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わからずの恋  作者: 黒川えこう
プロローグ
7/8

近く遠く

 あれから距離は縮まっていったように思う。桃子は琴浦と一緒に出掛けたり、一緒に食事したりするようになった。初めて手を繋いだ日琴浦は別れ際なかなか手を離してくれなくなかった。

 桃子の最寄り駅のホームでのことだ。

「どうしたんですか?」

「もう少し一緒にいたいなって」

「電車なくなりますよ」

「うん。言ってなかったけど、明日も休みで」

 きょとんと見上げていると、琴浦が居心地悪そうに目を泳がせた。

「一緒にいたいんだけど、君はなんと言ったらわかってくれるのかなあ」

「一緒に」

 すでに一晩一緒に過ごしたことがある。ただそれは、桃子が風邪をひいていたから看病するために連れ帰られたというだけだ。

 じっと琴浦の目が桃子の目を覗き込む。それがどういう意味を持つのか桃子にはよくわからなかった。ただそれに幸福を感じてはいる。

「一緒にいたいのは私も同じだったりします」

 ぽつりとそういうと、琴浦が目を丸くして桃子の手をぎゅっと握った。

「うちにおいでよ」

「行っても大丈夫ですか?」

「さあ。君はもう風邪をひいていないし、僕と君は今付き合ってるし、そろそろ次に進みたいと僕は思っているからどうなるのかは君次第だ。だから大丈夫とは言い切れないけど、僕は君を尊重したい。ただ一つだけこれだけは言いたい」

 一息にそういい静かになると、電車がホームに滑り込んで賑やかになる。

「来月移動になる」

 ぎょっとして琴浦を見ると、いつもと変わらない飄々とした顔で桃子を見つめている。

「藤田管理官が手を回したんだ」

「遠くですか」

「都内だよ」

「どこですか」

「八丈島」

 名前はわかるがどれくらいの距離かわからず黙ると琴浦が残念そうに言った。

「遠距離恋愛は嫌?」

「よくわからないです」

「そう」

「でも、琴浦さんと遠距離恋愛したいです」

「…そっか」

 ホームに滑り込んできた電車が琴浦の自宅方面に向かうと確認した桃子は、琴浦の手をひっぱって電車に飛び乗ろうとする。しかし琴浦が動かなかった。思いつめたような顔を桃子に向け嬉しそうに言った。

「心強いよ」

 

 

 あっという間に琴浦は旅立ってしまった。荷物の半分は処分したと笑い、最後は慌ただしいものだった。見送りには行けずに電話で話をしただけになってしまったのが残念だった。

 毎晩のように電話して、メッセージをやりとりして、普通の恋愛もなにもしたことがないまま遠距離恋愛なんてものをやっている。

「これが遠距離恋愛なんでしょうか」

 思ったことを伝えると、琴浦がスマホのディスプレイの中で笑う。ビデオ電話で喋れば顔も見られるし、あまりその弊害を感じていないのだ。

『今度遊びにおいでよ。そしたらきっとわかるから。それより藤田管理官の動きは?』

「それが琴浦さんがいなくなってから何度か食事に誘われていて。恋人もいるのでと断ってるんですけど、諦めてもらえなくて」

『そばにいられなくてごめん』

「大丈夫です。琴浦さんのことを言うといつも悔しそうな顔をするのが面白くなってきましたから」

 本当は大丈夫じゃなかった。正直もう鬱陶しい。そんなふうに誰かのことを鬱陶しく思うことなんてはじめてだった。

 それだけ他人に興味なく暮らしていたのだろう。

 昨日。藤田が桃子に押し付けた封筒を手に取る。藤田がいうには、琴浦がどれだけだらしない人間かわかるものが入っているという。そしてそのだらしないという言葉は、藤田のみならず明野と河合からも聞かされていた。桃子が琴浦と付き合うことにしたと伝えたすぐのことだった。

 琴浦が同僚だか同期だかの妻にちょっかいをかけられたという事実は、桃子程度の人間には現実にあった話とは受け止め難くどこか小説などのあらすじなのではとさえ思えた。

(本人がいないのに、どうすれば)

 封筒の中身をテーブルに並べる。調査書の写しのようだった。

(これ、わたしなんかに渡しちゃだめなんじゃ)

 そう思いつつ、文面を目でなぞる。

(…付き合ってはいなかったんだ。でも、向こうは離婚してる)

