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風香  作者: sella
3/4

自由とはなんですか?


僕にとって自由とは、死といつだって隣同士であることと思い続けていました。


求めて傷付いて、それでも何かを得ようとした風香に捧げる。

 公園を出た後、風香が近くにいることを言うために電話をかける。

「……もしもし。俺です。はい、……はい、お世話になります。風香は置いておきますので。はい、はい。一人で帰れますので。すいません」

 電話の主は少し怒った口調で俺を攻め立てた。多分約束の時間に遅れていたから、どういうことなのかと思っていたのだろう。雇用主からいきなり電話をかけられて特に何も言わないとあれば、疑われても仕方ないのかもしれない。しかし「何かあれば責任はこちらが持ちます」という言葉に大分揺れているらしく、渋々といった感じが伝わってくる。

 電話を切ったと同時に風香の握る手が強まる。またなの? という少し悲しそうな目をこちらに向けるが、俺からすれば知ったことじゃない。ここからはお前がどうにかしていく世界だ。

「大丈夫だ。一人で帰れるだろう?」

「うい……かえれる」

「いい子だ。俺はこれから寄るところがある。家で大人しくしてるんだ」

予定通りに風香を林泉寺の前に置き去ってから俺は斡旋所へと向かった。仕事を探すためなのは言わずもがな、あわよくば何らかの情報を得るためでもある。

 自動ドアを抜けて番号札を受け取ってから暫くして、間抜けな音と共に呼ばれる。いつもの居心地悪い席の向かいには、これもまたいつものように取り繕った笑顔を被った一之瀬圭吾が座っていた。

「二ヶ月ぶり?」開口一番にそういうと、俺達の仲も随分と進展しているものだと思う。

「前に来たのが梅雨が終わった頃だから、大体三ヶ月ぶりだ」

「よく生きてたね。仕事は見つかったんだ」

「まだ残金が残っていてな。それでなくても障害者に対して少なからずの保証金が出てるんだ。まだ生きていても不思議じゃないだろ」

 それもそうかと興味なく流す圭吾が、パソコンの電源を立ち上げる。

「少し時間がかかるし、その間にでも希望の職を聞くよ?」

「米沢市内で働ける事務関係の作業。パソコン無し、裏方作業であるなら特筆は無い」

「電車を使う線も考えたらどう?」

「出来ない。どうしても米沢じゃないとダメなんだ」

 机から幾枚のパンフを取り出しながら高畠や川西市に行けばと誘ってくるが、それでは風香との都合が合わせにくい。あいつに何かあったときにすぐ駆けつけるには米沢でしか無理だし、引越しをするにもそこまで金があるわけでもない。

 と、どこかで阿鼻叫喚といった大声が聞こえてきた。

「ああごめんね」普段と変わりなく圭吾が補足する。「よくいるんだよ、自分たちが仕事できないのをこっちのせいにする人がさ。あれもこれもと難癖つけてはこっちが仕事はありませんっていうと、逆ギレするの。勘弁して欲しいよねぇ、仕事を斡旋しているのは確かに僕らだけど、仕事が見つからないのは依頼主の注文の多さが問題だっていうのに」

「……一応聞くが、俺は多いほうか」

「意地っ張りなだけで少ないほうだよ」

 なぜか安堵してしまう。

 カタカタとキーボードを弄りつつも話を振る圭吾は、どうやら以前からその手の職業を探してくれていたらしい。こんなのがある、実は最近少し離れたところでと求人の話を持ち出してきてくれるが、そのどれもがうまくマッチしない、タイミングの合わない話だった。

「どうしてもダメなのかい?」

「都合が都合なんだ」

「仙台とかの方に行けばそれなりの仕事はあるんだけど」

「嬉しい相談だが、それはもう少ししたら考慮しようと思う」

 困った依頼者だと苦笑しつつも、作業する手は止まらない。どうにか米沢市内の仕事を探すも、見合った現場を探し当てるにはこのインターネットというのも難しいことらしい。

 とはいえ収穫がいくつかあった。電話対応の仕事や廃棄物収集、除草などの仕事が、ここ米沢の町で始まりつつあるということらしい。未来的な話ではあるが、この方面で仕事を得られるようであればどうかと圭吾はパンフを提示しながらアドバイスをしてくれた。

「片腕が無くなったといっても腕力が衰えるって言うことはないでしょ。片腕で出来る範囲でやらせてくれるって先方には伝えてみるから、気があればやってみるといいよ」

 ありがたい。パンフを手に取り、俺は斡旋所を後にした。

 足はそのまま来た道を丁寧になぞり、再び植上杉城史苑の前まで戻る。松ヶ崎神社の手前に公園があり、そこでは噴水を前に人力車を運ぶ親父が昼食を取るベンチがあった。ボロボロに壊れかけたベンチはなぜか座り心地がよく、今日のような酷い夢を見た日は大抵ここで昼寝を日課としている。

 疲れたとばかりに身体を投げ出せば、古びたベンチが悲鳴を上げる。それもまた耳障りではなく、つかの間の子守唄に聞こえるのだから不思議だ。

 明日からどうするか。などと頭の隅で考え始めるが、いつだって答えは決まっている。自分が思うとおりに行動を取り、そしてそれを実行するだけ。成功か失敗かなんて行動を起こしてからじゃないとわからないことばかりだということを、俺や、俺以外のやつらも、臆病になりながら自然と事態が転ぶのを待っている。それじゃダメだとわかっているのに。

 俺達は何度も同じ過ちを繰り返していく。それは時にくだらないと思うほど同じことではあるが、決してマイナスやプラスばかりじゃない。起こったことの中には必ず、等価値のおまけがついてくる。どうやればおまけをうまく取り込めるか、どうすればマイナスをプラスに変えていけるのか。単純なのに複雑に考えてしまうのは、今時の晩生なやつらの根源に潜んでいるのかもしれない。

 そして早熟な人間ほど軽率でくだらないやつらばかりだというのを、東京でいやというほど知った。気軽に女と交わりあい、気軽に親に迷惑をかけて人生を過ごしている。自分の将来なんざ知ったことじゃない、今が楽しければなんでもいい。彼らにとっての今は、誰かを大切にすることや優しくするなんていうくだらない理想より、誰を利用すれば美味しい思いができるかに集約している。誰もが誰も見ずにただ自分主義を貫き、やがて他人が自分を見ないことに腹を立てる。そんな主義に夢を馳せていることに気付かないまま、あの街は延々と無為なことを繰り返し続けるだろう。

 ダメだな。こんなことを考えている時点で俺もまた晩生だ。人というものを考えるのではなく、自分がどうあるべきかを考えなければならないのになぜ別なことに置換しているのか。

 ああ、きっと考えることが多いからだ。生きるために嫌々でも働く仕事を探すこと、だらけた毎日の中で考えることしかないこと、新しい何かを探すこと、今日見た夢のこと、風香のこと。

 どれもこれもが大小ある話なのに、どれも並列にして考えているからダメなのだろう。水が入ったグラスに更に水を注いでも溢れるのと同じ、何かを取り除かなければ結局事柄は万事うまく進んではくれない。

 ならば――一体どれを取り除けばいいのだろう?

 そう再び考え始めたところで、俺の思考は暗闇に染まり始めた。

 

 ――また、夢を見ている。

 橙色の世界。車のタイヤやボンネット、鉄筋つきのコンクリート片や割れた陶器、数えればきりがない瓦礫の山々に囲まれた場所で、俺は座り込んでいる。

 またか。と呟いてみるが、当然音は反響しない。視界は確かに世界を捉えているが、身体はまるで動かないのだから、どうしようもない。一方的に見せられる映像に辟易しつつも、俺はただ黙々と座り続けている。

 橙色はやがて揺らめき出し、炎に変わる。それなのに世界は肌寒く、まるで代わり映えをしない。額縁に収められた絵を連想できそうなほどだ。

 やがて俺は、目の前に散らかった瓦礫を漁り始めた。

古びた絵本見つけては炎に溶かされ。

 流行ったオモチャを見つけては炎に溶かされ。

 お気に入りの洋服を見つけては炎に溶かされ。

 写真を見つけては炎に溶かされ。

 形のない何かを見つけては炎に溶かされ。

 それでもまだ、炎はよくわからない何かを溶かし続けている。

 そして俺もまた、まだ何かないだろうかと瓦礫の中を延々と漁り続けている。煌々と焚かれている炎はまるで暖かみなど感じず、むしろ肌寒さを増していくばかり。

 ようやく何かを見つけたと思えば、今度は人形の左腕だった。それもまた同じように炎に包まれ、溶け始めていく。

 つまりは過去。どんなに自分が生きることに執着しようとも、決して離れることのない過去を、俺は燃やしている。

 なくなってしまえばいいのに。

 こんな過去、消えてしまえばいいのに。

 ようやく声になったものは、自分では意識していない無意識の声だった。

 わかっているさ、自分のことくらい。本当は言い訳したいことなんてたくさんあったのを、他人の責任だと押し付けてきたこと。

 自分はあの事故のとき、人を助ける力なんて持ち合わせていなかった。周囲の人だって、既に炎に包まれたあの車に行けば自殺行為だったに違いない。それをわかっていて、周囲の責任だと押し付けて自分を正当化し続けていること。

 どうにもならなかったことなんてどこにでも転がっている。母親から買ってもらった本を無くしてしまったこと。大切なオモチャが壊れてしまったこと。洋服が傷んだから捨てようと言われ、我侭を言ったこと。写真を嫌がり、顔を背けてしまったこと。

 どれもこれもかけがえの無い思い出だ。

 わかっているさ。捨てるなんて出来ないこと。

 それでも、まだ肌寒さは消えてくれない。手から血が溢れ出し、痛んできているというのに、まだ俺は漁り続けている。何かないか、何か、温まるものはないか。探しているものは、いつだってどこにも無い。

