2-1 アイネの実を探す冒険者
2-1 アイネの実を探す冒険者
意識の浮上と共に窓から差し込む光が瞼を開けろと撫でる。ゆっくりと重いそれを開き上体を起こしながら目を擦った。
体温が移り生温かい毛布から名残惜しいけれど這い出る。ベッドがミシリと軋んだ気がした。欠伸をかみ殺しながら着替え、僕はドアノブに手をかけた。
「あら、フィンレー。おはよう」
ドアを開ければすっかり身支度を整えたエレノアに微笑まれる。参ったな。僕はまだ顔も洗っていないのに。ばつが悪そうに頬をかけばエレノアが一層笑みを深くした。
「寝坊じゃないって。寧ろ早いくらい。ほら、顔を洗って。朝食は昨日の残りのスープとパンでいいよね」
「皿は僕が洗う」
「あら。じゃあお任せするわ」
そう告げるとエレノアは右手を差し出し階段の方へ向けた。先に降りて、ということらしい。お言葉に甘えてなだらかな段差を一つ一つ降りていく。そして一階正面の洗面所の扉をあけ蛇口を捻った。敢えて冷たい水を出し顔に叩きつける。ぼんやりとしていた意識が覚醒していくと共に家の奥──店のカウンターとは真逆の位置にあるリビングダイニングの方だ──からトマトとバターの良い香りがする。昨晩のトマトとチキンのスープを思い出し口内に唾液が溜まっていくのを感じた。
子どもみたいだ。苦笑しながら足早に奥の部屋へと向かう。深めの皿にスープをよそっているエレノアの隣に駆け寄って、トースターの中でじっくり焼かれているミルクブレッドのための皿を戸棚から出した。
「あなたも慣れたものね」
「居候の身だから。これくらいはさせてほしい」
「あと二週間。収穫まではゆっくりしていってちょうだい」
そう口にしてエレノアはじっと僕の顔を見つめる。
「どうしたの?」
「やっぱり顔色がかなり良くなったって思って。でも慢性的な軽い疲労が残っているのよね? 念のためここにいる間は栄養薬はまだ飲んで。それからここを出て行ったらちゃんと一度は病院にかかるのよ」
「わかってるって」
チンと甲高い音を立てたトースターからミルクブレッドを取り出す。僕は固めのパンが好きなのだけれど、エレノアは表面はパリッと、中はふわふわとした何もつけないで齧ればちょっとした甘さが口内に残るパンが好みだ。これはこれで、と美味しさに気づけたのは不幸中の幸い……とはちょっと違うけれど思わぬ収穫だった。
ダイニングテーブルにまずスプーンとマグカップを向かい合った席に並べる。更に二人してスープ、ブレッド、バター、ジャムを。エレノアが台所に姿を一度消して、それからポットを持って来て完成だ。
「今日はダーンエイにしました」
エレノアがカップに琥珀色の液体を注いでいく。
「紅茶? 僕、未だにダーンエイとホワイトエイの違いがわからない。ホワイトってついているのに琥珀色だし」
「ダーンはダーン地方がかつて輸出をはじめて世界に広がった茶……というか葉の種類のこと。ホワイトは茶葉にシラの実で香りをつけた紅茶を指す。シラの実が白いからホワイト」
「つまり……えっとダーンエイは葉の種類で」
「ホワイトエイは紅茶のアレンジ名ね。だからダーンエイの葉を使ったホワイトエイティーってこともあるの」
なるほど。……結局味の違いはわからないけど。納得した振りをして首を縦に振る僕を見抜いてかエレノアは、
「今度一緒に淹れてあげるわ。飲み比べすれば味の違い、わかるかもしれないでしょ」
と楽しげに頬を緩めた。
「いいの?」
「ここは薬草を中心に扱った薬局よ。それくらい……というか冷めちゃう。食べましょう」
ほら、促されて視線を落とせば真っ赤なトマトの海に広がるごろごろと切り分けられたチキン、白と黄金色の比率が美しい小麦粉の香りが豊かなミルクブレッド、件のダーンエイが僕達の胃に入るのを今かと待ち構えている。
ぐう、と腹が鳴った気がした。
「いただきます」
「いただきます」
声が重なり互いに無言で、食事を口に運んでいく。エレノアもお腹が空いていたのだろうと、そんな共通点に何となく胃だけではなく心の奥も温かくなった気がした。
◇◇◇
あの日ハーブティーを啜り終わってアイネの実を探して迷った、と告げればエレノアは腕を組んで溜め息をつきながらあっさりと言ってのけた。
