第9話〜茜色の中の誓い
日がゆっくりと西に傾き、庭先の石畳には薄い橙色の光が長い影を落としていた。白壁は茜色に染まり、木々の葉先は風にそよいでざわめく。海の香りを含んだ風が頬を撫で、昼間の喧噪はまるで嘘のように遠ざかっていく。
静かな夕暮れ、シエラは一人で立っていた。
剣の柄に指を軽く添え、深く呼吸を整える。午後の訓練で得た小さな成功を胸に、次の課題に挑む覚悟を固めた彼女の瞳には、決意と微かな緊張が入り混じっていた。だが――。
「さて、次は少し難易度を上げるよ」
遠くから響いたヒロの声は、どこか楽しげだった。
シエラは反射的に背筋を伸ばす。声のした方向を凝視するが、次の瞬間にはもう気配が霧のように消えていた。目に見える範囲には誰もいない。庭の角、木陰、花壇の陰――どこを探しても、そこには影すらなかった。
息を殺し、感覚を研ぎ澄ます。
石畳の硬質な響き、揺れる葉のざわめき、遠くの波音――普段なら気にもしない微細な変化から、異物を探し出そうとする。
――しかし。
ヒロの気配は完全に途絶えていた。視覚だけでなく、音も振動も、空気の流れすら遮断されている。まるで庭そのものに溶け込んでしまったかのように。
「……嘘でしょ、なによこれ……」
剣を握る手に力がこもる。先ほどやっと掴めたと思った感覚とは打って変わり、今は虚空を掴むような感覚しか残らない。
ヒロは石畳を歩き、庭の角、木陰、花壇の影へと身を移す。しかし、その足音も呼吸も、風に溶けるように消えていく。体重移動すら伝わらず、ただ存在そのものが曖昧に揺らいでいた。
シエラは必死に感覚を広げるが、返ってくるのは空虚ばかり。苛立ちが喉を焼き、小さな声が漏れた。
「……まだ、わからない……」
夕暮れの光が影を伸ばし、景色に微妙な錯覚を作る。影の迷路に囚われたような心地に、胸の重みは増すばかりだった。
そして――。
「ふふ、まだまだだね」
背後から低く、楽しげな声。
振り返ると、石垣の上にヒロが立っていた。黒衣の裾を揺らし、片手をひらひらと振っている。その姿を視界に捉えた瞬間、シエラの心臓は跳ね、剣を握る手に再び力がこもった。
「なっ……! ど、どうして――」
ヒロは得意げに胸を張り、少し誇らしげに微笑む。その瞳はいたずらに輝いていた。
「ほら、僕を先生って呼ぶといい」
「……先生?」
呆れた声が自然と漏れると、彼はさらに調子づくように頷いた。
「そう、僕が“先生”。君はこれから僕の教え子だ。尾行の極意を伝授してあげよう」
一方的な宣言に、シエラは肩を小さくすくめた。悔しさの中に、ほんの少しだけ可笑しさが混ざる。
「……わ、わかったわ、先生」
不承不承口にした瞬間、肩の力が少し抜ける。抵抗感はあるが、呼び方一つで不思議と気持ちが軽くなる。心の奥で――“絶対にこいつを捕まえてやる”という強い決意が芽生えていた。
「いいね、その調子。反応も悪くない」
満足げに頷いたヒロは石垣から降り、再び木陰へ身を潜ませる。
今回はわざと手加減し、足音や息遣いを極僅かに残した。完全に気配を消す一歩手前、彼女がそれに気づけるかどうかを確かめるために。
シエラは全神経を集中させる。影のように滑る彼の動き。揺れる葉音、風の流れ、視界の隅で微かに揺れる空気。何度も見失い、勘を外すたび、焦りが胸を締めつける。
「くっ……次こそ!」
再び呼吸を整え、わずかな変化を感じ取る。前より確かに、ヒロの動きが察知できていた。重心の傾き、足の運び、微かな息遣い――その断片を拾い集める。
「おお、気配を捉えたね。見事だ、教え子」
柔らかく声をかけられ、シエラは確かな手応えに目を輝かせた。
「……はい、先生!」
「うん、その調子。呼び方も覚えてくれたね」
ヒロは楽しげに笑い、夕陽に照らされて影が揺れる。その笑みには余裕と師としての誇りが宿っていた。
シエラは息をつき、悔しさに滲む瞳を細める。しかし心の奥底には、確かな達成感が芽生えていた。初めて師弟としての距離が生まれた瞬間だった。
「……先生、私、絶対負けませんから!」
強く心で誓いながら、再び黒衣の背を追う。
日がさらに沈み、庭の影は長く伸びる。夕暮れの風が二人の髪を揺らすたび、学びと悔しさが積み重なり、静かに夜が近づいていた。