Jの影
雨上がりの夜。
ネオンが路面に映り込み、街全体が濡れた宝石のように輝いていた。
太子が「エデン」のNo.1テーブルを取ってから三日。
その名は瞬く間に店中に広がり、他店のホストやスカウトたちまでもが噂するほどになっていた。
「あの新人、ヤバいらしいよ。女の心を見透かすんだって」
「笑わせるだけじゃない、“泣かせる”ホストだとよ」
――Prince TAI。
彼はすでに、ただのホストではなく、夜の街に“風”を起こし始めていた。
だが、その風をじっと見つめる“影”もあった。
⸻
その夜の営業後。
店の照明が落ち、スタッフが片付けをしている中――
太子は一人、裏口の非常階段に腰を下ろして夜空を見上げていた。
「……この空は、千年前と変わらぬ」
雨の匂い、夜風の冷たさ。
けれど、頭の奥に“何か”がチリチリと引っかかる。
――誰かが、自分を見ている。
そんな感覚。
「よっ、人気者さん」
背後から声がした。
軽い口調、けれど冷たい。
ゆっくりと振り返ると、そこには黒いスーツに身を包んだ男が壁にもたれていた。
細身の体、鋭い目、片方の耳にピアスが光る。
ただ者ではない空気。
「……誰だ」
「名前?Jでいいよ。Jって呼ばれてる」
「……J」
「君さ、面白いね。たった数日で“歌舞伎町”の話題をかっさらってる」
Jはポケットに手を突っ込んだまま、ニヤリと笑った。
「でもさ――君、“普通の人間”じゃないだろ?」
太子の胸が、一瞬だけ鳴った。
(……気づかれた?)
「我はただ、客の声を聞いているだけだ」
「はは、そんなの普通の人間にできるわけない」
Jの笑い声は、夜の路地に冷たく響いた。
「君……転生者だろ?」
「……!」
その言葉に、太子は立ち上がった。
雨上がりのアスファルトに靴の音が響く。
「何故、その言葉を……?」
「オレも、だからさ」
Jの瞳がわずかに光った。
「君と同じ、“あっち側”の人間だよ。1400年前の」
太子の心臓が、強く打った。
鼓動が、痛いほど胸に響く。
記憶の奥で、聞いたことのない声がかすかに揺れた。
――「太子様、早く……!」
――「この国を……」
(……なんだ、この記憶は……?)
Jは一歩、太子に近づいた。
「君、まだ全部思い出してないだろ? どうやってこっちに来たのかも」
「……」
「いいさ、焦らなくて。オレはね――君を待ってた」
「待っていた?」
「そう。君が“この夜の街”に現れる日を」
Jの声は妙に低く、胸の奥にまとわりつくようだった。
⸻
その頃、エデンの店内では――
「麗さん、Princeのやつ、裏に行ってるっす」
「……裏?」
麗はグラスを置き、立ち上がった。
(あいつ……何をしている)
麗は路地に出て、遠くに立つ二人の影を見た。
太子と、見知らぬ男。
その空気はただの雑談ではなかった。
(……妙だな)
⸻
「太子――いや、Prince TAI」
Jは名前を区切りながら、にやりと笑った。
「君の“力”はこの街を変える。……でもね、それはとても危険なことなんだ」
「危険……?」
「人の心を聞けるってことは――人の“嘘”も全部わかるってことだ。
この街でそれをやるってことが、どういうことかわかるか?」
「……」
「ホストはね、“嘘を売る”仕事なんだよ」
その言葉が太子の胸を刺した。
咲の涙、客の笑顔、優しさと嘘が混じる空気。
今まで見てきた全ての“心”が頭をよぎる。
Jはゆっくりと近づき、太子の耳元で囁いた。
「この街の“裏”に足を踏み入れるなら……お前はもう、ただの救世主じゃいられない」
「……お主の目的は何だ」
「さぁ、いずれわかるさ」
Jは口角を上げ、闇の奥へと姿を消した。
残された太子の手は、無意識に震えていた。
胸の奥に眠っていた“何か”が、確かに目覚め始めている。
⸻
「おい、どうした」
振り返ると、麗が路地に立っていた。
「なんか怪しいヤツと話してただろ。誰だ、あいつ」
「J、と名乗った」
「……J?」
麗は険しい顔になる。
「その名前、聞いたことある。……あいつ、この界隈じゃ“黒い噂”しかない」
「黒い……?」
「金と情報と、そして――“転生者”」
太子の心に、再び波紋が広がる。
麗は太子を見つめ、真剣な声で言った。
「お前、変な連中に近づくな。……この街は、綺麗なだけじゃない」
「……承知している」
「本気でNo.1を目指すなら……生き残る覚悟、持っとけ」
麗の声には、対立ではなく――“戦場を知る者の警告”が滲んでいた。
太子は静かに頷いた。
「我は……逃げぬ」
夜風が二人の間をすり抜け、どこかでシャンパンの空き瓶が転がる音が響いた。
――ここから、夜の本当の戦いが始まる。




