2-4 オルナ町へ
2-4 オルナ町へ
獣道と呼ぶには舗装され、道路と呼ぶには荒れ果てている道が続いている。周囲と比べ平らではあるが土の柔らかい感触が足から伝わり、湿った青い匂いを放っていた。それでも道としての利用は想定されていないのだろう。まず、人が往来する道なら必ず“あるべき物”が存在しないのだ。それを証明するように実際二週間の間、通ったのは僕とエレノアだけで、間違いなくいつもはエレノアしか通らないから存在しないのだろう。
ふと見上げれば大木の枝に栗鼠がいる。隣の木には見慣れない果実が成っていた。湿った青臭い空気は冷たくて所謂“空気が美味しい”場所だった。実際、この森に来てから何だか肺から潤うような心地良さ、非科学の極みだがそんなものを感じているのは事実だ。
道と呼べない道を数十分歩き続ければ、やがて靴底に感じる感触が固くなる。森林の中の水気をよく含んだ土が乾いたものへ変化する。広葉樹が大きく葉を広げ太陽を遮っていた森の中心部から木々が減り、地面へと日光が当たるようになった証拠だ。
土と水と草の匂いが薄くなり、大きな門が視界に飛び込んでくる。森の出口だった。
「前から思ってたんだけど、この道ってエレノア専用だよね」
「まあ、そうね。ほら一応看板も出してるし」
木々の群れから抜け門を潜った先には舗装された道と草原が広がっている。エレノアは門の前に立ててある石でできた文字が彫り込まれた看板を指差した。
“この先、オルナ森。私有地につき、許可された人間以外の立ち入りを禁じます。エレノア魔法薬局に御用の方は直接来店ではなくオルナ町郵便局から魔法便、もしくは電話をおかけください。電話番号は……”
要は「迷うから勝手に入るな。用があるなら魔法便か電話で聞く」という忠告だ。
「でも全部がエレノアの土地じゃないんだっけ?」
「そのあたり説明すると複雑なんだけどね。一応私の所有地はあの家と温室や庭なだけで、森は公の土地なのよ。ただ森全体の管理の委託と契約が複雑で……実質私が管理しているようなもので……前にも言ったっけ」
「うん。要は森に勝手に入るなってところだけは」
「迷いやすいの、この森。森の中に漂う魔力が人間の認識を歪めてしまうから。熟練の魔法使いなら私の痕跡を辿って薬局まで来れるけど、道だって無いようなものでしょう。他の人はもっと大変だし、それをオルナ町も理解しているからこんな看板を立てるのを許可してくれてるの」
拳で石の看板を軽く叩き「さて」と呟く。舗装された道路に僕達は立っていて目の前には草原が広がっている。けれど左側からは森の中からは決して聞こえない騒めきが絶えず耳に飛び込んできていた。
雲に隠れていた太陽が顔を出せば僕達の顔に大きな影が落ちる。左を向けば大きな壁がそそり立ち、僕達の身長の何倍もある両開きの門が待ち構えていた。
「もうあなたも“顔パス”みたいなものだけど」
エレノアがその門へ近づく。僕も後へ続きポケットをまさぐった。
「一応、法律だからね。町へ入る場合は衛兵に身分証を見せること」
衛兵が僕達に気づいたのか手を振ってくる。エレノアがぶんぶんと右手を大きく振り返して「お疲れ様です!」と叫んだので僕も軽く会釈をする。
手続きをすれば門が開かれる。騒めきが一層大きくなり視界いっぱいに色彩豊かな建物が広がった。
「オルナ町へようこ……ああ、エレノアさんにフィンレーさんですか。お疲れ様です!」
兵士の一人に笑顔で返し、僕達は森のすぐ近くに栄えるオルナ町へと足を踏み入れる。そこは森とは全く異なる世界だった。