「アイネの実なら外の温室で育ててる。上手く育てば収穫できるまでに一カ月くらいのところまできているわ」
首を捻り勝手口とは反対の窓を、何も見えない灰色のさっきまでいた世界の方を僕は目を大きく見開いて見つめた。ダイニングチェアやらフローリングやらが僕の身体から流れ落ちる水滴で濡れていく。靴を脱いだせいか──この国には東洋の文化を取り入れた玄関で靴を脱ぐタイプの家と、元からの靴を脱がないで室内を過ごす家が混在しているがここは前者だ──濡れた靴下が爪先を冷やしていく。借りたタオルはすっかり水を吸い切ってしまい、絞る前の雑巾みたいにじっとりとしていた。
瞬間、視界が白く染まる。ほのかな石鹸の香りにもう一枚タオルを投げかけられたのだと悟り頭をがしがしと拭く。
「えっと……初対面の人に言うことじゃないけど、できればその鎧を脱いでほしい。そんで風呂沸かすから入ってくれないかな。あと今日は空き部屋に泊まっていきなさい。少し埃っぽい部屋だけど、ベッドもあるし寝るのには問題ないと思う。雨はもっと酷くなって明日の朝まで降ると予報では言われてるから」
「変な意味じゃなくて風邪引き及び森の遭難者を出したくないだけ。結構深いのよ、この森」と付け加えてエレノアは溜め息をつく。さっき貰ったハーブティーのお陰で身体は温まりつつあるが、何せ全身びしょ濡れなのだ。根本的な解決には至ってないし、たしかにこのままじゃ風邪を引くだろう。鎧を伝った水滴がフローリングに落ちて小さな音を立てた。
「……失礼ですが、ここに住んでいる人間はあなただけですよね?」
「そうだけど」
僕は一度目を閉じ、そして開いた。
「……男性を一泊させるのは不用心では。大変ありがたい申し出ですが」
目の前の女性──店名のとおりエレノアに違いない──に善意から僕を助けようとしてくれている。そして僕もそれを無下にするような最低な行ないをするつもりは神に誓って無い。だが、自らの風邪を招いても今風呂には向かいたくない、躊躇する理由が僕にはあった。
「仮に自分に子どもがいたとして同じ対応を誰かに取ろうとしたら優しさを褒めつつ、キツく注意するわ。でも私なら大丈夫。こう見えて結構凄腕の魔法使いなのよ、ライセンスだってちゃんと持っている。何かあなたがしてきたら家の外までぶっ飛ばしちゃうんだから」
胸の前で握り拳を作りエレノアは口角を上げる。
「それにこんな辺鄙なところで一人暮らししている時点でそもそも不用心でしょう。要は大丈夫なだけのありとあらゆる策や力が私にはあるの。だから心配しないで。──それとも」
エレノアの笑みが意地悪く歪んだ。
「もしかして私のこと、昔話に出てくるような魔女だと思ってる? 風呂に入れて料理を振る舞って雨宿りに泊めて頭からバクッと食べちゃう、みたいな」
「……正直少し。あまりにも見ず知らずの僕に対して親切過ぎるから」
腰につけている剣の柄に手を軽くかける。エレノアは冗談を披露していて、僕は従っても食べられることはないのは当たり前だがわかっている。けど、それでも警戒を解けない事情が僕にはあるのだ。
途端、ケラケラと大口をエレノアが開けて笑い雨音が掻き消える。僕がポカンとしていれば髪から水滴が首筋を伝っていった。
「もう、冗談だって」
「それはわかります。けど」
「たしかにあなたには“事情”があるみたいだし」
ドクンと心臓が跳ねた。
「アイネの実……魔力が満ちた肥沃な土地でしか咲かない希少なアイネの花が咲いた時におしべとめしべの間にできる輝く鉱石のような実。実というよりもその質感、重量、輝きはどちらかといえばダイヤモンドに近く、更にダイヤモンドよりも価値がある。大きな……赤ん坊の頭くらいの大きさでかつ純度の高いアイネの実は魔除けではなく、魔物そのものを封じる力を持つからね。最近じゃこれは迷信だと言われているけど」
「迷信じゃない……のですか? 僕はてっきり絵本の作り話かと」
「表社会の市場に出回ることは十数年に一度程度くらいで確かめる術も実用性もないからね。だから今では魔物を封じるという実利的な理由ではなく、貴族社会でこの実を綺麗に保管して加工したアクセサリーを送ることを最大の愛情表現だとする妙な慣習ができて、貴族が僅かなそれを高額な値段で買い占めようとしているのが現状。早い話がアイネの実は今どんな宝石よりも価値のある果実で、大きなアイネの実を手に入れれば一攫千金のチャンス。誰でも一度は近所の庭や野原に“もしかして”と探したことのあるものね」
