離別
六.
その日、暗闇のうちに目が覚めた俺は、腹の上に重いものを感じて顔を上げた。
暗い場所でもよくわかる白い髪に石鹸の匂い、肌寒い時期なのでと買った寝巻きを着て、風香が布団の上から抱きついていた。
「なんだ」寝起きということもあってか酷い声をしていた。「お前の布団は隣だろ」
「……うん」
「戻れ、まだ起きるには早い時間だ」
そういい強引に寝返りを打つ。風香はそれでも俺の上で抱きついたまま、離れようとはしなかった。
「いーくん」
鼻先に柔らかい感触が当たる。
目を開けると鼻先をこすり付ける風香の顔が、穏やかな表情のまま傍にあった。
十センチの隙間もない。お互いの唇がつきそうなほど、俺と風香は密着している。
硬くなった胸が布団の上から押し当てられ、締まったお腹も冷えた布団に密着し、髪からはシャンプーの香りを立たせ、ジッと俺の瞳を覗いていた。
息を吸う事すら躊躇われるほど近くで、お互いがお互いを見つめていた。
「あたたかい?」
「…………」
「犬は、すごくあたたかいよ」
「犬なんて言うな。お前は風香だ」
「うん。ふうか、すごくあたたかい」
ったく。
とことん、俺は風香に甘い。
「ほら、寒いだろうが」
強引に風香を引っぺがし、掛け布団を持ち上げる。驚いたように風香が戸惑い、どうすればいいのかと声を出さずに俺の目を見つめていた。
「くっついていたいんだろう。早くしろ、俺が寒い」
「…………」
「入らないなら閉めるぞ」
「入る!」
四つんばいでドタバタ言わせながら駆け寄る姿は、確かに犬っぽくはあった。風香は満面の笑みで俺の隣に入り込み、布団をかけると同時に俺の身体に風香の身体を密着させた。
「子供だな」
「子供じゃないよ、ふうかだよ」
「そういう意味じゃないんだけどな」
冷えた足先が脛に当たる。避けようと思っても二人で一つの布団だ。ずらせばすぐに外に出てしまう。永続的に寒いのは嫌なので、結局我慢をしなければならなくなった。
しかしそれも悪いものじゃない。
「いーくんいーくん」
「なんだ」
「あたたかいね」
「暖かいな」
「ねえねえ、いーくんってば」
「なんだよ。眠いんだが」
「ドキドキしない?」
「しない。寒い。狭い。以上」
「いーくんつまんないよー」
うるさいなと反応するのも面倒なので無視することにした。
「ねえ、いーくん」
「…………」
「いーくんってば。いーくん?」
「…………」
「いーくん、寝ちゃった?」
「…………」
「…………いーくん」
「…………」
「エッチなこと、しちゃうよ?」
「するな」
「あ、起きた」
「お前な……」呆れ半分、疲れ半分で答えてやる。「そういうのは好きな人とするんだ」
「ふうかは、いーくんのこと好きだよ」
今でも風香の癖は治らない。
誰かに対して自分の気持ちを真直ぐに伝えること。それは過剰でもあり、悪戯に誰かを惑わせる言葉を伝えてしまう。
「いーくん」純粋な瞳が俺の目を覗きこんだ。「ふうかのこと、好き?」
妃月と出会った日を思い出す。
俺を好きになって良いのか。そう聞いた風香は、今ではもうすっかり自分を取り戻しつつある。
「寝かせろ。起きたら教えてやる」
「ほんと?」
本当だと言うと、風香が俺の手に絡み付いてきた。
「じゃあ、やくそく」
約束?
「いーくんが、ふうかのこと、好きっていうやくそく。キレイで、静かで、ドキドキするようなところで、いーくんがふうかに言うの。ロマンチックっていんだよ」
「妃月のやろう……」
冷たい指が汗ばんだ腕を滑る。
小指が絡み合う感触。ちょっと力を入れてしまえば、折れてしまうんじゃないか。風香の指はそれくらい細かった。
外れないように、一生のお願いが一生続くようにと、俺と風香の指は離れようとしない。
他愛ない約束は子供らしい指きりげんまん。だけどそれで十分だった。
「やくそくだよ」
「はいはい、約束だな」
「ねえ、いーくん」
不意打ちだった。
もぞもぞ動こうとする身体を押さえつけようと右手を伸ばすと、その前に柔らかい感触が俺の口を塞いだ。驚いて目を開ければ一センチの隙間も無い、風香の顔が目の前で瞳を閉じ、腰に手を回して息を止めていた。
暗い部屋で風香が映える。
壊したくなる衝動を必死で抑え、
「おやすみなさい!」
怒ってやろうかと思い切り起き上がると、風香はすぐに自分の布団へ頭から飛び込んだ。
まったく、なにを今更なことをしているんだろう。別段恥ずかしいわけでもないのに、風香を威嚇してどうするんだ。
外は季節を知らしめるかのごとく雨の音が酷い。昨夜からずっとなりっぱなしだったから、多分今日も降り続くのだろう。そんな予感めいた確信が俺にはあった。
雨の日はジッと家にいたい。風香と、まあ妃月も来るかもしれないが、それはそれで面白いハプニングが待っているだろう。
またいつもの一日が始まる、ぼんやりとした頭で俺は、幸せめいたことを考えていた。
朝、起きてみると風香の姿がなかった。
多分トイレか、外に散歩でも出ているのだろう。歩くという癖がついているのか、ここ最近の風香はよく外を歩こうとねだる節がある。時刻は九時を回り、朝飯を食べなかった風香がご機嫌斜めで外に出るとあれば、理由もつく。
めくられたカレンダーには六月二日。そういえばそろそろ花火大会があるから、妃月が着物の下取りをしたいとか言っていたな。もしかしたら妃月が来て勝手に連れ出して言ったのかもしれない。だとしたら俺の顔に変な落書きをされても困るだろう。布団からでてトイレに行き、鏡を見てから黒ずんだ部分がないことを確認し、テーブルにある一枚の紙を発見したころには、自分がどれだけ愚かしい人間だったかを思い知った。
『探さないでください。風香』
息を呑むことすら忘れ、裸足で外に駆け出す。扉を開ければ暗雲が空を覆いつくし、これから再び雨が降ることが東京人の俺でも容易に予想がついた。
俺はすぐに準備を始めた。
手にとれるものはすぐに持ち、着替えを済ませて傘を持ち再び外に出れば待っていましたとばかりの粒が零れ落ちる。
傘を差して走り出すと、今度は風が走るのを邪魔する。差すのも億劫なのでコンビニへ置き去り、覚えている道を走る。
粒は次第に増え、梅雨特有の豪雨に変わる。途端にびしょ濡れになる服を気にも留めず、ひたすら俺は走り続けた。
息が切れるのも構わず、手が膝につくことも構わず、空を見上げることも変な目で周囲に見咎められるのも厭わず、あの姿を俺は探し続けた。
風香の背中、風香の髪。どこかでこの雨に打たれて縮こまっているんじゃないか、一人で大丈夫だろうか、寂しくはないだろうか。なんでいまさら家を出て行ったのか、聞きたいことは山ほどあるが、そんなこと今はどうでもよかった。
風香が何も言わずに去ったこと。それだけがどうしても納得がいかない。
俺が走る理由なんてそれくらいで十分だった。
横を走り去る車が一台走り去る。見たことのある車がハザードを出して止まり、出てきた運転手が傘を差してやってくるのにさしたる時間は無かった。
「やっぱり芳野くんじゃない、どうしたの一体!」
妃月だった。
なんて声をかけるべきなのか頭に浮かんでこない。風香がいなくなったとか、車を貸してくれとか言えそうなものなのに、掻き毟りたくなるほどの喉の痛みと焦りが俺の言葉をどこかへと持ち去っていった。
「……風香ちゃんがどうかしたの?」心配そうに傘を差し出す妃月は、事の次第を感じ取ったようで、俺が何かを言うのを待っていた。
一言だけでいい。何か一言あれば伝わるのにと、必死に頭を巡らせる。
「……け」
「け?」
「……け、……けて。たす……けてっ!」
その一言だけで十分だった。
外では記録的な豪雨が降ると、ラジオの予報は語っていた。
激しい音を鳴らして窓を叩く粒は無駄な焦燥感を駆り立て、俺の背中を怒らせ続ける。そんな背中を妃月は「座りなさい」の一言で押さえ込み、こうして向かい合わせにいる。
強制的に家に帰らされ、服を着替えなおしたのは十分ほど前。状況を説明して慌てていた俺を妃月は静かに宥め、一つ一つの内容を整理しながら聴いてくれていた。
温くなったお茶を飲み干し、僅かな沈黙が流れる。
「どうすれば、いい?」耐え切れなくなって、俺は聞いた「風香が行きそうなところなんてここしかない。散歩をしていたコースも線路も、寺も温泉地も回れるところは全部回った。だけど風香はどこにもいなかった。俺が一番あいつの傍にいたのに、なんで俺は見つけられないんだ? どこを探せばいいんだ?」
「…………」
答えが得られるわけでもない妃月に不要な問いをしてしまう自分が情けない。
結局妃月が風香の行方を知っているわけもなく、時間だけがゆっくり過ぎ去っていくばかり。そんな状況なのに、妃月に慌てた様子もなく、ただジッとその本意を探っているかのように沈黙をし続けた。
「妃月?」
「――組合に掛け合ってみるわ」
ポケットから携帯を取り出し手早く番号を打っていく。
「組合なんかで大丈夫なのか?」
俺の言葉が「信用にたるほどの人たちなのか」という意味に聞こえたのだろう。携帯を耳に押し当てながら妃月がウィンクをし、口パクで「大丈夫」と作ったのがハッキリわかった。
「私です。――はい。実は……」
相手の見えない会話ばかりが訥々と続いてく。
時計の針が一秒をうるさくかき鳴らし、早くしろ早くしろと俺の心を焦らす。そんな自分の心を手で押しつぶしながら、我慢し続けた。
妃月だって頑張っているんだ。風香のために自分ができる最善の行動を取ってくれているのに、自分ばかり気を囃してどうする。まずは落ち着かなければいけないんだ。
空になった湯飲みを見つめながら、風香が行きそうな場所を振り返る。
みんなで歩いた線路に風香の影はなかった。
感慨に耽った考古館に風香の影はなかった。
面白いと見て回った神社に風香はいなかった。
雪の降った裏通りに、風香の姿はどこにもなかった。
