六話
それを脇から見ていた歩は愉快そうに口の端を持ち上げる。
「今日の当たりを引いたのはひのか先輩ですか。いっそ順当と言ってもいい結果ですが、少し意外性に欠けますね。ですが、一応こう言っておきましょう。おめでとうございます。……残念ながらもういませんが」
「……おい、この真っ赤なものは何だ?」
「? さっき零士先輩が眼球に投下した唐辛子エキスですが? ま、こちらは先輩が眼球に落としたものよりかは幾分濃いですが」
「えぐいな」
このカップケーキも歩お手製のものであったらしい。歩は週一ぐらいのペースで菓子を作ってそれを学校に持ってくる。それを周囲の女子に配ることで気配りができると思われているようだが、気配りのできるやつはこんな劇薬を創ったりしない。
しかも、このカップケーキは外見だけは他のものと大差ない、どころか見分けがつかない。匂いも甘い。この才能は他の場所で生かしてほしいと切に切に思う。
「……後でどうなっても知らんからな?」
「どうと言うことはありませんよ。僕は最初に当たりが入っていることについての警告はしています。それに対する了承も取ってありますし、それを記憶媒体に録音もしています」
そういって歩がポケットから取り出した小型の機械には確かに歩の声での警告と、了承の意を示すひのかの声が入っていた。
「これで文句は言えないでしょう」
「……だといいがな」
「何か言いたいのならおっしゃっていただいて結構ですよ」
「なら、言わせてもらおう。酔っ払いと怒っている人間に理論は無駄だ。その二者には目の前のことしか見えていないからな」
零士が言い切るのと同じタイミングでひのかが部室に戻ってくる。
ひのかは悪鬼のような表情で気炎を吐いている。その瞳にはわかりやすく怒りの色が見て取れた。
「歩」
それは別段大きくも、何か感情がこもっていると言うわけでもなかった。
だが、その声を聴いた歩は背筋をビクッと震わせた。
「ひ、ひのか先輩。僕は一応最初に忠告しましたよ?」
「ふーん……で?」
歩は理論で押し切ろうと最初に口火を切るが、その言葉はひのかの言葉一つで押し流されてしまった。
ひのかの目に理性の色はない。
端的に、絶体絶命と言うやつであろうな。
「未来、嵐の顔なんて眺めてて楽しいのか?」
「これ以上に心安らぐものもめったにないと思うよ?」
零士は歩を無視して未来と話すことにした。
背後からは何か、硬いもので硬いものを殴りつける音が響いてくるが聞こえない。そんな音はこの平和な部室にはいらないものだし、聞こえてはいけない類のものだ。ならば、幻聴なのだ。そう結論付けた。ま、死なない程度に苦しむのも必要なことだと思う。
「いつもここに来るたびに思うのだが、ここは何部なのだ?」
「さぁ? 少なくとも私は知らないよ」
この部室にはよく顔を出す零士だが、この部活が何という部活名で、どんな活動を主として行っているのかは知らない。通称は『観測部』らしい。何を観測しているのかは誰も知らない。
今日はオセロをやっていたようだが、昨日はチェス。一昨日は将棋。その前は人生ゲームをやっていた気がする。そのすべてでひのかがぼろ負けしていたが。
そんなことをやっているのならボードゲームが主なのかというと違うらしい。先週のことだが、なぜか部室で太極拳をしていた。先々週は部室でカンフー映画を鑑賞していた。
やっていることが雑多すぎるのだ。
嵐に直接聞けばそれで済む話なのだろうが、嵐はきっと答えないのだろう。嵐にとってこの部活の活動内容などはさして重要でもないからだ。
嵐にとってはここには居場所さえあればいいのであって、そこに誰がいようがそれほど興味を示さないのかもしれない。まず、嵐に許可された人間以外はこの部室に辿り着くことすらままならないし。
ふと、そこで背後から響いていた殴打音が途切れたことに気付いた。
振り返ってみてみると、その端正な顔をゆがませた歩とやけにスッキリとした表情を浮かべているひのかがいる。
……ひのかの奴、ちょうどいいから最近溜まっていた鬱憤を発散したな? 別に何を言うわけでもないが。
「終わったのか?」
「えぇ、終わりましたよ。明日までに治ればいいのですが」
「ま、これで一つ学んだだろ。これからは悪戯の頻度を減らすんだな。そうすれば笑い話で済むだろ」
「いえ。悪戯ではありません。実験です。ですので、今度からは、気づかれずにこういうことをしようと思います」
「……ま、いいが」
零士は、決意を新たにする歩に何も言わないことにした。
一応忠告はした。今後のことは自己責任だろう。
零士はカップケーキの山に手を伸ばす。さっきひのかが当たりを引いたので、この山に埋もれているカップケーキたちは安全だろう。
そして、手に取ったカップケーキに鼻を近づけて確認する。
外見、触った感じ、匂い。いずれも大丈夫な感じがする。それを確認してから口に入れる。
「ぶぇふっ!」
盛大にむせてしまった。
「うわ、汚いからこっちに飛ばさないでよね」
ひのかが何かを言っているが、今はとりあえず無視をする。今重要なのはひのかではなく、口の中の状況を確認することだ。
口の中を満たすさわやかな香り。そして、鼻を一直線に突き抜ける刺激。これは日本人にはなじみのあるものだ。
要するに、
「わさびかっっっっ!」
「ご名答。正解です」
カップケーキの中に大量にねじ込まれていたのはわさびだった。しかも、量が尋常ではない。カップケーキの外側のスポンジ部分は大した厚みがなく、その中にはぎっしりと練りワサビが詰め込まれていた。
外から触った時は対して他と違いがあるようには思えなかったのに……。こいつのこの技術は無駄すぎるだろ!
鼻が盛大にツーンとしているが、文句を言ってやらねば気が済まない。
「歩。何ではずれがもう一つ入ってんだよ」
「僕は一度もはずれが一つだとは明言した覚えはありませんよ?」
「そういう屁理屈ばかりうまいのはどうかと思うがな」
「でも、安心してください。もうはずれは入っていませんよ。後は、正真正銘ちゃんとしたカップケーキです」
零士は涙目になりながらも、やっとまともなものが食べれると安堵する。
歩は、この部室にいる間は悪意のある悪戯などを好んでする。だが、この部室にいる間は絶対に嘘をつかないのだ。
これは普段の歩とは真逆の行動だ。普段の歩はおどおどとしながら嘘をつくが、悪戯などは決してしない。
そんな歩が何でこんな部活にいて、普段とは全く反対の姿で活動しているのかは疑問だが、自分から話そうとしないことを無理に聞こうとするほど零士は強情ではなかった。
「なら、いただくか……ってねぇし!」