かねごと
かかむとぞしたるみずくきの跡たえて、いみじうことに古めかしきさましたる言の葉どもをただことさらにおぼしいだしつつ、はじめつかたの術いかがせむ、とゐて嘆きたりければ、ふと「いにしへの言葉もていにしへになきものをかきたればさだめて興のあらむずらむ」とすずろにおもひたりき。
またおもひしやうは、男の、女にあひてかねごとをしけるのち、女とえあへず、女のはらからにもあらずして女とかたちとこゑとなべて生き映したるやうなる人をみ、前の女とこの女の変わるところいささかもなければこは一つの女に違はざるとおもふ筋なりける。
こは妙なればいさかかむとおもひあがりて、文机のまへにゐてまずつづりたる。
「世にはばかることありて、男ゐ中ありきしてありし時、なにとかてふ川のほとりとや、けしういと清らなりける女にあひたりき。……」
かくはじめぬ。男は女とかねごとをして、かねごとをえ果たせで、老ゆるのち男は久方の女にあふなりける。
「……女のかほばせおなじくしてしかし違ふ女をおなじ女と決めつらむやうも我にはなけれど、あたかもうつし取りたるやうなればすなはち彼のかねごとしたる女と此の女はおなじ存在なりと。……」
存在といふ言葉をかきつけたる、風情いとあいなく、ただいにしへのやうとまじらで、かきなほすやう、
「すなはち彼のかねごとしたる女と此の女はおなじ人物なりと」
「すなはち彼のかねごとしたる女と此の女は(ただ時間上、異にするのみで)おなじ人間なりと」
「すなはち彼のかねごとしたる女と此の女はおなじ概念なりと」
いづれもあはず。古き言の葉にてあらはすこといとかたくて、文のやうを変えぬ。
「すなはち、約束をした女とこの女は同じ存在であるという概念が不意に私の脳裏に浮かんだ。あの兼ね言をした瞬間に、私とあの女は同じ条件の元で会ふことが決定されてゐたのだと、男はためらひつつもさう決断を下さざるをえなかつた。さうしてこの老いた自分は誰かの見てゐる夢にすぎないか、あるいは女と自分は常に会ひ続けてゐるのだと、ゆえにこの二つは同一であると気づいた」
違ふところはなく、ときこそ変はれかねごとかはしたる女の如く、同じき人のあることは作り物語のことなれば不思議ならず。まこと不思議なりしは文のやうを変へたれば男も女もたちまちにして違ふ人に変じしなり。
いにしへの言葉と今の言葉と、二つながらにしてならべたれば一つ言葉になきもののことやうなるがあらはれて、文藻みだれて文の文たるやうがなきなり。唐言の直くたけたかくして勢ひあるさまがなくてはものの道理をあらはすには足らず、さりとて大和言葉にはなづまず。
「それで、いかにもこの女は彼にとつてはシニフィアンであつた。彼がさういふ妄想といつていいやうな考へにかられたのは決して耄碌のためではなくて、また保証はなくとも実際にあの約束どほりに女が現れた以上は彼もまた同じように約束を果たしつつあると考へるのは至極合理的なことであつた」
我のかきたる文どもそろえたればすべてかねごとにはそむきてなむ。女はすべてかねごとしたる人と違ふかほをしたりき。