第8話〜微かな勝利
午後の光は柔らかく、庭先の石畳に斑の影を落としていた。白い壁に反射した光が揺れ、木々の葉がかすかな風にざわめく。
穏やかな空気が広がる中で、シエラの胸はざわついていた。
ヒロの尾行に気づけず、何度もやり過ごされた焦燥は、時間と共に胸を圧迫する。
自分は“影”と呼ばれる諜報員。気配を読むことも、存在を隠すことも、最も得意とする領域だ。だが、目の前の黒衣の青年の前では、その自負がかすんでしまう。
「……絶対に、次は……!」
息を詰めるように低く呟く。握りしめていた剣の柄がわずかに軋む音がする。悔しさと苛立ちが指先まで熱を帯び、全身に小さな緊張が走った。
だが、今は止まるわけにはいかない。深く息を吸い、意識を外界へと広げる。
石畳の硬質な響き。庭を渡る風が草木を撫でる音。遠くの空で鳴く海鳥の声。目を凝らさずとも、耳で、肌で、あらゆる感覚で空間を探る。普段なら通り過ぎる些細な音までも、今のシエラには鋭く胸を打った。
そして――違和感が訪れる。石畳がわずかに震え、重さが移るように、一瞬だけ沈む感覚があった。
「……ん?」
心臓が跳ね、呼吸が一瞬止まる。風や鳥のざわめきとは決定的に異なる微細な振動。間違いない、誰かがそこにいる――ヒロだ。先ほどまで掴めなかった感覚が、今、自分の中で確かな形を成していた。
歩みを落とし、体の奥で“間合いの揺らぎ”を感じ取る。周囲に溶け込むように歩くヒロの足取りは、完全には隠されていない。わずかな重心の変化が、体の奥に確かな存在を告げる。
角を曲がる。瞬間、視界の端で光と影がかすかにずれる。
「……そこ……!」
反射的に足を止め、庭先の木の一本を指さす。身体の奥で、確かな存在感が脈打つ。
「……見つけた!」
胸の奥で小さな勝利を噛みしめる。焦りと悔しさに背中を押され、感覚は研ぎ澄まされていた。観察眼が、今、ようやく正しく働き始めたのだ。
「ふふ、やっとか……」
シエラが指差した木陰から、黒衣の青年が木漏れ日の下に立ち、にこりと愉快そうに笑んでいた。
「やった……やっぱり、分かった……!」
心の奥で喜びが弾け、拳を握る手が熱を帯びる。碧い瞳にはわずかな誇らしさが宿った。
焦燥に押し潰されそうになった自分が、今、初めて小さな勝利を掴んだ瞬間だった。
ヒロは歩み寄り、肩をすくめて言う。
「ついに察知できたか。君の感覚は確実に研ぎ澄まされてきたね。すごいよ」
その声音には、からかいは一切ない。純粋に、相手の成長を認める温かさだけがあった。
だが、ヒロは冷静に見守っているが、それも想定通りの進歩だろう。だからシエラには、それが余計に悔しく感じられる。
「……あなた、やっぱりずるいわ!」
吐き捨てるように言ったが、声色は柔らかく、けれど確かな手応えを確認する響きだった。
ヒロは軽く頭を振り、少し距離を取りながら答える。
「いや、これは当然の賞賛さ。君が努力したからこそ。次はもっと難しい訓練に進める」
その瞳には、わずかな期待と余裕の色が混ざっていた。彼はただ優れているだけではない。相手の成長を楽しみ、その過程を面白がっているのだ。
シエラは肩で息をしながら、少し照れくさそうに視線を落とす。悔しさはまだ胸に残るが、同時に自分を認められた感覚が確かに胸にあった。
尾行訓練を通して、師弟としての距離はわずかに近づいた。言葉にはできないが、温かな感触が心の奥に芽生える。
「……次は、絶対に完全に察知する」
碧い瞳が光り、強い決意を宿す。
ヒロはその決意を静かに楽しむように微笑んだ。
「いいね。その意気だ」
午後の庭先には、緊張と小さな達成感が漂う。焦りと悔しさを伴った時間は、確かな前進へと変わった。初めての尾行訓練は、二人の関係に新しい色を添え、静かに幕を開けていった。