第九話『新生活』
泣き腫らして赤くなった目を少し冷ますため、カナンは少し遅めに歩いて昨日の西門広場へと向かった。
例の如く『透過』で街に侵入し、まだ目覚めていない街を歩いていく。
「来ましたか、カナン。いやはや随分便利なギアです。うん、悪くない」
向かった馬車には既にヒューイが待っていた。
日の出直後だが眠さなど感じさせないフレキシブルさ溢れるテンションだ。
薄暗い中、まだ周囲はひっそりと静まっている。早く来すぎたかと思っていたが、ヒューイがいる事から商人は既に働き始めていることを知る。
「それではカナン、君を今日から私の店で見習いとして雇います。あまり外部に晒すつもりはありませんが、立場があるので言葉遣いに気を付け…………まあ、今まで通りで大丈夫でしょう。とりあえず簡単に教えておきますが、今日から昨日紹介したフレンに付いて行って仕事を覚えてもらいます。と言っても文字や計算がどのくらいできるか確認してからになりますが……」
ヒューイが話しながら周囲を見回している。誰かを探しているようだ。
と、そこに寝ぼけ眼のフレンが現れる。
「親父ぃ、朝早すぎんだろ……」
「フレン、用意は出来ていますが?」
「牛の近くに用意してるよぉ……。朝から重いもの持たせやがって……」
フレンが欠伸を一つ。どうやら何かの準備をしているらしいが……。
というか、フレンの言葉遣いは良いのだろうか……。息子だから良いのかな。身内こそ厳しくしつけなきゃいけないんじゃ……。
変な所で湧いて出た心配をよそに、ヒューイは頷いている。
「よろしい、悪くない。では手筈通りに頼みますよ。……という事で、私はこれから所用で出かけます」
「えっ?あ、分かりました」
ヒューイがカナンに話しかける。どうやら別の場所に用事があるみたいだ。
そのまま、さっさと立ち去るヒューイ。
さすがにフレンが付いているのでヒューイも付きっ切り、という訳ではないと思っていたが……。指導は全面的にフレンに任せるらしい。
「おらっ、何ぼーっとしてやがる。こっちだ、早く来い」
立ち姿をぼんやり眺めている暇もなく、フレンに追い立てられるように準備した物へと向かって行く。
朝早くという事もあり、人の往来は少なかったが全くないというほどでもない。
それでもあと一時間しない内に、人通りは活発化していくだろう。
そんな中、人目に付かないように家の陰を歩いて行った先。そこは家屋に隣接した厩のようで、中には数頭の馬や牛が飼葉らしきものを食べていた。
……厩に牛?
「おら、こっちだ」
頭に浮かんだ疑問を理解しきる前に催促され、カナンは厩の隣の桶の前に立たされる。
桶は平たく、それなりに大きい。馬の水飲み用なのか、中にはある程度まで水が溜め込まれていた。
「?えっと、馬に水をやれば……」
質問と共に振り返った瞬間。
帰ってきた答えは手桶から勢いよく放たれた水の奔流だった。
「っぷ、ぶはっ!」
「いいか?最初の仕事はこれだ。体を洗え。こんな汚い恰好でお客様の前に出せるか」
フレンの言葉を聞いて、ごもっともな意見と頷く心と、別にそんなに勢い良く水をぶつけなくてもいいじゃないかという反発心は、水をかけられた混乱で言葉になることはなかった。
顔にかかった水を拭うべく、頭巾を外し服で顔を拭く。
「うわっ!なんだその髪!?白っ!てか長っ!」
零れる白い長髪に驚いたフレンが声を上げる。
その姿を恨めしそうにボロ布の隙間から上目遣いで睨むカナン。
「……いきなり何てことをするんだ……」
「ああ、悪かったって。どの道そのぼろきれも使えやしないんだ。ほら、とっとと捨てるから寄こせ。そんなので顔を擦っても、汚れるだけだぜ」
笑いをこらえるような表情でカナンの衣服を取ろうとするフレン。その顔は絶対、いたずら心も混じっていたよな……。
最初に頭巾を取られ、次に衣服に手が掛けられて引っ張られる。
しかし、帯が引っ掛かっているせいか、フレンが懸命に脱がせようと引っ張るが中々取れない。カナンは頭は脱ぎかけの服ですっぽり覆われ前が見えず、息苦しさから声も満足に出せないでいた。
「ぐむっ、ふがっ、ちょ、まっ」
「よいっ、しょっと」
