五話
「あの野郎……! 空けとけっつったろ!」
放課後の廊下を零士は全力疾走していた。目的地は旧校舎にある、ある文化部の部室だ。
この学校はそれなりに古くからある学校で、去年創立五十周年だった。そんな歴史のある校舎は何度も増築と改築を繰り返した結果、軽く迷路のような入り組んだものになってしまっている。
この学校に通い始めて、もう三年目になる零士ですら行ったことのない場所があるほどにはわかりづらい。
一年どもはこの校舎内で迷子になったりすることもあると言うのだからこの学校の内部構造の複雑さもわかろうと言うものだ。
校舎は未だに木造の旧校舎と鉄筋コンクリートで固められている新校舎の二つに分けられている。旧校舎にある施設はほとんど新校舎にもあるので旧校舎には用がない生徒は行かない。
旧校舎にはいくつか文化部の部室があるので、そこにある文化部に所属している者は嫌でも行くことになるだろうが。
零士はギシギシと不気味な音を立てる鴬張りの廊下を疾駆する。一年どもは旧校舎の床が抜けるかもしれないと恐れて、絶対に旧校舎では走らない。
だが、そこは三年間旧校舎に通っているだけある。零士は何処の床が腐っていて抜ける可能性があるかなども含めてそれなりに知っていた。
……まぁ、旧校舎にいる座敷童には及ばないのだが。
そして、零士はある木造の扉の前で急停止する。ものすごいスピードで走っていたところで急停止したので、靴が摩擦で溶けて焦げたゴムの匂いがしたが気にしない。
零士の前にあるドアには《立入禁止》と書かれた木でできた板が掛けられている。零士はそんな板のことなど気にも留めずに荒々しくドアを開けた。
「嵐! てめぇ、待ってろと言っただろうがぁ!」
「うるさい!」
零士が入ると中から即座に飛んできた木製のお盆が零士の目に入った。縦に投げられたわけではなく、水平に、それこそフリスビーでも放るように投げられた盆は綺麗に零士の両目を抉る。
「目が、目がぁぁぁぁ!」
「自業自得よ」
「どれだけの業を集めたら扉を開けただけで両の眼球を抉られなきゃならんのだぁぁぁぁ!」
零士は床を転げまわる。
旧校舎の廊下はもれなりに掃除されていると言っても、お世辞にもきれいとは言えないので、制服で床を磨くこととなった。
それでも悶えた分だけ痛みが流れたような気がする。そう思っておこう。……そうでもしないと痛みと制服が汚れたことの悲しみで泣いてしまいそうだった。
「零士先輩。これどうぞ」
「お、おう。目薬か? サンキュな」
零士は手渡されたものを、手の感覚だけで形状だけでも把握する。
この特徴的な形は目薬のものだろう。
零士は上を向いてそれを目に落とす。
「あ、目薬じゃありませんよ?」
「うぎゃぁぁぁぁ! 何これ!? 目が焼けるようにイタイィィィィ! ていうかこの痛みを逃れるためなら眼球をくりぬいてもいいかなって本気で思っちゃう程度にはひどい痛みだぞ! これ!」
零士は目を抑えながら慟哭する。零士がまたバタバタともんどり打っているせいで床がきれいになっていくが、それに比例するように騒音も大きくなり、今は公害レベルまで上がっていた。
それを手渡した男子生徒は零士がもんどりうっているのを見ながら薄く笑みを浮かべる。
この一事だけでもこの男子生徒が過分に良い性格をしていると言うことは誰の目にも明らかであろう。
「それはボクが手ずから作った濃縮唐辛子エキスです。正直、口に入れても痛みを通り越して快感しか感じないようなものをわざわざ粘膜に落とすなんて……。零士先輩は無謀と勇気をはき違えたチャレンジャーですね」
「俺が望んでこんな苦行にチャレンジしたとでも思うたか!? ていうか歩! これ確信犯だろ!? あのタイミングでこんな劇薬手渡されるとかふつう思わんからな!? これは傷害事件として警察のお世話になってもいいレベルだからな!?」