 そして目が覚めればそこはほの暗い秋の空。噴水も今は息を潜め、人力車の親父もどこかへ消え去っていた。

 身体の節々が痛みを訴え、寝てから随分たったことを知らしめている。遠くの空でスズメの群れが餌を追い求め、店員達はそれを合図に店をたたみ始めた。もう夕方の五時を回れば十分暗い時期だ。

 立ち上がって背伸びをすれば、ようやく解せるとばかりに関節が鳴った。寝覚めは依然として最高に悪いが、身体は気分がいい。こういうのを軽い欝とでも言うのだろうか。

 松ヶ崎神社を抜けて堀を進めば上杉神社がある。上杉鷹山の石造を尻目に門を潜れば、古ぼけた境内が迎え出る。その中央にひっそりと佇む賽銭箱に、なんと無しに財布から五円玉を取り出し、乱暴に投げ入れた。

 何を祈るでもない。これはただ単なる八つ当たりだと知りながら、俺は神様に言った。

「成せば成るなんていうのは世迷いごとだろ」

 たとえどんなに努力をしようが、圧倒的な力には相応の意志と運が必要になる。一人が目標に向かって辛い努力を重ねようとも、とてつもない力が働けば、そんなものはいくらでも跳ね返せる。卑怯者が勝利するゲームが成り立っている世の中に、成せば成るなんて言葉は気休め以外のなんでもない。

「成すにはどんな汚いことだろうと厭わず行う意志が必要だ。他者を蹴落とすことを正義と思うやつこそが生き残る。そんな世界で成すことなんて何がある」

 甘えを正す格言に愚痴を吐いてどうするのかと自分でもわかっている。

だが口は止まらない。

「あの時、俺がガキの頃にこんな格言を知っていたら、俺はあんたを憎んでいた。ぶっ殺したいほどにな。ガキだから何が出来る。あの瞬間、俺は親父達に何をしてやれた」

 燃え上がる炎の中に取り残された両親。近づく事は愚か叫び声しか上げることが出来なかった世界にあったのは、冷たい現実だけ。

「誰もが成せるんじゃない。力あるやつが成していける世の中だ。あんたの言うことは理想で固められた虚像でしかねえよ」

 弱者は淘汰される。生物学的にも同族の中でも、生きるためには相応の力が必要だ。

 それは己を汚く染める覚悟。他者から憎まれようとも、生きたいと願う力が自分の力へと変わる。

「腐った世の中に生きる意味なんて求めちゃいない。自分が一番大切なんていう世の中なら、誰かを殺してでも自分を優先してやる」

 甘えるな。貫き通せ。

どんな休息が傍にあろうとも、そんなのは道端に転がっている石ころとなんら変わりない。生きることに休息が必要だというのは、安らぎの時間が持てる強者の余裕。弱者に余裕を与えれば、単なる堕落へと成り果てるだけだ。

 振り返り、神社を去る。深々と沁み込む寒さのはずなのに、身体の火照りは止まない。祭り上げられたものに対し決意表明すれば、その分力が与えられるということだろうか。

 そして家に帰れば、風香が空気のような静かさで鉛筆を動かしていた。

「おかえり」

「……」

 動いている手を握り、強引に起き上がらせる。悲鳴のような声が漏れるが、今はそんなことどうでもいい。

「仕事だ。支度をしろ」

「はい」

「先に風呂に入っておけ。冷えるぞ」

「うん。いーくんの手、つめたい」

 何かを言い返そうとして、だが風香の背はもう風呂場の戸を潜り抜けていた。

 認めるさ。俺の弱さ、それは風香のことだ。

 あいつが例えばペットだとしよう。犬でも猫でも梟でも、とにかく動物だとする。ペットはペットなりの使い方がある。愛玩動物として彼らは、揺ぎ無い地位を確立して、現在もこの世界にウィルスの如く蔓延している。彼らなくして生活できない人も大勢いる。

 だが風香は人間だ。ペットでもなければロボットでもない。人としての機能が全て備わっており、自分の意志で動くことが出来る。どんなに彼女を道具だとして扱っていてもそれは幻。俺はあいつの上司であり、あいつは俺の部下になったことを、道具という適当な表現でごまかしているだけだ。

 風香がもし自分の意志でこの部屋を出て行くとしたら、俺はどうするだろう。前のようなぼうっとした――諦めているといってもいい――あの表情は消え失せてきてはいるし、時折うなされることはあっても、枕元に置いたあのオルゴールを鳴らすたびに、再び安らかな寝息を取り戻す。彼女は快復に向かっているのだ。そして自分の記憶を頼りに自らの家に帰ろうとするならば、俺はそれを止めて良いのだろうか。

 シャワーの音が、こざっぱりとした部屋に乱暴なほど響く。

あいつは今なにを考えているんだろう。俺と部屋にい続けて、俺はあいつに言葉を教えている。仕事を与えている。甘いことや酸っぱいこと、食事に関してだって最低限のものは出しているつもりだが、それを風香はまるで拒否したことがない。いつだって与えられたことを全て鵜のように飲み込み続け、自分の物にしている。なら俺は鵜飼いなのか?

いや、俺はただ鵜を遠くから眺めて写真を取っているだけだ。どんな風に食べてどんな姿を披露してくれるのか。その一瞬一瞬を写真に収めて満足しているだけの写真家。彼女には餌を与えているだけに過ぎない。

 道具として扱おうとしている俺。

 人として生き始めている風香。

 かみ合わないのは当然だ。どんなに彼女を道具として扱おうとも、俺はそこまで残酷になれないのだから。

 シャワーの音が止まり扉が開く。一糸纏わぬ姿のままで出てきた風香の身体から湯気が上がり、甘い香りが鼻をくすぐった。

「いーくん、どーしたの?」

「さっさと着替えろ」

 鼻をつまみ上に持ち上げると、あぅあぅと変な声でなく風香。

 どんなに強い心を持っていても、主従関係がハッキリすればこの通りだ。従者は主に絶対服従であり、主の命令はどんなことにおいても最優先される。

 今こいつの全てを奪うことだって、俺には可能なんだ。

 衣擦れの音を聞かないよう外にでる。

 外はすっかり冬の寒さだ。寒気が首をなぞり肩をすくませるのは当たり前、空にはハッキリと見える星々が澄んだ夜を表現し、いまやなくなった鈴虫たちもどこへやら、声を潜めてしまっている。