コンビニも、道の通りにも、知らない田んぼにも路地裏の隅にも電柱の影にも木陰の下にも川辺にも、俺の記憶のどこからも、風香は消えてしまった。
こんなにも風香がいないと、俺は何も出来なくなってしまうなんて。
「捜索をしてくれるって」平坦な口調は電話の名残か。「消防団の人も出てくれるって言うし、私たちは私たちで探しましょう」
「本当か……?」
本当よ。と妃月は少し笑った。
「ここは米沢よ。東京と違って、結束力があるもの」
「でも、風香の身なりとか、詳しいことだって――」
「白髪の同年代でほっそりした人なんてそんな目に付かないでしょ。子供だって観光の人と米沢の人は区別つくわ」
あのね、と前置き。妃月は俺を優しく腕で包んだ。
「芳野くん。頑張るのはいいけど、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃない? 私たちじゃそんなに頼りないかな」
「……そんなことない」
優しい一言だった。
頼られることとか、敬遠されるようなことは多々あったけれど、頼れと言われ、優しくされる言葉は、記憶にないくらい胸にしみこんだ。
冷たかった心が温まる。妃月のおかげで、寂しくなることは免れそうだ。
まずは風香を見つけ出してから。たくさん叱って、たくさん色々なことを話そう。
今度は逃がさないように、手を離さないように。
「そうだ。俺達には俺達の出来ることをしよう」
手早く出る準備を整え、家を出る。外の雨は更に強みを増し、水路に流れる水は既に濁流となってきていた。
不意にいやな想像が脳裏をよぎり、振り払う。風香なら大丈夫だ。きっと、今もどこかで雨を逃れるために橋の下にでも潜り込んでいるはずだ。
傘を一本、妃月に渡して、外へ駆け出す。
どうか見つかりますように。そして何事もありませんようにと、ありもしないものに願いながら。
傘を叩く音を不愉快と感じたのは、多分俺に対するあてつけではないだろうかと思ったからだ。止まない大粒の連打と靴に沁み込む雨水は、容易に人の気持ちを阻害していく。
それでも下を向くことはなく前を見続けた俺の目に入ったのは、オレンジのつなぎを着た髭面の男性だった。
「どもーし、妃月ちゃん。風香って女の子は見つかったかー?」
「まだですぅ、こっちゃでも探してるんですが。今野さんたちはどうですか?」
「いやあ、そがに見つかりはしないなあ。俺たちも探してやるから、待っといてくれよ」
「おしょうしー」
頭を下げる妃月を見て、慌てて俺も頭を下げた。
怪訝そうな顔を見せた今野という男は、なにを思ったか小さな笑みを見せたあと俺の肩を叩き、そのまますれ違いに去っていく。心配するな。すぐ見つけてやると言わんばかりに。
「妃月」不思議に思い俺は聞いた。「今のが消防団の人か?」
「ううん、あの人は近所に住む人よ。多分話を聞いたんだと思う」
「話って……、さっき電話したばかりだろ」
「普通だよ。人の口に戸は建てられないからね。好きなんだ、そういう話」
ちょっと困ったこともあるけどね。と妃月。
「でも良い人でしょ。誰かもわからない、自分の損得なんてありもしないのに、この雨の中わざわざ出てきて探してくれる。優しさに溢れてる性格だと思わない?」
「まあ、確かにそうだな」
損をすることなんて誰も進んでやろうなんて思わない。結果として必ず得があるから俺達は動き、そして利益を上げる。そうでないと生きていけないからだ。
ボランティアなんて無駄の極みだなんて思うことだって少なくない。自分にとってなんの利益があるのか、そんなことは自分の自尊心を満足させるためだけの欲求解消じゃないか、という風に。
「芳野くんは違うけど、私は東京の人が嫌い。何も考えていないような機械ばかりが街を歩いて、同じような業務をずっとこなして一日を終わらせる。ほんのちょっとの刺激を与えるといきなり襲ってきて、声を上げれば弱いせいだと突き放す。触れ合いとか支え合いとか、そんなの何の意味もないって実感できた」
「…………」
「そんな東京人を見るだけで私はいつも悲しくなる。どうして一人なの? どうしてそんなことするの? って、問いかけてもあいつらは何も言わず、ただ何かに追われるように歩き続けた。そんなあいつらが、私には残酷に思えたの」
妃月にとって、俺達は繋がっているんだろう。
物理的な意味ではなく、感情。傍にいたいとか助けたいとか、言葉にするには値しない、だけど何かしらの意味でありたい。ひょっとすれば迷惑になるかもしれない事を、こいつは当たり前の軽さで誰かを助けたいと願い続けている。
いや、こいつだけじゃない。この街全体の人間がそう思っているんだ。
誰か一人が一人を助けたとする。助けられた一人は別の一人を助け、また一人が他の誰かを助ける。それは隣に住んでいる人だって良い。
世界の人が一人を助ければそれで誰もが助かるということを俺達は学べない。争いの中で生き、そして勝ち抜いていく社会がこの世に存在する限り、弱肉強食という現実はついて回る。
しかしそれでも、この街の人々はそれを願っている。
「甘いかな、こんな考え」
甘いなんてもんじゃない。弱さ優しさなんていうのは、犯罪者が付け入るための基本的なポイントだ。それをわざわざ見せ付けるなんていうのは「私は武器を持っていない善人面した羊です」と言ってるのと同じだ。
犯罪が多くなったこの日本にも、警戒心というのが必要になっている。玄関を開けっ放しにしておいた家に盗人が入れば、それは「開けておいたほうが悪い」という理論的で不合理な回答が返ってくるだろう。
「甘いよ、甘すぎる」
「……そっか、そうだよね」
「でも、そんな考えも悪くない」
「えっ?」
「間違ってないって言ってるんだよ」投げやりな言い方で、妃月に返す。「人を助けることに間違いなんてない。あるとすれば過剰な優しさだけだ」
「で、でもそれは――」
「でもも何もない。お前は犯罪をしないと死んでしまいます。だから助けてくださいなんて言われたら、その犯罪を許容するのか?」
俺はいやだねと言えば、妃月の口はきれいに横一字に閉じる。
「例えどんな理由があろうとも、正さなければいけない部分がある。間違ってることは間違っている。感情を押し殺してでも止めなければいけない部分、その逆だって然りだ。東京の奴らは『屁理屈で動かなければ生きていけない』社会で働いているから、その反動が身体を蝕む。だから犯罪が増える」
理想を語るくらいなら現実を見ろ。夢を見るのは子供のときまでだ。
俺達はそうやって都合のいい位に小学生で夢を見て、嫌々な中学高校を進み、安定した就職を得るための勉強をしていく。くだらない社会の下で生きていくには、収入を得ることができなければ生きていく価値すらないからだ。
自分のなりたい目標なんて考えるのは子供の証拠。いつまでも親離れできない理想に溺れた、愚か者の印。
だけどそれこそが生きる意味だと俺は考えている。
「言葉に包まれた優しさなんて現実には何の役にも立たない。時には殴って、時にはケツを蹴ったほうが薬になることだってあるのさ」
がんばれなんて言葉は勝利者の言葉だ。俺達はいつだって負けていて、同じ位置に向かおうと必死で足掻き続けている。
欲しい言葉なんて何もない。ただ望むとすれば、俺達の目標であることのみだ。
雨は更に強さを増してくる。靴はぐちゃぐちゃで、もう履いていないのと大差ない。
なのに妃月は傘を閉じ、固まったようにジッと空を見上げた。暗雲とした空には何もなく、彼女がなぜ空を見上げているんだろうか。
俺は妃月に声をかけようとして――、
……喉まで上がった声を押し殺した。
頬を弾く雨粒を嫌うことなく、水玉模様を作る服を、もっと作れといわんばかりに手を広げ、妃月は目を細めて何かに耐えていた。
泣く事もなく、怒るでもない。だけど雨に濡れていなければそもすれば膝を付き、目を腫らして泣き続けるかもしれない。自分の中に潜む感情を押し殺す方法を、もしかしたら彼女はこういうことでしかわからないのだろう。
だから俺はただ待つことにした。非力な俺の一本しかない腕は妃月を支えることはできず、強くなって欲しいと思いながら、俺は妃月を待ち続けた。
やがて妃月はゆっくりと顔を下げ、「ごめんね」と一言呟いた。
「変なこと聞いちゃって。気分悪くした?」
「雨に濡れた女をどう扱っていいか、そっちのほうが気分的に凹むな」
「雨も滴るいい女ってね」小さく笑う。
「なんだよそれ」俺も小さく、安心した声で笑う。「それならもう大丈夫だな」
「うん。風香ちゃん、絶対見つけようね」
当たり前だ。俺はあいつを叱ると決めたし、いきなりいなくなるなんてこと許すものか。
傘を閉じ雨脚に身体をさらす。妃月が驚いた顔をするが、こんなのは最初から考えていたことだ。
「走るのに傘は邪魔だよな」
「……そうね、傘って邪魔になるよね」
ああ、本当に俺達はバカだ。
言いたいことをはっきりと言えず、ただ同じ姿にならないと通じ合えない。だけど俺達は理解し合い、そして助け合う。
きっと、俺達は弱いもの同士なんだ。誰かがいないと立つことだってできやしない。なのに傍に人がいるだけで、いつも以上の力が出せる。
「私は川の向こう側を探してくる」
「俺は知り合いに掛け合ってくるよ」
知り合い? と妃月が驚いた声を出す。
「芳野くん、米沢に知り合いいたんだ……」
「知り合いってほどじゃないが、まあ付き合いはあるな」
それじゃあ、と俺達は背を合わせて別れを告げた。
すぐに再開できる別れを。
斡旋所に着く頃には、既に雨は上がっていた。
ずぶ濡れになった衣類を面倒だとばかりに脱ぎ、近くの公園に投げ入れる。半そでで過ごすにはまだ肌寒いが、火照った身体を冷ますには丁度いい。
玄関口から堂々と入ると、中にいた数人からどよめきの声が上がる。指先から雫が滴り、いかにも傘を差しませんでしたという人間が入ってきたのだ。警戒しないわけがない。