「でも大半の人間は本気ではないし、すぐ諦めます」
「ええ。まず、一攫千金を狙える程の魔力が満ちた肥沃な土地。その他諸々のアイネの花が咲く条件を満たす土地なんてものが世界中どこを探しても見当たらない。未開の森の奥……くらいしかなく、そんな場所に行ける奴は殆どいないからね。命の方が大切でしょう?」
「はい。……もしかして怒られてます?」
「察しが良くて助かるわ」
決まりが悪くなり目を逸らせば、コホンと咳払いをしてエレノアが続けた。
「じゃあ、栽培すればいいと多くの者は考えた。何とか手に入れた種や株を育ててみたけれど、枯らしてしまった奴が殆ど……アイネの花自体の育成難易度が非常に高いのよ。常に一定の高濃度の魔力で管理しなければならない……その時点で大半の人間は栽培からの入手を諦めるわね。そして仮に花を咲かせられるとしても一攫千金できる程のアイネの実が生ることは本当に稀。高濃度の魔力を注いだから大きな実をつけるとは限らない。アイネの実の大きさについてはまだ解明されていない。サンプル自体が少ないから」
「元々人間が手にすることが稀な上に、殆ど枯らしてしまう。運よく実が成ったら自分で売ってしまうから……ですよね」
「そう。だから今ではアイネの実はさっき言ったとおり優れた魔力を持つ魔法使いを抱え込める貴族、その中でも失敗を当たり前として財を注げる僅かな上澄みのみが手にする希少種となっている」
「じゃあ、何故あなたの庭には」
「私みたいに薬草売りを仕事としている魔法使いは独自の情報網を持っていて、稀に種だけが回ってくる。要は貴族のお偉いさんが成功できる人材を探してるのよね。限られた魔法使いに流通させ、誰か成功したらそのまま種の所有権を主張して外堀を埋めて自分の傘下において育てさせるのよ。まあ、成功した例はないみたいだけど」
「それは知らなかったです。……その、例というのはあなたを含めて?」
「痛いところをついてくるけど……そうね。だから私達も運良く苗や種を入手できれば“当たれば儲け”くらいの精神で栽培に挑戦している。遊び半分でやる賭博に近い」
ぴしゃん、と腰の剣からフローリングに水滴が落ちて水溜まりの一部となる。
「……知っていると思うけど一般の人間はもう誰も育ててすらいないわ。種が手に入らないのもあるけど、すぐ枯れてしまうどころか芽も出ないしそんなものより野菜でも育てた方がよっぽど有益だからね。それに自生している花の発見がほぼ不可能だとわかってから二十年前にアイネの実を求めた探索の流行は冒険者界隈では終わってしまっている。だから今アイネの実を探しているなんて名乗る人間は本当に探し求めている酔狂なロマンチストの冒険家。貴族は探しているのを公にはしないだろうし」
「しないんですか?」
「言ったとおり自然に生えているアイネの花を見つけるのなんて酔狂な望みだからね。私財を投げ打って探そうなんて『私は金を溝に捨てます』と臆面なく言っているのと同義よ。だからその場合は例えば森の奥地を工場にでもしようと開拓するだとか、地質調査に向かうだとかそういった表向きの理由をつけるの。だからその他でアイネの実探しを公言する者は……基本嘘をついている。しかもそれだけの大金が欲しい、“僅かな可能性にかけて一攫千金を狙うようなとびきりのとんでもない事情を抱えた奴”しかいないのよ」
僕は目を見張ればエレノアは顔を顰める。
「知らなかったの? アイネの実の事情は知っていたのに」
「冒険者の方で済ませてもらえるかと」
「アイネの実探しは基本的に過酷な土地へ旅となるため、様々な分野に秀でている冒険者達が組んで複数で行なうと相場が決まっているの。……まあ、これは魔法使いの情報網くらいしか出回っていない真実だけど。だから一人でアイネの実探しを名乗る奴は大体“黒”よ。今度つく時はもっとまともな嘘をつきなさい」
拙い嘘を見破りながらも、険しい顔を作りながらも声色は優しかった。
「あなたを迎え入れるのは私にとって別の意味で危険かもしれないわね。でも私は事情には干渉しないで保護だけ行なう。ここはただの薬局で、たまたま森をうろつく不審者兼迷子兼病人が訪ねてきただけだから」
