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「うん、それでいい。」

作者: をはち
掲載日:2026/10/20

返事をしたのは、誰だったのか。


友人の墓参りを終えた帰り道、ふと足が止まった。


墓地の奥、陽の当たらない一角に、見知らない墓があった。石塔は風化して名前も読めず、花も供え物もない。


ただ静かに、そこに在るだけだった。


私は、無意識に口を開いていた。


「…………」


声にならない言葉が、喉の奥で震える。何を聞かれたのかもわからないのに、私は答えていた。


「うん。それでいい。」


短く、穏やかに。まるで昔から知っている誰かに応えるように。一度、二度、三度。私は同じやり取りを繰り返していた。


相手の声は聞こえない。ただ、空気がわずかに揺れる気配だけがあった。


四度目、五度目。足は動かず、視線は石塔に釘付けのまま。六度目。


「うん。それでいい。」


その言葉が自分の口から出た瞬間、私ははっとした。


いま、何に答えたのだろう。誰に、何を「それでいい」と許したのだろう。


墓石は沈黙を守り、風さえも止まっていた。


私は慌ててその場を離れた。振り返る勇気はなかった。翌朝から、何かが変わり始めた。


最初は些細なことだった。好きだったコーヒーの香りが、どこか遠いものに感じられた。


次に、友人の顔を思い出そうとしても、輪郭が霞んだ。


やがて、自分の部屋の窓から見える景色が、少しずつ色を失っていくように思えた。


消えていくのは、記憶だけではない。感情の輪郭、日常の感触、自分という存在の確かな手応えが、静かに削られていく。


鏡を見ても、そこに映る自分は昨日と同じはずなのに、どこか薄くなっていた。


あの日、私は何に「それでいい」と答えたのだろう――


知らぬ墓に、無意識に差し出したその一言が、私の内側の何かを、静かに、しかし確実に、手放してしまったのかもしれない。


いまも、夜になると、あの石塔の前に立っているような感覚が蘇る。


そして、聞こえるのだ。誰のものでもない声が、優しく、繰り返す。


「うん。それでいい。」


私は、そう言ったきり、もう何も答えない。


ただ、消えていく自分を、黙って見つめている――


読んで頂き有り難う御座います。

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