一之瀬を呼んでくださいと近くの人に言うと、すぐにそいつはやってきた。いつものようにしっかりとしたスーツに紺のネクタイを締め、ややラフな姿勢を崩さない。
一之瀬圭吾は俺を見るなり「なにをやっているんだこいつは」という失笑を漏らした。
「そんな格好でうろついて欲しくないね」と前置き、「裏にきなよ。タオルくらいは貸してあげる」
その言葉に従い、斡旋所の裏に回ると一之瀬と知らない女性が何かを話していた。女性は俺を見ると怯えた顔になり、すぐに室内へと引っ込んでいった。
「従業員だよ」俺をみてすぐ察したのだろう一之瀬がフォローを入れる。「危ないんじゃないかと心配してくれたのさ」
「水も滴るいい男ってな」冗談のつもりだったが一之瀬は笑わない。
「どうみても変質者だね」一之瀬は言う。
「なんとでも言ってくれ。時間が無かったんだ」不要な言葉を一切省き、俺は手短に伝えた。「手伝って欲しいことがある」
「手伝い?」
「人を探して欲しい」
俺はこれまでの事情を掻い摘んで圭吾に話した。
風香という女が家に転がり込んだこと、数ヶ月前に元恋人に遭遇したこと。風香の過去については言わなかったが、必要だろうと思えることは全て言うことにした。
一之瀬は懐に手をいれ、タバコを取り出した。火をつけてゆっくりと紫煙を吸い込み、吐き出す頃になるまで、俺は待った。
「――頼る人、間違ってるんじゃない?」
屋根から落ちる雫が、水溜りを穿つ。
「僕は人に仕事を与える立場なんだ。人を探すのは苦手でね」
「色々な職業に顔の聞く奴はお前しかいないんだよ。だから頼んでるんだ」
「他の人に聞いてみるよ。僕じゃ何もできそうにない」
「……なあ圭吾、なんでそうなんだよ。俺はお前に頼んでいるんだぞ?」
「じゃあ聞くけど、誰かを巻き込む覚悟があってそれを言ってるんだね?」
思わず二の次を言えなくなる。
助けてもらう覚悟なんて、考えてもみなかった。
「誰かを巻き込むに値する事情も話さない。ただ人探しをして欲しい。信頼関係があるとしてももう少しマシな方法ってあると思うよ」
「それは……」
「それは? 言えないよね。僕らが仕事を紹介しても君が行かないように、僕らの信頼もそこで打ち止めだ。欲しいから与えるのは仕事だから。じゃあ私事で頼るのに印象が必要ないかといえば、そうでもない」
人身売買として売られてきた女が、言葉も病院にも行けないほど見放され、自分の感情を表現することも、言葉を押しつけられて理屈をこねることもしない、そんな大人が家の中にいると言ったとすれば、こいつはどんなことを考えるだろうか。ひょっとしたらすぐさま警察に連絡をいれるかもしれないし、最低の人間だと酷評し、突き放すかもしれない。
自分の中で恐れと疑惑がぐるぐる回って、結局言えなくなる。自分の弱さに打ち勝つ必要があるのはこのタイミングだとどこかでわかっていても、俺はいつも言葉を飲み込んでいた。
風香だってそうだ。社会的に保護されるといったところで、そいつについて回るレッテルは、決して剥がれないんだ。
「並々ならない事情を話せないからお前に頼ったんだ。察してくれてもいいだろ」
「そりゃあね。ずぶ濡れになってまでうちに来て、しかも肌寒い時期に半そでときた。おかしいと思わないほうがおかしいよ」
片腕を失ったショックに比べたら、全然痛くもない皮肉だ。
「だったら」
「逆に、僕の事情だって、察してくれてもいいよね」
言葉に詰まる。
「……悪かったよ。でも本当に事情は話せないんだ」
「話さなくていいよ。興味もなければ、聞く気もない。けど一応さ、斡旋事業で働いている人間の立場から質問を一つだけさせてもらうよ」
「なんだ?」
「この一年。君は自分の仕事を探していたわけじゃないんだよね?」
「それは……」言い淀み、聞き返す。「どうしてそう思う?」
「勘」どうでもいいように、灰になったタバコを投げ捨てる。「事情が話せないとか既に言う時点で、自分だけの問題じゃないの、バレバレだよ」
「だったら尚更――」
「お断り」
あのね、と圭吾は前置く。
「僕は仕事を斡旋することを職務としているけど、これはあくまで自己主張できる人に限るんだ。ここに来ることっていうのは即ち、最低限の意欲がある人を救済するだけ。もし僕がいー君に特別扱いすれば、君と同じ境遇をもった人全てを特別扱いすることになる。それって許容できるルール? それとも一部に対する特別? とても曖昧だよね」
「圭吾、今俺はそんなこと――」
「聞いてよ、これは僕の愚痴さ。僕は人を助ける職務に就いているけど、職とは違った時に難題を持ちかけられたとする。その場合なにが僕を保障してくれる? 社会や法律、そんなものは社会についているからこそ保障されているだけで、個人の頼みなんて何も守ってはくれない。だけどいー君は助けてくれと言う。もちろん友人の頼みだ、助けてあげたいよ。でもその友人が差し出した救いに、君は一度でも応えたかい?」
野良猫が一つ鳴き、道を通り過ぎた。
言い訳もない。全て事実のことを圭吾は語り、俺にぶつけているだけのことだ。
俺は俺のためじゃないもののために動き、圭吾は体よく利用されただけ。そりゃ仮に友人関係があったとしても怒られて当たり前の話だろう。
「それでも頼りたいっていうなら、何か差し出しなよ」
「家に何もない俺から一体なにを得られるんだよ……」
「前に言ったよね。日記でも書いてみたら? って」そこで初めて、圭吾の口がシニカルに笑った。「書いてるんでしょ?」
……まいった。本当に俺はこいつに敵わないらしい。
「あんな駄文に何の価値があるんだよ」
「石ころに価値を見出す人に「何で石を集めるんですか?」っていう質問と同じだよ」
ああそうかい。できるならあんな小恥ずかしいダメダメな日記なんて焼却炉に投げ捨てて、塵となって埋立地へ直行して欲しいもんなんだがな。
俺自身に対する日記というよりは、どちらかというと観察日記のようなもんだ。俺がどんな風に風香に接してきたか、赤裸々に綴られてる日常を圭吾に知られるくらいなら、冬の最上川に全裸でダイブしたほうがまだまだしだ。
しかしそんな風香が今どこにもいない。自分の恥ずかしさ程度で誰かを失うくらいなら、ちゃちなプライドくらい安売りしてなにが悪い? 俺が圭吾に差し出せるものなんてなにがあるかといえば日記くらいだ。それ以外に何もないのであれば、日記を差し出すほか方法なんてないだろう。
「勝手にしろ」半ばやけくそになりながら俺はそう言った。
「交渉成立、だね。すぐに取り掛かるよ」
内ポケットから携帯を取り出し、短縮ダイアルを押す。その流れは既に俺が日記を差し出すのを予期していたかのように早く、あっという間に要件を済ませて次の電話に取り掛かる。二回目の電話も一分と立たず終わり、また次の電話を繰り返す。
「どこに電話してるんだ?」
「地元のヤクザさん」冗談っぽく言うにしては目が本気だった。「表に立たない情報だって、彼らからすれば普通に取引される話だよ」
「……俺はお前が時々怖いよ」
「僕は嫌いじゃないよ。隠すところは隠す、言うことははっきり言うその姿勢」
どうして、と問う間柄でもない。
本当にそれだけの理由で圭吾はヤクザに情報を求め、動いてくれる。圭吾にとってなによりも大切なのは姿勢。接し方を欲している。
正しい接し方は相手に対して礼を生む。偽りの無い受け答えは、いつしか人の本質を見極めるのに十分な目を養う。嘘で塗り固められた汚い人間だっていれば、清廉潔白な人間だってたまにはいる。こいつはそれを良く話した。
「ヤクザだって良心はあるよ」独り言を吐くように圭吾は紡ぐ。
「みんな本当は人に優しくしたい、誰かに優しくされたいと思っているはずさ。だけどこの世界は騙されたら死ぬ、バレない嘘や偽りの顔で接し続けていたから、いつしかそれを本当の自分だと思うようになった。そして人は人を騙し続け、争いを生む。本当はさ、ヤクザだって暴力から街を守る人たちだったんだよ」
俺は圭吾の過去を聞いたことがないし、聞こうとしたこともない。圭吾が昔どんな人生を送ってきて、斡旋所に努めようと思った理由、情報を扱うヤクザとの関係なんていうのは、俺にとって何の価値もない、それこそ必要としない情報だと思っていたからだ。
だけど目の前にいる圭吾は、何かを懐かしむように言葉を並べ、丁寧に一語一句を話した。
一羽の燕が空を跨ぐ。
風が紫煙を運ぶには十分なくらいの間を作って、圭吾は続ける。
「僕らはなぜ人を騙すんだろうね。目の前にぶら下がっている甘い誘惑を得るために、一時の安らぎを得るために他の誰彼も裏切っていく。友達だって、教師だって、家族や仲間だって関係ない。自分にとっての大切は、一瞬の安らぎでしかないんだから」
「俺は――」
「いー君は向いてないね」苦笑した圭吾が、携帯を閉じて向き直る。「嘘をつくのが下手だもん。酷いことをするとか言っておきながら、結局良い人になっちゃう典型」
そんなことはない。と消え入るように俺はぼやいた。
風香に対し過酷な仕事を与え、自分の金のなる木として扱おうとした。
妃月に別れも告げずに去り、再びであった妃月の優しさに甘えてしまった。
俺にとって彼女達はそこらに立っている木と同じで、少しの安らぎを得るための木でしかない。自分の弱さを紛らわすために、誰かを犠牲にしていたんだから。
「俺は汚い奴だ。自分の良いように誰かを利用して、利益を得ようとしている。そんな奴がキレイであってたまるか」
「キレイだよ。不器用なほどに清廉潔白さ」
なんでだと問えば、圭吾は本当にわからないんだねと笑みを深めた。
