縁切り神社
午後四時過ぎ。営業の外回りで最後の訪問先を終えた帰り道、ふと足元を見ると、アスファルトが濡れていた。つい先ほどまで雨が降っていたらしい。
湿り気を帯びた空気がまとわりつくように重たく、いつもギラつく太陽も今日は雲に隠れている。胸の奥がじっとりと滲んでいく。
客の前でつけていたマスクを外すと、溜めていたものを吐き出すように深いため息が漏れた。
今日はもう、このまま帰ってしまおうか……
訪れたのは、郊外にある錆びた看板の寂れた工場。出てきた工場長は、自分が最も苦手とするタイプの人間だった。
理不尽な要求。無茶な納期。そして、自分の知識の無さを棚に上げ、人の揚げ足ばかりを取ろうとする――。
あんなやつでも、俺より稼いでるんだろうな……
胃がきゅうと重くなるのを感じながら、職場の方向へと歩を進める。
逃げるように異動願いでも出せればいいが、それも叶わない。何より、営業職である以上、こういう「ハズレ」は避けられないのだ。
その時、ふいに「ぽたり」と頭に冷たいものが落ちた。
雨の残りだろうかと見上げた空には、雲ばかりで何も落ちてくる気配はない。再び視線を戻すと、目の前に朽ちかけた鳥居が現れた。
蔦の絡まった木製の鳥居の下、薄れかけた文字で「縁切り」と書かれた看板が、風に揺れていた。
縁切り……?
仕事帰りの疲労と、心のどこかに澱のようにたまった苛立ち。その全部を断ち切ってくれるような言葉に、不思議と足が止まった。
気がつけば鳥居をくぐり、長い石段を無言で登っていた。
汗が滲む額を拭いながら登りきると、山の上には小さな社がぽつんと建っていた。
傍らには粗末な賽銭箱と、もう一枚の木札が立てられている。そこには、達筆ともつかない、歪な筆跡でこう記されていた。
〈願イ事アラバ、神ノ意思ニ添イ、壱千円入レルコト〉
千円とは、強気な神様だ。
半笑いで小銭入れを開くと、中には一枚の硬貨も入っていなかった。最近はキャッシュレスばかりで現金を持ち歩いていなかったのだ。
少し悩んだ末に、千円札を一枚取り出し、賽銭箱に差し込む。社前の鈴の縄を引くと、乾いた音が木霊し、空気が張りつめるような気がした。
二礼二拍手。
誰に教えられたわけでもない、手順通りの儀式。
そして、千円分の本気を込めて、念じる。
どうか……あの工場長の担当から外れますように。もう二度と関わらずに済みますように。他にも嫌な取引先、全部……全部切れますように!
最後に一礼をして顔を上げた瞬間、そこに「何か」がいた。
ぞわりと全身の毛が逆立つ。
人型……? でも、明らかに“人”ではない。毛むくじゃらの身体に干からびたような長い手足、ひび割れた爪。真っ黒な目と、ぽっかり空いた口の奥はまるで底なしの闇のようだった。
「ひ……っ!」
声にならない声が喉の奥から漏れ、思わず一歩後ずさる。だが足がもつれて転びそうになる。膝が笑って立っていられない。
――なんだあれは……!? 見てはいけない、近づいちゃいけない……!
必死に息を殺すように呼吸を整え、目を逸らしながら恐る恐る顔を上げたが、もうそこには誰もいなかった。
「い、いない……?」
空っぽの社を見つめながら、全身が汗まみれでびっしょりになっているのに気づく。手が震えて鈴縄を掴んだ感触さえ曖昧だった。
恐怖で固まった体を、どうにか無理やり動かして社に背を向けた。
一刻も早くこの場を離れたかった。走るというより、逃げるように階段を駆け下りる。
そのとき、視界の端に何かが入り、思わず足を止めた。
……看板? こんなところにあったか……?