 そういえばタンスにマフラーがあったはずだ。

「風香、タンスの奥に……っておい、全裸でこっち向くな」

「んい?」

「大体着替えていたんじゃないのか。……なにサイズが合わない? んなバカな、お前のサイズはキチンと分けてあ……お前それ俺の服じゃねえか! 自分の服を着ろ自分の!」

「いーくん、そと、さむい」

「わかってんだよそんなこと。だからさっさと着替えて俺のマフラーを……ドアを閉めろ? ざけんな。お前の主人は俺だっていうことを忘れてんのかてめえは!」

 わからない。風香の考えていること。

 わからない。俺がこいつにしたいこと。

 冷たくしたいのに温かくしてくる。温かくしたいのに、冷たくしてしまう。

 大切なことを俺はわかっているはずなのに、それを理解しようとしない。できない。

 服を着始めた風香を流し目で確認しながら、俺は風香にマフラーを取るよう言った。

「どんなの?」

「細長くて紺色のやつだ。みればわかる」

「んー……これ?」

「確かに細長いがそれはズボンの裾だ。毛糸のやつ」

「ん。あった」

「それは手袋だ。あーもういい。とにかくズボンを履け」

 結局自分でマフラーを取りに上がってしまう辺り、俺も躾けがなってない。

 自分が生きている中で、確定的な事は二つだけ。

 わかっていることと、わかっていないこと。風香は俺にとって弱みとわかり、俺は風香に対する接し方をわかっていない。気持ちもわからない。

 どんなに会話を続けようとも、どんなに会話が増えようとも、それは変わらないだろう。二人の気持ちが通じ合わない限り、どんなに時間を共に過ごそうとも。

 夜の裏通りを歩けば、人気のない通りが俺達を待っている。歩けば歩くほど自分たちが今二人だけだということを教えられ、同時に寂しい存在だということを理解させられる。

 寄り添わなければ歩けない二人になったのはいつからだろう。失った腕の変わりに右腕は重くなり、歩くことが難しくなった左足の変わりに大切なものを手に入れる相手。

 小さく声をかければキチンと答え、話しかけなければ絶対に返ってこない声。

 お互い数ヶ月で変わるものだと思った。そして出来ることなら、このままずっと代わっていって欲しいとも思った。

 それが、運命というものを信じない俺が思ったことなら。

「風香」

「ん?」楽しいことを考えていたのか、軽い笑顔で風香は上を向いた。「なに?」

「なにを考えてた?」

「かんがえてた? んー……、いーくんのこと」

「ほう」

「いーくんが作るごはんとか、いーくんが教えてくれることとか、いーくんがわらうところとか」

「あーもういい。そんなところだろうと思ってた」

「あとねあとね、これからいくところ。どんなとこだろうって」

「仕事をする場所にどこも何もないだろう。いつもどおりのところで、いつもどおりのことをするだけだ」

「うん」迷いなく風香は頷く。「犬はいーくんのいうことを聞くよ」

「犬はやめろって言ったろ。お前は風香だ」

「うん、ふうかはふうか」

 風香が指と指を絡ませて、頬を腕に擦り付けてきた。

 東京だったらもう真冬だろうか。そんなことを頭に思い描きながら、俺は空を見上げた。

「いーくん、あのね」

「なんだ」

「もしね、ふうかがね? いーくんのこと好きっていったら、いーくんいや?」

 冷たい空気を肺に押込み、生ぬるい息を吐き出す。

 白に染まった息は、口を出てすぐに透明へと変わった。

「嫌だ」

「あぅ」

 困った顔をして風香がへこたれる。

「寝小便したり暑苦しいのにくっついてきたり飲み物は零すわ一人でトイレに行けないわ癖は治らないわ仕事探して帰ってくると先に寝ているわ、まったく良いところ無しだな」

「うー、ふうかのこと、きらい?」

 寒河江先生の言った言葉が頭に響く。

 風香が俺を好きになることが嫌なのか。

 俺が風香を嫌うことが嫌なのか。

「……別に、嫌じゃないよ」

「ホント?」

「本当」

「ホントに、ホント?」

「本当だっての」しつこいのでおざなりに応える。「嫌なら傍にいないだろ」

好きっていたところでどうせ、子供が親に対する気持ちと大してかわらないだろうに。

 だがどういうわけか、右腕は糸に絡まったかのように動かなくなった。

「風香?」

 風香が下を向いて立ち止まった。呼吸をしているのかもわからないくらいジッとして、握られた手が痛いほどに締められて、

「あ、あのね。あのね!」

 訴えるような声で俺の耳を劈く。

「ふうかね、いつもきらいなの。きらいで、きらいじゃないとダメって。きらいだから、がんばるの!」

「お、落ち着け風香。どうした一体――」

「きいて!」

 哀願の声は、沈黙で応えられた。

「ふうかは、こわかったの。しらない人がいて、あそんでくれるって、いっしょにあそぼうって、ふうかの体をさわるの。なんでさわるのってきいても、きいてくれなくて、いやって言うとおこるの。お母さんたちがかなしいって、かなしいから、いやでもがんばらなきゃダメって。でも、ふうかはいやなの。いやだからにげると、ぶたれたの」

 夜の静まり返った道端に、風香の声が木霊する。

「ぶたれるといたくて、ふうかはいたいいたいって言うの。でもやめてくれなくて、また体をさわってくるの。がまんしなさいって、がまんしない子はきらわれるって。がまんできる子は好きだって。だから、だから……だからふうかがんばったの。きらいだけどがんばるって。がんばると、きらいは、好きになれるって」

 だけど、と。

「いーくん、ぜんぜんいやなことしない。いたいこととかたまに、あるけど。ふうかがわるいって、言ってくれる。おるおる買ってくれた。ふとん……も、買ってくれた。そばに、いて、くれた。いたいのに、いたくない。だから、きらいなのに、がんばれないの。でも、いーくん、きらいじゃないの。きらいじゃないのに、好きでいいの? ふうか、いーくんのこと、好きでいいの?」

 風香の気持ちを当事者でない奴が聞いたらなんというだろう。

 愛だとか恋だとか、俺が一番気に入らない言葉だ。愛だけで人は生きていくことは出来ないし、恋をしたところで永遠だなんていう保障はまるでない。

 そんなのは弱いやつらの甘えたがり。一人で生きていくことに限界を感じ、一瞬の迷いに心を動かされたやつらの吐く弱音。

 だから、答えなんて決まっていた。

「風香、俺はな……」

「芳野くん?」

 突然呼びかけられた声に俺は振り向いた。

 街灯の向こう側に立っている人、姿形までは暗くてわからないが、確かに聞いたことある声で、俺を呼んだ人。

「やっぱり。芳野くんだ」

 光の下に現れたのは、薄汚れたつなぎの服を着たショートヘアの女。

 皆川妃月。会社で付き合っていた、俺の元彼女だった。


 米沢市にファーストフード店というのは数少ない。今朝方に来た家電売り場付近にいくつかの店はある程度で、そこまで行くのに歩くと三十分はかたい。この寒い中、しかも深夜に歩くのは、かなり奇特な人だろう。

 俺と風香を誘った妃月は自宅まで車を取りに行き、わざわざ店まで運んでくれた。これを幸いと思うべきか、不幸であったと思うべきかは、これから話す内容による。

 妃月は最初、なんでもないようなことから切り出してきた。最近工場で起こった出来事、あれから会社は火の車で、事業がうまく言っていないこと。自分がリストラの対象になっていること。全て妃月や、妃月の周りに関わる内容で、俺については触れようとしなかった。

「でね、前から保育士の免許を取ろうかなって思っていたの」

「そういえば妃月は子供の世話が得意だって言ってたな。保育園の先生になるのか?」

「うーん。会社がこのままうまくいかなかったら、がんばってみようかなって。ほら、私の家の近くに幼稚園あるじゃない? 前から知り合いの先生だし、今度聞いてみるんだ」

「男勝りのお前が先生じゃ、園児は地獄を見るな」

「なにそれ、ひっどいなあ」

 ちょっとした会話なのに、妃月は楽しそうに話す。数年来別れていた親友のように、問いたいことはたくさんあるはずなのに、妃月はただなんでもないことを話し続けた。

 風香に時折視線を向けながら、ただ、ただ。

「それで宗さんが言うのよ。俺は東京の人間だから、米沢の空気はあわない。いつか東京に戻って店を開くんだ。だって。そしたら本当に仕事を辞めて東京に帰っちゃった」

「宗さんだったら俺も会ったよ。仕事を辞めてからちょっとして」

「ホント? なんか変なこと押し付けられたんじゃない?」

 そんなことないさ。

「いいや。単に別れの挨拶と。仕事はしっかりやれよっていう話」

「ふぅん……」

「なんだよ」

「べっつにー。芳野くんって前から意地を張るところあるから、本当かなと思ったの」

「よくご存知で」

「元カノですから」

 墓穴を掘った。

 相変わらずだねと言いたげに微笑む妃月が、腕を組みなおした。

「どうしてた? いままで」

「……別に、ただ本を読んで、仕事を探し続けたってだけ」

「そっか。…………ねえ、色々聞いても良い?」

「嫌だ」

「身体の隅から隅まで見せ合った仲じゃないのさ」

 とんでもないことをサラッと良い退けるこいつを止める方法はあるのか。

 ジロリと目線を向けると、ふと妃月がはにかむ。そういえば、俺はこいつのこんなところを良いと思ったんだっけ。

「元気してた? ご飯とか、ちゃんと食べてる?」

「死なない程度にはな。栄養なんて知らん」

「仕事は見つかった?」

「残念ながら。大学の知り合いに斡旋をしているやつがいるから、そいつを伝に探してるところだ」

「傷はどう?」

「おかげさまで痛みはないよ。幻痛なんてのもない」

「どこに行っていたの? 家を見ても引っ越したって」

「ああ、会社を辞めてからすぐに家を変えたんだ。退院してからちょっとあってな」

「そうだったんだ……」 

 そこから先は言葉を出さない辺り、自分では理解できない部分と悟ったのだろう。

 そしてそれは正しい。狂気と幻想に逃げ続けたあの気持ちは、恐らく当事者しか理解できない。

 自分の身体がなくなった不安と焦燥、飲んでも事実は否定できない、逃れようのない現実は、簡単に人を壊す。妃月の前に居る俺は、もう既にあのころの芳野無花果とは異なった人物だ。

「えっと、……この子は?」

「拾った」あっけらかんと言葉を紡ぐ。

「はっ? ごめんもう一回言って」

「だから、拾った」

 思い切りの良い張り手が頬を打った。

 店員が何事かと様子を伺っているが、暴れる気配がないと思えば、足早に奥へと帰っていった。触らぬ神になんとやら。そりゃ当然の行動だ。

「嘘でも、拾ったなんて言わないで」

「…………」

「この子のことは私わからないけど、凄く傷つくことを芳野くんは言ったんだよ?」

「…………そうだな」

「そうだな、じゃないよ……」

 泣きそうな声で切なげに言う妃月は、昔から何も変わっていない。

 他人のために怒り、他人のために悲しみ、他人のために犠牲になり、他人のために優しく、笑い、抱きしめた妃月。冷たい俺の手を包んでくれたその手は、ジンとした痛みで満ちているだろう。

 変わったねというだろうか。酷い人間だと思うだろうか。

 そのどれも、今の俺は肯定出来る自信がある。

「嘘だよ。ちょっと懐かしいから、からかい方を忘れていただけだ」

「ならいいんだけど」

「こいつはワケありでさ。今うちで生活しているんだ。ちょっと人見知りして、言葉足らずなやつだけど」

 自分の名前が言えるだろうかと話を振りかけ、気付く。

「ちょっと、大丈夫?」

 風香の肩が小刻みに震え、俺の背中に顔を埋めている。手が白くなるほど服を握り、怖いのを必死で耐えるように。さっきの一発でいやな記憶を思い出したのかもしれない。

「風香、大丈夫だ」

「ふぅ、うううっ!」

「風香、顔を上げて。大丈夫、俺がいるだろ」

 囁くように声をかけ、頭を撫でる。

「お前を苛めるやつなんてどこにもいない。痛いのも辛いのも誰もしない。だからほら、顔を上げるんだ」

「いぬ、犬です。ご主人様のいやしい犬です」

「違う。お前は風香だ。芳野風香。そう教えたろ」

「犬、犬です。いやしい、いやしい……」

「風香」肩に手を回し、胸に引き寄せる。「ここにお前をぶつ奴はいない。ここには、風香を好きになってくれる奴しかいないよ」

 そして、風香は堰を切ったように泣き出した。大きな泣き声で走りよってきた店員に妃月が説明をし、何とか寒い冬の外に立ちっぱなしという状況は凌げた。

「妃月、ごめんな」泣き続ける風香を抱きながら、俺は言った。「何も言わずにどっか行っちまって」

「私は別に……」

「幻滅したろ。消えたと思ったら変な女を連れて、いきなり『ごめんなさい』って言うんだから。これじゃまるで浮気したと思われても仕方ないな」

 そんなことない。と妃月は言うだろう。それを判って俺は言ったし、妃月もわかっている。だから俺達はつまらないことに関して話を振るのをやめ、ただ大切なことだけを話すことにした。

