第一話『過労死』
暗く、明かりの落ちた室内で。
私は静かにノートパソコンを閉じた。
思えば零細企業の末端プログラマーだった自分がプロジェクトに関わって二年近くが経っている。当初こそ立身出世の大チャンスと意気込んでいたように思えるが、待っていたのは膨大な仕事量と所持している技術力を超えた要求水準、碌に眠れない環境下で馬車馬の如く働き詰め。
最後に家に帰ったのはいつかと思い返してみても、とっさに思い浮かばないほど長い時間を仕事場で過ごしてきた。
それも、ようやく終わる。
今しがた自分に出来る最後の仕事を終え、心を久方ぶりに休めていた。
思い返せば、決して悪い事ばかりではなかったように思えるから不思議だ。ブラックな環境の中、確かに自分の技術は向上した。木端な身分の自分では知り得もしないような情報に触れられた。そして様々な人脈を得られる機会を得た。
話を持ってきた近藤社長も、仕事の中で知り合ったテオも、途中で抜けた田辺も、時折労ってくれた警備員の四十万さんも。戦友と呼べる仲間の顔が思い浮かび消えていき、自分はようやく仕事を完遂したのだという実感を得る。
あいつらは一足先に仕事を終えていた。手伝ってくれれば良いものを、とも思うが。過酷な労働環境を思えば無理強いも出来ない。とうに限界を超え、そこらに転がっている奴もいるだろう。自分も張っていた気は緩み、いつ意識を手放してもおかしくない状況だ。
もう、良いよね。
そんなフレーズが思い浮かび、一人自嘲の笑みを浮かべた。
さて、一休みした後はどうしようか。
久方ぶりに家に帰ろうか。そのまえにコンビニに寄って総菜を買ってから。いやいや、チェーン店で牛丼の方が良いか。
――――考えが纏まらない。まずはゆっくり惰眠を貪ろう。
ぼやける思考で夢うつつのまま、取り留めもない事を考えて。
意識と共に魂を飛ばし。
そうして自分は死んだ。過労死だった。
享年29歳。まだ若く、これから働き盛りという時に。
親も伴侶もいないのが、せめてもの救いだったのか。それは誰にも分からなかった。
――――
強い衝撃と、遅れてやってくる頭部の痛み。
何事かと真っ暗闇に薄く目を開けてみれば、淡く黄色い明かり、揺れる人影、響く怒声。
土埃の匂いが風と共に鼻孔を擽り、自分が屋外で倒れていることに気づいた。
唐突な事態に咄嗟に起き上がろうと手を動かすが、布に包まれているようで自由に動かない。
どういうことだ?自分の記憶は労働を終えた直後の室内で途切れている。屋外に出た記憶など一切ない。
唐突な事態に混乱している中、周囲から声が聞こえてくる声に気づき様子を窺う。
薄暗いこともあってよく見えないが、辛うじて男が蹲る女に罵声を浴びせている様子が見て取れた。
話している内容はわからない。少なくとも英語や中国語ではなさそうだ。男は自分が聞いたこともない言語で怒声を上げていた。
やがて怒鳴っていた男が自分に顔を向け、何かを吐き捨てるように言い残し離れていく。
残された女性は頭を押さえながら、痛みをこらえるように呻き声を上げていた。
咄嗟に声を掛けようと口を開けるも、出てきた声はあーという甲高い声。
喋れない。驚きに目を見開く。何とか他の言葉を発しようとするも、うーという似たような声が出てくるのみ。
自分はいったいどうなってしまったのか。体の酷使し過ぎで、ついに壊れてしまったのか。
意味ある言葉を出さんと四苦八苦している内に、女性は苦痛から立ち直ったらしく、ゆっくりと立ち上がる。そしてこちらに歩み寄りながら手を伸ばしてきた。
咄嗟の事に驚き身を捩るが、お構いなしに両の手が自分の身体を包んでくる。そしてそのまま、体ごと抱えられてしまった。
縮尺が狂ったかのような視界の中、褐色の肌を持つ女性は安堵するかのように息を吐いた。先ほどの理解できない言語らしき言葉を自分に放つ。
その眼差しはとても他人に向けるようなものではなく、身内に向ける親愛の情を湛えていた。そのまま自分をゆっくり揺らし、聞いたことのない旋律を持つ歌を歌う。それはどうにも子守唄のようで……。
