第3話〜観察者の眼差し
路地裏に差し込む午後の光は、町の喧噪を遮り、静かな影を落としていた。黒衣を纏った青年、ヒロは、石畳に腰を下ろし、ルシアから託された封書を広げていた。潮の香りがかすかに混ざる海風が、紙の端を揺らす。
「ふむ……なるほど」
彼の指が手紙の文字をなぞる。封書の中には、柔らかくも要点を押さえた筆致で、ルシアの考えが綴られていた。
『拝啓リーダー様
ご無沙汰しております、息災でしょうか。
と堅苦しい挨拶は抜きにして、今日はお願いがあり、手紙をしたためました。
この手紙を届けた子、シエラにぜひ指導をしてもらいたくて、あなたの元へ送りました。
まだまだ若手の“影”で将来有望な才能を持つ子、訳あって“呪われた剣”の所有者に選ばれた子です。
あなたの指導力なら相性がいいだろうと、お父様の判断もありました。何卒よろしくお願いいたします。』
ヒロは唇の端をわずかに歪め、短く息を吐いた。なるほど、と腑に落とす。
“呪い”に関わる者――その存在は、彼にとって単なる相手ではなかった。見た目はまだ若く、十八、十九程度だが、内に抱えるものの重さは普通の若者の比ではない。
手紙の下に書かれた追伸を見つけたとき、ヒロは思わず頬を引き攣らせた。
『追伸。
私の新しい義妹です、可愛い子でしょう?
リーダーの好みにドンピシャだとは思うけれど手を出したら燃やしに行きますので覚悟するように。
ビアンカさんにも言いつけますからね』
「……ルシアってば、よく僕の好みわかってるな」
口元に苦笑が浮かぶ。妻であるビアンカにだけは絶対に見つからないようにしなければ、と心の中で思う。遊び好きな群島者としての本能なのか、青年らしい楽天的な性格なのか、無意識に肩の力が抜けていく。
手紙をいくつかめくると、先ほど市場で出会った女性――シエラの経歴書が現れる。特秘事項・許可無い閲覧禁止と明記された書類だ。ヒロは眉間に皺を寄せ、文字を追う。そこには表向きの情報だけでなく、彼女の過去――心に深く刻まれた傷が隠されていた。
「あー……なるほど……」
思わず息を吐く。先ほど肩に触れたときの彼女の反応が、すぐに頭に蘇る。硬直する体、瞬間的に膝が跳ね上がった動作、そしてその眼の奥に浮かんだ警戒。過去に受けた屈辱や恐怖が、いまもなお体に刻まれていることを、ヒロは一瞬で理解した。
市場での彼女の振る舞いが、ただの反射ではなく、彼女を守るための生存本能だったのだと。
それは、彼の経験と観察眼があるからこそ、即座に見抜けたことだった。
「なるほどね……これは慎重になるわけだ」
彼は手紙を折りたたみ、胸元に収めた。静かに息を整え、視線を路地の向こうに移す。市場で見たあの細い背中が、彼の心に残像として焼き付いている。
ただの“若手”ではない。潜在能力、反応の鋭さ、そして何よりも――生き延びるための覚悟が、あの瞳の奥に宿っていた。
ヒロは短く笑い、独り言のように呟いた。
「この子となら、いい時間を過ごせそうだ」
指導対象としてだけではない。彼女の背中を見守り、時には教え、時には守る――その覚悟が自然と胸に湧き上がる。
長く生きている彼にとっても、新鮮で、そして確かな手応えのある感覚だった。
ヒロは立ち上がり、軽く肩を伸ばす。
この一月、シエラとの間にどんなことが起きるのか――想像するだけで、心が少し弾む。
彼女はただのシエラ――苗字も家柄も関係ない。
しかしその瞳の奥には、長い年月に裏打ちされた深さと、傷を抱えながらも前に進む強さがある。
「さあ、仕事の始まりだ」
ヒロはゆっくりと歩き出す。
彼の胸の内には、知らぬ間に刻まれた小さな衝撃の残像が揺れている。だが、指導者として、彼はその距離感を保ち、彼女を見守る覚悟を固めた。