Je tu veux
アメリカンチェリーを食べれば舌が赤く染まるし、オレンジの皮をむけば親指の爪が黄色になる。
私たちは生まれた色のままでいられない。
でも、だからこそ、私はクリアでありたいのだ。
「ねえ、それっていけないこと?」
Je Tu Veux[ジュ トゥ ヴ]
らせん階段をかけおりると、透明なはずの窓ガラスが日の光を反射しているのが目に入って、偶然ふれた光景だったにもかかわらず、深く落胆させられた。透明なくせに、透明なくせに、透明なくせに。口の中でくりかえしつぶやいて、玄関扉がならぶ踊り場のコンクリートの床をける。次の階段へ。
日の沈みかけたマンションは閑散としていて、すぐそばにある水道栓をひねる音や排水溝に汚水をぶちまけるような音まで聞こえてうんざりする。今この瞬間にも透明だった水は汚染されたにちがいない。なんと腹だたしいことか。
「せっかくクリアだったのに」
おもわず自分が汚された気分でつぶやいて、最後の三段を一気にとぶ。靴底がこすれる軽い音と共に立ちはだかった人壁に気づき、崩れきったピボットターンで進路を変更する。バスケなんて授業でしかやったことがないので美しいかどうかまでは気にしない。くすんだ白灰色の床に透明な水しぶきが飛ぶ。あ、ちょっと綺麗。そうおもった瞬間、水滴はコンクリートを黒灰色にかえた。
「水道水になにが入ってるか知ってる? 硝酸性窒素に塩素にトリハロメタン、カルシウムにナトリウム。言い出したらきりがない。学校でやっただろ」
「立ち聞きしてたの?」
水入れをかかえた幼馴染が「俺は不純物だからお前の声にすぐ気づくんだ」と笑ったので、大げさにため息をついて、芸術家なら不純物であることに苦悩をいだけと一言忠告した。ありのままを受け入れる潔さは芸術家に必要ない。
「そう? 俺はバランスが大事だと思ってるからな。絵って題材と画材と俺、三つの要素が絡んでできるものだろ」
スケッチブックを抱えたまま頭をかくその様子が、妙に大人びて見えてくやしい。
彼が望むのは、互いにいい影響を及ぼしあうことなのだろう。けれども私はクリアでありたい。澄んだ空気や水のように無色透明でありたい。強すぎる衝撃を与えれば水底の砂が舞い上がる。だから強い感情はいらない。相互作用を認めることができるのは、波紋一つない水面を手に入れてからだ。己が確立されていなくては、誰かと協力しても依存しあうだけの関係になりかねない。
思考の海に身を沈めつつある私に「どうしてそんなに透明にこだわるの」とつぶやいた唇は、かさかさしていてちっとも潤いが感じられなかった。リップクリームくらい塗ればいいのに。けれどポケットのグロスは彼の唇をオレンジ色にしてしまうだろうから貸せない。たとえ不純物であったとしても他者を汚すのは楽しいことではない。
そこからつづいた沈黙の空白を埋めるように、彼は灰色の吐息をこぼした。
「色って綺麗だと思わない?」
無言でスケッチブックをばらっと開くと、中から色彩が波となって押し寄せた。
「色がはっきりしすぎてて、紙の色も水の様子もわからない絵ばっかり」
ソースの表袋みたいなおたふく顔をつくってばらばらとめくっていく。彼は苦く笑ってそれはポスターカラーだからね、と答えた。しばらく紙をめくる音が灰色の踊り場に響いた。ため息までも灰色なのはきっと踊り場に染まった結果だ。相互作用を求めるものは他者にも侵略されやすい。スケッチブックの厚紙が近づいてきたところで手を止めた。
「ね、これ、絵の具じゃないね。水彩っぽいけど違う」
紙と水と色。全ての存在が感じられるその絵は女性を描いたもので、白い余白にもうろうとした意識が横たわった、魅力的な絵だった。午後のまどろみのようなかすかな幸福を、私はその絵に認めた。
「それ、さっき描いてた奴。果物使って色つけた」
「果物で?」
思い出したのは小学校の頃によくやったあぶりだしだった。子供スパイ同士の秘密のやりとりがこんなにはっきりと発色するのか、疑問だ。けれどそういった好奇心が、この絵に向けられる全てではない。もっと他のなにかが好奇心を刺激する。
「今からつづき描くよ。見にくる?」
即座にうなずいた。彼の大きな歩幅にあわせて踊るようなステップで自転車置き場の近くに移動する。そこに植えられた得体の知れない木は、やはり得体の知れない花を咲かせ、得体の知れない実を作るのだろう。花の色を思い出していると、いつのまにか彼がスモモを手にしていることに気がついた。
「どこから出したの」
「そこ」
なるほど、果物は木に生えていたらしい。スモモをにぎったまま指差した先に、木からぶら下がっているスモモが見えた。
普段クリアであるよう意識しつづけているのに、木になっている果物がスモモだと気づかない。現代人の感覚におぼれた自分に落胆した。駐車場の車止めに腰をおろしてひざを抱える。不純な芸術家の方がそれに気が付くほどクリアだなんて、ひどくうらやましい。
枝からいくつか垂れ下がるスモモは、手の届かない場所にあった。彼はあの高い枝に手が届くのだ。その事実にすら嫉妬する。横にならんで座る男をぬすみ見た。頭上に彼の顔があるという衝撃の現実が、再び沈んでいた私をサルベージする。うっかり思考の海におぼれるところだった。
「背、伸びたね」
中学生の頃は私の方が、背が高かったのに。嫉妬にぬれた視線を向けてみたけれど彼が反応しなかったので、すこし眉を寄せて「勝手にスモモとるなんて、自治会に怒られるよ」と言った。途端に彼はふりむいた。
「野鳥が食ったと思ってくれ。ほほえましい光景だろ。地面に落ちるよりはいいよ」
その言葉と同時に、空の水入れの上でそっとスモモをしぼる。やわらかい果肉に指先が食いこんで、雫が落ちる。その様子をながめながら、スモモをむだに使う彼に、うっすらとした憎悪と同時に羨望を覚えた。よくこんなことを思いついたな。
指を途中で止めて、彼は果汁を筆にとる。筆がおどるように紙の上をなでる。その様子を横目に、指の跡の残るスモモを手にとる。
ああ、なんて幸福なまなざしなのだろう。あの絵にこめられた幸福は、彼のまなざしだった。
私の体の中で渦巻く感情は色が強すぎて、すっかりにごってしまったけれど、なぜだか妙に静かで、水面に波紋はない。
一気に指に力を入れる。果汁が飛び散る。指のすきまから黄色の果肉がぬるりとはみ出す。ところどころに赤。スモモの皮は鮮烈な血の色をしている。種が果肉から飛び出して、てのひらから逃げ出した。
彼は正面を向いたまま筆をおくと、黙って私の手首をつかんで口元に運んだ。果物をつぶした手に唇が触れる。乾いて見えた唇は、やわらかくあたたかだった。ずるりと小さな音がして、果肉を食べる気配がした。
瞬時に首のうしろで小さな震えが起こって背骨まで走りぬける。視線をそらすと彼の左手がかすかに震えているのが見えて、私は悟った。
ああ、やっぱり私もクリアではいられないのだ。