ここまで来れば鈍い自分でも理解する。
輪廻転生。
現実味のない状況だが、ひとまずそう判断するしかないだろう。思わず天を仰ぐ。
自分を持ち上げた彼女は力持ちなんかではなく、自分の体重が軽くなったから。
彼女の自分に向ける優し気な眼差しは、自分が彼女の子供だから。
聞いたことも無い言語は、ここが日本ではないから。
そして、だ。
天に浮かぶ月が二つなのは……。
――ここが別の世界であるから――
夜空には大きな丸い月と、小さな三日月が浮かんでいた。幻想的な光景に感嘆の声も出ない。例え声が出たところで、あーとかうーしか言えないだろうが。
……神様、休暇の旅行は予定していなかったです。
二つの月の下、辺りを柔らかな歌声が響かせていた。
―――
――九年後。ハルパ伯爵領、ハルパの街――
カナンは、周りで人が動き出す音で目が覚めた。
擦り切れた毛布を押しのけ、薄暗い小屋の中を見回す。
もう一つある寝床はもぬけの殻。どうやら父は夜中に出掛けたまま帰ってきていないみたいだ。
もし帰ってきていたら深夜に叩き起こされて、水などを求められていたかもしれない。その後は父のいびきで寝付けず、寝ぼけ眼で朝を迎えるのがお決まりのパターンだ。朝まで眠れた今日は運が良い。
体を伸ばし、欠伸を一つ。
お腹が空いているが、とりあえず顔を洗うべく起き上がる。
薄汚れた上着と頭巾を手に取り、小屋から未だ薄暗い外に出る。水瓶から桶で水を掬い、顔に軽く流していく。最後に口を軽く潤し、男にしては長く伸びた髪を慎重に頭巾に仕舞って被る。
その髪の色は白髪で、黒髪ばかりの集団の中にあって奇異の目で見られることが多い。周囲は既に慣れた者も多いが、トラブルを避けるため不用意に人目に晒さないよう気を使っている。
ちなみに髪を伸ばしているのは父から言いつけられているからだ。将来、髪を売るつもりなのかは知らないが鬱陶しくて仕方がなかった。
支度を整え辺りを見回せば、石と木を組み合わせた不格好な小屋や修繕の後が目立つテントが立ち並ぶ。中からは朝の早い女性たちが慌ただしく出入りし、火を起こしたり食材の用意をしていた。朝食の準備をしているのだ。
ここでは相互扶助を目的として食料を持ち寄り、朝食は大勢の分が一気に作られ配給される。当然と言うべきか、皆に行き渡る量は少なく、各々が仕事などで足りない食い扶持を稼がなければ生きてはいけない。
今のカナンもその例に漏れず、僅か九才だろうと働かなければ生きてはいけなかった。
ふと顔を上げると、昇ってきた太陽に照らされた壁が目に映る。
壁はこの居住地から少し離れたところに立っていた。両端を見通すことが出来ないぐらい、長い壁だ。
石造りの壁の中には街がある。
周りの小屋とは比べ物にならない煉瓦の家屋が立ち並んでいるのを知っている。直接見たことは無いが、周囲の大人たちがそう語っていたのを聞いたことがある。
街の中は裕福な人々が住み、寒い風に吹かれることも獣の脅威に晒されることも無く笑って過ごしているのだとか。
実際、壁の中の至る所から炊事の煙が立ち昇り、パンの香ばしい匂いがこちらにまで漂ってくる。この居住地では嗅いだことも無い匂いだ。そもそもこの周辺は清潔さとは無縁の汚臭に溢れているのが常ではあるが。
余りの美味しそうな匂いにじっと岩壁を見つめていると、壁の途中に建てられた側防塔に立つ警備兵と僅かに目が合う。皮鎧を着飾り、帽子兜からは金色の髪が零れ出ている。白い相貌に浮かぶ彼らの目は自分たちを守る民としてではなく、明確に警戒し蔑む対象として見ていた。
それも当然だろうと、自分を見下ろせば満足に体を洗うことも出来ず、殊更黒く見えてしまう肌。褐色の肌に何年も着古した服のみすぼらしい恰好は、壁の中の住人と自分たちが明確に違う人種であることを示していた。
ここは他国の難民が住まう隔離居住地。
街とは壁で隔てられた、不穏分子の住まう土地
