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風香  作者: sella
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出会い

酷い話です。書いた自分が言うのもなんですが、色々と至らないものばかりだと思っています。

このお話は僕が米沢にいた頃に夢を見た話に基づいて書いています。小説に登場する人物たちはどれも反吐が出る人たちばかりですし、書いていて何度も心が折れかけました。

しかし作中にでる風香は俺に「私を証明して欲しい」と言いました。たとえどんな悲劇や哀しみに満ちた小説に成り果てようとも、風香がそこにいたことを示して欲しいと夢の中で訴えかけられました。


今はもう夢に出てこない風香に、僕の最大限を引き出した小説として捧げる。

 八月一日、午後三時三十一分。

風香がいなくなった。

 小汚いアパートから見える窓の外を眺めても、歩き回り疲れて休んだ公園のベンチにも、夕方にアイスを舐めながら帰った川辺にも、寂しいといって抱きついてきた部屋の中にも、もうどこにも、彼女はいない。

 肩を寄せ合い、夏の風が吹きつける路頭。

 俺が風香と呼んでやれたのは、その時で最後だった。


    一.


「芳野さん。図面のチェックをお願いします」

「あいよ、そろそろ出荷の車が来るか?」

「なんでも少し遅れるそうですよ。台風が近いって言うのに、仕事なんてやりたくないですよね」

 片手間に持ったペンをくるくる器用に回しながら、配線図を追っていく。何本にも重なって見える線の一つ一つが頭の中にシミュレートされ、想像の部品が生まれた。

「確かにな。だがそう文句を言うな。仕事を休んでて回れば誰もが苦労しないさ」

「違いないです」

 それは薄暗い昼の最中。

 激しいほどの雨粒が窓の外を叩き、ゴムのカーテンは急げといわんばかりにはためく。

 暗雲は速さを増して曇りガラスの向こうを流れている。それは人と同じように時間に追われ、自分が行くべき道を見失っているように、風に流されていく。

 図面チェックに一通り目を通し、問題なしと判子を押す。データを返すと同時に立ち上がり、工場外に控えた自動販売機まで走る。

 外はひどく暗かった。

 夕方を過ぎた空のように暗く、街灯の電気が点くか点くまいか迷うように明滅していた。ガタンとジュースが落ちてくる音も掻き消されるほど雨脚は強く、どこかで雷のような唸りもあった。

 気をつけないとな……。気を引き締めると同時に、工場の中に戻る。僅かしか外には出ていないのに、肩に濡れた粒はすでバケツを被ったかのように広がり、髪からは大量の水滴が零れていた。

