八話
場所は変わって住宅街の道路。
そこを嵐と未来は二人で歩いていた。二人は家がほど近い場所にあるので普段から一緒に帰っているのだ。
さすがに夜道を一人で帰らせるのは忍びないと言う嵐の配慮故なのだが、未来は嵐と一緒に帰れてうれしいとしか考えていない。この能天気さはある種の才能なのかもしれない。
二人は楽しそうに話しながら歩いている。と言っても主に話題を提供しているのは未来のほうだ。嵐はそれに相づちを打つ程度でしか会話に参加していない。
「それにしても今日のアレは笑っちゃったよね」
「アレとは?」
「ほら、部室で零士君が目薬と間違えて、歩君お手製の唐辛子エキスを目に垂らしちゃったとき。あれ、ホントに痛そうだったなー」
「零士はその程度ではくじけんだろ」
「そうだね。血の涙を流しながらも元気にしてたよ」
嵐はその時もう寝ていたので、零士がどんな目に遭ったのかと言うのを直接見たわけではない。だが、未来の語り口を聞いていると相当に酷いものだったことは確かなようだ。
まだ口論を続けているであろう零士に黙祷。ま、その程度のことで零士がどうこうなるとも思えないが。
「ホントに零士君とひのかちゃんは仲がよさそうだよねー。あの二人を見てると羨ましくなってくるよ」
「? 何がうらやましいんだ?」
「だって……私たちはもう喧嘩とかしなくなっちゃったからね」
「俺もお前も年を取った。それだけのことだろう」
「んー……それはわかるよ? でも、なんだか寂しいんだよね」
未来は自分の気持ちをうまく言葉にできないようだった。だが、その気持ちは嵐にも少しだが、理解できた。
嵐と未来も昔はよく喧嘩したものだ。年を取るにつれて、嵐のほうが体格も腕力も強くなっていったので、嵐のほうから自然と力を抑える方法を学びだしたのだ。
その結果、喧嘩は減ったが、喧嘩をしていた時のような心をぶつけあうようなことは多くはなくなった。
「年を取るのは、大人になると言うのはいつもさびしいことだ」
誰に聞かせるためでもなく、嵐がぼそりと呟いた。だが、隣を歩く未来は聞こえていたようで、こちらを見て微笑んでいた。
ふと、嵐が道の先に人影を見つける。
いつも通る道のことだ。もう大体いつの時間にどのぐらい人がいるかなどは大体把握していると言ってもいい。
そんな道に不自然な人影。その人影が動いてこの道を通り過ぎようとしているのなら、別段嵐も気に留めなかっただろう。この道は住宅街ではあるが、人通りが零と言うわけではないからだ。
だが、人影は何かを待っているかのようにただ立ち尽くすだけだ。しかも、嵐たちが来たとたんに嵐のほうに視線を向けた気がする。たぶんこれは気のせいではないだろう。
「未来。ちょっと別の道使って、先帰ってくれないか?」
嵐の表情から感情の色が抜け落ちる。未来と話していたときは多少なりと存在していた感情が今の嵐の顔からはうかがうことができない。
「えー、なんで? まだまだ私たちの家には遠いじゃない」
「それでも、だよ。ちょっと急用を思い出してな。それに未来を突き合わせるのも悪いと思ってな」
「別に私は構わないのに」
「俺がかまうんだよ。おばさんたちを心配させるのも悪いだろ?」
未来は不満げな表情で、上目づかいに嵐を見ている。
それだけで普通の男なら落ちてしまいそうなほど凶悪な武器になりそうだったが、生憎と長年の付き合いの嵐には効かない。
未来はそのまま上目づかいで嵐の表情を窺う。その過程で、嵐の顔から表情が失せていることに気付いた。
そのことに気付いた未来はため息をつく。嵐は、余裕がないときと、自分を偽りたいときに表情から感情を奪い取り、心の奥底に仕舞い込むのだ。そのことを幼馴染である未来は知っていた。
「しょうがないなー。今日は嵐君の言うとおりにしてあげる」
「……スマンな」
「別にいーよ。それに余計な詮索もしないよ」
「それは……助かる」
「それじゃ、じゃーね」
「あぁ、じゃあな」
未来が嵐に手を振りながら道を戻っていく。
この道を戻れば、少し遠回りになるがここを迂回して未来は自分の家に帰ることができるはずだ。
こんな時間に未来を一人で帰らせるのは嵐もできれば避けたかったのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
未来を一人で帰らせないよりも、この場に残らせた方がよっぽど危険だった。
「それでは、用件でも聞きましょうか」