風香を宗先輩から預かっていること、人に対してまだ慣れてなく、言葉も小学生程度しか話せないこと。流石に仕事のことは伏せたが、それでも今まであったことを掻い摘んで話すことにした。

 本当に大切なことを伏せて。

 静かに聴いていた妃月は時折相槌を打ち、わからないことがあれば質問をし、自分の中で上手く理解するよう努めているようだった。

「事情は大体わかったよ」しかしそれでもまだ、妃月の顔には困惑した色が浮かんでいた。「でも先輩は東京でお店を開いたんでしょ? だったらその子はいずれ……」

「無理だろ。そもそも何でこいつが喋れないんだ? 知的障害があるわけでもないのにろくに話せないし、こんなに怖がっている。普通じゃないんだ」

 子供の前で話すには少々過ぎることを、俺達は黙々と話し続けた。

「じゃあ警察に――」

「こいつに戸籍はなかったよ」先手を取って俺は言った。「警察に言ってこいつはどうなる。預かってくれといわれ、警察に報告したらまた違う施設に行って、そんなたらい回しのようなことをお前は最良だなんて思うのか?」

 それに昔のことを話せるかどうかなんて、今となっては逆に酷だ。日々の受けた虐待を、警察の取り調べで何時間も拘束される。話し続けるだけこいつの精神は蝕まれるし、裁判となったところで証拠になるものがない。せいぜい虐待を受けた傷程度だ。

「第一にこいつは記憶を失ってる。もう自分が誰の子供で、名前すらも思い出せない」

「ちょ、ちょっと待って。芳野くん自分がなにを言ってるかわかってる?」

「なにが。記憶喪失で足の不自由な女がうちに引き取られた、それだけだろ」

 人を養うのは相当のお金が必要になってくる。俺だってもう成人した人間だ。その意味を知らないわけではない。

 だが、近隣の住民を見捨てるほど、この町だって腐ってはいない。

「障害保障と昔の蓄えでなんとかやってるよ。つい先日市役所にも行って、こいつに必要な書類を提出してきた。すぐに出来上がる」

「それは、確かに保険が利くって言っても、それは本人のみの話でしょ? そんなのいつまでも持つわけがない」

「仕事なら探してる。なんとかなるさ」

「ならないよ!」

 声が大きくなるが、妃月は怒るのを止めない。

「なんとかなるで子供を一人育てることは無理だよ。衣類にしても生活を工面することだって、芳野くんだって左腕ないじゃないの。自分だけで精一杯なくせに、何でそんなこといえるのよ!」

「…………」

「いつもそうだった。会社でも誰に話しかけるでもなく、一人でずっといやな顔もせずに作業して、誰かにその業績を取られても全然平気そうな顔をして。それどころかそんなムカつく先輩達を称えるところ、初めはバカじゃないのって思ってた。なんでこいつはヘラヘラしていられるんだって。キチンと言えばわかってくれる人はたくさんいるのに、なんで何も言わないんだって」

 怒られていると感じているのか、風香は震えたままだ。

「でもね、その後も能面被ったみたいに仕事している芳野くんをみて理解した。こいつは興味ないんだって。達成感とか栄光とかそんなのを求めて仕事をしてるんじゃなく、ただやらないといけないからやってるだけだってね」

「そのことを初めて打ち明けられたときは、内心驚いたな。そんなつまらないやつをずっと見ているやつがいるんだから」

「……ねえ、芳野くん。真剣に応えて」

 妃月の顔が静かに詰め寄った。

「興味とか、自分の都合でこの子を養うとかじゃないんだよね?」

 勿論違う。こいつが一人で自立できるようになれば、それなりに生活できる保障はするつもりだと考えている。

 ただ風香はもう成人した女だ。知的障害者としての保護を受けられるかもわからないし、俺がいつまでもついているわけじゃない。どこかで自立を教えないといけない。

「ああ。こいつが自立できるまでは、家にいさせるつもりだよ」言葉の奥に潜む本音を隠して俺は言った。「それ以上も、以下もない。預かったから引き取っただけだ」

 妃月が言葉を押込み、窓の外に視線を移した。

 窓には寒暖を表すのに十分なほどの水滴が溜まっている。乱暴に手で拭って、何か別なものを見たいんだろう。

 だけどもしかしたら彼女は見たいんじゃなく、考えたいのかもしれない。俺の本音を聞いて、自分はどうするべきなのか。元彼女であった皆川妃月は、酷く他者の事情に首を突っ込みたがる性格だ。自分が縁を切ったと思っていた相手の事情を聞いて、なにをしようとしているのか。怒りたいことや話したいこと、八つ当たりでもいいことを本当は言おうとしていたのに、流れで俺の事情を知ってしまった。

 そんな妃月がとったポーズ。

「…………ねえ、芳野くん」

 視線を外したまま、妃月が言う。

「今でも私のこと好き?」

 今度は俺が黙り込む番だった。

「……それは」

「応えるのは今じゃなくて良いの。今度、またどこかへ一緒に行くことになったら」

 そういって、またあの小さな笑いを俺に投げかけた。

 本当に妃月は、俺のことを良く知っている。

「わかったよ。話したいことはこれで終わりか?」

「なによ、久々に会ったんだからもうちょっと話しても良いんじゃない?」

「それこそ二人きりならな。もう風香を寝かせてやりたいんだ」

 あっと声を出して、風香を見る。胸の中で小さくなっている風香がしっかりと俺の身体に張り付き、怯えた目で妃月を見返しているのだ。あまり精神的にも良くはないだろう。

 そんな気持ちに察しがついたのか、妃月もそれ以上何も言わなかった。店を出て車の前まで来ると、丁寧に座席の席まで開けてくれるのは嬉しいが、そこまで俺は落ちぶれてないぞ。

「いいのよ。私がしたいんだから。それより風香ちゃん、だっけ?」

「…………?」

「ごめんなさい」

 えらくキレのあるお辞儀をされたためか、また風香が驚いて引っ付いてきた。

「急に連れまわしたり泣かせちゃったりして、驚いたでしょう? 風香ちゃんには何の関係もないのに、こんな時間まで付き合わせちゃって、本当にごめんなさい」

「っ……いーくん?」

「謝ってるんだよ。今日のことで、疲れただろう」

 頷きもしないし応えもしない。自分の中でどんな気持ちだったのかもわからなかったんだろう。まだ泣くことと笑うことくらいしか出来ない感情が、それを理解するのは難しかったかもしれない。

「風香。人に謝られたら、許すんだ」

「ゆるす?」

「辛いことや悲しいことが、自分や自分の周りに起こったとしても、大丈夫だと教えることだ。大切な人ほど許すっていうことは難しいが、それができることでやっと友達になれる。友達は風香の傍に、ずっといてくれる人だ」

「そばにいてくれる、人」

 俺が風香に教えても滑稽なだけだ。

 あの事故を引き起こした原因である犯人を俺は許せないし、謝ってもらおうとも思わない。現場から逃げ果せたところで警察に捕まり、俺の目の前に来たときは死刑を願ったが、それは法律と弁護士の手によって遮られた。

 親が殺されたのに、犯人はもうどこかでのうのうと暮らしている。

 そんな現実、俺は許せるわけがなかった。

 許すなんて言葉は綺麗事に過ぎない。殺された親族はいつだって犯人を恨む。例えそれが社会の一角だとしても、復讐の炎は消えることがない。

 誰かのせいで大切な人を奪われたものの悲しみは、一生背負い続ける。それが自分の意思でなければなおさらだ。

「風香、友達は欲しいか?」

 ただ、だからこそいえる言葉もある。

「ともだち?」

「たくさんのことを話せて、助け合える人がいるのは良い事だ。妃月は風香のことを嫌っていないし、それどころか好きでいてくれるんだ」

 そうだろ? と目配せをしておく。

「うん。風香ちゃんがよければ、お友達になりましょう」

「うう……」

 怯えが残る風香の背中に、少しだけ言葉で押す。

「風香。以前のような痛いこともなければ、嫌なことなんて妃月は絶対しない。お前は妃月と一緒にいれば、絶対に楽しいさ」

「ふうかは、いー君といっしょがいい」

「俺だって傍にいる。だが俺がいない時だってある」

「そんなのっ!」

 いやだという言葉を塞ぐように、俺の手が風香の頭を撫でた。

 悪い子を叱るのではなく、我侭だという子を嗜めるのでもなく。それは不意に出た行動だった。

 大丈夫だというように。風香を安心させる。頭を撫でるという行為がどれほどまで効果があるのかはわからない。でも今はこうしてやったほうが、風香は素直でいてくれる。

 そんな風に思えたのだ。

「いーく、ん……」

「風香、友達になるには簡単だ。手と手を繋いで、触りあえれば良い。それだけで友達になれる」

 悲しい目でこちらを見上げ、風香は動かない。振り向けば妃月が待っているのに、握っていた腕を風香は放そうとしなかった。

 だけどここでもし俺が風香を放さなければ、きっとこいつは俺無しでは生きていけない人間になるだろう。どんなことでも俺の意思を聞き、どんなことに対しても自分から進もうとはしない。人間でありながら人間を辞めた人間になってしまえば、それは今の社会に生きるやつらとさして大差ない。