石段の脇、帰る人間の目線に合わせるように設置された古びた木の板。その板に、墨が滲んだような字で、こう書かれていた。
〈神ニ感謝セヨ 礼ヲ以テ示セ〉
見た瞬間、背筋が凍りつく。まるでこちらを咎めるような文字だった。
「……礼……?」
息を整える間もなく、再び足を動かす。見てはいけないものを見てしまったのに、その“何か”がまだ自分を見ているような気がしてならなかった。
再度鳥居をくぐると、空気が一変した。
さっきまでまるで時間が止まっていたかのように静かだったのに、今は蝉の声が耳を劈くほどうるさく聞こえる。サンダルを引きずる老人が、日常の音を取り戻したかのように通りを歩いている。
額から流れ落ちる汗を手で拭った。だがその手はまだ微かに震えている。
老人がゆっくりと近づいてきた。
「……あんた、そこから降りてきたんか?」
声に詰まって何も返せなかった。背中を冷たい汗が伝う。口を開いても声が出ない。
「ここの神さんはな……ちぃと話が通じんとこがある。あんまり、関わらん方がええで」
ぼそぼそと、まるで念を押すようにそう言うと、老人はそれ以上何も言わず、サンダルを引きずって去って行った。
意味がわからなかった。……いや、考えたくなかった。
あの社で見た“なにか”が脳裏にチラつくたび、心臓がぎゅっと握られるような気がして、頭の中が真っ白になる。
看板の文字だけが、妙にくっきりと浮かび上がっていた。
〈神ニ感謝セヨ 礼ヲ以テ示セ〉
意味なんて……わかるわけがない。
『プルルルル、プルルルル』
ポケットのスマホが鳴った瞬間、心臓が飛び出そうになった。震える手で画面を見ると、会社の番号が表示されている。
とりあえず出なきゃ、と反射的にスライドして耳に当てる。
「……お疲れ様です……」
震えた声をどうにか絞り出すと、電話の向こうから上司の焦った声が飛び込んできた。
「おい、今どこにいる! ◯×工場から緊急で連絡があってな、機械が暴走してるって言うんだよ! お前、近くなんだろ、様子見てくれ!」
思考が一瞬止まった。
……え? 暴走?
「……あ……はい、わかりました……」
言いながら、心臓がバクバクとうるさい。
何かがおかしい、でも何がおかしいのか、うまく考えられない。
ただ、嫌な胸騒ぎが収まらないまま、来た道を引き返し始めた。
途中、サイレンが近づいてくる音が聞こえた。救急車が視界をかすめ、パトカーの音も背後から迫る。
道の先、◯×工場の前にはすでに赤色灯の光が渦を巻いていた。
震える足で門をくぐる。出入り口の前には社員が数人集まり、顔を青ざめさせていた。
インターホンを押し、口が乾いたまま名乗ると、すぐにドアが開いた。
「早く! 早く来てください! 工場長が……機械に……!」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「……え? 挟まれた……?」
言い返す前に、腕を引っ張られて中へと連れて行かれた。
納入してから何年も経つ裁断機が、異音を立てながら動いていた。
誰かが電源を引き抜き、何人もが緊急停止ボタンを押している。なのに、止まらない。
ゴリゴリ……という音が、骨の奥まで響いた。
「いた……い……! たすけてくれぇえぇぇええ!!」
工場長の、地を這うような声。
その声は次第に、ぐちゃ、と濡れた音にかき消され、やがて……聞こえなくなった。
足がすくんだ。叫ぶことも、逃げ出すこともできなかった。
目の前の現実が、現実じゃない気がして、思考がふわふわとどこかへ飛びそうだった。
機械がついに止まり、構内が一瞬だけ静かになった。血の匂いが、鉄と混じって鼻を突いた。
床は赤黒く濡れ、タンクの蓋は誰も開けようとしない。
警察の事情聴取が終わる頃には、あたりはすっかり夜に沈んでいた。
会社に電話を入れると、「今日はもう帰っていい」と言われた。自分の口から何を話したのか、もうよく覚えていない。
何かを飲もうとしても喉が詰まる。吐き気ばかりがこみあげてくる。
駅へ向かって歩き出した。風はひんやりしているはずなのに、体の奥がずっとじっとりと熱っぽい。背中に貼りついたシャツが気持ち悪い。
ふらつく足取りで道を進んでいると、あの神社の前をまた通った。
鳥居の前で、無意識に立ち止まっていた。
そこに、何かがいた。
毛むくじゃらの塊。野良犬かと思った。
だが――違う。
その塊が、ぐぐっと立ち上がった。
街灯の下、長く細い手足が浮かび上がる。影が、地面に異様なほど長く伸びていた。
目が合った。
真っ黒な瞳。笑っているような、感情の読めないその目。
ぞくり、と背中を冷たいものが這い上がる。
「……っ」
喉が音を飲み込んだ。呼吸すらままならない。