「なにずぶ濡れになってんの」

 唐突に、頭の上へ白い布切れが被せられた。

「妃月? これウエスなんだけど」

「それで頭の油汚れも取っちゃいなよ。水もとれて一石二鳥じゃない?」

 頬を油で汚した皆川妃月が俺の鼻を摘みながら言う。

 それもそうだなと手を引っ張ると、バランスを崩した妃月の顔がちょうど良く俺の胸に収まった。

「もう! 工場でふざけあったらいけないんだぞ」

「鼻を摘んだりウエスを頭に被せるやつが抜け抜けと言う台詞じゃないな」

「おあいにく様。女性特権なのです」

「偉そうに胸を張っていても大して魅力的じゃない」

 腕を振り上げて怒ろうとして、やがてはどちらも小さく笑った。

 くだらないけれど、こうした時間がどちらも楽しいのだ。

「ねえ、なんかわくわくしない?」

「別にしないな。……なんだよ、しないんだからしょうがないだろ」

「面白くない。もっとこう、嵐の夜に起こる冒険心というのが男にはあるでしょ?」

 そんなもんがあったら今頃この工場にいやしない。台風のど真ん中に駆け出して叫び声を上げて、そんでもってそれを目撃した通行人に通報されて警察行きだ。

 それもそうねとすぐに同意した彼女も、本音は同じ気持ちらしい。

「仕事は終わった?」

「あらかた片付いた。図面も仕上がったし、この分だと……」

 と、二階に通じる部屋から、一人の男が腕を振り回した。

 終了の合図だ。

「今日は上がりだ。台風だし今日は家でゆっくりしとくか」

「つれないなあ。こんな可愛い女の子を目の前にしてヒッキーとか。モテないよ?」

「自分で可愛いとか言ってりゃ世話ねえよ。それより片づけだ。茶々入れるのも良いけれど、ほどほどにしとけ」

「はいはい。……ねえ芳野くん」

 ん? と振り返れば、そこには妃月の顔があった。

 誰かが見ているかもしれないその場所で、ほんの少し触れるだけのキスは、ほのかに甘かった。

「ちゃんと捕まえてくれないと、逃げちゃうからね?」

「……あー。えっと」

 と、妃月を見れば、腹を抱えて口元を三日月にしていた。

「やっぱ芳野くん可愛いなあ」

「あとで覚えておけよ」

 言ってしまったところで気づく。これで妃月が俺の家に来る口実を与えてしまった、こうなったら妃月は何が何でも家にやってくるだろう。

 暇だ暇だとか、さっきのことを覚えているんだけど、とか。きっと何気ない風に言いながら俺をからかいに来る。俺はそれをどうにか往なそうとして空回りして、さらに追い討ちをかけようとする妃月が変なところで躓いて。

 やっぱりどっちもどっちかなと笑い、小突きあう。抱き合い絡み合う。

 小さな幸せを噛み締めあう。両親もいない。生きる理由のない今に働ける理由があるとしたら、きっと妃月がいるからだ。

 言葉こそ男らしい口調ではがあるが、内面は酷く男を立てるやつだ。こうして俺をからかいつつも離れたのは、あまり一緒にいられると不味いとわかっているからだ。

 はぁとため息をつきながら箒を手に取る。斬り粉を払い機器の周囲を払っていると、ふと目の前に一本のドライバーが落ちていた。

 まったく、最近はこうした工具の置忘れが多くて困る。誰のかは知らないがあとで届け出ようと――

 手を伸ばし、ドライバーを握った瞬間。

 不可解だが馴染み深い音が鳴り響き、俺の左手に鈍痛が走った。


 その日の米沢市の気温は、二十年ぶりの猛暑となったらしい。

 照りつける太陽が人の肌を焦がし、お返しとばかりに地面が太陽に向かって照り返す。間に挟まれた俺たちはどちらの暑さにも耐え続け、むせ返った地面を歩き続ける。

 もっとも、米沢に徒歩で生活なんて合うはずがない。街自体が過疎地であり、人口密度だって都会に比べたら微々たるもの。近くのコンビニこそあれど、歩くにしては遠く、車で行くにしては近い。そんな微妙なところがたくさんある町に、俺は都会から離れてやってきた。

 一年ほど前の話。俺が勤めている工場の機械が暴走し、ちょっとしたニュースになったことがある。それは機械を制御しているシステムが、先日起こった台風によって漏電し、周辺機器に不可解な障害をもたらしたという話から始まる。

 被害者一名、左手を失い、意識不明の重体と、米沢の新聞記者はそう書いたそうだ。確かに俺は肘から先を失い、前後の記憶を探ろうにも一体どれが本当の記憶だかも曖昧なままだ。気付いたときには既に病院で寝ており、看護士の話では一日ほど寝続けていたとか。

 真っ白い病棟の天井を一週間ほど眺め続けた頃だろう。工場長が見舞いに来て、見舞金なるものと、自主退社を望む言葉を伝えにきたのは。

 それもそうだ。左手を失っても働けるほど俺のいた現場は温くもなく、事故が起こったということもあって今すぐに働けない、しかも被害者が出勤してきては会社側も色々困る。

 大人の都合というのはそういうものであり、俺はそれを良く理解していた。

 それから数週間後。無事退院を果たし、市役所で失業保険の相談をしてから帰路を歩むこと数十分。凸凹の道を進んで最上川沿いを歩いては、時折立ち止まり、土手で遊ぶ少年達を何となしに眺めていた。元気よく走り回る姿には、全部が全部のパーツを持っていて、千切れるんじゃないかと言うほど振り回している。

