昔話
誰にでも、ひとつやふたつは思い出したくねえこともある。俺だってそうさ。人間て奴は、年をとると、くだらねえ思い出を引きずって生きるようになる。
そんなものを、頭を振り絞って思い出したところで、いいことなんかない。せいぜい、暇つぶしになるくらいさ。忘れるってのも、人間には必要かつ大切な能力だ。俺なんざ、昨日の夕飯すら思い出せねえこともあるよ。まあ、婆ぁとかかぁに嫌味を言われながらの飯だからな。覚える必要もないんだけどな。
ただし、今回は細部まできっちりと思い出してもらわにゃならんよ。こっちも仕事だからな。
お京、あんたにはつらい話だろう。だがな、できる限り詳しく話してくれ。特に、あんたが捜してる連中のことは、隅から隅までな。
・・・
赤鞘組を仕留めてから、二日が経った。
お京とお花は今、無人街の掘っ立て小屋にいる。下手に表へ出れば、誰に見られるかわからない。したがって、小屋の中で息を潜めているしかなかった。
お京は、上体を起こした。目をこすり、辺りを見回す。お七は、まだ帰って来ていないらしい。無事だろうか。
お花はというと、杖を抱えて座り込んでいた。ふたりは、交代で昼寝をしていたのである。
「ありがとう。よく眠れたよ」
声をかけると、お花は微笑む。
だが次の瞬間、彼女の表情が変わった。直後に杖が振るわれ、地面をぱしんと打つ。一瞬の早業だ。
打った位置には、虫が潰れていた。彼女は、微かな音の変化で虫の位置を見切ったのである。見事、としか言いようのない腕前だ。
お花はすっと立ち上がり、正確な動きで虫の死骸を拾い上げた。外に向かい、ひゅんと放る。
直後、素っ頓狂な声がした。
「おい! なんだこりゃ! 虫じゃねえか!」
藤村左門の声だ。見ていたお京は、くすりと笑った。
「あんた、わざとだろう?」
言われたお花は、素知らぬ顔で首を傾げて見せた。さあ、何のことやら……という表情である。
その時、どたどたという足音が聞こえてきた。
「ひでえなあ、いきなり虫の死骸が飛んできたぞ」
ぶつぶつ言いながら、小屋に入ってきたのは左門だ。普段と違い、編笠を被った浪人風の格好である。
続いて、お七が入ってきた。手に持っている袋には、野菜や魚や調味料が入っている。
「銭が入ったからね、いっぱい買ってきたよ」
嬉しそうに言うと、袋をどんと置く。
「久しぶりのご馳走だよ。さあ、たらふく食べようじゃないか」
やがて、鍋がぐつぐつ煮えてきた。皆、自分の分を小皿に取り、ふうふう言いながら食べている。
「ところでな、お京……お前が捜してるのは、あと何人だ?」
不意に、左門が尋ねる。すると、お七か顔をしかめた。
「ちょっと! 今でなくてもいいだろ!」
「いいよ、おばさん。いずれは話さなきゃならないことだからね。それに、出来るだけ早く見つけてもらいたいし」
お京の口調は静かなものだった。お七は、複雑な表情を浮かべ口を閉じる。
少しの間を置き、お京は語り出した。
・・・・
尾仁之村は、もともと山奥に逃げた平家の落人が作ったと伝えられている。村人の数は三十人前後。つましいながらも、平和に暮らしていた。
お京も、尾仁之村で生を受ける。自然に囲まれた環境で、彼女はたくましく育った。小さい頃から木登りが上手かったが、成長すると大木によじ登り、枝を伝って進むようになる。木の密集した場所では、その方が早い。
森の中を、高速で枝を伝って進む姿は、猿も顔負けであった。感心される反面、あれでは嫁の貰い手が……と歎く者もいた。
もっとも、本人は嫁だのなんだのに興味はない。山の中を走り回り、村人たちと楽しく過ごしていた。このまま、村で一生を終えるつもりだった。
だが、想像もしていなかった災厄が村を襲う──
ある日のこと。
お京は山に入り、茸や山菜や木の実などを採っていた。背中の籠に、大量の戦利品を詰め込み村に戻っていく。
ところが、村の様子は一変していた──
お京は愕然となり、その場に立ち尽くしていた。村人たちの住む家は壊され、あちこちに死体が転がっている。老若男女、お構いなしだ。無惨な死に様を晒していた。
いったい何が起きたのか。二時(約四時間)ほど前には、みんな生きていた。普通に生活していた、はずだった。
それが今では、ものいわぬ死体と化している。明らかに、村に侵入した何者かが村人を殺したのだ。
お京は半狂乱になりながら、自分の家に駆け込んだ。父と母だけは生きていてくれ、と祈りながら。
その祈りは届かなかった。家に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、父と母の死体であった。むごたらしく切りきざまれ、大量の血で床が濡れている。
愕然となる彼女に、さらなる追い討ちがかかる。突然、屋根が崩れ落ちてきた──
普段のお京なら、崩れ落ちる前に異変を察知し素早く飛びのいていただろう。しかし、父と母の死が、彼女の心を完全に崩壊させていた。降ってくる屋根板の下敷きとなり、意識を失ってしまう。