嵐は心の奥底に感情を沈め、相手と相対する。
しっかりと感情を沈めることができたようで安堵するが、安堵していることはおくびにも出すことはない。
「俺の要件は一つ。それは……」
「あぁ、別にあなたに興味などありませんでしたから話していただかなくても結構です。このタイミングで俺に接触してくる。そのことの意味が理解できないほど鈍くはないつもりです」
用件を話そうとしたところに急に言葉を被されて、危うくつんのめりそうになるのを男は自制する。
「フ、フン。案外自分の立場は理解しているようだな。俺は《双角の……」
「いえ、あなたの名も異能にも大した興味はありません。ただ、俺に敵対するのならこの世から永久にご退場いただきます。コンティニューは不可ですので、あしからずご了承ください」
「さっきから俺が言おうとするたびに被せてんじゃ……」
男の言葉は三度、途中で止められた。三度目に言葉を遮ったのは言葉ではなく、一本のナイフだった。
ナイフが眼前に急に現れたので、男は慌てて回避する。
今の反応が一瞬でも遅れていたとしたら、男の額には深々とナイフが突き刺さっていたことだろう。
それほどまでに勢いのある一撃。それが全くの予備動作もなく放たれたことに男は驚く。
「これは、出し惜しみなんてしてられねぇか……。《双角の獣人》!」
男の体に変化が生じる。
男の頭のこめかみのあたりからは太く、強さの象徴のような角が一本ずつ、計二本生える。そして、男の体は急激に膨張をはじめ、見る見るうちに見上げるほどの巨体になってしまった。男の面は人と言うよりは牛に近いものになっている。
その姿を一般人が見たらこう称するだろう。
牛頭の化け物、ミノタウロスと。
『これが俺の異能、《双角の獣人》の力だ! 俺自身の体をひ弱な人間のものから強靭なものに変える!』
男、ミノタウロスの口から漏れ聞こえる声は、さっき聞いたものよりも、幾分ひび割れたものになっているような気がする。これも頭が牛になってしまった弊害なのだろうか?
嵐がミノタウロスの姿を冷静に分析していると、ミノタウロスはそのひび割れた声で哂い出した。
『グハハ! 恐怖で声も出ないか! お前は俺には勝てないんだよ!』
ミノタウロスは何処から取り出したのかわからない大ぶりのヘヴィーアックスを手にしている。ヘヴィーアックスは夜空に浮かぶ月の光に照らされて不気味な雰囲気を醸し出している。
パッと見だけでも相当な重量だと分かるそのヘヴィーアックスを振り回している。どうやらあの筋肉は飾りではないようだ。
『喰らえ!』
ミノタウロスはヘヴィーアックスを振りかぶり、思いっきり嵐に向けて振り下ろす。
直撃すればただの人間の体である嵐程度ならば、肉塊になってしまうだろう。直撃すれば、の話だが。
嵐は腰に巻いてある剣帯から投げナイフを一本取りだす。そのナイフは投げナイフにしても小振りで、刀身は五センチにも届かない。形状は三角形の刃にT字型の柄がついている。
その小刀の柄を右手の人差し指と中指の間に挟むと、迫ってくるヘヴィーアックスに向けて振るう。
『そんな脆そうなナイフで防ぎ切れるかよ!』
自信たっぷりのミノタウロスの声が聞こえる。
が、嵐は一切心配してはいなかった。確かにミノタウロスが言っている通り、真正面からぶつかればナイフどころか、嵐の腕が砕けることだろう。それがわかっていて真正面からぶつけるほど嵐は馬鹿ではない。
ナイフの表面を沿わせるように、刀身から柄に向けて風の流れを作る。
そのナイフとヘヴィーアックスの距離が零になる。が、ナイフが砕けるようなことも、無論嵐の腕が砕けるようなこともない。
ヘヴィーアックスはナイフの刀身に触れた瞬間に、刀身の表面を撫でるように滑る。ヘヴィーアックスはナイフの表面を滑ると、アスファルトにめり込む。
『なっ!』
ミノタウロスの驚愕に染まった声が嵐の耳まで届く。
嵐は体を一回転させ、遠心力を利用して隙だらけのミノタウロスの額にナイフを放つ。
『ふん!』
ミノタウロスは自分の額に一直線に向かってくるナイフを、側頭部についてある角を使って弾く。
もう一つナイフを投げてやろうかと思ったところで、アスファルトから引き抜かれたヘヴィーアックスが嵐に迫る。
嵐は焦ることもなく、軽く跳ねる。
その直後に足の直下にある空気を圧縮。その圧縮した空気を足場にして、後方宙返りを決める。
その様はさながら、ゲームなどに出てくる二段ジャンプの様だった。