「人に甘えるのがそんなにいけないこと? 誰かを働かせるってそんなにまずいこと? 僕からすればそれは普通。風香ちゃんだっけ? 家を持たなかった子を引き取り文句も言わずに育て、衣食住を与えた。妃月って人はいー君を許し、君は自分の罪を責め苦に思っている。これ以上の償い方って無いし、むしろ風香ちゃんに関しては感謝しなきゃいけない立場でしょ」
詭弁だ、という二の句が出ない。
「いー君だって本当は知ってるはずだよ。自分は誰かを傷つける立場に向いていない、自分は困った人がいたら全てを投げ出してまで助けたいこと。過剰なほどの優しさは毒にもなるけど、いー君は弁えてる。だから厳しいと思う仕事を与えて、今でも自分の情けなさに苛まされている」
吸殻を投げ捨て、再びタバコを取り出し、火をつける。
「僕からすれば拝みたくなるくらいの自己犠牲精神だよ。それが単なる自己満足の果てなのかは別としてね。だけどいー君は今の今までやり遂げた。自分の弱さを知りつつ、どんな過酷と理想の狭間にい続けようとも、君はやったんだよ。それは認めないといけないし、たまには弱音を吐いても良いと思う」
「弱音は吐くもんじゃない。弱音になる前に、弱気を挫くべきだ」
「変わらないよ、人はずっと悩む生物だ。この斡旋所に来る人たちだってずっと悩んでいる。どうやって生きていけばいいか、自分にできるのは一体なにがあるのか。クソみたいな世の中で、どうやって生活をしていけばいいかわからない人はたくさんいる。彼らは自分が弱気だと言うことを理解している。していて尚且つ、進む道の見えない人たちだ。だから弱音になってしまう。いー君、僕はね、こんな嘘ばかりのうんざりした世の中に迷いを生みたくないから、情報を管理する職場を選んだ。迷いを少しでもなくせるように、僕は僕の道を選んだつもりだよ」
強さなんて人それぞれだ。十キロを走ってまだまだいけるという人もいれば、もうダメだと歩き始めてしまう人だっている。
それは俺ができるから他もできるという並列思考じゃなく、純粋にポテンシャル。そいつの能力と根気と限界。F1自動車と一般車道を走る車では速さも場所も違う。どんなに速さを追求したところで、差は歴然としたものだ。
追いついた頃には既に相手は遥か向こう。ならせめてと圭吾は、高速道路を教えている。
ちょっとでも近づけるようにと、圭吾は圭吾なりに誰かを助けようとしている。
「いー君はずっと追い続けた。追いつかないなんてわかっていても、ただずっと前を見続けてきた。いー君は自分自身の歩いてきた道を、否定するのかい?」
できるはずがないよ。と圭吾は言う。
「否定すればそれは今までの生活を否定することになる。風香ちゃんの出会いも、妃月さんの想いも、全てを否定すれば君はまた独りになる。独りでいたはずの過去から人が増え、また人を消すのであれば、矛盾って言葉じゃない。愚かだよ」
冷えたドラム缶に座り込むと、しっとりとした感触がズボンに滲み込む。
ため息をつけばそれは肯定の合図。自分がどれだけ愚かであったのか、自分をいつも否定し続けてきた弱さを、的確に突いていることを。
どうしようもない現実から目を背け、心を変えてまで生きようとした自分。生きていることに価値があると信じて疑わなかった一年前を振り返れば、目的なんて何も無かった。そしてそれは今もそうだ。
風香を得て、目的ができたわけでもない。初めはトイレの場所から寝床の問題。精神病から金銭と課題が山ほどあった。
だけど投げ出したくなるというほどその仕事を嫌っていたわけでもなく、俺は黙々とやるべきことをやり続けた。そしてたくさんのことをやっていくうちに、いつしか課題となるものは目的へと変わった。
風香を大切にすること。
初めは考えもしなかったことなのに、俺は結局もとの場所へと戻ってきてしまった。
自分の弱さは変えられない。弱さを克服しようと歩き始めた道は、結局スタート地点に繋がっている。
『べんきょう、たのしい』
『あり、がと』
『いーくんの手、つめたい』
『ふうかと、ひーちゃんの、ひみつなんだよ』
思い起こせば、一年前から自分の本質は何も変わらなかった。
「ああ。俺は愚かで、バカみたいに誰かを助けたいと願う奴だったよ」
そうしてようやく、圭吾も的を射た顔をし、タバコを差し出してきた。
「吸えるっけ?」
「吸わない」
「そっか。携帯も持ってないなんて古い人間だよね。いー君」
「生活保護受けてんのにどうして持てるんだよ」
それもそうだねと圭吾。
携帯なんて、風香と出会ったころから持っていない。連絡だってこちらからの一方通行、全ては公衆電話からだ。チラシからの住所訪問なんてまるでなかったし、結局俺には作家としての才能は皆無らしい。
「ならこっちにいなよ。いざと言うときに連絡がつかないようじゃ、ちょっと困る」
事務所の扉を開けた圭吾の立ち振る舞いは、いつものように肩の力が抜けている。
だけどそれはポーズだ。余裕があるときも無いときも、こいつはそうやって自分のできることできないことをきちんと分ける。連絡を待つ人間ができることなんて何もないんだ。
「ずぶ濡れの男が入って良いのか?」
「雨も滴るなんとやら。なんでしょ? それにタオルを貸すと約束した手前、そのままで外にいられてもね」
それに、
「それに、本当なら僕から連絡なんて来ないほうが良いんだ」
「居場所を知るのはいけないことかよ」なんて言おうとして、喉に押し留める。
ヤクザの情報に絡むということはつまり、表立った行方不明じゃないということ。悪意ある人間が風香を拉致し、どこかへ連れ去ってしまった。そして今でも監禁しているということだ。
最悪のケースなんてどこにでも転がっている。俺達はそれを「嫌な事が起こりませんように」と願い、避け続けた。それを風香は踏んでしまったかもしれないんだ。
笑い話にもならない。あいつがもしその最悪に捕まったとしよう。どこかの部屋に監禁され、今まさに乱暴されようというのであれば。
なぜ俺はこうもやるせない思いをしなければいけないのか。
「雨がまた降ってきそうだね」
空を見上げると白い雲は再び暗く染まり、雨が降ることを容易に想像させた。
また雨が降る。陰鬱とした雨が、俺と風香を遮る。
そして、それから五時間近く経っただろうか。昼に近かった時計の針は下を向き始め、濡れていた衣類も乾き始め、温かい珈琲に手をつけず、自分の気持ちを押さえつけるように俯きながら、何事もありませんようにと藁にも縋る思いで待ち続けた永遠に最も近い時間に。
幸か不幸か、圭吾の電話が鳴った。
時刻は夕方の五時をようやく回り始めた頃。外の薄暗さに拍車をかけるように雨が視界を隠し、傘の天井からはバラバラと音を絶え間なく鳴らしている。
靴も随分前からびしょびしょだ。斡旋所からこの場所まで、随分距離がある。タクシーやバスを使おうなんて気分は毛頭なかった。
電話の声は酷く事務的で、ただ当たり前のことを滔滔と説明した。
最上川沿いに位置するマンションに白髪の目立った女が入ったこと。そいつは以前、売春婦として米沢に売られ、子供の頃からずっといるやつだということ、女の隣には一人の男がいて、女のほうは嫌がる素振りはなかったということ。
男は米沢の人間ではなく、他所から来たやつということ。それも前にこの街に住み、仕事を持っていたということ。
男の名前はわからないという。洗ってはいるものの、まだ少し時間がかかる。そんなことを電話の向こうで言っていた。
ありがとうと言い、電話を切る。すぐ傍で圭吾が「どうだった」という視線を投げかけ、俺の様子を見て察してくれたらしい。警察を呼ぼうと事務所の子機を手に取ったところで、俺は「七階だ」と言い残し、部屋をあとにした。
一年前を思い出す。あの時もやたら豪華なマンションに行き、鎖に繋がれた風香に出会ったんだっけ。話すことも動くこともろくにさせてもらえず、身体中痣だらけの裸で俺に擦り寄った。
気持ち悪いとか痛そうだなんていう思いはあんまり無くて、ただ自然と「こいつは生きてるんだな」なんていう酷く場違いなことを思っていた。痛いのを我慢して、辛いのを必死で耐えて、それでも生きるということを止めなかった。死ぬということだって知らなかったのかもしれない。
いらないと称された道具は、簡単に売り払われることになった。俺は生活の半分を失い、変わりに使えるかもわからない道具を得ることになった。
道具は道具として初めは機能していたけれど、徐々に道具ではなく、個人として自分を形作っていく。そんな風香に対し、俺は時に酷く叱り、時に優しく褒めたりもした。
道具であった風香の世界を、人間になる風香に変わらせること。それは並大抵の躾けでは意味もなく、そして何より風香の傍にいる奴が必要だった。
暗くなった道路に車が数台走り去っていく。あの車に風香は幾度乗せられ、そして下衆な奴らの慰みものにされたのだろうか。考えただけで吐き気がするし、何より心が痛かった。
暗い道を抜ければあの居酒屋が見える。紺の傘を街灯の下に咲かせ、俺は待った。
きっとあいつはここに来る。何か失敗したときでも、面白いことがあったときでもそいつはここにやってきた。何某かの仲間と共にやってきて、くだらないことに花を咲かせて。
雨は一行に止む気配が無い。店から出てきた店員らしき人が俺を見るなり怪訝そうな顔を向け、手に持ったビール瓶のケースを置いてすぐに戻っていった。
自分の気持ちに覚悟を上乗せする。話し合いで片付けば良い。いや、決裂したとしても、警察が介入した時点でもう結末は決まっているんだ。
恐らくマンションには組合の人間も駆けつけるだろう。そして風香を発見し、保護する。そのまま一時施設に預けられ、その後は……その後はどうするんだろう。多分妃月がどうにかするだろうけど。
やれやれ、そう言って頭を抱えたくなる。圭吾の言うとおり、俺は後先考えない大馬鹿だ。結局最後まで手を伸ばすことができず途中で止まってしまうし、全てを万事上手く済ませようと思えば理屈を捏ねる。だけど俺の頭はそんなに利口じゃない。いつも感情が先走ってしまう。