 それは俺が望んでいることで、俺が叶えようとしている事でもある。

 だけど……。

 そこまで思いつめたところで、右手に張り付いた感触が消えていく。風香が手を離し、妃月と向かい合わせになった。

 震える身体を隠さず、小さく歩みを進める風香に、妃月はただ待つことだけしていた。

「…………」

「……風香ちゃん」

 ビクッ! と風香の肩が上がる。

 ゆっくりと差し出された手を警戒しながら、それでも風香は後ろへ下がろうとはしなかった。

「あ、あの……えっと」

 どもる風香にも、妃月は微笑を浮かべたまま応えた。

「ゆっくりでいいよ。言いたいこと、あるんだよね」

「えっと、い、いたい、こと……しな、い?」

「うん、風香ちゃんが嫌がるようなこと、絶対しない」

「いーくん、いじめ、ない?」

 これには妃月も驚いたようで、浮かべた笑みをさらに深めて笑う。

 かくいう俺も、まさかそんな言葉が出ようとは思いもしなかったわけだが。

「ええ、いーくんにも痛いことはしないわ」

「ふうかのこと、好き?」

「もちろん。友達になるのに、嫌いじゃなれないわ」

 そこまで言い放ち、ああ妃月は本当に好きなんだなと確信することが出来た。

 障害があるだけで敬遠し、蔑むやつらばかりが蔓延する現代に、妃月のような考えを持つ人はそうそういない。俺らのような手を失ったやつなどではなく知的障害とあれば、相手をするだけ疲れるし、何しろ自分に対して得がない。

 なのに妃月の表情には嫌悪そうに思うものが見当たらなかった。

 純粋に、友達になりたいと思っている。

 差し出された手を恐る恐る眺めながら、ゆっくりと風香が手を伸ばした。本当に、それは遅すぎると怒鳴りたくなるくらいゆっくりとした動きで、手と手が重なりあった。

「ふ、ふうか。ともだち?」

「うん、私と風香ちゃんはもう友達よ?」

 そうね、と妃月は改めて、

「私の名前、皆川妃月っていうの。妃月って呼んで」

「みな? ひづき?」

「そう。みながわ、ひづき」

「みながわ、ひづき。……ひーちゃん」

 また笑ってしまう。俺のあだ名の次は妃月にあだ名か。もしかしたらあのオルゴールにもあだ名がついているのかもしれないな。

 妃月もまた笑っていた。妃月に対してあだ名をつけるやつなんて、あの会社じゃ誰もいなかった。それが新鮮なんだろう。

「ええ、ひーちゃん」妃月の手が風香を包んだ。「今度からそう呼んで。私の名前」

「ひーちゃん……ひーちゃん。ともだち、ふうかのともだち」

「私はもう、あなたと友達よ。風香ちゃん」

 そして、また風香は泣き出した。


 十月十九日 芳野無花果

 

 以前の日記を読み返してみる。……わかっているなんて言葉はもう飽きたな。結局自分は覚悟が足りなかったということになった。

 俺は風香を道具として扱えないし、その覚悟もこれから持つことは出来ない。

 情けないとでも言ってくれ。残酷になろうと思えば思うほど、俺はあいつを自分と重ねてしまっている。親父達を殺した犯人と、飼い主に捨てられた似非犬。俺は確かに絶望から歩いてきたし、これからもこの左腕がない限り、苦しい毎日を送るだろう。

 そして風香にも同じことをさせようとしている。穢れきった身体に更なる穢れを被せ、それが普通であると思わせてしまうこと、人であるのに人としての心を削るのは、間違っているんじゃないか。最近そう思うようになってしまったのだから。

 片腕を失い、風香を得たことによってわかったことがある。絶望は分け与えるものじゃない。乗り越えるものだ。誰かの助けを欲したり、意地を張ったりすることがあっても、ずっと絶望の中に留まっていることは間違いだ。どんなに深い絶望でも必ず終わりはある。誰かが見ていてくれる限り、いつかは必ず。

 今日、風香に友達が出来た。それも最低なことに俺の元カノで、今じゃ保育士免許を取ろうとしているというなんともタイミングの良い話を振ってきた。助かるといえば助かる。俺では風香の世話をするのに限界があるし、女として手の届かないところに妃月なら目が届くだろう。そういった意味で、彼女の存在はありがたかった。

 ただ問題点がいくつかある。妃月が定期的にうちに来ることと、これからの生活にかけて、妃月の目が入ることだ。

 彼女が世話をすることに対して何の不満などない。ないが、その介入が深いところまで入ってくると非常に面倒ではある。時期も冬だ。布団を購入したところで寒さは凌げないだろうし、もしかしたら風香が俺の布団に入ってくるかもわからない。というよりもう後ろで俺の布団に入っているのだが。

 話がそれた。必要以上の介入は俺の行動に支障が出かねない。免許を取るといっていても妃月はまだ工場に勤めている人間だ。風香のことを思いすぎ、仕事を疎かにすれば身体に負担がかかるだろう。本人は気付かなくとも、それは間違いなく蓄積されるものだ。

 加えて生活費だ。妃月は自分の分は大丈夫だと言うが、仕事を終えた後の食事を引き伸ばすのはあまりよくない。健康的な食事を作るにはそれなりに金がかかるし、その分光熱費も嵩む。早急に仕事を得なければまずい時期に直面してきたことを意味しているだろう。

 冬となれば移動も辛くなる。風香には家にいる時間が多くなるとは思うが、退屈しない程度には何か玩具を与えたほうがいいかもしれない。オルゴール一つで満足というわけでもなかろう。とはいえこの辺りに玩具があっただろうか、甚だ疑問だ。

 コタツは出した。暖房機器は流石にないが、なんとか耐えるしかないだろう。ひょっとしたら妃月のバカがストーブを持ってくるかもしれない。当然断るが。

 問題点ばかり挙げているが、良いこともある。風香に最近感情めいたものが戻ってきたことだ。

薄ら笑いしか浮かべることの出来なかった風香が、最近はハッキリと落ち込んだり泣いたり、怒ったり怯えたりするようになった。自分の中で感情の操作が完全だった風香のわりに、人としての普通が芽生えてきた証拠と思って良いんじゃないだろうか。できれば漠然とした感情――優しさとか、そんなのだ――も理解できるようになっていけば良いが、それは難しいだろう。なにが優しい、なにが大切なんてものは、子供が理解するには到底届きそうにもない変てこなものだ。もっと時間を、一年二年くらいの時間をかけていくしかない。

 それと風香が外出しなくなるということで、彼女に関する人物との遭遇率が減ったことになる。だがいなくなったわけじゃないのを覚えておいたほうが良いだろう。

 やれやれ、日記を見ると気が滅入るな。過去の自分がどれほど人を憎んでいたか、痛いほどわかってしまうのだから。

 こうして前を振り返ると、この数ヶ月間がどれほど濃密だったのかがわかる。人は時間と共に変わっていくし、変わらない人なんていない。何某かの変化が必ずある。

 風香と出会い、風香に苛立ち、風香を悩まし、風香へ与え、風香が歩き、風香は泣いた。どれも変化の中心に、風香がいた。

 対したやつだよ。人に対して猜疑心しかなかった俺を、ここまで変えちまうんだから。

 だけど、あいつはまだもっと大切なことを知らない。

 俺と共に歩んできたこの数ヶ月間、あいつは俺の言うことだけを全て聞いてきた。だからこその盲点は、経験しないと気付けないものだ。

 それをやってしまおうという勇気など、俺はまだ持ち合わせていない。する気もない。だがいつかはやらないと、風香はきっと俺と同じようになる。その日が来る前に、俺が風香に教えないとダメだろう。

 長くなったが日記はここで止めよう。そろそろ十一月、本格的に雪が辛くなる時期だ。

 暖房や保存食の準備はしておいたほうが良さそうだ。といっても俺のことだ。カップ麺で済ますだろう?


   五.


「ダメに決まってるじゃない」

 市内の中央付近に位置するスーパーの店内に、俺と妃月は歩いている。

 寒くないようにマフラーをかけ、手には赤い籠、厚ぼったいコートを着る俺とは対照的に、妃月のコートは薄っぺらい、それこそオーディションに向かう女性のようだった。

「ちゃんと健康的な食事を取らないと。どうして男の人ってそういうところが几帳面じゃないかなあ」 

「面倒」

「料理、楽しいよ?」

「楽しいのはわかるんだがな、どうにも一人で暮らすっていうと野菜を買うのにも勇気がいるんだよ。すぐに腐るし、毎日やるほど気力もないし」

 コンビニ弁当程度で喜ぶ風香に、適当なところがあったというのは認めよう。

 そう言うと妃月が腕を振り上げ、拳骨を下ろした。

「バカね。誰かといるのがそんなに面倒?」

「んなことはない。なんで食事をするのに他人の話が出るんだ」

「誰かがいるから何かをするっていうのは、誤認よ。誰かのために、何かをする。だから大切なのよ」

 魚の値段が上がってきたねと話題をすぐに切り替えるのは、女性特有だろうか。

 大切なことを言われている気がするのに、それがすんなりと頭に入らない。俺自身が妃月の言う、「大切なこと」というのを理解できないから、妃月はよく俺をこうやって小突くことが多かった。

「私といた時だってたいしたことをしてもらった覚え、ないわ。洒落たレストランに連れて行ってもらったことも、遊園地だってなかった」

「悪かったな」

「でも面白かった」

 風香ちゃんは? と問われ、あいつなら家にいると微妙な嘘をついた。

「花火がキレイだという人たちが百人中九十九人いたとして、あなたは一人面白くないと答える人。花火をそこそこに楽しんで、誰も見ないところを一人見ている。そして水面で魚が跳ねた瞬間を花火に重ね、改めて「キレイだね」っていう人だった」

 今も変わらないと妃月は言う。

 大衆の望む世界はいつだってキレイだ。そういう風に作ってあるんだから。

 けれど俺が見ている世界は、人と自然が作ったものにいつも限る。

 キレイなのをわかっている背景は、誰が見てもキレイだと褒めるだろう。雪がキレイだ、灯篭流しがキレイだ、星がキレイだ。意趣を変えれば電車のフォルムがキレイだという人だっているかもしれない。

 でもそれは人か自然が作ったもので、お互いが作ったものではない。雪の積もった場所に流れる湯水の水路や、イルミネーションの空を眺める人々の流れや、電車の外に流れていく石垣に設置された小さな明かり。そのどれも目立たない存在は、こんなにも俺達の傍にいた。