 ふと左手が重くなる。しかしよく見たところでそこには何もなく、肘から先にかけ痛々しい包帯が巻かれている、歪な腕が伸びているだけだった。

 現実として襲い掛かってくる実感は、とても遅い。俺がそのとき平気でいられる精神だったのは、もしかしたらこの現実を受け入れようとしなかったからかもしれない。

 堪らず空を仰ぐ。背には桜の木々たちが、今は緑の葉を存分に咲かせていた。来年の春、またピンクの花を咲かせるために、今はただ忍んでいるだけ。

 だけど、俺の腕はもう生えてこない。

 どんなに栄養を取ろうとも、どんなに慈しみを込めようとも、もう二度と生えてこない。

 こんな理不尽、なんで俺が受けるんだろうか。そんな考えも冷静と困惑の狭間に立つ今の自分には、酷くどうでもよく思えてしまう。

 最寄りのコンビニで飲めない酒を買い、家に着いたときには一本開けていた。

飲めないとわかっていても僅かに酔ってそのまま眠ることくらいは、弱っている奴ならすぐにできてしまうことを俺は痛いほど知っている。

 だから、とにかく今は眠りたかった。

 現実から目を背けたくて、そんなことは夢の中の出来事だと決め付けたくて、ただ飲み、眠りについた。

 翌日も、翌々日も起きては嘘を願い、眠っては短い妄想に頭を狂わせた。

 それが俺、芳野無花果の、片腕を失った最初の限界だった。


 三ヶ月経ったある日。

 元工場の先輩に当たる人が、どういうわけか俺の携帯に電話をかけてきた。それほど親密であったというわけでもなく、慰めの一言でもかけてくれるのかと皮肉半分、助けて欲しいと願う心半分で耳元に当てれば、それは意外にも酒でも飲みに行かないかという誘いだった。

 自棄になっていた俺でも、身なりだけは整えておく。親密でもない人がいきなり呑みに行かないかと誘うのだ。弱いところを見せていたら、一気に虚を突かれる事だってあり得る。財布も最低限のお金に留めて、汚く生えた無精髭もキチンと剃る。それでもまだ左手の違和感は拭えない。

 そうして向かえた時間。仕事場から少し離れ、広場の横に並ぶ居酒屋で先輩は俺を待っていた。

「おう、半年ぶりか。元気にしていたか?」

 とりわけ平静に尋ねる様子にまずは一つ頭を下げておく。どういう理由であれ誘ってくれたのは向こうで、お世話になった先輩だ。こういったところで下手に反抗的な態度を取って雰囲気を悪くしておく理由なんてない。

「おかげさまで。仕事のほうはどうですか?」

「面白くもなんともないな。工事人なんてそんなもんだが、この町には引っ掛ける女もいなければ遊べる場所もない。やっぱ東京の空気は最高だった」

 東京出身である彼からすれば、確かにこの町は少し退屈すぎるのだろう。かくいう俺も東京出身だが、先輩のように夜遊びをするほど大人ではない。

「まあ行こうぜ。立ち話もなんだろ」

 そういって、提灯の飾った店に入り、生ビールを二人して頼む。俺が飲めないことを先輩は知らないだろうが、少なくともジョッキの二杯程度を付き合える位には慣れることが出来た。

 そうして話したといえば、会社の愚痴、俺の事故の後に回ったツケを他の同僚は倒れ込むほど受けたようで、下手をしたら会社は潰れるかもしれない。そうなったとき俺は東京に行くんだと、妙に自信ある声でその計画を話し出した。ようは自慢話がしたいんだろう、愚痴もなく居酒屋で話すことといえば互いの近況か、身の上話くらいしかない。そう判断し、俺はただ先輩の口から流れる大人らしさを右から左へと受け流していた。

「どうにか金も貯まったんでな。東京の六本木あたりで店を開こうと思うんだ。どうだ、お前も来ないか?」

「冗談止してください。片腕の奴が店内うろついていたら、客が寄り付きませんよ」

「ははっ、そりゃそうか。なにせお前は片腕を無くした男、さぞその道ではハクが付きそうなもんだが」

「あいにくまだガキなんで。でも六本木は物価高いですよ?」

 米沢市で稼ぐお金と東京で稼ぐお金はまるで違う。物価もさることながら、その仕事量にもかなりの差が出てくる。

 先輩の勤務シフトをたまに眺めていたことはあったが、他の社員と同じ程度の量だ。そこまで金を稼ぐことなんて、そうそうできるはずはないんだが。

「副業って奴をやっていてよ。まあこっちのほうが本業になっちまったって言やあそれまでなんだが」

「副業ですか」

「興味あるか?」

 ビールを持っていた手が、不自然に止まる。恐らくこれが俺を呼んだ理由なんだろう。

 片腕で仕事を探すとなると、血の滲むような労力を必要とする。手元に退職金をもらっているとはいえ、先輩のいう副業によって稼ぐことが出来れば、暫くは衣食住に困ることはないはずだ。

