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第11話〜距離という優しさ

 夕食を終え、シエラは静かに自室へ戻った。

 木の床が靴底にきしむ音を返し、廊下の窓からは月明かりが淡く差し込む。海の匂いを含んだ夜風が、柔らかな気配を運んできた。扉を閉め、机の上にランプを置くと、狭い部屋に温かい橙の光が広がる。


 シエラは椅子に腰を下ろし、白紙の報告用紙を広げた。

 ルーに宛てる今日一日の報告。それは訓練の記録であると同時に、ヒロという男の観察記録でもある。


 ペン先を紙に走らせる。


『本日、尾行訓練を受け、初めてヒロ・オヴェリアの動きを察知することに成功した……』


 文字を刻むたびに、胸の奥でわずかな高揚と、悔しさ、そして誇りが入り混じる。

 昼の訓練では、何度も何度も彼の影を掴み損ね、焦燥に押し潰されそうになった。だが、最後には確かに気配を感じ取れた。小さな勝利ではあったが、今の自分にとってはかけがえのない成果だった。


 しかし――そこでペンが止まる。

 言葉を選ぶように視線を伏せ、胸の奥でひとつ息をついた。


 今日一日を振り返ると、不思議なことに気づく。

 ヒロは、決して自分のすぐ近くに来なかった。


 尾行訓練の最中も、食卓でも、一定の距離を保ち続けていた。

 無造作に肩を叩くことも、無遠慮に近寄ることもなく、ただ穏やかに、少し離れた位置から声をかけ、必要なときにだけ手本を見せる。


 ――その距離感が、どれほど珍しいことか。


 シエラの胸には、苦い記憶が焼き付いている。

 悔しくて、痛くて、怖くて、言葉にできないほど辛い。魂が腐るような感覚だけを覚えた過去。それ以来、男という存在に対して強烈な警戒心を抱き、一定以上の距離を越えると身体が硬直し、呼吸が浅くなる。


 誰にも話なんてできるわけなかった。

 諜報組織“影”の総帥であり義父でもあるルーや、義姉のルシアにすら、明確には打ち明けていない。

 だが、ヒロは――まるでそれを知っているかのように、決して踏み込みすぎない。


 ペン先を握る指がわずかに震え、インクの染みが紙に落ちる。


「……気づかれている……?」


 囁きは、ランプの炎に吸い込まれ、静かに揺れ消えた。

 報告書には書けない。任務としての記録に、こんな私情を混ぜ込むわけにはいかない。

 だから彼女は、心の奥にそっと仕舞い込み、淡々と訓練内容をまとめ続けた。


 ――それでも胸の内には、わずかだが張り詰めた警戒が緩む感覚が残った。



 *  *  *



 一方そのころ、ヒロはリビングの窓辺に腰掛け、夜の帳を仰いでいた。

 海からの風が白いカーテンを揺らし、遠くで波音が微かに響く。

 食後の片付けも終わり、静かな夜が広がっていた。


 彼は今日一日の出来事を反芻し、口元に小さな笑みを浮かべる。


「……少しずつ、変わってきたな」


 初めて会ったときのシエラは、棘の塊のようだった。

 声は硬く、視線は鋭く、わずかな仕草にも拒絶の色が混じる。

 触れるどころか、近づくだけで張り詰める緊張が伝わってきた。


 しかし今日の夕食の席では、彼女は自然と「先生」と呼び、無意識に柔らかな敬語を混ぜていた。

 あれは作為ではなく、自分に対する警戒が薄れ、少しだけ心を許した証だ。


 ヒロは目を細め、遠い海の彼方を見やった。


 ――きっと彼女は、本来は素直で、いい子なんだ。


 ルシアから送られた経歴書で知った過去が、今も彼女を縛りつけ、過敏な反応を強いている。そのせいで棘を纏い、鋼のように身を固める。だが、今日一日の経験で、その棘は少しだけ緩みつつある。


「……なんとか、してあげたいな」


 思わず零れた独白に、ヒロ自身が少し驚く。

 彼女はルシアからの依頼で預かった教え子にすぎない。しかし、碧い瞳の奥にある不器用な純粋さを見てしまえば、放ってはおけなかった。


 ヒロは小さく肩を回し、笑みを深める。

 焦らず、急がず、ただ必要なときに――そっと手を差し伸べる。それが、彼女にとっての「安全な距離」を守ることでもあるのだ。


 ランプの光に照らされた居間で、ヒロはソファに身を預け、瞼を閉じる。

 明日もまた、尾行訓練が待っている。

 彼女が少しずつ、自分を縛る鎖をほどいていけるように――その手助けをできればいいと、心の奥で静かに誓った。


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