それでも何とか脱がせるが力強く引っ張ったため、勢いで服がすっぽ抜ける。
「えっ?」
フレンの驚きの声が聞こえる。
ようやく晴れた視界の中、帯が取れたせいかカナンは全裸の状態で立っていた。唯一残された首飾りも、裸体を隠すには心もとない。
厩の陰とはいえ、外で全裸にされた恥辱に抗議を目をフレンに向ける。
しかし彼は動きも表情も固まり、蛇に睨まれた蛙のように身動き一つとれずにいた。
「……フレン?」
「………………」
しばらく無言のフレンだったが、そのまま黙って顔をそむける。
垢落とし用なのか、脇に用意していた布を、視線を外に向けたままカナンに渡す。そばに着替えがある、と呟きそのままどこかへ立ち去っていく。
いったい何なのかと自問自答するが答えは出ない。体を洗う間も考え続けるが、結局心当たりを思いつくことはなかった。
着替えは古着のようだが、街の住人と変わらない服が用意されていた。今世では今まで擦り切れた古着を補修して使っていたが、それと比べれば貰った服は新品のようなものだった。
ただ身に合いそうな頭巾がなかったためか、代わりに帯が用意されており、それを頭に巻いて白髪を隠す。
体を洗い身も心も軽くなった気分でフレンの元に向かった。
「着替え終わったな?朝は牛の世話もあるが、今日はいい。まずは注意する事とかを教えるから付いてこい」
先ほどのような変な態度が続くかもと思ったが、会ってみればいつも通りの態度のフレン。何だったのかと首を傾げるばかりのカナンだった。
……いや、っていうか、……やっぱり、牛?
――――
「いいか。うちのアラカラム商会は総勢十人ほどの大所帯だ。って言っても商人として動いているのは、俺や親父を除けばミンデールさんとバンショさんの二人だ。他は下働きや護衛をしている」
「ミンデールさんとバンショさん、分かった。他の人にもそうだけど、挨拶は?」
「しなくていい。っていうかするな。っていうか、お前は絶対に表に出るな。行商が現地の子供を雇うってのは、下手すりゃ人攫いに見られてもおかしくないんだ。目をつけられない為にも、徹底的に顔は出さない方が良い。他の奴らにも言ってある」
そう言ってフレンは馬車の一つから、なにやら荷物を探っていた。
そういえば、と。カナンはフレンに先ほどの牛について聞いてみる。
「あん?牛?馬車見ればわかるだろ?これを引かせるんだよ」
そう言ってフレンは、今は引く獣がいない荷車状態の馬車……牛車?を指す。
「牛が引くんだ……」
「馬じゃ、長旅に耐えられなくってな。何匹も途中で買って交代させるより安上がりだ。ちょっと遅いけどな」
いや、考えてみれば馬車というのは、自分が勝手に脳内翻訳して当てはめていた言葉だった。
この世界、異世界の例に漏れず前世の言葉が何一つ通用しない。どこか聞き覚えのありそうな単語を話しているが、一から学んで言語を覚えなければ話を理解することも出来なかった。
幸い『思い出す』能力のおかげか、幼児の言語習得能力の高さ故か。この世界の言語も文字も母から教わり、程無くして覚えることが出来た。
どういう訳か、文化圏が違うにも関わらず東と西で言語も文字も同じものが使われているらしい。深く考える必要はないのかもしれないが、両地域は同じ文明から発展したと考えるとロマンがあるかも知れない。
「あったあった、これだ」
と、フレンが目的のものを見つけ出したらしく取り出してきた。
手に持っていた物は、布と紐で括りつけられた一枚の板だった。全体的に黒ずんでいるが、木枠と黒い板で構成されているのが見て取れる。
「それは?」
「石盤だよ。この石筆で何回も書き物が出来る板だ」
フレンが手に取った石筆は、教師の持つチョークより太い棒だった。その石筆で石盤に文字を書く様を見て、すぐに書字版であると理解する。
手慣れた様子で文字や数字を書き込み、カナンに見せてくる。
「とりあえず、どのくらい読める?」
「えーっと、サギル?が100グラム……ガロが1枚。トケン使用不可……」
「ふーん、大体読めるみたいだな」
「サギルとかガロとか、トケンが分からないんだけど……」
「えっ?マジかよ。トケンも分からないって……、難民だからか?」