 しかしそれは夫のほうから愛想をつかしたからだとはっきりかかれていた。琴浦に迷惑をかけてしまったことを詫てさえいる。

(これを読んで琴浦さんに対する意識が変わるって、管理官も明野河も言っていたけど)

 スマホを手に取り琴浦に電話をする直前まで操作して手をおろした。ディスプレイには琴浦自身が設定した笑顔の彼の画像が映っていた。

(本人に聞くにしても、私には重すぎる)

 桃子は三連休に有給を足して四連休を申請すると、八丈島へ向かう航空券をとった。飛行機に乗ってベルトをしたとき、琴浦に言うのを忘れていたことに気づいた。

 琴浦は週末まるまる休みだといっていた。することはないとはっきりいっていたが、さすがに押しかけては迷惑だろうか。

(でももう飛行機に乗っちゃったし)

 そこでホテルの手配もしていないことに気づく。とにかく飛行機に乗りさえすればいいと思いこんでいた。

(琴浦さんのところに…でもさすがに迷惑…ううん、そうじゃない)

 付き合っているのに、とくに進展のないまま遠距離恋愛になってしまい、どうしていいのかわからないのだ。

 しかしもう飛行機は離陸した。もう着陸するしかないのだ。

 一時間ほどで飛行機は目的地に到着した。

「上着がいらない」

 自宅を出たとき襟をしっかり綴じて着ていた上着も今は荷物になっている。

 手荷物を受け取って空港のロビーに出ると、目の前に同じ飛行機に乗ってきた女子大生のグループが固まって騒いでいる。見ればその中心に夏の制服を着て制帽を手にさげた琴浦が立っていた。

 桃子を見つけると、大きく目を見開き一歩踏み出そうとして女子大生にまとわりつかれている。

「こんなかっこいいお巡りさんがいるなんて信じらんない!」

「お仕事いつ終わるんですか?」

「一緒に遊びにいきましょう」

 桃子より若くて可愛くて自信が溢れる彼女たちと、みすぼらしい自分をどうしても比べてしまう。露出の多い彼女たちの服装もまた眩しく思えた。

「すみません。ツレがいるので」

 琴浦はかしましいグループから抜け出そうとしているが、桃子が怯えるように後ずさりすると中途半端に持ち上げた腕を止めて目をまんまるにして見つめてきた。

 その視線から逃れたい一心で桃子は荷物を抱えてロビーを飛び出す。止まっていたタクシーに飛び乗ると、運転手に見晴らしのきれいなホテルへ連れて行ってくれと言っていた。

 ホテルにチェックインし、部屋に入って扉をしめる。タクシーの運転手に頼んで連れてきてもらったリゾートホテルにシングルルームがなかったのでダブルルームになってしまったが、広いベッドは非日常的で気分転換になった。荷物を置きオーシャンビューが売りの眺望を眺めようとバルコニーに出てみる。

「わぁ」

 太平洋が目の前に広がる様は雄大で美しい。紺碧という言葉が思い浮かんだが、これがその紺碧という色なのか桃子にはわからなかった。

 バルコニーの手すりに肘をつきぼんやりと眺めているうち、なんだか疲れてきてしまった。そういえば飛行機に乗ったのも初めてだった。一人でこんな遠くまでくるのも、きっと初めてだと思う。

(あのタクシーの運転手さん、親切だったな)

 この島に数人いるという女性のドライバーで、桃子が傷心旅行にでもきたと思ったらしく「とっておきのホテルを身内価格で案内する」といってここまで案内してくれたのだ。名刺までくれたので、もしかしたら自殺するとか思われたのかもしれない。

 ホテルには大浴場もあるらしいが、とりあえず少し休もうとベッドに倒れた。広いベッドに大の字になって目を閉じた。

 

 琴浦の持っている仕事用のガラケーに着信があったのは、桃子を見失って三〇分ほどあと。あのかしましい女子大生のグループから逃れてミニパトに戻ってすぐのことだった。

 電話の内容は若い女の一人客を乗せたというものだった。この島にくるというのにホテルの予約もしておらず、様子がおかしかったのでもしかしたらと心配したらしい。

「わかりました。ご連絡ありがとうございます」

 ロビーで女子大生たちにもみくちゃにされる間、首を伸ばして連絡をよこしたタクシー運転手が乗車するタクシーに乗り込む桃子を見ていたのだ。

「どこに連れていきましたか?」

 ミニパトを本部へ置き、すぐそばのアパートの自宅へ帰った。もともと今日は空港へ用事を済ませたら休みになるはずだった。

「どうして急に」

 急いで着替えてこちらで買ったビッグスクーターに飛び乗る。いつかあの子がきたらと用意していたヘルメットを確認し、ホテルへ向かった。

 

