「うん、それでいい。」
返事をしたのは、誰だったのか。
友人の墓参りを終えた帰り道、ふと足が止まった。
墓地の奥、陽の当たらない一角に、見知らない墓があった。石塔は風化して名前も読めず、花も供え物もない。
ただ静かに、そこに在るだけだった。
私は、無意識に口を開いていた。
「…………」
声にならない言葉が、喉の奥で震える。何を聞かれたのかもわからないのに、私は答えていた。
「うん。それでいい。」
短く、穏やかに。まるで昔から知っている誰かに応えるように。一度、二度、三度。私は同じやり取りを繰り返していた。
相手の声は聞こえない。ただ、空気がわずかに揺れる気配だけがあった。
四度目、五度目。足は動かず、視線は石塔に釘付けのまま。六度目。
「うん。それでいい。」
その言葉が自分の口から出た瞬間、私ははっとした。
いま、何に答えたのだろう。誰に、何を「それでいい」と許したのだろう。
墓石は沈黙を守り、風さえも止まっていた。
私は慌ててその場を離れた。振り返る勇気はなかった。翌朝から、何かが変わり始めた。
最初は些細なことだった。好きだったコーヒーの香りが、どこか遠いものに感じられた。
次に、友人の顔を思い出そうとしても、輪郭が霞んだ。
やがて、自分の部屋の窓から見える景色が、少しずつ色を失っていくように思えた。
消えていくのは、記憶だけではない。感情の輪郭、日常の感触、自分という存在の確かな手応えが、静かに削られていく。
鏡を見ても、そこに映る自分は昨日と同じはずなのに、どこか薄くなっていた。
あの日、私は何に「それでいい」と答えたのだろう――
知らぬ墓に、無意識に差し出したその一言が、私の内側の何かを、静かに、しかし確実に、手放してしまったのかもしれない。
いまも、夜になると、あの石塔の前に立っているような感覚が蘇る。
そして、聞こえるのだ。誰のものでもない声が、優しく、繰り返す。
「うん。それでいい。」
私は、そう言ったきり、もう何も答えない。
ただ、消えていく自分を、黙って見つめている――
読んで頂き有り難う御座います。




