けた声を漏らしながら、嵐はまた下がる。下がっているうちに嵐の姿は虚空に紛れるようにして消えてしまった。
ここまで証拠がそろえば、いくら馬鹿なミノタウロスと言えども、嵐が姿を消すことができると言うことはわかる。
だが、姿を消したと言ってもそんなものはミノタウロスにとっては大して意味がなかった。さっきのように、直感だけで回避することが可能だからだ。
だから、ミノタウロスは目を閉じて、視覚以外の感覚を鋭敏にする。こうしておけば、ミノタウロスが虚を突かれる可能性は、相当に減ったと言ってもいい。
「ふむ……」
虚空から感心したかのような声が聞こえてきた。
ミノタウロスはもう嵐が自分を傷つけることはできないと思って得意満面になっている。
そんなミノタウロスは右腕に違和感を感じた。
『む?』
その違和感の正体に気付く前に、ミノタウロスの右腕は内側から拡散するように破裂した。
『が、がぁぁぁぁーーーー!』
これにはミノタウロスも悲鳴を上げることしかできない。
それも当然と言えば当然だろう。ミノタウロスの右腕は、肘から手首あたりまでの肉が吹き飛んで、一部骨が見えている。
その痛みでミノタウロスの思考は真っ白に染まっていて、何も考えることはできない。
そんなミノタウロスの耳朶に冷たい嵐の声が届く。
「宇宙空間に人間が生身で放り出されたら人間の体は破裂してしまう。と言う話をご存知ですか?」
もちろんその質問に答えていられるような精神的余裕はミノタウロスにはない。
嵐も答えは期待していなかったのか、訥々と言葉をつづける。
「これには空気の性質がかかわっています。端的に、空気と言うのはよりその密度が薄い方向に行こうとする。と言う性質を持っています。山などにスナック菓子の袋を持っていくと膨張するのをご想像いただければ楽かと。あれは気圧の関係なので、直接の関係はありませんが。つまり、あなたの腕の周囲を瞬間的に真空状態にさせていただきました。その状態にすると周囲からも空気が流れ込んでしまうのであまり長くは持ちませんが、できないことはないのです。ま、そういうわけであなた様の血に含まれている酸素がより少ない場所に行こうとした結果、腕が破裂したと。その程度のことでございます。理解していただけましたか?」
嵐はゆっくりと、それでいて長々とミノタウロスに聞かせる。
『ぐがぁ!』
痛みで我を忘れたミノタウロスは残った左腕でヘヴィーアックスを持ち、声のした方向に振るう。
嵐はそれを苦も無く避けると、指をパチンと鳴らした。
それだけでまだ無事であった左腕の二の腕がはじけ飛んだ。
『がぁぁぁぁーーーー!』
ミノタウロスが痛みでのた打ち回る。
「ま、さっきの論理はてきとうでございますし、指を鳴らす意味はこれと言ってないのですがね」
嵐は一人で平然と呟いている。
もう一度、指を鳴らすと、今度は両足のふくらはぎが吹き飛んだ。
ミノタウロスは白目をむいて失神してしまった。失神したのが痛みからなのか、出血多量によるものなのかは嵐には判断がつかなかった。
無防備に横たわるミノタウロスに嵐は冷たい視線を向けている。
このまま放置していれば、一時間後には死んでいるだろう。
だが、それは逆説的に死ぬには一時間ほどかかると言うことでもある。それでは『デイブレイカーズ』に回収されて生き残るかもしれない。そんな危険を冒すことを嵐の思考は良しとしなかった。
嵐は腰の剣帯から一本のナイフを取り出すと、それを無造作にミノタウロスの胸に突き刺す。
すると、ミノタウロスの体は風船のように膨れ上がり、はじけ飛んだ。撒き散らされる臓物や肉片、血の一滴すらも嵐に当たることはない。が、周囲にまき散らされた臓物のせいで周囲の道路は実に凄惨な状況になってしまった。
そのことに何の感慨も抱いてないような無表情のまま、嵐はポケットからケータイを取り出し、アドレス帳から呼び出した番号に電話を掛ける。
数コールの後、電話がつながった。
「俺です。……はい、識別で言うのならタンペットであってます。さっき襲撃があったので殺しました。……え? 生け捕りのほうが好ましかった? 勘弁してくださいよ。仕事中ならともかくとして、プライベートのときまでそちらの意思をくみ取ってはいられませんよ。……はい。死体の回収と洗浄だけお願いします。それでは」
嵐は通話を切ると、ポケットにてきとうにケータイを突っ込む。
「はぁ……めんどくさい」
そんなつぶやきを虚空に漏らすが、そのつぶやきを耳に留めたものはいない。
嵐はつぶやきが宙に紛れた後、帰路についた。
余談ではあるが、部室内での喧嘩は校舎内の巡回をしていた警備員に見とがめられるまで続いたと言う。
その説教が終わった後に、その片割れの男は頭を抱えてこう叫んだという。
「嵐に伝えるの忘れてた!」