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第15話〜師匠の振り返り

 夜はしんと静まり返り、港町の喧噪も遠い。

 借り受けた家屋のリビングには灯りがひとつ。卓上のランプが淡い橙を揺らし、木製の床に柔らかな影を落としていた。


 食事を終えたシエラは、既に自室へと戻っている。

 扉の奥からは、もう彼女の気配すら感じられない。残っているのは、澄み切った家の空気だけだ。ヒロは椅子に身を沈め、長く息を吐いた。


 今日一日――訓練の始まりから終わりまでを、頭の中でなぞる。


 午前中の尾行訓練。

 雑踏に紛れ、彼女がいかに自分を察知するかを試した。結果は上々だった。

 気配を完全に消せば、まだ彼女には察知困難だろう。だが、あえて僅かに残した“尾けられている気配”を、彼女は確かに感じ取っていた。そして午後には、完全に消した気配すら感じ取った。

 肩越しに振り返る視線。呼吸のわずかな変化。そうしたものが、集中と緊張の証拠だった。


 そして、偶発的な“実戦”――港町の路地裏での小競り合い。

 海賊崩れの男たちに絡まれたシエラは、怯むことなく対処した。

 剣を抜かずに、最低限の力で制圧する。怒りに任せるでもなく、楽しむでもなく、ただ冷静に任務をこなすような動き。

 あれは――まさしく“影”の諜報員のそれだった。


「……見事だったな」


 思わず独りごちる。

 冷静沈着、無駄がない。だが同時に、どこか無機質であることも否めない。

 彼女が剣を振るう姿には、年相応の激情や若さといったものがまるで見えない。

 そこにあるのは、“教え込まれた技術”と“任務遂行の姿勢”だけ。


(あれは……仮面、だな)


 ヒロはそう結論づける。

 彼女の本質は、あの冷徹さだけではない。

 今日の昼、短い時間で垣間見えたもの――それが、そう思わせる。


 市場での昼食。

 シエラは「甘いものが食べたい」と言った。

 普段の彼女からは想像し難い、ほんの些細な願い。だが、ヒロには驚くほど鮮烈に映った。


 焼き菓子を口にしたときの、わずかな表情の緩み。

「美味しい」とこぼした声の柔らかさ。

 そして、自分の好みを口にすることに対して自嘲気味に笑った、その儚げな仕草。


(あれは、間違いなく“素”だった)


 ヒロは頬杖をつき、静かに目を閉じる。

 これまで彼女が見せてきたのは、常に“影”としての顔。

 師として認めてくれたらしい自分の前でも、まだ心を開ききってはいない。

 だが今日、初めて――ほんのひとときだけ、“諜報員としての仮面”を外した。


 彼女の年相応な部分。少女らしい無邪気さ。甘えや照れ。

 それを見られたことに、ヒロは妙な満足感を覚える。


(……やっと、見せてくれたか)


 声には出さず、心の中で呟く。

 警戒心は依然としてある。だが、その厚い壁にひとつ、小さな隙間ができた。

 彼女はきっと、自覚もなく――ただ「甘いものが欲しい」と口にしたに過ぎないのだろう。

 けれどその何気ない瞬間こそが、彼女にとって仮面を外す第一歩なのだ。


 ヒロは口元に笑みを浮かべる。

 任務としての訓練を続けるだけでは、彼女の心は解けない。

 だが、こうして人としての時間を共有することで、彼女の本質が少しずつ顔を出す。


(次は……尾行の立場を逆転させるか)


 思考を切り替える。

 今日までの訓練では、自分が尾行し、彼女がそれを察知する形だった。

 だが、次の段階では、彼女に“尾行する側”を任せる。


 追う者に必要なのは、執拗さでも力でもなく、いかに気配を消して自然に溶け込めるかだ。

 雑踏に紛れるのも、物陰から観察するのも、ほんの小さな違和感が命取りになる。今日の成果を踏まえれば――その技術を磨かせるのに、ちょうどいい頃合いだろう。


 ヒロは指先でテーブルを軽く叩き、思案を続ける。


(そうだな……あの子には“気配を消す”技術の向上も必要だ。

 普通の相手を尾行する分には申し分のない技術はある。だけど、気配察知に敏感な手合いには、ちょっと不安が残る)


 だからこそ、次の訓練が有効になる。

 彼女がどこまで自分を追えるのか。あるいは、見失うのか。

 そして、いかに気配を消して動けるのか。

 それを試すことは、師である自分にとっても楽しみだった。


 ふと、ランプの炎が揺れ、部屋の影が長く伸びる。

 その光と影の中で、ヒロは再びシエラの笑顔を思い出す。


 焼き菓子を食べた時の、小さな笑み。

 ――あの一瞬の表情が、今日一日の訓練の成果よりも、ずっと心に残っている。


(あれを“可愛い”と思ってしまう自分は……師としては失格なのかもしれないな)


 それでも――あの一瞬に胸を揺さぶられた事実だけは、どうしても否定できなかった。

 彼女が仮面を外した。ほんのわずかでも、本当の年相応をのぞかせた。

 そのことが嬉しかった。誇らしかった。

 そして同時に、今後の導き方を慎重に考えねばならない、とも思わされた。


(……ああいう“素”を、どうやって引き出すか)


 彼女はまだ“影”としての顔を保っている。

 それでも――今日の昼、確かに素顔をのぞかせた。

 その記憶があるからこそ、明日もまた彼女の成長を楽しみにできる。


 ヒロは深く息を吐き、背もたれに身を預けた。窓の外からは、波の音が絶え間なく寄せては返す。

 夜の港町は静けさに沈み、その向こうに広がる暗闇に、彼は次の訓練の光景を描いてみる。気づけば口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


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