 自然と会話が止まり、炭火焼の音だけが激しく聞こえる。

「……危なくないですか?」

そう切り出したのは、何か妙な違和感を覚えたからだ。

「ないない。まあ仕事は自営業って形になるが、お前が仕事をするわけじゃない」

「なんですかそれ」

「それ以上は教えられない。やるって言うなら教えてやっても良いぜ」

 タバコで汚れた歯を見せて笑う先輩は、もう教えてやる気満々というほどに押しを強めてきていた。

 考える振りをしながら、仕事の内容を予想する。といっても、誰かが俺の命を繋いでくれるというのであればそれはいいことだ。どうせ明日の飯だっていつしかなくなる。そう思うのであれば、自分でない奴がどうなろうと知ったことではない。

「良いですよ。やります」

 商談成立とばかりに、ジョッキをぶつけ合う。がちんと音が鳴って、一気に飲み干したのには流石に頭がくらくらしたが、店の料金は先輩が持ってくれた。払わせるのは酷だと思ったんだろう。そういった余計な気の回しが、酷く俺の心をイラつかせる。

 店を出てから駅のほうへと歩いていくと、最上川のせせらぎが耳を打つ。橋を越えて土手を下り、蛇のように歩くこと数分、大きなマンションの前にたどり着いた。ここがどうやら先輩の家らしい、一人で住むには豪華であり、1階は個人専用の駐車場まであるらしい。これも先輩の言う副業とやらの成果だろうか。

 中に入りエレベーターに乗ること七階。

「俺は七って数字が好きなんだ。ラッキーナンバーだろ?」

 ご機嫌に話す口調からは、人を騙すといった雰囲気は感じられない。ただ単に楽しいから話しているといった風に、自分の家へと先導していく。

 ジクリ……と、何かを予感させるかのように左手が疼いた。

扉をあけ玄関に入ると、部屋の奥からは酷い異臭がし、普段ならとまることのない足が一瞬だけたじろいでしまう。

 鍵を締めろと言われ、言われるがままに扉を施錠する。開け暗い部屋へ入っていくのを確認した後、スイッチはどこだろうかときょろきょろしていると、先輩は声を沈めて「電気をつけるな」と囁いた。

「足元が見えないじゃないですか」

「いいから。黙ってついて来い」

 一体なにを見せる気なのか皆目検討も付かないが、少しだけ嫌な予感がする。ひょっとすれば真っ暗な先に社員がごろごろいて、日頃の鬱憤を晴らさせる気なのだろうか。殴るのは勝手だが、暴力に訴えたところで法的に負けることを理解していない奴が最近は多い。

 仮に今の考えが本当だとして、これ以上生きようと思う気持ちもまるでなかったので好都合でもある。どうせやるならキチンとやってくれ、変に中途半端に生かされるほうが俺としては苦痛だと諦め半分、迷惑をかけてしまったという同情半分で、俺は歩みを止めなかった。

 部屋の扉がギイとなり、前に来いと手招きされる。そろそろ周囲にいる人間が俺を取り囲んでいるところだろうか、布の擦れる音が頻繁にし、唸り声も耳に届く。相当頭にきているんだろうな。

「怖いか?」

「別に、暗いだけで周りが見えませんので」

 そっちのほうが好都合だろう。見えない相手に思う存分殴れるし。変に恐怖を感じることもなければこっちが反撃することも出来ない。あとは好きなように煮るなり焼くなり、考えの至ることを行えばいいさ。

「まあ、今に考えが変わるさ。明かりをつけるぞ」

 パチンと音がしたと同時に目を細める。そして来るだろう衝撃に、小さく歯を食いしばって耐えようと、顎を引いた。

 衝撃はあった。

それは打撃などによる痛覚を伴う一撃ではなく、自分にとって理解の出来ないものが目の前にある……という驚きから、不覚にも俺は現状を把握するのに時間を要してしまった。

 いいだろう? 俺のペットなんだという先輩に対して、俺はなんて言葉を返せばいい?