カナンは、その中の戦争難民の子供として生活していた。
――――
カナンが転生した世界。文明レベルは火器が発明される前ぐらい。
幼い子供が生き抜くには厳しすぎる世界だったが、苦節九年。何とか、今日も自分は生き抜いていた。
「カナン!」
呼びかけられたのは水や薪の運搬を手伝い、ようやく一杯の麦粥を貰った時だった。
今の自分より少し年上の少年が物陰から自分を呼んでいる。
「イザク兄」
そこにいたのは年が近いこともあって兄弟のように過ごしてきたイザクだった。麦粥を啜りながら近づくとイザクは周りを気にしながら、さらに物陰の奥へと手招きした。
付いて行き、崩れかけた岩壁に二人で腰掛ける。イザクはカナンと似た褐色の顔で笑いかけた。
「どうしたの、イザク兄?そんなこそこそして」
「ジャリド達に中でする仕事に誘われているんだ。そのための話し合いに行くことになっているんだけど、せっかちなあいつの事だから探しに来るかもしれない。鉢合わせしたら面倒だろう?」
イザクがそう言って肩を竦めた。
ジャリドはこの難民グループのまとめ役、ハサム師の孫だ。イザクより数歳年上で、少年グループの中心にいる男である。イザクの父がハサム師の側近のため、彼との仲はいい。
一方、カナンの父とハサム師には確執があり、ジャリドもカナンを敵対視している。確かに会うことになれば面倒になると思った。
その彼が中、つまり城壁内で仕事をするというのだが……。麦粥を啜りながら首をかしげる。
「中に向かうって、取引になりそうな物は渡し終わった後でしょ?労働が必要なところに当てでもあるの?」
現在、カナン達の居住地は隔離されてはいるものの武力で追い出されるといったことも無い。強いて言えば黙認状態といった所か。下手に追い払って周辺村落を襲う山賊になられても困るという事情もあるそうだが。
ただ、難民を放置しておけば治安を乱す要因となる。自分たちにも食料は必要だ。さらにこの一帯は冬になると雪が降る。凍え死ぬぐらいなら一か八か、で街に侵入されても迷惑だ。
そのため春から秋にかけ労働要員の募集がある。街の大人たちは食料や薪などの燃料を得るため働きに出るのだ。街道の整備や治水、荷運びなどの市民がやりたがらない重労働をこなすそうだ。報酬は雀の涙だが貴重な収入源。それに街の中に入るのは労働の合間しか機会がない。
その貴重な機会で、森で採取した薬草や獣の皮、女性が織った布や細工品などを取引している。
冬の到来が間近に迫っている今の時期は労働の募集も終わり、取引品も問屋に粗方引き渡した後だ。残っているのは自分たちの為の食料と売れ残りのみのはずだ。
「いや。どうやらこの間、街に来た行商に用があるらしい。詳しいことは、今日話すって言ってたけど……」
イザクも何の仕事があるのか不審がっている。普段ジャリド達のグループは森の中での探索か、大人たちに交じっての肉体労働を主にこなしている。行商人と接点がありそうな仕事はしていないはずだ。
そもそも城壁内の人間にとって隔離居住地の難民は積極的に関わりたくない厄介者だ。市民との関係が重要な行商人が、市民にとって歓迎できかねる彼らを個別に雇いたいとは思えない。
イザクへ不安げな視線を向けた。
「なんだか嫌な予感がするよ。中に入るのだって楽じゃないんだ。詳しい話を聞いて、怪しかったら断ったほうが良いよ」
「俺もそう思うけど……。ジャリドだって馬鹿じゃないんだし、変な話は持ってこないさ」
気楽そうに笑うイザクに、湧き上がる不安が顔に出るのを抑えきれない。どうにもジャリドは向上心があるというか、野心家じみているというか、目的を達成するために無茶をしかねない危うさがある。それで騒ぎを起こしたことも一回や二回ではない。
カナンがイザクへと胡乱気な視線を向けるが、彼は楽天的に笑うだけ。やがて疑念をかわすように、態とらしい態度で話題を変えてきた。
「おっと。そんな事より、帰ってきたら見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「そう!俺もようやく発現したんだ!」
