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第6話〜朝の香りと距離

 翌朝。港町の淡い光が木枠の窓から差し込み、床を金色に染めている。潮の香りを含んだ涼やかな風が、カーテンをかすかに揺らしている。


 シエラはまぶたをゆっくりと開け、背筋を伸ばしてから身を起こした。

 昨夜はなかなか寝付けなかった。任務としての緊張と、あの男――ヒロとの奇妙な駆け引きが頭から離れなかったからだ。だが今、窓の外に広がる海の景色が、心を少しだけ静めてくれる。


 淡金の髪を整え、音を立てぬよう廊下を進む。リビングへ足を踏み入れると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。視線を向ければ、白いエプロン姿のヒロが鍋の中で卵をかき混ぜている。背筋はまっすぐで、手際に無駄がない。その横顔は、昨日の軽口を叩いていた姿と同じ人物とは思えなかった。


「おはよう、シエラ。朝食はもうすぐできるよ。座って待ってて」


 振り返ったヒロは、軽やかな笑みを浮かべている。促されるまま椅子に腰を下ろすと、香りが一層はっきりと立ちのぼってきた。

 パンの香ばしさ、炒めた野菜の甘さ、ベーコンの塩気――それらが重なり合い、空腹を刺激する。


「……あなた、本当に手際がいいのね」


 思わず感心がもれる。箸を取る前から、胃が小さく鳴りそうだった。


 ヒロは肩をすくめ、子供じみた悪戯っぽさを目に宿す。


「料理も観察と同じさ。材料の特性や火加減を見極めれば、だいたい美味しくできる」


「……任務の観察を、料理にまで応用するつもり?」


 シエラの問いに、ヒロは箸で鍋をかき混ぜながら小さく笑った。


「いやいや。これは単純に君の胃袋を掴むため。観察も兼ねてるけどね」


「……ふん、軽いのね」


 言葉では刺すように返すものの、漂う匂いに抗うのは難しかった。


 やがて皿に盛られた卵と野菜が目の前に置かれる。湯気とともに立ち上る香りが、シエラの心の壁を少しずつ崩していく。


「いただきます」


 一口。卵のふんわりとした食感に、野菜の甘みが重なり、ベーコンの塩気が全体を引き締める。思わず目を見開き、次の一口が止められなかった。


「……お、美味しい」


 思わず零れた声に、ヒロは満足げに頷く。


「だろ? これで今日一日、元気に動けるってわけだ」


 誇らしげな調子に、シエラは箸を止めて彼を見つめる。

 その視線は、敵意でも警戒でもなく、照れくささを含んだものだった。


「……ありがとう」


 小さな声だったが、確かな感謝だった。


 ヒロは軽く笑みを浮かべ、ようやく自分も席に着く。


「さあ、食べ終わったら本格的に動き出そう。今日から指導を始めるからね」


 窓の外からは、港町のざわめきと潮風が流れ込む。賑わう市の音が、二人の朝に混ざり込む。


 食卓を挟んで向かい合う時間。ほんの短い間でしかないのに、互いの距離が昨日よりわずかに近づいたように思えた。


 シエラは箸を置き、心の奥に残っていた硬さが少しずつ溶けていくのを感じる。料理の味と共に、彼の軽やかさと誠実さが静かに胸に染み込んでくるのだ。


 ――この男を観察すること。それは任務の一環。だが、任務だけではない何かが芽生え始めている。


 朝食を終え、片付けを済ませると、二人はそれぞれの部屋に戻った。

 シエラは深呼吸をひとつし、碧い瞳に決意を宿す。


「……今日も、観察を。学びを。そして任務を」


 一方、ヒロもまた、台所を片付けながら小さく呟いた。


「さて。僕も頑張るとしますか」


 港町の朝はすでに動き出していた。海の国での生活は、まだ始まったばかり。けれど確かに、二人の時間は静かに、確実に進み始めていた。


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