 白い壁の無数の傷が禍々しさを象徴する。そのどれもが引っかき傷で、壁に貼られるポスターが無残にも剥がれていたり、中には抉れてしまったものもある。引っ掻いた場所には血だろうか、下地の茶色に混じって、赤黒いものが見て取れる。

 投げ捨てられた人形のほとんどは首の折れたものばかり。一つだけ、ペットと呼ばれたそいつの前にある茶色のウサギだけ原形を保っていたが、それもかなり古いものなんだろう、色褪せていた。

 首輪と壁を連結する鎖が不愉快な音を奏でる。どうしてそんなに太い鎖を使って拘束するんだろうかと、無駄に考えてしまった自分が怨めしい。

 いや、そうじゃない。考えなければ、自分を保てなかったからだ。黒ベルトの首輪回りにも、あの壁と同様に赤黒い痕が見える。暴れたんだろうと暢気に考えていなければ、直視すら叶わなかっただろう。

 白髪の長い髪は美しいというより壮絶と表現するに相応しい。艶を無くした肌も、皺の寄る顔も、腕や頬に見られる青黒い痣も何もかも、一つのオブジェのように、当たり前として俺の眼に飛び込んだ。

 ピンク色のベッドに横たわり、今帰ってきた主を虚ろの眼で迎えてから、見ず知らずの男の前にペットは四足で擦り寄ってきた。

「どうだ……凄いだろう」

 意気揚々とした声が遠く感じるのは気のせいじゃないと思う。衣服というには余りにも襤褸のワンピースはその役目を果たしておらず、ただの飾りとして妖艶さを醸し出しているに過ぎなかった。

 あの不愉快な匂いが一層強まる。死んだ魚のような眼が俺を見ていた。

「……これは?」

 そう返すので精一杯だった。

「副業の道具だ。お前まだヤッたことないだろ? ついでにそれで済ましちゃえよ」

「いや、そういうことではなくて。どうして女がいるのかと」

 彼女は紛れもない、ペットという名の人間だった。

 首元に黒い首輪をされ、ベッドの脚と鎖が繋がれている。愚鈍を更に輪をかけたほどの遅さでそいつはベッドを降り、主の前へ礼儀正しく頭を垂れた。

 人にしてはあまりに非人道的であり、俺が考えるにもっともありえない光景がそこにはあった。

 だから理解力の遅い自分が尋ねるのも、無理はなかった。

「聞く必要なんてないだろ」

 説明不要とばかりに、先輩は肩をすくめて壁に繋がれていた鎖を外しにかかった。

「都会に連れてくにしては、もう痛んでる品だからな。処分に困っていたんだよ。お前まだこっちに残るんだろ? だったら買うか?」

「買う?」

「ん……? おいおい、突然のこと過ぎて頭が回らねえか? こいつを使って、金を稼ぐかどうかって話だろうが」

 おい、と鎖を持ち上げられて、そいつは僅かに顔を歪めて起き上がった。

 膝の関節がおかしいのか、立っているのも辛いんだろう。少しよろめいてはまた鎖を引っ張られ、俺の胸に倒れこむ。

 ただ、感じるんじゃないかと思っていた感触や重さは、まるでなかった。

 空気の入った風船。生きているのがおかしいと思えるくらい軽く、弱々しいそいつが、俺の顔をゆっくりと見上げ――

 小さく、儚く微笑んだ。

「痣とかついちまうと、マニアにしか受けがよくなくなっちまってな。それでも良いってんなら売るぜ」

 そこまで聞いて、ようやく俺の頭も現実を受け入れられる体制が整う。

 つまるところ、売春の類を持ちかけられているんだ。一人のペット、女を使って、その金を収入にする。とても効率的で、生産的な話を俺達はしてたことに、ようやく気付く。

 答える言葉に対し、理性が歯止めをかける。お前の考えていること、やろうとしていることは人の道として外れている。日本の社会は思っているほど難しく、そして最後は自らの破滅を意味しているんだぞと。

「どうやって稼いでいたんですか?」

「なに当たり前のことを聞いてんだよ。売って、売って、ずっと売り続けたんだよ。黒かった髪も今じゃ真っ白になっちまってな。逆にギャップがあって良いなんて言うやつもいたっけ。前は唸り声の一つも上げていたやつだったが、ここ最近はめっきり声すらも上げなくなっちまった」

 淡々と述べる言葉に、言いも知れぬ冷淡さと激情が沸いてきた。

 形に残らない愛情は、確かに心に存在する。人に愛され、優しさをもらうことによって、俺らは人を助けるし望みもする。生きる理由がないのに生き続ける人間は、ただ自分を欲してくれる人を探しているだけだ。