「病人?」
「雨のせいだけじゃない。慢性的な疲労による魔力異常が顔に出てるわ。ここが薬局で良かったわね。サービスで魔法薬もつけちゃう。……ええと」
「フィンレーです」
「そう。薬局の名のとおり私はエレノア。店長でもエレノアでも好きに呼びなさい。フィンレー、“事情に免じて”店内での帯刀と鎧の着用を許可します。風呂場でも食事の場でもその剣を持っていていい。そして乾いたら鎧を着たままでいいから私のお節介を受け取りなさいな。その鎧、見たところ魔法を反射か無効化する術が込められているみたいだし、その鎧を着ている限り私の魔法はほぼ無力みたいなものよ」
「そこまでわかるんですか」
「凄腕なのよ、私。だから自分の限界も見定められる。とにかく」
エレノアが顎で僕の手にしたびしょびしょのタオルを指し、手を出す。洗うということだろう。
「私からの誘いは以上よ。あなたの嘘の理由や抱えているだろう事情の詮索はしない、そして単なるお節介から風邪を引かせたり遭難させたりしたくないのでここでの一泊を提案している。そろそろ風呂も沸いた頃だわ。とっとと身体を温めてきなさい。そんで鏡で自分の顔を見てみなさい。その鎧よりも青白いんだから」
くしゅん、と小さいくしゃみが出た。呆れたとエレノアは鼻を鳴らす。たしかに寒気がしてきた。このまま彼女の助けを拒めば高熱で苦しみながら森の中で遭難して行き倒れ、魔物に襲われるか鳥の餌にでもなる末路だろう。
さて。どうするか。僕はそれでも顎の下に手を添え思考を巡らせた。考えなければならないことがある。彼女の提案を受け入れるか、断り、そして。
鎖骨くらいまでの長さのラベンダー色の髪を結わいた小柄な女性、自称凄腕の魔法使いで薬局の店長のエレノアはきっとたぶんただの良い人なのだろう。こんな場所に薬局を構えているし、間違いなく僕以上に何か事情を抱えているけれど。
僕には絶対にエレノアには言えないこの森で彷徨い、現在薬局のお世話になっている事情があった。任務を抱えていた。エレノアはきっと本当に僕のことを詮索してこない。あるいは。
じっとエレノアは僕の顔を見つめている。返事をゆっくりと待つと決めたらしい。
小さく息を吐く。身体の寒さに反して、息は熱い。疲労も溜まっているし、本当に風邪の引き始めかもしれない。
もしかして、エレノアは僕の事情を察している?
雨に冷やされた身体が一層冷えていく。背骨に冷たいものが走り手甲をはめた手を胸にやれば金属の摺れる音が耳障りに響く。僕の事情を本当に理解しているなら、提案の意味がわからない。何故、どうして。僕を一晩泊めるなんて真似をするのか。じゃあやはり何も気づいていない? それにしては彼女は妙に落ち着いている。まるで慣れっこだと言わんばかりに。風邪の引き始めではない感情による身体の揺れ動きは僕の思考を鈍らせる。くらくらと視界が揺れ始めた。
ああ、もう。
「すみません」
僕は寒さに負け、決断した。
「そうしたら今晩は何もしませんから……一晩泊めていただけませんか」
僕の絶対に明かせない、そして達成しなければならない事情に対して今取っている行動は僕の精神を今後揺るがすことになるリスクが非常に高い。だが、ある面では非常にチャンスでもあった。精神の揺らぎを振り切れば、決断できればだ。
アイネの実探しの冒険者──まさかこの嘘にそんな欠点があったとは。奥歯を噛みしめるよりも先に看破された手腕、知識に舌を巻く。知らない世界はいつだって鮮やかで高揚感を誘う。エレノアは見た目以上に手強い女性らしい。
では、どうするか。鈍ってきた思考では出せない答えに僕は匙を投げてもいいと決めた。つまり今考えてもこの冷え切った身体と脳では寧ろ失敗するだけだ。だからまずやるべきことは任務の達成のために身体を整えることだ。彼女が僕の事情を見抜いていればいくら善人でも泊めるなんてお節介を焼かないだろう──つまり彼女はただのお節介焼きの良い人だ──と決めつけるしかないが、僕がこれからやろうとしていることを考えれば危ない橋の一つや二つ渡っても足りないくらいだった。渡るなら今、むしろ殆ど崩れ落ちることのない橋だ。これくらいのリスクを背負わないでどうする。エレノアは、僕の事情までは察していない!