それが俺の馬鹿である原因、大人になりきれない部分だ。
冷たい風がビルを伝い吹き荒ぶ。いくら慣れたといっても、柄を握る手はどんどん熱を奪われていく。どうにか息を吹きかけながら、ズボンの裾が濡れるのも構わず待ち続けた。
そして、ようやくそいつは現れた。
三つの傘を横並びに歩き、やんややんやと声を出して笑っている。既に酔っているのだろう、しわくちゃになった服はだらしないまま着られ、赤くなった顔にはうっすらと無精髭。横に並んでいるのは後輩だろうか、向こうでどう引き込んだのかは知らないが、酷く頭の悪そうな印象を得られた。
中心になって会話を進める男が俺に気付く。一瞬だけ驚いたような顔を浮かべたものの、すぐに仮面を被りなおし、旧友に出会ったかの如く振舞える切り替えの速さだけは見習いたいもんだ。
「よう、久しぶりだな。芳野」
先輩。宗彰浩は陽気な声でそういった。
「お久しぶりです、先輩。戻ってきたんですね」
どちらの声にも暖かみなんて感じることはない。
距離にして二メートル。お互いの距離は意外と近くにいるのに、ひどく遠くにいるようにも思えた。
「うるせえよ。とりあえずどうだお前も、これから飲まないか?」詰まるのを嫌ってか、宗は移動しようと促した。「こいつらとこれから一杯やりに行くんだが」
「いいですね。と言いたいところですが」嘘をつくより正直のほうがいい。「ちょっと忙しくて今日は難しそうです」
「なんだよ、付き合い悪いな」
ことさら残念そうに言う宗の顔とは裏腹に、嬉々とした声色が窺える。
余計な事は言いたくない。だけど体裁はとらないと不審に思われる。両者の折り合いをつけるために一応誘うけど、できれば断って欲しい。
くだらないな、なんて思う。この嘘に塗れたやり取りも、笑えない現実にも。
「実は以前頂いた『もの』なんですが、最近になって逃げ出してしまいまして」
「あ? あんだよだらしねえな。しっかり繋いどけよ。ペットは放し飼いにしちゃいけないんだぜ?」
「耳が痛いです」
耐えろ俺。
「どうにも埒が明かないと思い警察や組合の人に捜索をお願いしたんですよ。先輩、アレのことを知ってますか?」
「知るかよ。俺は久しぶりにこの町に戻ってきたんだ。顔だって覚えちゃいねえ。だが」
「だけど?」
「お前随分やきが回ったな。もう商売できねえぞ」
ああ、そうだな。
風香を売り物にするのも、奴隷としてずっと家においておくのもできなくなった。
だけどそんな小さいことはどうでもいい。
「仕方ないです、放っておくのも街に毒ですし。ついさっき連絡があったんですよ。とあるマンションの七階でそれが見つかった。酷い状態で今警察が保護しているようです」
ようやく宗の顔に、明確な怒りが窺え始めた。
馬鹿だな。警察は許可無く部屋に入れないし、住民の依頼がない限りは捜索だってできない。
「……だとしたら随分その警察も間抜けだな。住居不法侵入だ」
「組合の方が発見したんです」本当に、このやり取りはつまらない。「ヤクザの方も捜索してくれたようで、マンションのオーナーに掛け合って開けてもらったそうです。自分は逮捕されるでしょうに、凄い自己犠牲精神ですよね」
「てめえ!」
本当にこの街の人々は優しい。見ず知らずの人のために手を汚すことを厭わず、死地に自分の足で赴くんだから。
見習えというほうが難しい。誰かを救うという精神は、自分が傷つくということを良しとする人でなければ耐えられないのだから。
「どうしたんですか?」焦らず俺は言う。「先輩、何か知ってるんですか?」
言葉を紡げない宗に対し、他の二人は何のことかと疑問に思っているようだ。
たかがペット、どこかに拾われたという話に対して警察、組合はやりすぎだろうなんて思っているかもしれない。それが人間で道具としてしか扱ってもらえず、人の優しさに触れたことの無い奴だと言うことを話しても、彼らはそれを辛いことだと理解してくれるだろうか。
……いや、そんな考え方すら甘いんだ。
彼らは辛いと認識した上で、「それがなんだ」と言う。自分とは何の関係もないことには他人事としか事実を評価できない。言葉や感情で表したところで、暖簾に腕押しだろう。
「……別に、なんでもねえよ」
苦渋に塗れた言葉だとわかるのは、この場では俺と本人しかいない。
仮に不法侵入で訴えたところで宗は人身売買をしていた身だ。身元を洗われた挙句に待っているのは自分の首を絞めるロープのみ。そこへ自分の足で進む勇気なんてあるわけが無い。
それに一人であの商売をすることなんてどだい無理がある。その背景には地元人ではないやつら。それこそ社会の裏側で生きている奴らの後押しがあったはずだ。
それが刑務所から出てくればどうなるか。薄汚いことに関しては頭の回る宗が気付かないわけがない。
「あの、宗さん」
「っるせえな、なんでもねえってんだろうが!」
無い知恵を絞ってどうにか打開しようと策を巡らせているんだろう。だけど一つの街を落とそうとする男としては、宗はあまりにちっぽけであり、そして野心家でもない。
力を得ようとするにはリスクが必要だ。それは支援という協力的な話ではなく、ロボットのように動く無感情な理屈だからこそ、恐怖がこびりつく。
俺と宗の違い。
それは純粋な支えと、恐怖による支え。誰かを助けたいという思いは死を覚悟して前に進み、死を理解しない支えは常に崖っぷちに立っているのを知ることができない。後ろに進むしかできない奴は、前に進む方法がわからない。
それが宗の限界だ。
「クソがっ! 行くぞお前ら」
「は、はい!」
止まっていた足を動かしたのは宗からだった。ふらつく足取りで俺の横を通り過ぎ、横に並んでいた男たちが俺を睨む。
しかしそんなのは脅しにならない。隻腕の人間、失望と絶無から這い上がってきた俺にとって、目線など茶飯事だからだ。案の定一つ睨み返せばすぐに怯み、憎憎しいとばかりに宗の背中を追っていく。その程度の奴らだ。
小さく息を吐く。これで俺の出来ることは全て終わった。風香は施設に預けられ、俺は監禁の罪で捕まる。妃月ももしかしたら何かの処罰があるだろうが、きっと大丈夫だろう。少しばかりの寂しさを風香は味わうだろうが、そこにはきっと俺達以上に優しい人たちがいるかもしれない。
いつか好きな人ができて、愛を育み、子供を作り家族ができる。幸せな時間を永劫創り上げて、俺も妃月も喜びながら風香を見送れれば。
それ以上の幸せなことなんてあるんだろうか。
「なんて、また俺は自分に嘘ついてるな……」
帰ろう。帰って、少し寝よう。
この煩わしい雨も暫くすれば止む。それまでは家で寝転び、陰鬱な気分に折り合いつけて寝てしまえば、起きた頃にはまたいつもの朝だ。
宗に背を向け一歩を踏み出す。
「芳野くん!」
向かいの歩道から妃月が俺を見つけ、声を上げた。その顔には喜びがあり、風香を見つけたことを伝えるには十分過ぎるほどだった。
迷惑かけたな。とか、大丈夫だったか。なんて言葉が浮かぶが、それは今度に取っておこう。とりあえずは俺を助けてくれて、風香を助けてくれてありがとうと、
「……よう、皆川じゃねえか。お前まだ売りやってんのかよ」
言えなかった。
雨の降りしきる広場の前で、俺と、妃月は凍ったように動かなかった。
こいつは一体なにを言い出したんだ? そんな疑問が俺の身体を縛り、妃月は――。
なんだろう、俺が見たことのない顔をしているのに、俺はこの顔を知っている。一瞬のうちに蒼白になり、声すら上がらない。動きたいのに声を上げたいのに何もかもが止まってしまった、そんな幻覚に捕らわれてしまう。
俺は、それを知っている。
「お前まだ仕事続けてんのか? んなわけねーよなあ、ガバガバになるくらい大勢にやられたんだからよ。正気かどうかも疑わしいぜ」
「宗さん、この人のこと知ってるんですか?」
おうよと、先程とは打って変わった気前良い言葉が飛び交う。
「こっちで働いていた時に同僚だった奴でよ。随分社内で人気が高くって、いつも男の間じゃ中心にいたっけな。あいつを俺の女にしてやるとか、肴にしてる奴だっていたか」
「へえー、宗さんもそんな人だったんですか?」
「当たり前だ。だけどすっかり天狗姫になったこいつは全員袖にしちまってよ。あまりにムカつくからって、数人で軽いストーカーでもやってやろうかって話になったんだよ」
「やめてっ!!」悲痛とも思える妃月の声が、やけに小さく聞こえた。
足元がぐらぐらと覚束ない。立っていることすら曖昧で、俺は知らずに電柱に手をかけた。
気分が悪い。吐いてしまいそうに、なぜだか宗の声から逃れたかった。
振り返ればそこにいる宗の姿、卑下た笑みを口元に浮かべ、ヒヒヒと方を揺らす男。
「工場長の部屋に入っていくのを見かけたときには、なんか変な予感めいたものを感じたね。こいつはちょっとなんかあるんじゃないか。そう思って覘いてみたんだよ」
「そしたら?」
「信じられるか? こいつ工場長の上にまたがって腰振ってやがったんだぜ。「私の中気持ちいい?」なんて淫乱な格好して、年のいったオヤジもおったててよお!」
「マジすかっ! てことはこの人ヤリマンじゃないですか!」
「うわー、スゲー俺始めて出会ったよそんな人!」
ああ、そうだった。ようやく思い出せた。
絶望に打ちひしがれた顔。どんなことをしても過去からは逃れられない、精算の効かない自分の無力さにどうすることもできなくなった者の顔。
過去の俺にそっくりだったじゃないか。
膝を崩して泣き崩れる妃月に、俺は近寄ってやりたかった。傍で抱き寄せて「お前は何も悪くない。お前のせいじゃない」と声をかけてあげたかった。
どんなに自分を責めても現実は変わらない。責めて変わらないのなら、自ら動くしかない。動くことのできない俺達は、ずっと自分たちを責め続けるしか方法を持ち合わせていなかった。だからずっと自分を責め続け、自棄になり、自分の過去を清算できると思い込むしかなかった。