クリーム、水色、ピンク、赤、オレンジ、ミント等……色彩豊かな外壁の建物が大通りを挟んで並んでいる。屋根の形は切妻や寄棟と呼ばれる三角形に近いものが多いが、真っ平なもの、逆にドーム状の物もある。三角屋根の勾配がそこまで高くないところを見ると、おそらくオルナ町周辺は冬に雪が降りにくい温暖な気候なのかもしれない。外壁と同じくカラフルなそれは建物の上で存在を主張していた。基本的には二、三階建てでそれ以上の高さのものは一戸建てではなく商業用ビルかマンションだろう。それらもとにかく鮮やかな外壁で幼い頃に見たクレヨンが並んだケースを思い出した。
それが敷き詰められた左右の中央に伸びるのが大通りだった。車道も歩道も煉瓦状に敷き詰められた濃いグレーの石畳だが歩道の方が踝分ほど高い段差ができており、更に街路樹と常夜灯が境を作っていた。
「エレノアちゃんおはよう! 昨日うちの旦那が大量に芋を仕入れてきちゃってね。コロッケを沢山揚げちゃったんだけど、どう? 一つ一割、二つ以上なら二割引いちゃう」
「おはようございます、アナさん。そうね、帰りに寄って行ってもいいかな?」
「僕は君についていくよ」
緑と白の縦縞模様の店舗テントの中のカウンターからアナさん──惣菜屋の店主だ──が朗らかに声をかけてくる。すると奥から「悪かったな。でも良質な芋で!」と擦れた、しかしはっきりと低めの怒鳴り声が聞こえた。
「アンタはいつも良いモン見つけると大量に仕入れて! 売り上げってものを考えろって口を酸っぱくして言ってるのに!」
アナさんがカウンター奥へ振り向き吠えるように声を張り上げる。
「お客さんの幸せが料理人の幸せだろう!」
「お客さんの前にアタシを幸せにしてちょうだい!」
「ぐうう」と呻き声がカウンター奥からして態とらしい咳払いが騒めく大通りまで聞こえる。今日も“喧嘩”はアナさんの勝利だ……僕がエレノアの家で暮らし始めてから一度も配偶者であるゴードンさんが勝ったの見たことないけども。
「すいませんねぇ」
「いえ。正直面白いと思って見てますので」
「エレノアちゃんのそういうところ好きよぉ。ほら、フィンレー君も。コロッケ五つはいけるだろう」
「五つは……無理じゃないでしょうか」
昼に二つ、夜に三つって計算なんだろうか……アナさんとゴードンさんの惣菜は美味しいが、そこまでコロッケまみれの食卓にする気はない。
「おや。うちの旦那がフィンレー君くらいの歳の頃は一食十個は食べていたのに」
「ゴードンさん、大食漢ですからねぇ」
「そうそう。初めてのデートでお弁当を……あら、ごめんなさいね。引き留めちゃって」
アナさんが照れ臭そうに頬に手を当てる。正直これから始まりそうだった“惚気話”が気になるが、長くなるのは御免だった。
「いえ。今度聞かせてください」
「え? 何をだい?」
「馴れ初め話の続きですよ。気になっちゃって」
エレノアが悪戯っぽく目を三日月の形にすれば、アナさんが豪快に大口を開けて笑った。そうして二三言会話をして立ち去る。これもすっかり覚えてしまったいつもの場面だった。
「おや、エレノアちゃん。今日もお疲れ。今日はハムが安くて」
「ありがとうございます。前に買ったのが残っているからどうしようか考えさせてください」
「エレノアちゃん! ファムベリーのジャムが安い……って薬局の店員さんに勧めるのは違うか」
「ジョージさん。私はジャムは売ってないので専門外です。帰りに寄らせてもらいます」
門を入ってすぐの左側の歩道には主に食べ物を取り扱う店舗が並んでいる。朝にも関わらず沢山の人で賑わうこの通りは、行き交う人々の胃袋と財布を狙った店員の快活さを煮詰めた声が響き渡っているのが常だった。うっかり足を止め捕まってしまった見かけない顔──身なりからして行商に来た者か冒険者だ──の男性が遅めの朝食に、とサンドイッチを選ばされていた。
「慣れた?」
「うん。始めはびっくりしたけど」