そう首を傾げながら、フレンが馬車から正門広場の方へ向かい、カナンに向かって手招きした。
「サギルはあれだ。向こうの方を見てみろ」
言うままに馬車の陰から身を乗り出し、広場の方を覗いてみる。
そこでは店が開かれる準備が行われており、様々な商品が敷物や台の上に並べられていく。フレンはその内の一つを指さした。
「あの白いのがサギルだ。蜂蜜みたいに甘い粉で、ああして固めて運搬してるんだ」
それは指のような円錐状の白い物体だった。箱の中に納められており、頭頂部がいくらか欠けていた。
どうやら話を聞くに砂糖の類らしい。上から鋏で割り砕いて使っていくのだとか。
「それでガロが……、今は持ってないな。先にトケンを見せてやる」
フレンがそう言って先ほどの場所に戻り、カナンも後を付いて行く。
戻ったところで、フレンが腰に括り付けていた巾着を取り出した。
「これがトケン。ここらで発行してる代用銅貨だ」
中から出したのは小さな硬貨だった。ほぼ丸の形の金属粒に、シンプルに三文字のみが打刻されている。
「俺らは西に戻るからトケン銅貨はいらないけど、ここらで食料を買う物ぐらいには必要だ。対してガロは西でも流通している大銀貨だ。他にもダナロ小銀貨やデュカーノ金貨があるけど、金貨は大口の取引ぐらいでしか使わないから目にすることは無いだろうな」
教わった内容によると、ダナロ小銀貨、ガロ大銀貨、デュカーノ金貨の三種類が商売で取り扱われる貨幣らしい。それぞれ1デュカーノが20ガロ、1ガロが20ダナロと20倍ずつ価値が上がっていくのだとか。
ちなみに銅貨は発行場所にもよるが、この周辺は10枚で1ダナロぐらいらしい。
「あとは昔に発行された銀貨とか、東のダム銀貨やダル金貨が出回ってるぐらいだな。けど、どれも戦争期に鋳造された悪貨が多いから取引で扱わないようにしてる。混ぜ物の少ない質の良い奴もあるけど、見分けられるのは親父ぐらいだから基本お断りだ」
「色々種類があるんだね。へえ、驚いた」
「驚いたのは俺だ。トケンすら知らないって……」
隔離居住地では物々交換が主だった取引だから仕方がない。
硬貨制度があるのは知っていたが、それらの管理は仕事の雇用契約と一括してハサム師が受け持っていたらしい。ぞろぞろ難民が街に押し寄せて、好き勝手に取引されるのを領主が嫌がったのが理由だと聞いた覚えがある。
そのため居住地で硬貨を目にする機会がなかった。
「まあいい。次は同じ文章を下に書け。商人は字も書けないとお話にならないからな。少なくとも読める字は書けないと」
フレンはそう言いながら、石盤の余白を指し石筆を渡してくる。
手にした石筆は蝋みたいな手触りで、石盤はかなり重たかった。上記を参考に同じ文章を書いていく。
「……まあ、大丈夫そうか。じゃあ書いたものを付いてある布で消して、今度は俺が言った言葉を書いていけ。単語の意味が分からない奴があれば、その都度聞く事」
文字を布で拭い、まっさらになった石盤にフレンの言葉を書き込んでいく。内容は商売用の話し言葉から、先ほどのような看板に書くような商品と値段、この地域の文化や地名まで様々だった。
商品の名は分からないものが多く、その度にフレンに意味を聞いていく。やがて西門広場から、客の賑やかな声が届いてくる。来客の声がひっきりなしに聞こえてきた。
ここいらでフレンが、昼飯にしよう、と提案してくる。
ようやく昼ご飯だ、と初めての街中の食事に期待が高まる。
隔離居住地では麦粥、豆のペーストに二度焼きの黒パン、薄い干し肉と野菜スープ、たまに捌いたばかりの獣肉やピタなどが食べられたぐらいだ。味付けも塩や酸っぱい物ばかりで香り付けなどは碌にされていなかった。
この世界に転生して、人間らしい食事を初めて食すことが出来るかもしれない。
昼食を買いに出かけたフレンを期待感込め、今か今かと待っていた。
買出しに出かけたフレンが戻ってきたのは、お腹の虫が鳴き始めた頃だった。
手に持った籠の中には、半分に切られたでかい黒パンが顔を覗かせていた。
……まあ、食事はそんなに変わらないか……。
思わず落胆のため息が漏れた。