そんなことはできないのに。それでも人は、自ら絶望から脱出しようと必死に足掻こうとするのに、世間は助けちゃくれない。
誰かが優しくしてくれれば救われた。誰かが一人、世界で一人、そいつを優しく支えてやれば、妃月は救われたに違いない。
だけどその一人は同じように絶望の世界にいて、誰かを助けるほど自分を維持することができなかった。
どれもがすれ違いで、タイミングの悪い。思わず「ふざけるな」と吐き捨ててしまうほど、絶望を知るには丁度いい悲劇だった。
右腕に冷たく重い感触が宿る。どうでもいいくらいに俺の頭がスッキリし始め、自分がどれほど重いことをしようとしているのか、理解できないでいる。
それは理論。法を犯してはならないという理屈からなるストッパーが、今の俺にはどこにも見当たらなかった。
「そうなんだよ、こいつ実はヤリマンでよぉ! 工場長の女かと思っていたら、他のやつにでもケツを振るアマなのさ」
目が霞む。
心の底から、俺が俺じゃない気分になっていく。
ふらつく足をゆっくり進ませ、宗の後ろに歩いていく。
「だから随分前だっけ。皆川が辞める前にいっちょ姦してやろうって話をみんなでしてよ。お前らも誘いたかったぜ。超エロい目で俺達のもんを弄ろうとし――」
初めて、俺は俺という感情に感謝した。
片手に持ったビール瓶も、人が痛がるという当たり前の考えも、殺したくないという人間の限界を超えた感情は、人を容易く殴るというところに直結した。
歩き去ろうとした宗が無言のまま倒れ、頭から夥しい血が流れ出る。これ以上やれば死んでしまうということだって、一縷の情けもかけるつもりはなかった。
割れたビール瓶の先端を宗の股に突き刺すと、面白いように反応があった。だけどそれは皆川の痛みじゃないし、俺や風香の痛みでもない。
単なる怪我なんだ。
背中をぶっ刺してやると、届かない痛みに今度は反り返ろうとして、それを前かがみの痛みが押さえつける。噴水のような返り血が服にかかるが、こんな痛み、妃月に比べたら全然痛くないはずだ。
「死ねばいいのに」
遠巻きで見つめていた男達も異変だと感じ取ったのか、一斉に俺を取り押さえようとする。だがそんなのは一つの武器で容易に引き越しにすることができる。次は誰かがあの痛みを味わうと感じた奴等は、誰もが周囲を取り囲んだだけで近くに来ようとはしなかった。
ちゃちな仲間意識は、警察を呼ぶことで満足を得たらしい。「落ち着け! 変なことはよすんだ」と場違いな言葉を吐いて、俺を宥めようとした。
くだらないと吐き捨てて、宗に向き直る。腹ばいになった身体を蹴り、再び仰向けに倒す。
だけど俺は簡単に殺すつもりはなかった。出血多量で死のうとも、限界ギリギリまで生かし続ける。いっそ殺してくれと頼み込むまで、俺はこいつを生かそう思った。殺さないで、でも生かさない。死すら生ぬるい痛みこそが、こいつには相応しい。
「クズにかける言葉なんてないけど、お前に大切なことを教えてやる」酷く冷静な声が、俺の喉を通ってでた「お前、もう笑えねえからな」
必死に顔を手で隠す宗の右腕を掴み、肘を裂く。確か肘の裏に腱があったはずなので、まずは一本。悲鳴を無視して今度は左腕をぶっ刺す。
使い物にならなくなった腕は醜く垂れ下がり、足だけが力なく動く。弱ったところでアキレス腱を切り、止めてと泣き叫ぶ妃月を背にただ黙々と俺は残酷を続けた。
泡を吹く宗を見てただ事じゃないと周囲も感じたのだろう。止めるんだという声も一層大きくなり、騒ぎを聞きつけた自治体の人間が駆け寄ってくるのもわかった。
しかし彼らも、俺が持つビール瓶を見たところで足が止まる。迂闊に手を出せば惨事になる。それを良く理解し、警察が来るまで待つんだと悟ったらしい。
だから最後に言葉すら出てこないこいつの頭を勝ち割ろうと、近くにバットがないか探し始め――、
「いーくん!」
その声を聞いてしまった。
その主を見てしまった。
大切だと決めてしまった人。守ってやると誓った人。俺の手は右手しかないけど、その右手で助けられると願い続けた人。痛みも悲しみも苦しみも痛みも切なさも孤独も弱さも何もかも一人で背負い続けてきた人。頬は赤く染まり傷が垣間見え、大分回復してきていた足をまた引き摺り、整っていた髪もボサボサにして、
風香が立っていた。
「ふっ……」無意識の声が喉元を通る。「ふう、か……」
警察が横に二人備え、何事かと大声を上げて俺を制する言葉を投げかけている。だけどそんな言葉すら耳に入らないくらい、俺は風香に見蕩れていた。
あいつが目の前にいる。俺の名前を呼び、俺の元に足を引き摺りながら近寄り、それを警察が引きとめ、危ないと安全を保障された風香は。
雨に濡れながら、また泣いていた。
手に視線を落とす。血に塗れた手は果たして、彼女達を抱き寄せるに相応しい手だろうか。穢れきったと言わない彼女達は、俺の傍にいさせていいんだろうか。
答えなんて決まってる。殺人者である限り社会が俺を抹消しにかかるなら、キレイなままと謳う彼女達を巻き込んでいい道理があるはずもない。
「来んなあ!」大声で叫べば案の定、風香の足は石のように止まってしまった。
「もう、お前の知ってる芳野無花果なんて人間はいやしねえ。……俺は殺人鬼だ。これから多くのクズ野郎を殺して回る最低のクズ野郎なんだよ!」
「違うっ! 芳野くんはそんな人じゃ――」
「ならこれを見ろ!」宗の髪を掴み上げ、見せしめる。「こんなクズ野郎でも人間だ。俺達は法律に裁かれて、法律で地位を失っていく。勝ち組を気取った奴らがなにをしたって法律が捌いてくれないなら、クズをクズが捌いてなにが悪い。生きる価値もない奴がのさばってる世界に、何の意味があるんだよ!」
クズと自らを貶めた自分は、クズを捌くに相応しい。
大言壮語でも自分を見失わない奴らがいるこの世界に、一人の優しさを穢す愚か者がいるなら、俺は喜んで鬼になってやる。
「お前らみたいな弱者がクズの餌食になって、なにが平和な世界だ! なにが法律だ! なにが感情論だ! そんな妄言を吐いたやつでてこい! 今、この場で、こいつを目の前にして、くだらない理想をほざいてみろ! 反吐が出るクソッタレな言葉を、倫理だなんだと世論にぶちまけてみろ! そんなの絶対認めない、俺が認めてやるもんかっ! 俺の誓いを破るやつなんて、俺が残らず殺してやるっ!!」
救われないやつは絶対に救われない。こんなくだらないことを考え続けるやつがいる限り、犠牲は出る。
だけど誰でもいい。一人でも多くの人を助けられる人がいれば、それで誰かが救われるのであれば、こんなことはなかった。
あの日、風香とであった日。俺は誓った。
もし俺が悪に染まることができず、人を慈しむ心を忘れられなかったときは。
そのときはどんなことがあろうとも、俺は風香を助けよう。勝者の犠牲になったすべてのやつらを助けるために、俺は修羅の道を望み続けよう。
例えそれがどんなに辛い道だろうとも。重い十字架の下敷きになろうとも。
俺は絶対、風香たちを見捨てない。
「さあ言えクズッ! 他に誰がいたんだ。妃月や風香を悲しい目に合わせたやつはどこにいんだよ!」
反応のない胸は、既に血を吹いて白目を剥いていた。死んでも構わない、絶対に起こして、やった奴を聞きだし、そして俺はそいつらを殺す。誰がなんと言おうと、殺すんだ。
「起きろ! お前の罪はまだこんなもんじゃないんだ。一生後悔するくらいの痛みを味わい、そのまま老いて死んでいけ! クソッタレの人生なんざそれで十分だっ!」
だけど、そんな俺を怖がらずに覆いかぶさるやつがいた。
「どけ風香、邪魔だ!」
「いやっ!」
力のない腕が絡みつき、振りほどけば容易に折ってしまいそうな身体を、乱暴に振りほどく。
しかしそれでも風香はまた引っ付く。
「いーくん、やめて!」
「風香……お前だってこいつらが憎いだろ。お前を玩具程度にしか考えない、飽きればガキのように簡単に捨てて、新しい玩具を探すようなやつらをお前はたくさん見てきたんじゃないのかよ!」
「いやなの!」
「芳野くん、もうやめて!」
妃月まで俺の腕にしがみついてきた。
「妃月っ、お前だって辛かったばかりじゃねえか! クズが溢れた場所で必死で我慢して、自分の夢をお前は追い続けてる。それを再び邪魔しに来たこいつを排除したいと思わないのか! 俺は許さない、お前ら二人を傷つけた全ての奴ら全員ぶち殺してやる!」
「芳野くんが思いつめることじゃないの。私が……私がしっかりしてれば良かったの!」
「違う! お前を大切に想ってくれるやつが傍にいなかった奴の責任なんだよ、お前の傍で守ってくれる人が、ここにはいなかったんだ!」
「芳野くんがいるじゃない!」絶叫はもはや声にならないほどだった。
「芳野くんがいるから私はがんばれた、芳野くんがいると思えたから私はまだ続けられた。芳野くん……芳野くんがいなくなっちゃったら、今度こそ私は私じゃいられなくなる! 私は芳野くんじゃないとダメなのよ!」
「なら――」
ならなぜ止めるんだ。
俺はこいつを許せない。守るべき物を傷つけ、平気な顔をして街を闊歩するクズどもを根絶やしにしなければ、俺はお前らを守れないのに。
「だって……そん、……な…………」涙でくしゃくしゃにした顔を隠さず、妃月は必死に俺の腕を掴み続ける。
「これじゃ、芳野くんが救われない……。芳野くんが壊れちゃうよ」
その一言が、俺の奥底にあった何かを壊した。
助けたいと想っていた感情の中になかったキーワード。自分を数に入れないことは、自分を必要としてくれる人を切り捨てること。
俺は妃月と風香を救うと決めた。だけどそれは二人の過去を清算することだけじゃなく、二人の未来を与えることでもあった。
そこに、俺が必要?
