さよなら タカコ
さよなら タカコ
墓石に刻まれた「タカコ」の文字をなぞると、冬の冷たい感触が指先から伝わってきた。一月の風が有明海から吹き抜け、かつて彼女が新聞部として駆け回った大牟田南高校の校舎がある方角へと流れていく。
タカコは、酒をこよなく愛する女性だった。
彼女は地元の病院を経営する一家に、賄い担当の奉公人として雇われていた。朝から晩まで、大家族と病院スタッフたちのために大量の食事を作り、片付けに追われる毎日。白衣を着た人々が忙しなく行き交う屋敷の中で、彼女は常に一歩引いた場所から、他人の人生の断片を眺めていた。
そんな彼女にとって、一日の終わりの晩酌だけが、自分自身を取り戻せる聖域だった。仕事を終えて帰宅し、静まり返った部屋で独りグラスを傾ける。安酒の喉越しが、労働で凝り固まった身体と心を解き放つ唯一の鍵だった。彼女はその酔いの中で、かつて新聞部で培った鋭い観察眼を研ぎ澄ませ、物語を紡いだ。
彼女が七十歳を前にしてこの世を去る直前、一冊の本を自費出版した。タイトルは『成仏屋春野』。それは、かつてこの街の記憶に深く刻まれた「城屋ホテル」の火災をモチーフにした物語だった。
燃え盛る炎の中、取り残された母親と娘。猛火を潜り抜け、娘をその腕に抱き留めて救い出した消防士。娘は助かったが、母親は炎に消え、命を賭した消防士もまた崩落する建物と共に帰らぬ人となった。タカコはその悲劇を、冷徹な筆致でありながら、どこか救いのある筆致で描き切った。彼女にとって書くことは、自らの手で供養することだったのかもしれない。賄いとして他人の胃袋を満たし続けた彼女が、最後に残したのは、誰かの魂を震わせる言葉の礫だった。
彼女は七十歳を迎えることなく、静かに逝った。家族のために尽くし、酒を飲み、言葉を綴り続けた人生。私は持参したワンカップの蓋を開け、墓石に少しだけ手向けた。残りを自分で一口飲み、喉に焼けるような熱さを感じる。
「タカコさん、あっちでも旨い酒、飲んでるかい」
空はどこまでも高く、澄んでいた。彼女が遺した物語の結末のように、残酷なほどに美しい青空だった。