大きく深呼吸をする。僕なりの覚悟を今、決めた。身体を回復させた後に苦しまなければならない事情を更に抱える選択だ。それでも、任務を遂行すると決めた。エレノアの優しさを受け取り、そして──
「よし。素直になったわね」
エレノアが近づいてきて僕の肩を叩く。柔らかな手のひらが鎧の冷たさに触れ、「ひゃ」と上擦った声を上げた。
「さっき言ったとおり錆びる心配がないなら剣を持ったまま風呂でもいいから。ああ、初めての人の家の風呂ってわからないわよね。蛇口はレバーを左右に捻ってシャワーを切り換えるの。温度は左のハンドルで調整して。シャンプーは白いボトルで黒いボトルはリンス。身体用の石鹸は……見ればわかるか」
背中を押されるように僕は先に進まされる。ダイニングから廊下へ出て左手の扉を開ければそこに洗面所があった。奥の摺り硝子の扉が……風呂だろう。
「あ。下着どうしよう。さすがに未使用の私のは貸せないし」
「それは! 本当にやめてください!」
「わかってるわよ」
幸運なことに下着は濡れていない。だから多少汚いが裏返しにでもして履けば問題無い。
「大きめのシャツが上の戸棚に入ってるから良ければ使って」
「もしかしてその……実は恋人と暮らしているとか。大丈夫なんですか? 浮気を疑われたり」
「違う、違う! そんな奴はいない!」
ミシリ、と木製の棚が軋むような音がする程叫び声が響く。悪いことを聞いてしまった。
「前に景品で貰ったの。買い出しに行った時、くじを引いて」
「捨てるのも勿体ないからそのまましまっていた」とだけ吐き捨ててエレノアは背を向けた。
「あの……」
去って行こうとする──そりゃこれから僕は全裸になるのだから当然だ──エレノアの背に申し訳なさそうに声をかける。謝罪してもし足りないのだろうけれど。
「ありがとうございます。お陰で本当に死なずに済みます」
「人の好意は素直に受け止めることよ。あ、それと」
背を向けたままエレノアが聴き心地の良い声を紡ぐ。結わいたラベンダー色が少しだけ揺れた。
「あなたの事情は詮索しないけどアイネの実を探してるなんて言う奴は大抵金に困ってるのよ。さっき言ったとおり──アイネの実が成る可能性は限りなく低いし、成ったとしてもあなたにタダであげる義理は流石にない。けれど……この薬局の手伝い、それ相応の働きをしてくれれば賃金を支払うわ。まあ、その『疲れて死にそうです』って体調を整えてからでいいけど。そうね、最低でも十五万アン以上は保証する。加えて小さな……貴族が見たら鼻で笑うような、売れば二泊三日の旅行に行ける程度の金になるアイネの実も報酬の一部として払うことはできるわ」
「それって……」
つまり最低一カ月、何よりアイネの実が成るまではここに置いてくれる、ということだろうか。
「あれは二泊三日よりも高そうだと思いますが」
「ま、アイネの実については成るかはわからないし、私だって金持ちじゃないから高めの賃金を払うなんて御免よ。ただ、あなたの事情が金絡みなら“協力”することはできるかもしれない。……詳細はその身体を温めて、胃袋を満杯にしてから話すわ。あなただって色々考えたいこともあるでしょう。それじゃあ、今度こそ」
ガシャン、と洗面所のドアが大きく音を立てる。洗面所の鏡には呆然とした僕の間抜け面が映し出されていた。
どうやら此処まできて僕はとことん“ついて”いるらしい。鏡の中でほくそ笑むような意地の悪い笑みがゆっくりと形作られていった。