 こんな現実はあってはいけない。そう望んでいる結末は有りもせず、どこまでも非情だ。こうして監禁されている人がいるというのに、世間は変わらず回り続けている。

 乾いた笑いがここまで心を締め付けるのは、生まれて初めての経験だった。

「良心が痛むってか?」

「…………」

「図星か。だがそいつはお前の勘違いだ。俺たちはいつだって生存競争の中にいる。世の中に成功するか、失敗するか。この二択によって人生の勝者と敗者が決定付けられてんだ。他人に同情? 人としての理性? 冗談、俺たちは常に他人を蹴落とす世界で戦ってるんだ。利用する人間、される人間がいたとして、人道が通れば警察はいらねえんだよ」

 酷く正しく聞こえるのは、俺の理性が傾いているからだろうか。

 こいつを利用すれば、生活が楽に回る。金に困ることが無くなる代わりに、一生の危険が付きまとう。

 だけどそれはハイリスク、ハイリターンから来る代償。金を稼ぐのに必ずのしかかる責任が、こういった形で現れているだけのこと。

 魅力的な話のように聞こえる。俺の未来に、消えかかっていた未来が僅かに明るくなったような気がした。

 無くなった左腕が警報のように疼く。腕の代わりにこの人間が働ければ、俺は十分過ぎる商品を得ることになる。

 だから、だから……。

 だから、俺は俺の心に誓いを立てた。

「……いくらでですか」

 一本百万の指を三つ立てる。退職金の半分を軽く超え、生活をするにはいきなりギリギリの値段を提示してきたのには、正直意外と納得の半分半分。

 それくらいの値打ちがまだあるのだろう。この町には、彼女に尽くすくだらない大人が、まだいるということだ。

「これでも友人としてまけてるんだぜ? 迷わずいこうや」

 笑って商談を促す顔に、罪悪といったものは感じられない。こいつは本気でこの商売を生業とし、そして味を知ったんだと、暗に思いを募らせた。

 喰うもの、喰われるもの。とても今の状況を表現しているに相応しい言葉じゃないか。

「いいですよ。金は口座に振り込めばいいですか?」

「現ナマ持ってくるのには流石に時間が遅いからな。明日の昼、中央広場にこいつを立たせておく。金は今から教えるところに振り込んでくれれば、手間がかからねえ」

 わかりましたと言葉を返すも、目線はもうそれにしか向かなかった。

 人道的とか鬼畜なんていう言葉は善人が使うものだ。やつらは誰しも良い教育を受けて、正しいことを正しく学び、自分たちの夢を追いかけては、自分では無理だと利口にもすぐに諦め、同じく夢を諦めた社会の巣窟へと飛び出していく。

 いわゆる普通の人、勝ち組でも負け組みでもない奴らが、ただ生きていくために働く場所を求めて歩く奴らが、そういった言葉を簡単に吐く。どれほど厳しいことなのか、厳しいという意味を理解しないまま、ただテレビ越しに、他人の噂を聞いたときに、上司の理不尽な言葉をかけられた時に、あいつは心を理解してないと。

 自分はどうなんだろう。目の前にいるペットを一瞥して、かける言葉といえばなにが浮かび上げられる?