いらないと思っていた自分を、必要とされている?
でも、それじゃ……だけど。
「ぅ、あ…………」
考えが纏まらない。呆然と立っている男達も、俺を取り押さえる二人の姿も歪み、足に力が入らなくなる。
駆け寄ってくる警察とけたたましいサイレンが共に近づいてくる。終わりを告げる音色は、まさに人としての終焉を伝えにきたものなのかもしれない。
だからここで俺の、芳野無花果としての人生は、一つの終わりを迎えた。
「うああああああああああああああああああああああああああああ!!」
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「宗って男が死ななければ、傷害罪で済むと思う。僕も詳しいことはわからないけど、人を殺す殺さないっていうだけで、罪の重さは相当違うから」
薄暗い部屋だった。
プラスチックの透明な窓の先に、圭吾が座っている。硬そうなパイプ椅子の上にスーツ姿で座っている様は、まるで弁護士だった。
後ろで警棒を持った男が厳格な顔つきで控えている。何をする気もさらさらないので、無駄といえば無駄だが。
「朗報かもしれないけれど、君が左手を失った件。見直されるかもしれないよ」
「何でいまさら」
「事件当日のことをどうやら多くの人間に話していたみたいだね。自分があいつの左腕を落としてやった。あいつと妃月って女を別れさせるためにやった工作みたいなことを、東京やこっちでも随分肴にしていたらしい」
馬鹿だなと素直に思えた。黙っていればわからないのに、不必要なことを声に出して言うから、自分の首を絞めることになる。
「だけど四肢の腱切断はやり過ぎだろうね。今までの事情も含めて少なくとも二年、仮釈放も含めて一年半年はかたいよ」
「そっか」
「随分気楽だね」意外そうな声で圭吾が尋ねた。「僕からすれば大変だったよ。警察の人に事情聴取されるし、あのあとヤクザの人から色々なこと聞かれるし。本当に市内を走り回ったんだ」
「それはすまなかったな。まあ後片付けと思って、諦めてくれ」
いいけどね。と呆れ半分、覚悟半分でお互い笑いあった。
あの後、警察が俺を取り押さえ、宗は近くの病院へ搬送された。妃月と風香も同じように病院へ行き検査を受け、女性として問題がないことを確認された後、二人は精神病院へ入院するという羽目になったらしい。
ゆっくりとではあるが、妃月は自分を取り戻し、風香は基礎知識と共に施設へ移る準備に取り掛かる。いの一番で風香を預かりますと妃月が言い出したときは、病院にいる先生全てが驚いたとか。
宗はまだ病院で入院している。拉致監禁、誘拐に売春といった罪状があるため、怪我が治ったとしてもどこかの刑務所に連れて行かれるだろう。
「もっとも、彼はもう生きていけないだろうけどね」
「さてな。四肢がない人だって生きていける世の中だ。希望さえ残っていればまた甦ってくるさ」
「知ってるくせに」
「それこそ希望的観測だ。人の心なんて絶対読めないぞ」
だけど俺も圭吾も、宗が生きていけないことは知っている。
人を利用して生きるやつなんて、利用できる奴がいるから扱い、扱われる。存在意義のなくなった奴なんて、生きながらにして生きていない。ただの屍だ。
そういう意味では、俺の復讐は完了したということになる。
「大胆というか馬鹿と言うか。これからどうするの? あの二人、君がいないと生きていけないみたいなこと言ってたよ」
「大丈夫だよ。あいつらにとって俺はいつだって近くにいるし、もしいなくなったとしても、本当に大切なことはわかってる。芯の強い奴らだ」
「ならいいけど」
「心配ついでに、一つ頼まれてくれないか?」
頼み? と聞く圭吾に、俺はある願い事をした。
するとさっきまでのほほんとした顔が険悪に変わり、聞かなければ良かったという後悔を前面に出した。
「いやだ」
グサッと来る一言である。
「君からもう貰えるものはないし、そんな迷惑を押し付けられても困る。断固拒否」
「そういうなよ。俺と圭吾の仲じゃないか」
「そういう使い方は嫌われるね。今ので僕の中にあったいー君の印象が1下がったよ」
随分と低い下がり方だ。
「じゃあこうしよう。俺が圭吾に渡した日記あるだろ? あれを使って、お前が自費出版するんだ」
「なんで僕がそんな面倒なこと……」
「小説書いてるの、知ってるんだぜ?」
会社で働いているのに、俺の時だけパソコンで小説を書くのはどうかと思う。
「それでどれだけ米沢にいる人間を感動させられるか。全国でもいいさ。それで素晴らしいと評価を得られた分だけ、お前は俺の頼みを叶える」
「無理だね。天文学的な数字くらいに不可能な話だ」
「やる、やらないはそいつ次第なんだろ?」
まあねえ。とため息混じりに圭吾は苦笑する。
「叶わなかったら?」
「お前を恨む」
「一方的じゃないか」そういうと圭吾は席を立ち、背を向けた。
だけど俺は知っている。こいつはそんなに理屈を重視しないやつで、本当のところは凄く危険な賭けを好む奴。危機的状況を楽しめる人間だと。
「ビール瓶片手に襲われるの、嫌なんだよね」
「がんばれ未来の作家」
「人事だね。助けて欲しいよ」
右手が振られる。
その背中は、どこかうきうきとしているようにも見えた。
七.
上杉神社の周囲を囲う濠の傍に松ヶ崎神社がある。上杉家記念館の手前に大きな丘があり、夕方になればそこで大学生が大道芸を披露している。集客はそれほどでもないが、子供達が楽しそうに寄っているところを鑑みると、意外と人気はあるようだ。
器用にヨーヨーを操ったり、クラブを使って二人で六本のお手玉をする光景は、なるほど、デジタルの遊びが増えた昨今に無い古き良き楽しさがある。メロディにあわせて時には失敗をし、それでも最後の一礼をすると、子供達からは惜しみない拍手が大学生に送られた。
「ねえ、いーくん。あれ何?」
「大学生が子供達に遊びを披露しているんだ。ほら、あの棒を振ったり、コマを回したりしているだろ? ああやって見る子供達を楽しませるのが目的だ」
「気持ちいいの?」
「ああ、気持ちいいし、凄く嬉しい気持ちになる」
風香はそれを聞いて、まるで自分がやったかのように目を細めて微笑んだ。腕に絡んでくる力が強まり、堅くなった胸の双丘が二の腕を刺激した。
パサパサの髪にが歩くたびに鼻に近づき、シャンプーの匂いを漂わせる。そうすることで風香は主張しているんだろう。自分が俺の傍にいるということを。
「いーくんはやらないの?」
「難しくてな。やるよりは見ているほうが楽しい」
「じゃあじゃあ、犬がやったらいーくん喜ぶ?」
不安そうな目線を俺に向けながら問うのは、純粋に喜んで欲しいという想いからだろう。そんな小さな願い事も、昔の風香からすれば望んでもいけないことだった。
いつものように頭を撫でる変わりに、俺は彼女の鼻に自分の鼻を擦りつけた。
くすぐったそうに風香が少しだけ震え、それから頬を寄せ合う。
「……えへへ」
「帰ろう、妃月が待っている。そしてまた一緒に勉強しよう」
それと、
「自分のことを犬って呼ぶなと、何度も言ったろ? お前の名前は風香。芳野風香だ」
「うんっ、風香、またいーくんと勉強するよ」
だだっ広い道を密着しながら歩く光景は、都会ではよくあるバカップルにもみえただろう。現に、向かいで夕食の買い物をしてきたのだろう主婦方々は、決して目線を合わせないが、怪訝な顔つきでこちらを覘き見ている。
いいさ。なんとでも思えばいい。お前達がどんな目で俺達を見ようとも、俺は風香を守ると決めたのだから。
八月一日、夏。
そうしてとうとう二年を超えて、三度目の夏がやってきた。
川沿いを歩きながら、芭蕉が詩を詠ったこの最上川を俺は歩いている。万里橋からずっと歩いた道は、春のころには桜が咲き乱れていた場所。風香がキレイと呼び、妃月が立派だと呼んだ木々は、緑に色を変えている。
その二人は今、自分たちの遊びだといって買い物に出かけている。しきりに風香が俺の誕生日を聞いていたから、もしかしたらその買い物かもしれないと自惚れながら、ゆっくりと色付いた緑を眺めながら。
風香を拾ってからたくさんのことがあった。思い出にするには重過ぎるくらい濃厚で、忘れたくても忘れられないほどの幸せだった出来事は、目蓋を閉じればすぐに浮かんでくる。楽しい日々。
焼けるような暑さが、風香との約束を思い出させる。海へ行けばこの夏も楽しく過ごせるだろう。あいつは身体に着いた傷を見せるのを少し嫌がりながら、だけど誰もいない砂浜に心躍らせて、そんな風香を、俺と妃月が手を引き、海へ放り投げる。しょっぱいしょっぱいと言って目を擦る風香に、水を被せ、笑いが止まらない俺達が、今度は風香に水を被せられ、逃げる。
ああ。そんなことを思っている時点で俺も変わった。物として扱うと考えていたあいつを、今では人間としてみているんだから。
変わらない人なんていないと妃月は言った。俺と出会って変わったと風香は言った。
そんな俺も、あいつらと出会って変わった。けれど悪い変わり方じゃない。自然とした変わり方で、本人でも気付かないような小さなことが変わったんだ。
ふと遠くの相生橋のあたりで何か揉め事が起こっている。白バイがいる辺り、どこからか来た観光客が引っかかったんだろう。米沢で犯罪なんて言葉はほとんど聞かないし、大抵はこうした気の緩んだ人たちが起こすことだから。
さて、今日はどうしたものだろうか。風香もいなければ妃月もいない。こんな日なら一日中部屋にこもって扇風機でも回し、あいつらのいない間をのんびりラジオでも聴いて過ごすのだが。ただ今日はなんとなく、本当になんとなくこの街を歩いてみたかったんだ。
中央広場から居酒屋の前を通り、松ヶ崎神社、上杉廟所、林泉寺、南米沢駅を降りて線路を歩き、川を越えて宮坂考古館。そしてまた万里橋。
人としての性を忘れた風香と出会い、人として向き合おうと風香との決意を決め。