その心底嬉しそうな言葉に、カナンも何の事を言っているのか見当がつく。
「本当?最近ずっとまだかなって言っていたけど、ようやく出来るようになったんだね」
「おう!属性はまだ内緒だぜ。見てのお楽しみだ。もうそろそろ行かないと、本当にジャリドが探しに来ちまう」
そう言うとイザクは立ち上がる。
「じゃ、また後で。仕事頑張れよ」
「イザク兄こそ、気を付けてね」
お互い手を振り、イザクはジャリド達のもとに向かって行った。
ふと手元を見ると麦粥は既に食べきってしまい、空になった容器だけが残されていた。薄い塩気しか味付けがなされていなかったが、お腹はまだ物足りないと空腹感を訴えている。
務めて空腹を意識しないように息を吸い、空の容器を片付けに行った。
これから仕事なのだ。働かなければ食べてはいけない。
顔を上げれば日はすっかり昇り、辺りを陽光で照らしていた。
――――
「サフィーアさん、いますか?」
「ああ、よく来てくれたねカナン。今日はうちの番だったかい?」
仕事をしに小屋を訪れると、老年に差し掛かる女性が麻を縒っていた。
寒さのせいか、歳のせいか、わずかに震える手を止め自重するように自らの肩を叩く。
「最近どうにも疲れやすくてね。山羊とか飼ってた頃は毛刈りも自分でやってたもんだが、すっかり体が動かなくなっちまったよ」
「サフィーアさんは山羊を飼ってたんですか?」
「ああ、十年ぐらい前までね。その頃はまだ夫も息子もいて。昔も愚痴ばっかり言ってた気がするけど、今思えば随分幸せな生活だったよ」
懐かしそうに、だけど苦しそうに目を細めるサフィーア。十年前といえば自分たちが逃れてきた原因、東の国々で戦争が起こったころだ。
この隔離居住地に集まる人たちは皆、戦争難民だ。ここに訪れた時期が違う者もいるが、全員東の地域の覇権を争う一角であるブダウラ家の領域にいたらしい。
そのブダウラ家がどうなったかは知らないが、事情を知っていそうな大人たちが未だ東へ戻らないところを見ると滅びたか、劣勢状態のままか。
少なくとも故郷は未だ占領されたままなのだろう。
「おっと、すまないね。こんな辛気臭い話をしちゃって。とりあえずいつものを頼むよ」
作業途中の麻を脇にどけ、こちらに背を向けるサフィーア。
そう、ここへ仕事として来たのはお喋りでも麻縒りの為でもない。
「それでは失礼しますね」
腕をまくり、衣服の上からでも分かる骨ばった背中に手を当てる。
――さあ、思い出そう。
まずはゆっくりとさすり、全身の筋肉を緩めていく。
――心を落ち着けていき、手の動きに精神を委ねていく。
骨回りに沿って指を動かし、体内の血流を促していく。
――以前体験したマッサージ師を思い出し、再現する。
肩、背中、腰に移り体内に残った疲労物質を洗い流していく。
――滞った体液を循環させ、全身に行き渡らせるイメージで。
体は湯船に浸かったかのように温かくなり、寒い外気を忘れさせる。
――そう、重要なのは思い出すこと。かつて感じたあの心地よさを。
そうすれば、相手も『思い出す』。
それが俺がこの世界に来て得た能力だから。
――――
自分の能力に気づいたのは、前世の記憶を思い出して間もなくだった。
自分が死ぬ直前の記憶を思い出そうとしたところ、やけに鮮明に記憶を思い出せる事に気が付いた。眠る直前のようなぼやけた自意識と、それに反して埃すら明瞭に思い出せる視界。まるで異なる記憶が混在しているかのようで気味が悪かった。
自分の記憶に何が起こったのか。検証するため他の記憶も思い出そうとしたところ、なんと前世の幼少期どころか生まれた直後らしき記憶も思い出せた。当時の視界や聴覚が発達していなかった為か、滲んだ景色やこもった音ばかりだったが。
元来、転生後に新たな能力を授かるという創作話は枚挙に暇がないが、自分の場合はどうやら『思い出す』ことが能力にあたるらしい。それも記憶だけではなく感覚を思い出すことも出来るらしく、この世界における食事の不味さに舌が慣れるまでは、しばしば空腹感を誤魔化したりもした。
