三十一話
嵐はこうやって遊女とにらみ合っている間にも、スタミナが垂れ流しになっているようなものだ。
何故なら、もうこの部屋にある空気には、薄くまんべんなく遊女の異能の効果圏内の煙で満ちている。それを肺腑の中に入れることなど自殺行為だ。そのために、未来と自分の肺に入れる空気を正常にするためのフィルターを常時展開していなければならなかった。
そのせいでかかるストレスも、消費されるスタミナも馬鹿にならなかった。
一か八かの賭けでもするか。
今から嵐がしようとしているのは、成功すれば一発逆転、失敗すればほぼ負けが確定する策だ。
普段だったらこんなハイリスクハイリターンな賭けは絶対にしない。嵐はどちらかと言えば堅実な主義なので、ローリスクローリターンを好むのだ。
それでもやるしかない。
腹をくくると、嵐は周囲の空気を自分の手元に集め始める。煙も巻き込んでしまっているが、煙だけを選り分けていられない。
その集めた空気を掌中で圧縮する。
「何をしようとしているの?」
「言うと思うか?」
遊女は質問していながらも、嵐の次の行動は大体予想ができているようで、軽く微笑んでいる。
相手に手の内がばれていたとしても嵐はこのまま続けるしかない。
どっち道やってもやらなくてもじり貧なのだ。
ならば、やれることをやれるだけやって華々しく散ると言うのもありだろう。
掌中で今にも破裂しそうなほどに荒れ狂っている空気を必死に制御し、その荒れ狂っている空気の暴走に一つの指向性を持たせる。
完全に整え終わったところで掌中の空気を解き放つ。
「天をも穿て、『疾駆する竜よ(クッレレ・ドラコー)』」
解き放たれた空気は一瞬宙に留まると、一つの神獣の姿に固まる。
太く頑強そうな体躯に、大きな一対の翼。その姿は西洋のおとぎ話で出てくるような、想像上の生物……ドラゴンだった。
そのドラゴンはすぐに首を天井に向けると、上に向かって大空を駆けていく。
天井にぶち当たると、その体を形作っている空気を衝撃波のように周囲にまき散らしながらぶち抜く。
嵐の作戦は驚くほど単純だ。
この場における空気の絶対数が決められているのなら、別の場所とつなげてしまえばいい。
ただそれだけのことだ。
ここは地下だから空気が少ないのであって、地上まで吹き抜けにしてしまえば、地上からいくらでも風を集めてこられる。
ここは地下五階。ドラゴンがここの天井をぶち抜いたので、あと地上までは壁が後四つ。
ぶち抜けるかどうかは、正直わからない。
そんなことを考えている間にもドラゴンは地上に向けて進んで行く。
地下四階の天井は難なくぶち抜く。
地下三階の天井も同じく。
地下二階の天井をぶち抜くのには多少時間がかかってしまっていたが、ぶち抜く。
あとは地下一階の天井を残すだけだ。
もうドラゴンは最初よりもずいぶんと小さくなってしまっていたが、何とかあと一つぐらいなら何とかなりそうだ。
だが、現実はいつも非情だ。妙な期待をしてしまうとそこから絶望への落差も依り一層大きくなってしまう。
「残念だったわね」
遊女が煙管から口を離し、ニタァッと口元をゆがませる。
その瞬間、ドラゴンが天井にあたる前に中空で霧散してしまう。遊女がドラゴンを構成する空気に紛れていた煙を操ってドラゴンの体を崩壊させたのだ。
やはり、空気を集める段階で煙を排除しなかったのは駄目だったか。
だが、悔やんでいても状況は好転しない。とりあえず、地下一階までぶち抜けたので空気の総量はだいぶ増えたはずだ。
上階から新鮮な空気を手元に引き寄せる。
「……おかしい」
手元に新鮮な空気は届いたが、違和感に嵐は首をひねらせる。