 気付かないようなことに、気付いてしまうだけ。

 買い物袋をトランクに乗せて、俺達は家に向かう。十二月も終わりに来れば吹雪くし、風香を連れてくるにしては流石に辛い。

「鍋なんてガキの頃以来だよ」

「風香ちゃん、お鍋は好きかしら」

 大丈夫だろう。そこまで好き嫌いが激しいとも思えないし、この寒い中温かい食事が出されるというだけで一種の贅沢だ。ありがたく頂くさ。

「芳野くんに感謝されたこともそういえばなかったね」呆れた風に妃月は笑った。「まあ、私も望んだ記憶がないけど」

「ありがとうって言わなかったっけ?」

「そういうんじゃないけどね」

 車内の空気が徐々に温まっていく。

 妃月に運転を任せていることが、なぜか無性に情けなくなった。

「運転、できればよかったんだけどな」

「気持ちだけ受け取っておく。それより帰ったら手伝ってもらうよ」

 あぃよと言葉を残し、窓の外に見える風景をなんとなしに見続けた。

 季節は既に十二月の終わり。雪の降らない関東地方に比べて、雪国はホワイトクリスマスというありがたい言葉はあまり印象深くない。それどころか毎度振り続ける雪は、個人的に邪魔な部類にもなる。移動方法が徒歩と電車程度しかない俺からすれば、家に引き篭もっていろと言われている気分にもなった。

 夜になればなるほど米沢は暗くなる。単に吹雪くということもあるが、それ以上に街灯が少なく、コンビニの明かりが強く感じることも多々ある。

 だけどそんなのは米沢の人間に関係ない。ライトをつければ足場は見えるし、寒さに慣れた人は平気で道を闊歩する。何かの冗談かと思うほど、彼らは雪に慣れていた。

 妃月もそんな米沢人の一人。

「よく雪道を平気で走れるな」

「そう? 普通だと思うけど」

 普通じゃないよと突っ込んでおく。

「滑るのが普通だと思う」

「スピードとカーブの限界。それだけ分かればできるわよ」

「決定的に考え方が違うな。スピードは出すもの、カーブは滑らかに進むもの」

「いるね。そうやって夏場のお祭りに事故をする頭の悪い人」

 ごめんなさいと謝るべきだろうか。

「それより」こちらの返事を待たずに、矢継ぎ早に妃月が話し出す。「こんなに寒いんだから温泉でも行かない?」

「温泉ねえ」

 願ったり叶ったりの言葉ではあるが、風香を置いていくことはできない。

「風香ちゃんも一緒に行くでしょ?」

「あー、じゃあ余計無理かも」

 最近こそ見ていないが、あれでもまだ痣は残っている。そんな身体を妃月が見たら怒るどころじゃない。嵐が来たほうがまだましといった惨劇になりかねない。

 しかし、そういったところで引く妃月でもなかった。

「仕事は休みを取ってあるわ。保育士の試験受けるから、夜は時間空くのよね」

「そういう問題じゃない。お前は良くても風香が良くないんだ」

「どういう意味? まるで風香ちゃんがお風呂に入れないようなことを言うのね」

「いや、えっとだな……」

「芳野くん、まさか風香ちゃんに――」

「してない、お前が考えているようなことは断じてしてないぞ!」

 変なところで鋭いやつだ。

 仮に俺が何かをしようと思ったところで、多分風香から俺を誘うしかないだろうけど。

「じゃあいいじゃない。なんでダメなの?」

 とはいえ、俺の口から風香を温泉に連れて行ってはダメとは言いづらい。

 そもそも俺が風香に対して傷をつけたわけじゃない。後ろめたいことなんてまるでなし。清廉潔白という言葉が似合うほどに、風香を傷つけたことはない。それくらい俺はあいつの身の回りに気を遣っているつもりだ。

 だけどこれが妃月に見られたとしたら、こいつはどう勘違いするだろう。曲がったことが大きらいなこいつのことだ。風呂に入ったそうそう裸で俺の前に走ってきて蹴りを入れるかもしれない。そんなことになったら一大事を通り越してこいつの未来が心配だ。

 妃月をうまく丸め込む言葉。俺にそんな言葉はあるんだろうか。

「あのな妃月――」

「嘘は嫌だよ」

 先手を取られた。

「そんなところも変わってない。嘘を言うとき必ず「あのな」が入るところ」

 町の風景が滑らかに後ろへと去っていく。

「本当に不器用だよねえ」ころころ笑う妃月はいつだって余裕の顔だ。「本当のことを言えば楽なのに、まるで言えない。そんな話し方知らないとばかり」

「誤解はどんな言葉からだって生まれるだろ」

「それは偏見よ。聞き手が判断するもの」

「だから上手い言い方は必要だ」

「でも嘘をついてばれた日には本末転倒ね」

 まったく、どうしてこう俺の周りには人を丸め込むやつが多いんだろう。

「大丈夫よ。これでも分かっているつもりだから」

 なにをさ。

「あなたが誰かに対して悲しむようなことをしないこと」

「人は変わるさ。保障なんて誰がしてくれるんだ」

「そんなこと分かってる。でもきっと芳野くんのそういうところ、変わらないよ」

 初めて横を振り返る。

 信号待ちしているからだと思う。妃月がこちらを見て普段どおりの会話のように見つめる仕草。一点の曇りも存在しない眼差しで俺の心まで見ようとする目が、なぜかたまらなく辛く感じた。

 だけどそれは嫌なものではなく、むしろ必要であることのようにも思え、俺はただ一言「知るかよ」と答えることしかできなかった。


 そう。車の窓から見える風景も、暗雲の空も、晴れやかな世界は薄青く染まり雪景色。

 待ち人は流れる水路に雪を放り込み、屋根に上っては雪を下ろす。下ろしてはまた家でコタツに潜り込み、また屋根へ。その繰り返しをずっとやり続けてきた。

 暖簾にかかる雪をはたいて落とす店員。

 足元に気をつける小学生。その後ろをゆっくりと着いていく猫。

 中学生、高校生は寒さを凌ぐように身を寄せ合い、小さな声を掛け合う。

 枯れ木が白い厚化粧をし、風が吹くたびにピンク色の地肌を薄く覗かせる。

 車が路面の水を跳ねるたびに、色々な反応を取っていた。

 車を降りて地面に足を着けば、どれほど暖かかったのかよくわかる。

 足先に沁みる冷たさが針のように突き刺さり、すぐに水が浸透してくる。冷たいのではなく、痛いと思うことはこういうことだなと思ったころには、妃月はアパートの階段を手摺すら使わずに上がっていた。

 当然、俺は滑るので手摺を使う。

「ただいまー」妃月が声を出すと、奥でコタツで勉強していた風香が驚いたように肩を跳ね上げた。

「お、おか……えり」

「おー、ちゃんと言えたじゃない。偉い偉い」

 妃月が頭を撫でてやると、風香は恥ずかしそうに首を窄めてしまった。

 朝起きてすぐ風香に「ひーちゃん、くるの?」と聞かれ、散々おかえりと言えるように練習台にされたのは、風香の「ちゃんとした人に見られたい」という見栄か。

 良いことだ。内心で思いつつも、まずは買った食材を一つ一つ冷蔵庫にしまっていく。

「何の勉強してるの?」

「えっと、かんじの、書き取り」

「へぇー、キレイな字ね。いっぱい勉強したんだ」

「うん。いーくんといっしょに、いっぱい、いっぱい勉強、したの」

「偉いね。よしっ、今日は私が風香ちゃんのために美味しいご飯作っちゃう」

 まるで普段俺が作っている飯がまずいとでも言いたげなのが癪に障るが、確かに俺が作ったところでたかが知れてるし、妃月の作った飯はいつも上手かった。

 袋から全て出し終えたところで、妃月が台所に入ってくる。

「あれ、全部しまっちゃった?」

「まずかったか?」

「鍋物だし大丈夫だよ。けどごめんね、全部やらせちゃって」

「お前は客人だろう。そんな気を使うなよ」

 ありがとうと言い、やかんに水を汲み始める。

 本当に意識していないんだろうな。

「お前は風香を見てやってくれ。こっちは俺がやるから」

「でも――」

「でもじゃない。茶くらいすぐ出してやるよ」

 普段もこうして家の手伝いをしているのかもしれないと考えると、妃月はやはり自分の時間を持っていないことがわかる。

 少しだけ残念そうな顔をした妃月が小さく頷くと、また風香のところへ向かっていく。そして風香の隣に座り、静かにその様子を眺めていた。

 まったく、こうしてみていれば仲の良い姉妹か親友のように見えるのに。

 コタツでジッとしている妃月に何かを感じたのか、風香が小さく呟く。妃月が傍らに寄り添い、聞かれたことに丁寧な回答を出す。驚く風香に小さく微笑むと、次はこれ、次はこれと多くの質問を出し、その全てに妃月は答えて言った。

 部屋の中で息を吐いても白さは残る。こんな場所に風香を、妃月をいさせること自体、なぜか無性に悲しくなる。

 だけど俺にはこんなことしかできなくて、誰かの手を借りるほど情けないやつとか女に頼ってしまうほど落ちぶれたやつにはなれない。それが「どうでも良い誇り」や、「くだらない」と罵られたとしてもだ。

 必死に言葉を紡いで話しかける風香は純粋で、この世の汚さをこれっぽっちもわからない子供のように妃月を見ている。妃月もまた、世の中の汚さを知りながら、それでも自分は変わるまいと信念を持って風香と接している。