当初はなぜ自分の目覚めた能力がファンタジーで語られるような『能力無効化』や『能力複製』、『問答無用の即死攻撃』みたいな特別感あるものはないのかと思ったりもしたのだが、すぐに順番が逆だと思いなおす。
たまたま『思い出す』能力を得た自分が前世の記憶を思い出したと考えれば合点がいった。
当初はただ昔の記憶を思い出しては懐かしさに涙ぐむ毎日だったが、すぐに環境の過酷さに音を上げ、生き抜くために自分の力の把握と訓練を始めることを決意する。せざるを得なかった。
この世界の文明レベルや技術力や倫理観は高くない、と思う。少なくとも自分の周囲に弱者だからと救いの手を差し伸べる富裕者は皆無だ。幼く、同年代と比べて発育不良、保護者もあまり当てにならない、何より現代社会のぬるま湯で育ってきた精神を持つ自分は何かの間違いで容易く死ぬ。
力が必要だ。生き抜くだけの力、その獲得が。
その為の一歩として、この世界で得た得体の知れない不可思議な自分の能力の検証から始めることにした。発動条件、効果範囲、
結果として様々な条件や応用方法が判明。どうやら自分の
並行して能力の強化も試みてきたが、現在までの成果として条件付きだが他者の記憶を思い出すことも可能になった。そのため現在、能力を活かして按摩を自分の生業にしている。
「随分と良くなったよ。今じゃこれがないと体が動かなくて仕方ない」
俯せになっていたサフィーアがゆっくり体を起こす。随分と楽になったようで、当初見せていた疲れ切った様子はすでに消え去っていた。
「次は一週間後ぐらいに来るから、それまで無理はしないでね」
「ありがとうよ。ほら、受け取っていきな」
そういって箱から炒ったひよこ豆を一つかみ、持ってきていた袋に入れてくれた。カナンの按摩の報酬だ。
御機嫌よう、と言って小屋を出る。
そして次の仕事場へ行くのだが、その前に家へ豆を置いていかなければならない。
空腹から豆へ手を伸ばしそうになるが、我慢して家に向かう。冬の前には貴重な食糧だ。少なくとも何か食えている内は手を出すべきではない、と未練がましく袋を見ながら帰路へ着く。
小屋の前に来ると中から人の気配がした。一瞬顔を強張らせ、一呼吸してからゆっくり戸を引いていく。
「おう、帰ってきたか」
そこにいたのは父、カンドだった。胡坐をかき、機嫌が悪そうに杯を呷っている。
「……ただいま」
「……ちっ、相変わらずしけたツラして。おい、駄賃はどうした?」
父からの催促に、黙って先ほどもらったひよこ豆の袋を渡す。カンドは袋をのぞき込むと表情を歪め、再び舌打ちをした。
「食いもんもしけてやがんな、豆だけか。次はもっと良いものを貰ってこい」
そういうと一人で豆を食べ始める。美味しくなさそうに食べるのだが、そんな顔で食べるぐらいなら自分に食わせてくれればいいのにと思う。ちなみに何も持ってこれなかった場合は殴られるので、こっそり食べてくることも出来なかった。
「ほれ、とっとと行ってこい。俺は重要な話し合いで疲れてる。もし寝てたら夜まで起こすなよ」
そう言い残すと小屋の奥で毛布に包まり寝始める。重要な話し合いなどと言っているが、大体がハサム師をはじめとしたまとめ役に素晴らしいアイデアという名の無理難題を提起したり、同じような境遇の仲間内で管を巻いているだけなのを知っている。
今日は運がない。話し合いに向かった先でそのまま寝ていたりする日もあるのだが。今日の報酬の大半は起きたカンドが食い尽くすだろう。
そう思うと空腹を一層自覚して、憂鬱な感情のまま外に出る。
とりあえず次のお客様へ。そう意識を傾けて顔を上げると、遠くの街道に騎士団の姿が見え始めていた。
立派な身なりをしていて、この近辺では見たことのない旗を掲げていた。
よもや難民を駆逐するための来たのではないだろうなと、その一段の姿に不安を覚えずにはいられなかった。