第10話〜師弟の食卓
庭先での訓練を終えると、夕暮れの柔らかな光が家の窓から差し込み、廊下に長い影を伸ばしていた。
ヒロは肩を軽く回し、にこりと笑う。
「さて、教え子。訓練の後は腹ごしらえだ」
その軽口に、シエラは眉をひそめ、まだ荒い呼吸を整えながら振り返った。
「……食事? 今から?」
「もちろん。体も頭も使ったら、ちゃんと補給しないとね。修練は胃袋から始まるんだ」
言い残すと、ヒロは躊躇なくキッチンに向かう。
木の床を踏む音と共に、鍋を取り出す金属音が響き、ほどなくオリーブと香辛料を炒める匂いがふわりと漂った。潮風と混ざり、家全体が柔らかい香気に包まれる。
シエラは自然と歩み寄り、キッチンに並べられた食材に目をやった。野菜、魚、香草――土地ならではの鮮やかな色と香り。ヒロの手つきは無駄がなく、まるで舞うように滑らかだった。
思わず声が漏れる。
「先生、手伝います」
包丁を握る手を止めず、ヒロはくすりと笑って首を振った。
「いや、君は今日の訓練で十分動いた。今は観察だけでいい。料理も尾行も、まずは“目で盗む”のが第一歩だから」
鍋をかき混ぜる木杓子が軽やかに音を立て、淡いオレンジ色の火が窓辺を照らす。二人の影が壁に映り、柔らかな光と湯気が立ちのぼる。
香ばしい匂いに、シエラは思わず鼻をくすぐられる。
「……先生の料理、いい匂い」
不意に零れた言葉に、自分でも驚く。けれど、ヒロは嬉しそうに片目を細めた。
「ふふ、君がそう言ってくれると、頑張り甲斐があるな」
鍋から小皿にスープをすくい、シエラに差し出す。
「はい、確認。毒は入ってないよ」
少し警戒しつつも、シエラは皿を受け取り口に含む。舌に広がる旨味に、自然と目を細めた。
「……美味しい……」
「でしょ? これで僕の教えも、少しは受け入れやすくなるかな」
シエラは返事をせず視線を逸らすが、口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。料理の温かさが、警戒心の隙間にじわりと染み込んでいく。
ヒロは鍋を火から下ろし、言葉を続ける。
「君なら今日の僕の動きを真似できると思う。まずは真似でいい。“こうやってたかな”くらいでやってみるんだ。君は感覚が鋭いから、それだけで掴めるはず」
「……明日も尾行訓練ですか?」
「そう」
シエラの怪訝な問いにヒロは短く答え、切った魚を器に盛り付ける。
「明日からは町に出る。まずは僕がまた君を追う。君は町の作りを覚えつつ、僕がどこに隠れているか察知するんだ」
なるほど、とシエラは思う。ここ、オヴェリア群島連邦共和国の港町に来るのは初めてだ。土地勘もない。
「町に慣れたら、今度は君が僕を追う。僕が今日やっていた動きを、自分でなぞってみるんだ。気配を消す側になれば、察知の手がかりも掴める」
シエラは黙って頷いた。机に立ち上る湯気を見つめ、息を整える。
「先生……私、頑張ります」
自然に口から出たその言葉は、心の奥底で芽生えた尊敬の形だった。ヒロは振り返り、にやりと笑う。
「いいね、その響き。僕の生徒らしくなってきた」
やがて料理が整い、二人は食卓に向かう。魚のソテー、野菜の炒め物、香草を散らしたスープ。どれも鮮やかで、食欲をそそる香りだ。
椅子に座ったシエラは箸を手に一口。
「……本当に、意外と料理上手なんですね」
「“意外と”は余計だな。僕は見ての通り、万能なんだよ」
ヒロは笑い、冗談めかして肩を竦める。
その直後、ヒロは小さな悪戯心を思いついたのか、シエラのスープの上にパセリをそっと投げ入れ、箸で軽くくるくる混ぜる。舞った香草がシエラの鼻先にひらりと落ちる。
シエラは思わず顔をしかめた。
「なっ……! 何ですか、これ……!」
ヒロは悪戯っぽく笑い、肩をすくめる。
「尾行と同じだよ、気づくかどうかの試練さ。鼻先に落ちた香草も見逃さないのが、真の観察力ってわけだ」
シエラはため息交じりに箸を置き、眉をひそめながらも、思わず笑みを漏らしてしまう自分に気づいた。
食卓には笑いと軽い緊張感が混ざり、任務の名目で行われる訓練も、柔らかな日常のひとときに溶け込んでいた。