「こんな草原のど真ん中でどうしてここだけ栄えているのって思ったでしょ? 許可を取れば誰でも商品を売れる広場があるから行商人や冒険者がよく立ち寄るのよ。海か川に面していればもっと交易が盛んで更に大きな都市になっていたと思うわ」
「エレノアは出店しないの?」
「配達依頼で手一杯でしょ」
籠に視線をやる。籠から溢れんばかりの紙袋が言葉より雄弁に物語っていた。これじゃあせっかく利用代を支払って出店しても、午前中すらもたないだろう。
「それにしても繁栄し過ぎじゃない? 隣のノリカ町はもっとこじんまりとしてた」
「この町、初代町長が反骨精神に溢れててその理念で大きく発展したのよ。その精神が今でも残っていて現町長も町の皆もそういうところがある」
「どういうこと?」
反骨精神。思いがけない言葉に首を傾げればエレノアが緩く笑った。
「ここいら一帯の町、エイタ領の領主ってのは昔から非常に領民を最優先で守る信念を持っていたの。統治を支える者もそれに従い、今よりも貴族の権力が強かった当時でもその信念だけは貫かせた。民を最優先に我らは尽くそう、と」
「いいことじゃないか」
「ええ。それ自体はとっても真っ当。どこかの国王にも見習ってほしいくらい」
僕の苦笑いを横目で見つつ、エレノアは続けた。
「でも、手段が非常にまずかった。今よりも人の命が軽い時代でも他領から口は出さずとも眉を顰められるくらいには。……冒険者に面倒ごと、荒事を全部押し付けたのよ。命を使い潰すなら領民ではなく余所者と、そんな政策を取った」
「まいど!」と声が背後からする。後ろを向けば僕と同じような鎧を纏ったおそらく冒険者の女性が紙袋を受け取り軽く会釈をしていた。
左から視線を感じる。エレノアがじっと、気がつけば立ち止まり頬を強張らせた僕を見つめていた。
「詳しくは省略するけどエイタ領の中央はここよりも交易が盛んで、行商人や冒険者の往来が下手したら今よりも多かった。さて、領民は労働を以って金を生み出し、税を納め領を豊かにする。一方で行商人や冒険者達は自らの仕事を行ない交易で以って領内の経済活動の多くを支えているが、税金の支払いには当時の制度だとほぼ関与しない。そんな時に誰かを犠牲にしなければならない……例えば突然魔物の群れが町へ向かっているなんてことがあったら領で鍛え上げた兵と冒険者“どちらを処理に向かわせ、犠牲にするか”。つまり、金で……支払う気のない金額を見せつけて依頼をする体で冒険者を犠牲にして領民には兵を含め傷一つ負わせなかった。表向きの無血解決ね」
「でもそれは……」
「ええ。ちっとも無血じゃないし、大問題。当時から様々な議論が領内でも行われた。まずそもそも誰も犠牲にならない方法を生み出し施行するのが行政の在り方だという意見。当然これが一番真っ当で支持されるべきなんだけど、当時の領主様は嫌がったみたい」
店舗と店舗の間に細い道がある場所に来る。エレノアが僕の腕を引っ張りそちらへ指をさす。そこに身を潜めるように進み、エレノアは口を再び開いた。
「長くなりそうだし……とりあえず当時あった大きな声と顛末だけ伝えるわ。『となれば誰を犠牲にするか。領の問題だから冒険者に任せるのが間違いだ。でもだからといって大切な領民を犠牲にするくらいなら余所者を使おう。いや、その余所者のお陰で交易が盛んで領内の経済は潤っているんだぞ。冒険者や行商人が寄り付かなくなったらエイタ領はお終いだ。しかし、お前は向かいの家の一人息子が死ぬのとやがて去って行く人間、どちらの死が悲しいのだ』……そんな意見が飛び交いつつも結局現状維持を貫いた」