地下一階までぶち抜いたので、各階の大きさなどを計算しなくても、大まかに空気の総量は五倍になるはずである。
なのに、手元に来ている空気は想定値の十分の一にも満たない。
だが、新鮮な空気と言うのはありがたい。その新鮮な空気で流れを作り、自分たちの周囲に遊女の煙が来ないようにする。
全力で遊女を警戒しながら、次の行動を考える。
そんな時に、遊女は嗜虐心に満ち満ちた笑顔を嵐に向ける。
「あなたは今不思議に思っているでしょ?」
「…………」
「もっと空気の量が増えてもいいはずなのに、予想よりも少ないことに」
「…………」
遊女のあおりの言葉を耳に入れながらも嵐は無視する。遊女の言っていることは的を射ているが、わざわざ相手に情報を与えてもさしたる意味はない。
だが、その無言を肯定ととったのか、遊女の笑顔はさらに嗜虐的なものとなった。
「空気が増えないのは当たり前よ。だって、上は空気を通す隙間もないほどに隔壁がおりきっているもの」
ま、そんなところだろうな。
その言葉を聞いていっそ嵐は納得していた。
こんな地下にいると言うことは嵐の異能のことを知っていると見て間違いがない。実際にここまで苦戦を強いられている。そんな相手が、嵐の思考を先読みできないはずもなかった。
消耗しきってまともな答えを返してこない脳でここからの打開策を考える。
辛うじて、上階に続く穴をあけることには成功した。ここから逃げ出すこともできなくはないだろうが、あの穴に入ろうと動いた時点で煙の拳に乱打されてミンチになるであろうことは想像に難くない。
が、未来だけを送り出すのならそんなことは考えなくてもいい。嵐の異能を枯れさせる勢いで振り絞れば、未来を守ることぐらいならできなくはない。
自分の命で未来の命が買えるのなら安いものだ。
それに、それ以上のことを望んでも自分と未来の二人とも死ぬ未来しか見えん。
「嵐……くん……」
行動を起こそうとすると、背後の未来から声を掛けられる。
「馬鹿なことは……しないでね?」
「……馬鹿なことってのは?」
未来に隠し事はできないらしい。
口調からして嵐が何をしようとしているのかもう未来には予想ができているのだろう。
それでも、素知らぬ顔で嵐は白を切る。
「自分の命を……軽んじること……だよ」
しゃべるだけで辛いのだろう。未来の声には力がこもっていない。
だが、しゃべるのが辛いとしても嵐にくぎを刺さずにはいられなかったのだろう。
「それに……嵐君だけならここから抜けられるでしょ?」
「ハッ。お前こそ馬鹿なことをほざくなよ」
未来の発言を切り捨てながらもナイフを遊女に投げつける。
煙の濃度を確かめるために投げられたナイフは遊女に向かって飛んでいく。が、途中でナイフの軌跡は微妙に横にそれていき、遊女に掠ることすらなく背後の壁に当たって落ちた。
もう嵐たちを囲む空気以外は大体遊女の能力圏らしい。
そのことを確認して、苦々しい気持ちになりながら未来のほうを振り向く。
振り向いて見えた未来の顔はわかりやすく未来の心情を嵐に伝えていた。
私はいいから嵐君だけでも逃げて。
そんなところだろうか?
こいつは本当に何もわかっちゃいない。俺と言う人間のことも、男と言う馬鹿な生き物のことも。
「惚れた女のために命張れないやつなんか男じゃねぇよ」
「え……?」
嵐の言葉に未来は驚いたような表情をつくる。
そんな未来の顔を、気恥ずかしくて嵐は見ていられなかくて、遊女に向き直る。
未来が一人で逃げることを拒否するのなら嵐に残された道は一つだけだ。それは……
「未来と二人でこの状況を切り抜ける……!」
もう腹は決まった。
こうなったら足掻けるだけ足掻くだけだ。