ソレは、ペタペタと足音を立てて近づいてきた。
視界がぐにゃりと歪む。息が苦しい。逃げたいのに、足が動かない。
真っ正面に立ったソレは、首を――
カクン、と梟のように折り曲げた。
骨があるようには思えない角度。
目の前で、じっと、こちらを覗き込んでくる。
ひゅ、と喉から空気が漏れた。体が硬直している。悲鳴も出ない。
ソレの口が、開いた。
空洞のような真っ黒な口から、音が漏れ始める。
〈カンシャセヨ カンシャセヨ カンシャセヨ レイヲダセ レイヲダセ レイヲダセ〉
意味が……わからない。
ソレは手を伸ばしてきた。細く、枝のような指先。ひび割れた爪が鞄を突いた。
ガツ、ガツ、と何度も刺されて、古びた鞄が裂ける。
「……っ、や、や……!」
声にならない声が漏れた。
バサ、と書類が落ちた。財布も、転がる。
ソレはそれを拾い上げると、にたりと目を細めて、ゆっくりと鳥居をくぐっていった。
ただ、それを見ていることしかできなかった。
震えた手がようやく動いたのは、ソレの姿が完全に闇に飲まれた後だった。
膝をつき、散らばった書類をかき集める。
目は潤んで、喉は焼けるように乾いていた。
それでも足を引きずるようにして、ようやく駅へと向かった。
⸻
部屋に戻っても、現実味は薄れたままだった。
手が冷たい。
財布はない。
……でも、生きてる。
ただ、それだけで。
思考が止まる。何を考えればいいのかすらわからない。
床にへたり込み、そのまま毛布を引き寄せるようにして丸くなった。
⸻
目が覚めたのは、喉の渇きだった。
体が重い。じっとりと嫌な汗をかいていた。
カーテンの隙間からも光は見えない。まだ、朝は来ていないようだった。
夢だったかもしれない――そう思いかけた時、視界に入った“何か”があった。
90度に折れた首。
真っ黒な目。
――ソレが、部屋の中にいた。
「……っ、……っ、……!」
喉が、また潰れる。叫べない。目を背けようにも体が動かない。
あの空洞の口から、あの声が響く。
〈カンシャセヨカンシャセヨカンシャセヨカンシャセヨレイヲダセレイヲダセレイヲダセレイヲダセ〉
細い指が伸びてくる。
部屋を見渡すその目が、段々と弧を描かなくなっていく。
代わりに、吊り上がった。
怒りが、そこにあった。
〈オンシラズ オンシラズ オンシラズ オンシラズ〉
口が裂け、歯が覗いた。爪が、私の右目へと――
爪の先が、こちらの目に近づく。
反射的に顔を背け、枕を抱き寄せて身を縮こまらせた。
「や、やだ……っ……たすけて……!」
目を閉じても、気配はすぐ傍にある。
ぞっとする冷たい風が、頬に触れる。
あまりの恐怖に、涙が頬を伝った。
そのとき――。
ソレが、ピタリと動きを止めた。
口元が、微かに歪む。嗅ぐように顔を近づけたあと、ふっと鼻を鳴らすような仕草をした。
そして、ソレの視線が机の上をなぞった。
視線の先――そこには、くしゃくしゃのまま放置された書類の束と、破れた鞄が置かれている。
……礼ヲ以テ示セ。
鳥居の横の看板に書かれていた言葉が、脳裏に過った。
きっと、あれが……「礼」だったのか。
ソレは、再びこちらを振り返った。
その手に、何かを欲しそうにしている仕草をした。
財布は、もうない。現金もない。
震える手で、机の引き出しを探る。何か、何か代わりになるものを……。
手に触れたのは、昔の小銭入れだった。数枚の古びた五百円玉と、くたびれたお守りが入っている。
迷っている時間はなかった。
それらを両手で差し出すと、ソレは無言のまま、すっと手を伸ばしてそれを取った。
まるで空気をなでるような動きだった。
ソレは少し不服そうに私の目を見た後、再び首をくるりと回し、闇の中へと溶け込んでいった。
その夜は、もう眠れなかった。
⸻
翌朝。
目の下にクマを作ったまま、スマホに届いた通知を確認した。
会社からのメールだった。
件名は「訃報連絡」。
昨晩、あの工場長に続いて――自分が担当していた、別の取引先の人物の死亡が報告されていた。
頭が真っ白になった。
原因は不明らしい。
だが、どうしてもただの偶然とは思えなかった。
あの時、神社で願った。
「もう、アイツらと縁を切りたい」と。
……叶ってしまった。
あの裁断機で細切れにされるような形で。
恐怖と後悔が胸を締めつける。息が詰まる。
部屋の隅に目をやると、あのソレが手にしていた財布――あれが、机の上に戻っていた。
おそるおそる中を開くと、現金はもちろん、カードや身分証はすべて元通り入っている。
……代わりに、1枚だけ、見覚えのない紙が差し込まれていた。
手触りの悪い、ざらついた和紙。
そこには、滲むような赤い墨でこう書かれていた。
〈次ノ礼ハ 心臓〉
死んでも切れない縁。