第4話〜碧眼に映る影
石畳の路地を抜け、湿った風が通り抜けていく。
潮と香辛料の匂いが入り交じる港町の雑踏は、すでに背後に遠ざかり、シエラは細い路地へと身を滑り込ませた。
目の前には、黒衣の青年――ヒロ・オヴェリアの背。
距離を一定に保ち、気配を消し、影のように付いていく。
ファティマ女王国の諜報組織“影”において、彼女は“尾行”と“潜伏”に関しては抜きんでた評価を受けてきた。
隠れること、逃げること。それは生き延びるための術でもあったし、組織で生きる自分の武器でもあった。
だからこそ、この任務も問題なくこなせるはず――だった。
角を曲がり、間合いを計る。
だが、青年は不意に足を止めると、振り返るより早く、背中越しに言葉を放った。
「……ふふ、君、まだまだだね」
弾かれたようにシエラは立ち止まる。
次の瞬間、背後から軽やかな声が降ってきた。
「驚いた? 尾行の腕は確かに悪くない。でもね、僕の背後を取るのは難しいよ」
反射的に振り返った。
そこには――にこりと笑みを浮かべたヒロが立っていた。
「なっ……?!」
シエラは思わず数歩、後ろへ跳ねる。
腰の剣に手を添え、碧眼を鋭く光らせる。
だがヒロは肩をすくめて、楽しげに笑った。
「気配を消すの、得意そうに見えたんだけどなぁ」
挑発にも似た声音。
シエラは唇を結んで睨み返したが、内心は焦りを隠せない。
――気配を完全に消したつもりだったのに。
ヒロはゆっくりと一歩、間合いを詰めてきた。
「君の技術はかなり優秀だ。普通の相手なら、気づかれないだろうね」
そこで言葉を区切り、口元に意地の悪い笑みを浮かべる。
「でも、僕みたいな人間には通用しない」
「くっ……!」
喉の奥が熱くなり、悔しさで手が震えそうになる。
それでも表情には出すまいと必死に抑えた。
青年は愉快そうにシエラを観察していたが、不意に柔らかな声音で名前を呼んだ。
「シエラ」
碧眼が見開かれる。
背筋が凍りついたように硬直した。
「……なんで、私の名前を」
ヒロは悪びれもせず、軽い調子で答えた。
「ルシアからの手紙に書いてあったからさ」
懐に手をやり、器用に数枚の紙を取り出す。
封書の束の中から一枚を抜き出すと、ひらひらと差し出した。
「ほら。君宛ての分もあるよ」
シエラは一瞬、迷った。
だが、確かにそれは見慣れた文字――ルシアの筆跡だった。
恐る恐る受け取り、視線を落とす。
そこには、短くも決定的な文言が並んでいた。
『シエラへ
この手紙を読んでいるということは、無事にヒロと接触できたということでしょう。
ヒロにはあなたの指導を頼みました。存分に彼の下で学んでくださいね。
ヒロとの合流を指定した町に、こちらで用意した家屋があります。そこを拠点にして動いてください。』
『追伸。
宿代節約のためにヒロにも滞在許可を出しているので、万が一何かされたら教えてちょうだいね。燃やしに行きますので。』
最後の追伸を読み終えた瞬間、シエラはがくりと膝をついた。
「……ルシア様、それは無しです……」
声はかすれ、目は絶望で揺らぐ。
笑えない。冗談では済まされない。
その反応を見て、ヒロは肩を揺らして笑った。
「すっごいリアクションだなぁ。そこまでイヤかー」
無邪気に見える口調。
だがその瞳には、先ほどの市場で垣間見た翳りの色が潜んでいた。
シエラは歯を食いしばり、紙を握りしめた。
任務として――従うしかない。
けれど、自分の心はざわめき続けている。
初めての尾行は、あっけなく失敗に終わった。
そして、これから一月、いやそれ以上かもしれない時間を、この青年と共に過ごさねばならない。
シエラは胸に重たい塊を抱えたまま、立ち上がった。
その横で、ヒロは口笛を吹きながら路地を歩き出す。
どこか楽しそうに、そして、どこかで試すように。
シエラはその背を見つめ、ぎゅっと拳を握りしめた。
――こうして、二人の奇妙な師弟関係が始まったのである。