 だけど俺は世の非常に流れ、自分を消してもこの醜い世の中に溶け込もうとした。

 変われると信じ続けたことは、結局どうでもいいくらいの小さな綻びから崩れた。

 湯が沸いた合図を聞いてガスを止め、ぱっぱとお茶を汲む。三人分の湯気が湯飲みから立ち上がり、玄米の香りを緩やかに漂わせていた。

「なにを話していたんだ」お盆に載せて運び、それぞれに配っていく。「随分楽しそうだったが」

「えっとね、ひーちゃんね」話たくてうずうずしている風香に、スッと妃月の手が伸びた。

「ダメだよ風香ちゃん。言ったでしょ?」

「うん、ひみつ」

「そっ。芳野くんにだって秘密だよ」

「おいおい、俺には教えてくれないのかよ」

「ダーメ。秘密の意味がなくなっちゃうじゃないの」

「ふうかと、ひーちゃんの、ひみつなんだよ」

「そうかよ」苦笑いしてお茶を啜る。「それじゃ、俺が聞いたらまずいな」

 向き合い同意する二人が、再び教科書に目を向け、俺はどこか気まずい空気になって立ってしまう。なぜか俺がいたら妃月たちの邪魔になると思えたからだ。

 だがそんな俺を知ってか、妃月が俺に手招きをした。

「コタツ入りなよ。なに立ってるの?」

「いや……なんか俺邪魔かなあって」

「じゃま?」

「傍にいたらまずい人のこと。そんなことないのにねー」

「ねー」

 こいつらいつの間に仲良くなったんだ。

「立ってても寒いだけでしょ。こっちに来て一緒に教えようよ」

 コタツから出て立ち上がった妃月は、既に俺を捕まえようと滑らかな動作で近づく。

「アパートだぞ。暴れられると困る」

「なら心配いらないね。芳野くんが暴れなければ済む話だし」

 そういう問題じゃないという抗議と逃走も空しく、きっちり一分後、たたみに組み伏せられた俺はコタツの前に引き摺り出された。途中お茶を落ちないよう風香が三人分の湯飲みを支え、助けろという言葉へ被せるように「風香ちゃんは勉強していてね」と妃月が言い、聞こえなかったかのように勤勉な生徒よろしく風香は教科書を読み続けていた。薄情者が。後でお仕置きだ。

 かくして、コタツへ強制的に連れ込まれた俺は、二人の顔を近くに風香の勉強を見てあげている。漢字の勉強やカタカナの繰り返し文字を見ている度に出てくる欠伸を妃月に注意されながら、わからないところは適当に教えてやった。

「病院?」

「怪我をした人がいく場所だ」

「けが?」

「あー、いたいいたい言う人のこと」

「うん。……町」

「人がたくさんいるところね」

「おー。ひーちゃんすごい」

「おい風香、なんで妃月のときだけ褒める。俺も褒めろ」

「いーくんすごい」

「…………なんか嬉しくねえ」

「そんなことないよ。いーくんは凄い凄い。お姉さん頭撫でてあげちゃう」

「お前にそんな事されると余計腹立たしくなるからやめろ」

「なでる?」

「いーくんにすると喜ぶことよ」

「ちげぇ!」

 コタツの中は、いつもより狭く感じた。


 夕飯時になり、寒くなったからお風呂に入ろうと妃月が言いだした。

 一緒に入ろうと和気藹々と立ち上がる風香たちを横目にどんな言葉をかけてやれば言いものかと考えもしたが、結局は言わなかった。言ったところで信じてもらえる話でもなし。語るにしても俺から言うことではないようにも思えたからだ。

「芳野くん、いつまでそこにいるのかな?」

 そりゃ遮る戸もないから裸を覘こうとすれば覘けるが、そこまで飢えた狼でもない。

 だけど妃月は俺の背を押し、「良いというまで入ってこないで」と体よく玄関へとつまみ出した。

 いいけどさ。俺の部屋だということを忘れないで欲しい。

 そうして水面の弾ける音と笑い声、いいよという声と共に部屋に戻り、夕飯の準備を始めた。

 風呂から妙な沈黙も、問いただす声もない。ただ親子のような他愛ない会話が部屋に漏れ、ここが自分の部屋にしては賑やか過ぎると物思いに耽てばかりの自分が着々と準備を進めている時間と共に流れてしまうのではないかと怖くなっていた。

 二人が風呂から上がり、小さなコタツで鍋を囲んだときも、妃月は何も語らず、「今日の魚は当たり」だの「米沢の野菜は美味しいから、たくさん食べたほうが良い」というどうでもいいような話を振るだけで、俺はその言葉に相槌を打つことしかできなかった。

 山のように炊いた一人用の炊飯器も空になり、テレビも何もない閑散とした部屋なのに、不思議と話題は尽きない。それは単に、妃月というやかましくて誰とも仲良くできて色々なことを知っているのに自分を消してまで誰かを助けたいと思うやつだからこそだろう。

 バカなやつだよと昔はよく言ったのに、今はそんな言葉も出てこない。

「妃月」なんとなく俺は妃月に聞いた。「お前、今までどうしてた?」

「どうもしないかな。ただ会社に勤めて、ムカつく上司に辛酸舐めさせられながら、よくもわからない生活を続けてた」

「なんだそれ。意味わかんねえ」

 わかんなくて当然だと妃月は言う。

「工場なんてところ、女の子だったら普通行かないしね。むさい男たちの中で油塗れの機械に触れて、半ば八つ当たりの苦言をちくちく言われながらそれでも黙って仕事をする。セクハラなんて当然のようにあるし。ホントふざけんなって感じ」

「…………わりぃ」

「あら、何で芳野くんが謝るのかな?」からかうような視線と苦渋の目が絡み合う。「ひょっとして、突然いなくなったこと今になって後悔してる?」

 そんなんじゃないと言いかけて、結局口ごもってしまう。意地を張るにしても肯定するにしても、もう少し何か言葉があるんじゃないかと迷う。

 蛍光灯で光る白髪を丁寧に編みながら、風香に「痛くない?」と聞く。

「私ね、後悔してるんだ」

「後悔?」

「芳野くんの傍にいられなかったこと。事故のあった日、私どうしても外せない用事で出かけていてさ。報告を受けてからすぐに駆け寄ろうと思っていたのに、来る日も来る日もやりたくもない仕事が来て。どうにか振り切ったときには、芳野くんはいなくなってた」

 妃月の自虐めいた言葉に、俺は何も返すことができなかった。

「だからいいの。それまで会えなかった時間は、神様が私にくれた罰だって。芳野くんの傍にいてやれなかった報いなんだって、そう決めたの」

「神様なんて、いるわけないだろ」

 かみさま? と風香が聞いた。

「願いを叶えてくれる偉い人よ。でも願いは気まぐれだけど」

「ん。ねがい……」

「風香、お前は何かお願いしたいことあるのか?」

 元気よく「ある!」と宣言して、風香の顔が綻ぶ。

「ふうか、みんなといたい」

 俺と妃月の顔を見たやつがいたらさぞ大笑いしたに違いない。呆けに取られた顔をしたまま「一緒にいる」なんて当たり前のこと、何でいきなり願うんだとばかりに聞くと、風香は当たり前だという風に答えた。

「みんなとずっと。話したり、わらったり、聞いたりすること。すごくたいせつなの」

「それはそうだけど」

「あとは、いらない」

 はにかむ笑顔を振りまいた姿は、どんな風に例えたらいいだろう。天使なんていうほどこいつは慈愛に満ちた過去を持っていないし、何かできるかといえば何もできやしない。単なる道具として育ってきたこいつに、メリットなんてものは皆無だ。

 だけどそんな普通を風香は望み、俺達は呆れてしまった。俺たちが生活している普通の大切さをこいつは忘れずに抱き、その普通がいつまでも続けば良いと言った。

 そんな自分に、少し恥ずかしさを覚えてしまっていた。

「あー……まあ普通なんてそこら中に転がってるからな。すぐに叶うだろ」

「ほんと?」

「そうね。また芳野くんがどこかに消えなければ続くかも」

「酷い言われようだ。そう何度も消えてたまるか」

 なんてことはない。普通に会話をして、ご飯を囲みながらテレビの他愛ないニュースを眺めながら、アレは美味しいこれは不味い。テレビに飽きたら外に出て、新しい何かを探しながら日々を過ごす。

 そんなどこにでもある普通の生き方を、いつしか俺達は日常から遠ざけつつあるのかもしれなかった。

 ねえ、と妃月が俺を小突く。その目はいつもと変わらない平然とした目で、ちょっと付き合って程度の声で「風香ちゃん、ちょっと芳野くん借りていい?」と問いかけた。

「んい?」

「ごめんね、少しで良いんだ。ちょっと一時間くらいなんだけど」

 それを少しというのであれば社会人とてもう少し余裕のある生活が送れるだろうさ。

「ダメ?」申し訳なさそうに妃月が手を合わせると、風香は簡単に頷いた。

 ありがとうという言葉を残し、妃月が俺の腕を引っ張りながら妃外へ連れ出した。風呂から出てきてから何の反応もないと思ったら、こういうところで責めるか。さてなんて言い訳をしようかと考えていると、妃月はそのままアパートの階段を降り、車へ乗れと促し始めた。

 冷えた車内に二人が乗り込み走ること十分。俺と妃月は一言も会話をしていない。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………あのさ」

 溜まらず声を出したのは俺。

「どこへ行くんだ?」

「別に。どこってわけじゃないけど」雪道にタイヤを取られることなく車は進む。

 だが進む方向に一貫性がある限り、どこに進んでいるのかは用意に判断がつく。大きな小学校を超えて中央広場を離れ、細道を進んでいく。うねりのある道を通ったかと思えば、すぐさまウィンカーが点灯する。その先を見れば、人が通らないような道に猫が一匹、そして奥には凛然と並ぶ杉の数々。

 廟所だ。上杉家の墓が並ぶ灯篭が暗闇の中でぼんやりと形容を浮かばせ、杉の並木が彼らを守るように聳え立つ。樹齢三百年以上もあるその大きさは、車の中からでは容易に見据えることができなかった。