「一番合理的だから……? 金も労力も使わず、領民も減らさずに何処からかやって来る人間が表向きは契約に従って戦い死んでいくだけ。別の場所へ旅立つのも死亡するのも領内から去る点では変わらない。……自分の知り合いの一人息子が死ぬよりかはずっといい、そういう決定を?」
「私もあなたも色んな意見や感想を持っているだろうけど、とにかく事実としてそんな手段を以てエイタ領は繁栄を手に入れた。冒険者や行商人の交易の利益だけを貰い、使い捨てる。今より情報伝達技術が発展していなかったから冒険者を払う気のない対価で釣っていることも伝わらなかったのでしょうね。周囲の領地も他領だから、というよりそれが一番合理的で非難を浴びないのであればやりたい手段だから否定できなかった。領民だってそう。自分の身内が死ぬ可能性を考えれば、自分達が死ぬ可能性を想像してしまったらエイタ領主の政策を否定するのは難しかったんでしょうね」
頷きもせず黙っていればエレノアが泣きそうな顔を一瞬作った。
「……そんな中、不満を持った冒険者と町長が同盟を結び反抗し始めたのがこの町なのね。冒険者や行商人との契約の体勢を整えてリスクをきちんと提示し、ある程度は報酬を前払いで支払う。そして逆に冒険者や行商人側も交易を行なうための対価を支払い出した。当時は町中で何処でも構わず商売を始める者達が問題になっていたのは事実で、その退去も兼ねて領主の政策が一応支持されていたから。そのあたりを話し合ってルールとして定めたの、実はエイタ領内ではここが発祥なのよ。で、領内で突然反乱の如くトップの政策を否定するようなことをやりだして大揉め。一時期は領主自ら支援を打ち切り、実質後ろ盾なしの独立地区として何とかしなければならなくなった」
「それでも結果的に繁栄した?」
「そう。悪質な高リスクな場所より安全な場所へ。至って当然な理由で冒険者や行商人はオルナ町へと流れ始めた。少なくとも冒険者や行商人を中心とする交易がエイタ領の中で当時一番の売り上げやら何やらを叩き出し、そうすれば金の匂いを嗅ぎ付けて、外部からの“お客様”を受け入れるための商売が次々と始まり、定住する人も増える。宿泊施設に飲食店、旅に必要な道具屋……魔物に対抗するための兵士を鍛え上げる施設も増え、対価を前払いした冒険者と共に戦う体制を作り上げた。そうやって町の規模を拡大していって交易の利益が領一番となった時、遂に領主との和解交渉。表向きは領主側がオルナ町の“反乱”を許す体だったけど、実際はオルナ町の政策をエイタ領側が取り入れて現在まで至るって感じね。……と、そんな事情でできた町だから今でも“上に”良くも悪くも逆らうことを躊躇わない反骨精神溢れる奴が選挙で町長に選ばれるし、冒険者や行商人を快く迎え入れてる。さっきの話の広場はまさにその象徴。まあ、その代償に今でも領中央とこの町はあまり仲良くないんだけど……。だから」
エレノアが一歩僕の方へと足を踏み出す。その瞳に一瞬悲しみのような感情が揺らいだ気がして、思わず後退りをしそうになった。
「フィンレー。この町の人達は皆、外から来た人間に好意的よ。冒険者保護施設を始めとした公共の援助も充実しているし……だから安心して過ごしてね。何かあってもきっと助けてくれる人はいる。余所者という理由で拒むことはないわ。一応……私もこの町の住民扱いだし」
ドクンと心臓が跳ねた。僕のことを気遣っていてくれるのは分かる。けど。
エレノアはそれだけ言うと「やっぱり長くなったわね。行きましょう」と路地裏から出る。光が当たる大通りで僕を手招きしていた。
──やはりエレノアは全てを知っているのでは?
口の中が乾いてくる。この町は本当に余所者の僕を迎え入れてくれている。だからこそ背筋が冷たくなっていった。
路地裏から出るのを一瞬躊躇いながらそれでも今は“この町の住民”でいようと光当たる世界へと戻っていった。