悪戯に木々の下で妃月と他愛ない話を交わし、泣き崩れた妃月に初めて想いを打ち明け。
そして風香と妃月で、寒い夜の線路を歩き続けた。
寝る前に奏でる音色。オルゴールの音を鼻で歌いながら。
その全てがこの道にあり、大切に刻まれた時間。
俺の幸せすぎた時間たちが、鮮やかに思い起こされた。
緩やかな温度変化が太陽から伝わり、時間もそろそろ夕方を示したころ。そろそろあいつらが帰ってきてもおかしくない時間だ。
さっさと家に帰ろう、帰ったら皆で今度のことを話し合おう。
仕事も見つかった。話し相手も見つかった。大切なことも、必要なことも、全部全部俺の傍にある。
だから歩いて帰ろう。この幸せをかみ締めるように。ゆっくりと。
点滅を始めた信号機の前で、止まる。次の青を待てば良いさ。そんなふうに思いながら。
けれど、運命なんていうものは非情というほど残酷なものだった。
激しいブレーキ音を響かせて突っ込んでくる車は、ガードを乗り上げて斜めに傾いでいる。サメが魚を食べる時のような、大きな口を開けてやってきた。
俺は逃げようとして、躓いてしまう。思わず腰が引けてしまい、地面に尻をついてしまった。
あっけない時間だった。きっとこれから新しい日々が始まるのに。風香との日々が始まるだろうっていうのに、ここで打ち止め、俺は止まってしまう。
もう未来は変えられない。俺は多分死ぬだろう。この車に轢かれて、俺の身体は粉々になって死を向かえるはずだ。
だから、俺はありもしないものに願った。
できるなら、できるなら――。
――。
――。
――――ああ。
そう、俺はまた夢を見ている。
白い部屋、机に飾られた花と、ベッドが一台しかない無音のセカイ。
ガラス窓は開け放たれ、気持ちの良い風が濁った空気をさらっていく。
花が風に揺れながら、窓の外を見ていた。
入り込む射光は眩しく、リノリウムの床を反射させて淡い黄色を彩っていた。
鼻をくすぐる優しい匂いは、いつしか俺の好きな匂いに変わっていた。
身体をゆっくりと起こし、窓の外を眺めてみる。
逆さに移った一面の青と、一面の緑。引いては寄せ、寄せては引く海。木々。
俺が最後に望んだ場所。
ベッドから降りて、胸いっぱいに空気を吸い込めば、嬉しい。
傷だらけだった右腕も、失っていたはずの左腕も、見せたくない足も全てキレイ。
手を伸ばせばほら、木の感触が心に伝わる。
良かった。元通りに戻って。
良かった。また始まって。
振り返ればそこには扉がある。薄汚れた。よく見慣れた扉が、誰かを待っている。
俺は出て行こうとして、それを止めた。なんとなく、そうなんとなくそこから誰かくるんじゃないか。そこからは俺の待ち望んでいたものがひょっこり、猫のように現れて、俺のところまで歩いてくる。そんな気がした。
やけに時間が経つのが遅く感じられる。たったの一分が、十分にも似た長さに思えるのは、きっと俺がそいつを待っているからだ。
でも同時に、望んではいけないとも思っている。ここは俺だけの夢。誰かが来てはいけない自由の場所なんだから。
俺が思うに――。
コン、コン、と。
「…………」
どうぞ。なんて言葉をかける気はさらさらない。
この部屋は俺のセカイ。ノックなんていうデリケートなものをしたところで、俺には会えない。
また、コン、コン、と。
とても単純なことなのに、お互いできなかったことがある。大切なのに気付けない。気付いているのにわからないちょっとしたこと。
お互いの傍を、愛しく思うこと。
コン、コン。
ノックなんていらない。
コン、コン。
欲しいのは唯一つ。
……。……。
ドアノブが、静かに回る。恐る恐る、開けるのが怖いとでも言うように。
軋んだ音を立てながら、やがてそいつは怒られる猫のように、上目遣いで、中を窺い、そして――。
言葉を無くし、俺を捕らえた。
無くした物を見つけたと表情が語る。
たくさん、たくさんのことを俺は言うはずだった。叱りたいことや、注意したいこと、抱き寄せたいとも思えたが、それはまだ先に取っておこう。
だから今はまず、泣きたいのに泣けないそいつのために、取って置きの言葉を伝えよう。
「ありがとう。世界で一番、お前を愛してる」
無音の世界が、咲かない花で彩られた。
十月三日 午前三時十二分。 風香
圭吾って人からこの日記をもらった時、風香はすごく胸が痛くなりました。いーくんのせいだ。
いーくんがいなくなって、風香はどうすればいいかわからなくなりました。夜一緒にトイレに行ってくれることも、頬についたごはんを食べることも、隣でうんうん言っているいーくんを撫でることももうできません。でも、風香は一人ぼっちになっちゃったと泣いていたとき、隣にいたひーちゃんが風香を抱き寄せて、「わたしがあなたの面倒を見てあげる」って言ってくれました。すごく嬉しかった。ごはんはおいしいし、洋服を買いに行くのも楽しい。色々話をしてくれて、気をつかってくれてるんだなって思います。
でも、いーくんの話は聞きません。いーくんのことを話そうと思うとひーちゃんはおなかが痛そうにうつむいて、話を聞いてくれません。ひーちゃん忘れちゃったのかな。ひどいよね、でも風香はいーくんのことを忘れません。
いーくんがいないと寂しいです。ひーちゃんだと手の大きさも違うし、歩き方も違うし、喋り方も違うし、話すことも違います。ひーちゃんはひーちゃんで楽しいけど、いーくんはいーくんの楽しさがありました。
今でもたまに泣くことがあります。いーくんが車に跳ねられたことを夢で見ると、ひーちゃんが横で寝てるのに起こしてしまいます。そうするとひーちゃんも一緒に泣いてくれて、一緒に「ごめんね、ごめんね」って言い、抱きしめてくれます。きっと、ひーちゃんもいーくんがいなくて寂しいんだと思います。あれ? いーくんが一番わるい人です。なんでだろう。
病院で寝ているいーくんを呼んでも、返事をしてくれませんでした。ゆすっても起きないし、叩いても起きてくれなかった。後ろでひーちゃんが泣いているのに起きないし、風香が泣いても起きてくれなかった。いーくんのせいで風香たちはたくさん泣きました。あっ、考えたらいーくんが一番わるい人です。決定。
風香は昔のことをおぼえていないけど、いーくんといたことはずっと覚えています。オルゴール――前はおるおるって言っていたけどっ!――も大切にして、寝るときはいつも聞いています。とてもキレイな音なんだよ。
お花畑もたまに見に行きます。ひーちゃんと一緒に券を買って、川西だっけ、電車で行くと、すぐに着きました。それで、また泣いちゃいました。
ひーちゃんは「ずっと前に会社を辞めていたのよ」と言って、大丈夫と笑ってくれました。なんでもひーちゃんの会社は、ひーちゃんが辞めたと同じくらいに倒産して、ひーちゃんはずっとアルバイト? をしていたみたいです。どんな仕事かは知りません。聞いても教えてくれないので、多分知らなくてもいいことなんだと思います。
だけどひーちゃんは、お仕事の話をすると少し悲しそうな顔をするのでもう聞くことはしません。そのかわり幼稚園の先生になる話をたくさんしてもらおうと思います。それくらいはいいよね?
ちょっと前ののひーちゃんは凄く塞ぎ込んでいたけど、ようやくいーくんといたときみたいに明るくなってきました。ひーちゃんがいい子になるまで、風香が支えよう――意味あってるかな? ちょっと自信ない――と思います。風香の幸せ分がひーちゃんに届きますように。
あと、この間、米沢駅の線路を降りようとして駅員さんに怒られました。ひーちゃんが「線路は降りちゃダメ」っていうので、次からはしません。でも、ひーちゃんはちょっと笑ってから「人に迷惑をかけない時に、一緒にまた歩きましょう」といいます。どうしてわるいことをしたがるんだろう? でも、迷惑がかからないくらいにはわるさをしようと思います。風香わるい子かな。
えっと、たくさんたくさん書きたいことがあるけど、なんだか書ききれないかもしれないので、あとは今度会ったときに話します。そのころにはもっとたくさんの話したいことがあるかもしれないけど、この日記に一つ一つ書けば忘れないよね? いーくんに会ったら、まずこの日記を渡そう。うん、そう決めた。
いーくんは、あの世で暮らしていますか? 風香のことをたくさん怒ったから、もしかしたら地獄に行ったかもしれません。風香は地獄に行きたくないので、できればいーくんはあの世にいて欲しいです。神様となんとかそうだんしてください。
そういえばひーちゃんが、今度一緒におはかまいりに行こうって言ってました。おはかまいりってなに? 後で聞こうと思います。
ひーちゃんも、いーくんのことが好きだったって言います。セカイで一番、いっちばん好きな人はいーくんだって。でも、セカイで一番、いっちばんいーくんを好きなのは風香なので、ひーちゃんは二番目です。ごめんねひーちゃん。
だから、もしあの世で会うことがあれば、風香は一番にいーくんに会いに行こうと思います。約束したところで、約束だった言葉を聞きに行きます。それまで待っててね。
あ、ひーちゃんがごはんだって言ってきました。日記はまた今度書きます。あとでひーちゃんにも見せるね。ちょっと楽しみ。
書き忘れた。おしごとは続けてます。幼稚園の先生、すごく優しい。
この物語が真実であれば、結末はもっと違ったものに成り果てていました。それはもっと奥底に続く深遠の洞窟みたいなものであり、
見るに忍びない本当の意味で【救いのない】話です。
だけど真実は時として小さな嘘が入ります。歴史が小さな嘘を紛れ込ませるように、現代とて同じく嘘を散らします。
こうなったとき、どれが本当の真実かなんて大事の前の小事。簡単に消えてしまいます。
この物語を読む前に後書きを読んだ諸兄へ残すのであれば、風香は一つ救われました。
文を読んで後書きに入る諸兄へ、風香は救われたんでしょうか。
真実を覆い隠したさきに待ちうける風香の未来に、この文を捧げる。