どのくらいの時間が経ったのだろう。顔の周辺で、声が聞こえてきた。
「なあ、こんな奴いたか?」
「いや、いなかったぞ。隠れていたのかも知れんな」
「もういい。さっさと引き上げるぞ」
お京は目を開ける。すると、男たちの姿が見えた。何やら話している。だが、そんなことはどうでもいい。ふらふらした頭で、まず体を起こそうとする。
だが、起きられない。見れば、両足が落ちてきた屋根板の下敷きとなっている。まともに動く両手で屋根板をどかそうと試みるも、動く気配がない。
あまりのことに、呆然となるお京。その時、追い討ちをかけたのが体の異変だ。両足の感覚がない。こんな重たい物が両足に乗っている。なのに、痛みを感じないのだ。
お京の顔が、絶望に染まっていく。その姿を見て、男たちは笑い出した。中でも、小柄な男がしゃがみ込む。
「かわいそうになあ。上手く逃げられたかもしれないのに、屋根の下敷きになるとはよ」
不気味な表情を浮かべ、手を伸ばした。お京の顔を撫で回す。
お京は、死が迫っている事実を悟った。知らず知らずのうちに、体が震え出す。
「助けて……お願い。何でもするから、助けて」
口からは、そんな言葉が出ていた。目の前にいる男たちが、村の人間を殺したのは明らかだ。両親を殺したのも、こいつらだろう。
だが、そんなことはどうでもよかった。死への恐怖が、お京の心を支配していた。死にたくない。目前に迫る死を避けるためなら、何でもする。親の仇にも、助けを求める──
だが、返ってきたのは非情な言葉だった。
「悪いがな、俺たちは疲れちまったよ。もう帰る」
小柄な男は、そう言って立ち上がる。他の男たちも、自分のことは見ようともしていなかった。
「さあ、江戸に帰ろうぜ」
「ったく、骨折り損のくたびれ儲けとは、このことだな」
口々に言いながら、男たちは去っていった。このままでは、確実に死んでしまう。
お京は、半狂乱になった。恥も外聞もない。ただ死にたくなかった。
「待って! 行かないで! お願いだから助けてえ!」
必死の形相で叫ぶが、男たちに止まる気配はない。その姿は遠くなっていく。
だが、ひとりの男が足を止めた。こちらを向き、すたすた歩いて来る。頬は痩けているが、着物の袖から伸びる前腕は太く筋張っていた。目には異様な光が宿っており、強い意思を感じさせる。他の者たちとは、明らかに人種が違っていた。
お京は一瞬、助けにきてくれたのかと思った。だが違っていた。男は、お京から一間(約百八十センチ)ほど離れた距離で立ち止まる。その場で、懐から紙を取り出した。
紙を地面に置き、石を重しの代わりに乗せた。
「私の名は、雉間正厳だ。万が一、お前の命が助かるようなことあった時のため、村人の仇である我ら四人の名をここに記した。もし、その気があれば仇討ちに来るがよい。待っているぞ」
そう言うと、雉間は背を向ける。
そのまま、足早に去っていった。
・・・・
お京は、声をつまらせながら語り終えた。その瞳には、涙が溢れている。
その時、お花がそっと手を伸ばす。お京の肩に腕を回した。お京は、彼女の胸に顔を埋める。やがて、嗚咽の声が漏れ聞こえてきた。
重苦しい空気が漂う。皆、無言のまま座り込んでいた。
しばらくして、お七が口を開く。
「その後、たまたま通りかかったのが、あたしだったってわけさ。もし、ほんの少しでも時間がずれていたら……あたしも村の人と一緒に殺されていたか、あるいはお京が死んでいたか。本当に、運が良かったとしかいいようがないね」
しみじみと語る。すると、お京が顔を上げた。
「違うよ。おばさんをあたしの所に呼んでくれたのは、死んでいった村のみんなさ。村の人が、あたしを生かしてくれたんだよ……仇を討つためにね!」
鋭い形相で怒鳴ったお京を、お七は憐れみの目で見つめる。
ややあって、視線を逸らした。
「村の人たちは、本当に復讐を望んでいるのかねえ」
呟くように言った。直後、どすんという音が響く。お京が拳を振るい、床を殴りつけたのだ。
「何が言いたいの? 答え次第じゃ、おばさんでも許さないよ」
お京の目には、殺気が宿っている。お七は、悲しげな表情で目を逸らした。
「気に障ったならあやまるよ。ごめん」
その言葉にも、お京の機嫌は治らない。ぷいと横を向く。すると、左門が口を挟んだ。
「話を続けるぞ。とりあえず、俺が残りの三人を見つけてやる。で、うちひとりは、見つけ次第すぐに教えるよ」
「けちけちしないで、全員教えてくれりゃいいじゃないか。しみったれた男だね」
お七の厭味たらしい言葉に、左門は苦笑した。
「そうもいかねえんだよ。こっちも仕事なんでな。お前らには、きっちり働いてもらわねえとならねえ」
言った後、お京の方を向いた。
「お京、残りの三人の名前を教えてくれよ。必ず見つけてやるからさ」
三人の名前を聞き終えた左門は、掘っ立て小屋を出て行った。歩きながら、溜息を吐く。
「面倒なことしてくれたなあ、雉間さん。あんた何を考えてるんだよ……」
顔を歪め、ひとり呟いた。