「私が子供のころさ、近所の友達とよくこの場所に遊びに来たのよ」車から降りて、妃月は門へと進んだ。「懐かしいなあ。駐車場の壁からよじ登って、よく駐在所のお爺さんたちに怒られたっけ」

「それでも止めなかったろ?」

 勿論と妃月は笑う。

「ほら、行こう」

 ボロボロになった石壁に足をかけ、誰もいないことを確認した上で中に入る。

 壮大な杉並木を目の当たりにして、ひょっとしてちょっとこれはいけないことなんじゃないかと妃月に聞くと、そんなの当たり前じゃないとばかりの小突きが帰ってきた。

「国指定の保存場所よ。入っちゃいけないに決まってるじゃないの」

「よく理解した。お前国にケンカ売ってんだなよし帰るぞ」

「大丈夫よ。杉には何もしないし地面に少し足跡が残るくらい、明日お爺さん達が顔を真っ赤にして怒鳴りに来るくらいよ」

「だったら――」

 さっさと帰るぞという言葉を紡ごうとして、冷たいものが顔で破裂した。

 しゃがみこんで何かを丸めている妃月と、バカみたいと笑い続ける声と、怒りに震える肩についた白い粉を払い落とし、

 カチリと、俺の中で一つスイッチが入った。

「容赦しねえぞてめえ!」

「ちょ、ちょっと声が大きいって」

 言葉の変わりに小さな粉の塊が妃月に飛んでいく。片手じゃ握れないから、雪を掬ってそのまま投げるだけだ。土の汚れなんて知ったことか。

 素手で作っているから手が痛いのに、何でこんなバカらしいことをやっているんだろう。疑問に思うべきことも、今は別にどうでも良い気がした。

 妃月と遊んでいる。それだけの事実があるだけで十分だった。

「逃げんな、待ちやがれっ!」

「キャーキャー。あははははっ!」

 手を伸ばしても妃月は捕まらない。雲のようにするりと逃げてはこちらを振り返り、あかんベぇをして俺を挑発する。その妃月に何度も雪を投げたり、止まったから捕まえようとして奔走しても、結局は妃月の策略に嵌っているだけだと気付かされる。

 逃げては追いかけて、杉に隠れては見つけ出して、いつしか俺はそこが踏み込んではいけない場所だということを忘れかけていた。

 手が膝についてしまう。運動とてろくにしてない身体だ。すぐに息が切れるのはわかっていたが、まさか妃月より先にばてるとは思わなかった。

「だらしないなあ。まだちょっとしか動いてないのに」

「はっ、……はぁっ、ていうか、お前身軽すぎ……」

「雪国で育った女だもん。歩き方くらい心得ているわよ」

「不利だ。ハンデを要求する」

「男がなに言ってるかなあ」

 手を差し出されたので握ったら、今度は思いっきり倒された。

 何をするという言葉は、今度は別の温かいもので塞がれた。

「……あーあ、服、汚れちゃったね」悪びれた様子もなく、妃月は言う。「これじゃ車に乗れないよ」

「なら、まずは俺の上からどいて欲しいな」

「いやだよ」

「お前な……」

「ねえ」悪戯を思いついた猫のような顔が傍にあった。「しよっか」

 それにはどんな意味がこもっているのだろう。

慈愛に満ちた言葉にも聞こえたし、単なる諦めにも似た軽さもある。嘘みたいな雰囲気もあれば、胸に押し当てられる重さは、それが現実だということを教えた。

 本能に駆られるままでも良いと思った。風邪を引くとか小さいことをスッパリ頭から吹っ飛ばして、ただ乱暴に妃月の身体を求めたい。昔のように、俺は彼女を求めたかった。

「妃月、お前変わったか?」

「女の子だってエッチになるときはあるんだよ」頬を撫でる手は冷たい。「くだらないことばかり考えないで、たまには思うがままに流されたいと思わない?」

「お前みたいなキレイな女だと尚更ってか」

 もう一度、口を塞がれた。

「いいでしょ?」

 だが、そんな気持ちに感情は従わなかった。

「わるい、できないよ」

 妃月の身体が、電気を受けたみたいに震える。

「……どうして?」

 理由なんてたいしたことじゃない。単に昔付き合っていた関係だからといって、今こいつを求めて良い理由になんかならないからだ。

 欲しいからといってあげることは誰にだってできる。ただ俺の根底に生えてしまった意味のない情は、もう既に一つの答えを出している。

 俺はなにが会っても、もう妃月を抱くことはできない、他の女でもそれは変わらない。

 自由な右腕を動かして、妃月の顔を上げてやる。

 ああ、やっぱりだ。さっきまでの笑顔なんてどこにもない。苦しいという声を押し殺しながら、妃月はずっと待っていた。

 こんな壊れかけの俺を、ずっと待っていてくれた。

「好きな人が、できちまったんだ」

 今でも私のこと好き? と聞いた妃月がいた。平気そうな顔をしてなんでもないような言い方をして、反面自分に対してコンプレックス持ちまくりで言って欲しいことを甘えだと押し殺してしまうようなやつ。

 助けてという一言が出ないやつ。

それを言えばお互い納得できるというのに、俺らはそんな器用に生きていない。

「わるい」

 だから殴られる気持ちは意外とすんなり固まっていた。

 張り手だろうとなんだろうと、別にこいつならナイフで刺されて殺されてもいい。それくらい俺は妃月に酷いことをしたし、復讐される理由は十分にある。

 目を瞑り、歯を噛み締める。殴られるはずの頬に雪が降り、少し冷たい。

 背中にしみこむ雪水が痛いほどに浸透する。これが俺を責める苦行なら、悪くない。

 だけど妃月の手が動くことはなかった。それどころか、

「……う」

「妃月?」

「う……ううっ、うううっ!」

 妃月は泣いていた。

 暗い世界の中で、雪の降る冷えた杉の下で、俺の胸の中で、声を押し殺したまま妃月は白くなるほど手を握り、俺を見ながら泣いていた。

「よし……く……うーーっ!」

「お、落ち着け! えっと、そりゃ確かにいなくなったのは悪かったし好きな人ができたからってなんていうか男として情けないってこともあるにはあるけど」

 首に回された両手が力を帯びる。折れるんじゃないかと思うほど締められた腕は、むしろ熱かった。

 振った男が振られた女にすることなんて何もない。真剣であればあるほど、それは同情に変わってしまう。

 俺は、ただ頭を撫でてやるだけにした。

 せめて妃月の辛さが和らぐように、せめて妃月の想いが報われるように。

 同じように、自分の思いを理解してもらえるように。


 十二月二十八日。 芳野無花果


 妃月が家に住むと言い出した。同棲という形ではなく、たまによっては泊まっていくということらしい。

 三日前に妃月が泣いて、それから何かが変わったなんてことはあんまりない。ただいつものように寒い毎日を過ごし、狭いコタツの中で風香の面倒を見たり、妃月の他愛ない会話に付き合ったりしている程度だ。訂正、ご飯がちょっと豪華になった。

 ただ時々妃月がボーっとした目で風香を見ていたり、急に眠くなったといって寝ることがある。どうしたと問いかけても何も話さないし、たまに聞こえていなかったりと妙な不安が頭を過ぎることはある。

 確かに俺は妃月を受け入れなかった。それは俺や妃月にとっても大切なことだし、伝えなければいけないことでもあった。あの言葉を否定することは、俺自身の全てを否定することだろう。

 だけど俺よ、忘れないで欲しい。俺は妃月が好きだし、あいつのためなら死んでもいいと思う。それは幼稚な友達感覚とは程遠い、どこかストーカーめいた発言ではあるが、本心でもある。それくらい妃月は俺にとって大切な存在で、なくてはならない人だ。

 もし妃月や風香が傷つき、立ち直れない場面に遭遇したとき、お前はどう立ち向かうだろうか。未来に対する日記なんてバカらしいが、それでも俺は俺の弱さを知っている。神にさえケンカを売った奴が、一日も経たずに裏返すくらいなのだから。

 どだい俺にはあいつらを守れる力はない。ないからこそ、今からでも遅くはない。守れる気持ちと強さを身に付けて欲しい。

 妃月は太陽のような奴だ。明るい笑顔を振りまいて、周りを楽しくさせる。どんなやつにだって立ち向かい、弱さを決して見せようとしない。強い奴。

 風香は月のような奴だ。無味乾燥とした表情ばかりしている奴だが、間違ったことは決して忘れず、正しく物事を見ることのできる奴だ。

 だから俺よ、未来の俺。忘れないでくれ。俺はあいつらを守らなければならない。例えどんな辛い現実が待っていても、それが目を背けてしまうほど耐え難い話だったとしても、俺は生涯あいつらの味方であってくれ。


   五.五


 話はずっと後に飛ぶ。

 冬は過ぎ去り、春の陽気と共に俺達は色々なところへ足を運んだ。

 治水工事場に誤って風香が落っこちたり、考古館で妃月が感嘆符をうちながら、はるか昔の遺物が残っている凄さを説明し、花がキレイだと話した妃月がダリア園に俺達を連れて行けば、あいにく冬はやっておらず、腹いせに地元の温泉をどっぷりと暮れるまで巡る。

 春の外気に肌を震わせ、南米沢駅から降りて線路を歩けば、夜空は星たちが俺達三人を見下ろしていた。

 どこまでも続く線路。途中俺達は線路を降りて、敷物をだして、簡単な夕食をとったりもした。

 その全てが貴重な体験で、俺がこいつらと一緒にいるという実感が持てる瞬間でもあった。話し声に笑い声が重なり、そろそろ虫が鳴き始めてもいい頃。

 そう、俺達はずっとこんな時間が続けばいいと思っていた。

 風香がいなくなるまでは。


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