 目を覚ますと日も落ちはじめていた。この様子だと海にあの太陽は沈むのだろう。

(見たい)

 部屋を出てロビーのカウンターに行った。どこからがきれいに見えるのか聞こうすると、奥から見たことある女の人がきた。

「あ!」

 女性もまた、桃子を見て微笑む。

「あなた、あのパーティにいた人よね」

「はい」

 ロビーの椅子に並んで腰掛けると、彼女は幸せそうに微笑む。

「お互いいい人が見つかったみたいね。わたし、今とても幸せなの」

「あ、旦那さんといらっしゃったんですか」

「あの人」

 指さした方を見るとずんぐりむっくりした男性が手を振っている。

「ものすごくお金持ちなのよ」

「お金持ち、ですか」

「日本全国にホテルとかレストランとかね。だけどあの一族、みんなあんな感じで」

 見た目が好きじゃないのかと気まずく思っていると彼女は満面の笑みではっきりいった。

「私、昔からカピバラが大好きで。彼も、彼のご両親も兄弟もみんなそっくりなのよ」

「は、はい」

「お金持ちを捕まえたって周りには言われてるの。でもあの顔、見てるだけで幸せになれる」

 まっすぐ背筋を伸ばし立ち上がった彼女はニヤリと笑う。

「惚気ちゃったわ。聞いてくれてありがとう」

 勝ち取った勝者の微笑みだと桃子は思った。

「あなたも好きな人と幸せになってね」

 彼女が男性の元へかけよるのを見送った桃子は、その場に座り込んだままロビーを行き交う人を見ていた。いろんな人達がいる。家族連れや若いカップル。老夫婦。一人でいるのは桃子だけだ。

「桃子」

 眼の前に立った琴浦がにっこり微笑む。

「来てくれてありがとう」

「逃げてごめんなさい」

 琴浦のバイクの後ろに乗せられて、ホテルから少し離れた砂浜へ行った。夕日が真っ赤に海と浜を染め、それを見る琴浦の横顔も茜色に染まる。

「バイク大丈夫だった?」

「足がまだガクガクします」

「ああいう声を『素っ頓狂』っていうんだろうね」

 そうって笑っている。楽しかったのだろう。しがみついた琴浦の背中はたくましかった。

「きれいですね」

「ここの夕日はいつもこうだよ」

「いつもこんなきれいな夕日を見てるんですね」

「君もここにいればいつだって見られるよ」

「琴浦さんて、いつもそういう言い方するんですね」

「そういう?」

「選ぶのはそちらですよって」

「だってそうでしょう」

「そうだけど、私ならこう言いますよ」

 すうっと桃子は深呼吸する。

「明日も明後日も来週も来年もずっとずっと、一緒にここで夕日を見ませんか」

「…見ます。見たいです」

「ね? そうなるじゃないですか」

 桃子は得意げになってそういう。きっと夕日が顔を赤くしているから、赤面していることは琴浦には気づかれないだろう。気づかれても、もういいのだ。

「桃子」

「はい」

「夕日もきれいなんだけど、朝日もとてもきれいなんだよ。一緒に見てくれる?」

 

 連休はあっという間に終わってしまい、桃子は戻ってから異動願いを出した。

「八丈島、ですか」

 直属の上司である藤田は苦虫を噛み潰した、いやもっと酷いものを口に放り込まれたような顔で桃子が渡した異動願いを見ている。

「あのスケコマシがいるところですね」

「前から気になっていたんですけど、その言い方は下品ですよ」

 桃子がいきなりそんなことを言ったので藤田は面食らった様子だった。

「で、ですがそれを言うならヤツの存在自体が下品でしょう」

「藤田管理官」

 桃子は強くなったのだ。

「人の彼氏、いえ婚約者をそんなふうに言うのはやめてください」

「こ、婚約者!?」

「今ここで聞いたことを言いふらされたくなかったら、すぐに処理してくださいね」

「天宮さん、君そういう子だったのか」

「ええ。お気づきかと思いましたけど」

 メガネがずり下がった藤田ににっこり笑いかける桃子は自信と余裕に満ちあふれていた。

「私がこんなに言っているのに。君はわからず屋だな」

「ええ。自分のことさえ理解したのはつい最近のことですよ」

 好きとわかった桃子は強いのだ。

「今までありがとうございました。藤田管理官」

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