「だって僕は何も言ってませんよ? ただ、ボクが手渡したものを零士先輩が自らの手で自らの目に落としただけ。それで僕を非難するのはお門違いだと思いますよ?」
「クソが……。理路整然とこっちの逃げ道を潰してくれやがって」
この会話をしている間も零士はごろごろと廊下を転がりまわっていると言う情報を追加しておこう。
その様子は端から見ると言いようもなくシュールだった。が、その場には他に人がいなかったので良しとしよう。
この転がりまわっている零士を微笑みながら見つめている男子生徒は追川 歩。この都立南第一高校の一年生だ。
普段はおどおどとした態度をとっていて、他学年の女子たちには小動物っぽくて大人気らしいが、その本性はこうだ。
先輩に劇薬を渡し、それでもだえ苦しんでいる様を見て笑っているような倒錯した趣味を持っている。
零士は歩のことを小動物ではなく、小動物の皮を被ったグリズリーだと思っている。そのことをクラスの女子に伝えたら、総攻撃にあったので世の中はままならないものであると思った。
零士はある程度のた打ち回ったところで痛みが抜けたのか起き上がる。だが、その両目からは真っ赤な涙が流れていた。
「ふぅ。俺じゃなかったら確実に失明してたぜ……。お遊びもいいが大概にしとけよ? 後で面倒事に巻き込まれても知らんからな?」
「いえ、確実に失明すると思うのですが……。先輩の体は本当に不可思議にできてますね。研究する甲斐があります」
そんな零士の姿を見た歩は驚嘆しているようだった。
「ふん。情けないわね。それぐらいでのた打ち回るなんて。男なんだからもっとしっかりしなさいよ」
「いや、あの痛みを受けたら彼の武田信玄すら失禁すると思うぞ?」
零士に冷たい視線を向けながら机の上にあるカップケーキを無造作に消化していく女子の名は陸奥 ひのか(みちのく ひのか)。この高校の二年であり、嵐が部長のこの部活に所属している。
吊り上がった目尻は強気な印象を与える。その印象に違うことなく、ひのかは強気だ。それはもう、同じクラスのどころか、同じ学年の不良連中すらひのかを恐れているらしい。
この部室にはそのほかに、嵐と未来もいた。嵐はソファーに横になって眠っている。未来は椅子をソファーの横に持ってきて、楽しそうに足をぶらぶらとさせながら嵐の寝顔を眺めている。
とりあえず、嵐の件は後回しにすることにしよう。眠れる獅子を起こしてもメリットは指してない。
ひのかが向かっているテーブルの上にはカップケーキのほかにオセロも載せられている。
オセロの盤面の上は最初の四か所だけが黒でそれ以外はすべて真っ白に染まっていた。どうやったのか興味がある。
その盤面を見ていると、頭の中に自然と多勢に無勢と言う言葉が出てくるのは仕方のないことだろう。
零士は椅子を一つ机から引くと、そこに腰かける。
「食いすぎは太るぞ。それにやけ食いは醜いからやめておけ」
「醜いって何よ!? 私が醜いのならこの世の天地万物森羅万象一切合財有象無象すべてのものが醜いはずでしょうが!」
確かにひのかは醜くはない。むしろ、整った顔立ちをしていると言っても過言ではないだろう。
だが、それもこの自信過剰がなければの話だ。
美人と言うのはたった一つの要素だけで周囲の人間に排斥される危険性をはらんでいると言うことを忘れてはいけない。まぁ、この自信過剰も含めてこいつは好かれているのだろうが。
「そんなこと言うあなたのほうが醜聞に耐えない顔面……」
「ん? どうした?」
唐突にひのかは口を閉じた。そして、すごい勢いで顔を真っ赤に染めると部室から飛び出していった。
テーブルの上には、ひのかの食べかけのカップケーキだけが残されている。
零士が恐る恐るそのカップケーキを手に取ってみると、カップケーキの中はいっそ毒々しいと言っても過言ではないほど真っ赤に染まっていた。