第7話〜尾行訓練、開始
午前の光が柔らかく差し込む港町の家屋の庭先。塩気を含んだ海風が、花壇の花を優しく揺らす。
ヒロの提案で、今日の尾行実習が始まった。
「今日は君が標的、僕が尾行役ね。ちょっとした“観察訓練”だ」
「……本当に私を尾行できるとでも?」
シエラは眉をひそめ、腰に軽く手を当てる。
ヒロはにこりと微笑み、腕を組む。肩の力を抜いた余裕のある佇まいが、自信の表れだった。
「まあ、試してみれば分かるさ。どうせ君も、気配を察するのは得意でしょ?」
シエラは肩をすくめ、背筋を伸ばし、普段通りに歩き出す。
彼女の目には庭先の石畳や小道、軒先に吊るされたランタンの影まで細かく映っている。しかし、背後に潜む気配が捉えられない。
「……変ね……」
足を止め、振り返ろうとするが視界には誰もいない。
胸に焦燥がじわりと広がる。普段なら風や足音の微細な振動で察知できるはずの存在が、今はまったく捉えられないのだ。
少し速足で石畳を踏みしめ、角を曲がる。小さな砂利が踏み鳴らされ、軒先を吹き抜ける風の音が耳に届く。
――しかしヒロの姿はどこにもない。
目の端にわずかに黒衣の影が映った気がしても、振り返る頃には跡形もなく消えている。
「……くっ……!」
悔しさが胸を締めつける。
相手の位置を把握できないもどかしさに、碧い瞳が険しく光る。
手が剣の柄にかかるが、危険は何もない。これはあくまで訓練だと自分に言い聞かせる。
しかし、負けたくないという気持ちは胸の奥で熱を帯びていた。
歩を進めるたび、シエラの意識は全方位に張り巡らされる。木漏れ日や軒先、塀沿いの樽の陰――そこに黒衣の人影が紛れているのではと無意識に探る。
けれど目に映るのは庭の風景だけ。
息を整え、石畳のわずかな振動に耳を澄ませても、ヒロの存在はつかめない。まるで風のように、影のように消えてしまう。
その焦燥は、胸だけでなく背筋や手先まで伝わる。指先が熱を帯び、握った剣の柄に力がこもる。
観察眼を最大限研ぎ澄ませても、視覚と聴覚を総動員しても、見つけられない。まるで砂を持ち上げたかのように、手のひらの中からすり抜けていく。
その間にも、ヒロは庭先の壁沿いや花壇の陰に身を伏せ、軒先の木漏れ日に溶け込み、時折姿を覗かせてはすぐに影に戻る――影のように歩き、庭そのものが彼を隠すかのような完璧な潜伏。
シエラの目には、どこに潜んでいるのか全く掴めず、ただ焦りと苛立ちだけが募った。
「……こういう時は、直感と観察眼……!」
必死に周囲を見回す。
自分の影や木の葉の揺れ、落ちた砂利の微細な振動まで、あらゆるものを頼りに背後の気配を探る。
しかし、ヒロは時々に場所を変え、視界の端や物陰に溶け込む。
探すたびに小さな敗北感が胸に積もる。あれほど自信があった感覚は今や頼りなく、苛立ちだけを残した。
立ち止まり、肩で呼吸を整える。心臓の鼓動が速まり、額にうっすら汗が浮かぶ。
ヒロは少し離れた位置に立ち、静かに観察している。けれど、どうしてもその動きの全容は掴めない。見つけたと思った瞬間には消え、油断すれば角を曲がった先で再び姿を変える。
「……ふふ、見事だよ。君がここまで反応してくれるとは思わなかった。やっぱり、ただ者じゃないね」
背後から柔らかい声が届く。
振り返ると、ヒロは軒先の陰から静かに立ち上がり、にこりと微笑んでいる。
悔しさと恥ずかしさが混ざる。シエラは腕を組み、顔を少し背けた。
「……あなただけよ、こんなに気配を消せるのは……!」
「経験と少しのコツさ。君なら、すぐに僕の動きも察知できるようになる」
胸の奥が熱くなる。相手の実力を認めざるを得ない。
しかし、心の奥では負けたくないという気持ちがまだ強く燃え上がっていた。
「……次は、絶対に気づいてみせる」
ヒロは柔らかく笑い、手を差し出した。
「いい意気込みだね。じゃあ、次はもっと難易度を上げてみようか」
午前中の訓練はまだ発見できないまま終わった。
しかしシエラの心には微かな焦燥とともに、未知の技術への興味が芽生えていた。
午後にはきっと、今度こそ掴み取る――その意志が、胸の奥で静かに燃え上がっていた。