「お前、名前は?」

 問いかけにペットは、かさかさの唇を動かして小さく呟く。

 口周りについた白い汚れが落ちていく様は、筆舌にし難い哀れを誘った。

 姿形は年老いた風貌だが、まだ二十歳そこそこだろう。

「子供の頃からこっちの仕事をやってるんだ。今じゃ自分を『犬』って言うくらいしかできなくなっちまってる」

 そう躾けたんだと、先輩は謳った。

「ま、俺には関係ないけどな。金が入れば世はこともなし。上手い汁は吸えるときに吸うもんだ」

 それもその通りだ。

 いつ死ぬかもわからない時代に、チャンスをみすみす逃すバカはいつまで経ってもバカのまま。今は頭の良い奴が人生を得して生きていく。

 人情だなんだと世迷いごとを言う輩はいつだって裏切りの対象。信じるやつがいつだって損をする現実を、幻想で覆っていては見えやしない。

「おい、犬」

 だから、容赦なんていらなかった。

 髪を掴み上げ、顔を目の前に近づけて威嚇する。俺が相手より立場が上なんだと理解させるために、高圧的な態度を見せ付けた。

「今日から俺がお前の主だ。お前は俺の言うことだけを聞けば良い。話すのも、嘆くのも笑うのも喜ぶのも、生きるも死ぬも全て俺のためだけに尽くせ」

「…………」

「反抗は許さない。もし反抗した場合、厳しい罰をお前に与える。わかったか? わかったなら初めの命令だ」

 徐に髪を放し、跪かす。力なく倒れた犬を足で小突き自分を見るように仕向ければ、犬は程度よく、それが命令なのかと緩慢ながらに従った。

「犬、まずは笑え。俺のために笑いを作れるようになれ。それが命令だ」

 先輩はただ笑っていた。早速主従関係をハッキリさせた俺を、優秀な生徒とでも思っているのだろう。飼い犬が暴れないように躾けるのは飼い主の務め、どこに行ったところでそれは変わらないルールだ。

 故に、彼は俺の行動に対し何も言わなかった。同情的な言葉をかけたり、叱責を飛ばしたりするものであれば、俺には向いていないと考え、この話をなかったことにするだろう。

 人を養うにはそれだけ労力が必要であり、

 人を養うにはそれだけ苦労が必要である。 

 じゃあと、そのまま俺は先輩を、犬を一瞥するでもなく、踵を返して扉へと向かった。


 七月三十日午前十一時五分。

 初夏を越えればもうひぐらしの鳴き声は聞こえず、代わりにミンミンゼミの喧しい声を朝から聞くことになる。気持ち悪いほど寝汗をかいた布団で眼を覚ませば、太陽はもう十分なほどに空高く上がっていた。 

 窓際から見える最上川の土手では、子供達がサッカーをやっていた。七月の終わりとあればもう夏休み、地域のクラブに入っているチームが、夏休みを利用して朝練をしているんだろう。ボールが右から左へと、何度も蹴り損ないのパスを飛ばしては、コーチらしき男が無理やり褒めていた。

 起き抜けに軽く腕を回し、調子を確認するのが日課となっている。大分慣れたとはいえ、未だに左腕がない違和感は拭えない。それも暫くすれば慣れると医者は言うが、いつになるかは正確に話していない。医者もわからないのだろう。どうせ聞いたところで、「本人の加減次第だ」とか抜かすに違いない。

 朝のうちに銀行に赴き、紙に書かれた口座に金を振り込む。事務についている男が怪訝そうに俺を見るが、その視線にも慣れた。左腕のない男がそれほど珍しいだろうか。

 川とは反対方向に向かうと、大きな通りに出る。長々しい道を歩き続け、土産物屋の角を左に曲がってからずっと真直ぐに行けば待ち合わせの場所だ。時間的にもギリギリだし、気持ち足を速めに進めることにした。

 車通りの多い商店街を抜け、中央広場へと着く。時間も三十分足らず、少々待ち合わせには速い程度だが、そいつは既にベンチに腰掛けていた。

 真っ白い帽子に薄青色のワンピース。肌色のカーディガンを羽織ってはいるものの、その姿からは昨日の顔と打って変わって、凛々しく整っている。化粧をすると女は化けるというが、皺や痣を隠し通すというのはどれほどの魔法を使ったのだろうと、くだらない考えをしてはすぐに打ち消す。

 第一印象で躓いては後々に影響が出てしまう。気を引き締めて相手を見下げ、自分の思うように扱わなければ、足元を取られかねない。

 だけどどうだろう。犬はまるで俺など目に入ってないとばかりに気づく様子もなく、それどころか死んだかのようにその場に静止していた。

 外見はましになったと言える。白髪の髪はまだ目立つが、それを差し引いても魅力的な女だと思えるほど十分な容姿なのに。

「おい」

 声をかけても返事は来ない。

気配が死んでいた。人としての活気や生気もなければ、自分を自分と定義していない。誰かからの言葉や刺激がなければ、ずっとその場所に置き去りにされる。

そんな不安をなぜか覚えた。

「おい、犬」

 足のつま先を蹴ると、犬は今気付いたかのように俺を見上げた。

 あのときのイラついた匂いが、風に乗って僅かに鼻を擽る。

「さっさと行くぞ。立て」

 その言葉をどう取ったのか、犬は俺の顔をまじまじと見上げたまま動こうとしない。自分に対する命令を、一体どう表していいのかわかっていないと言わんばかりに、緩慢な動きで立ち上がるものの、動こうとはしなかった。

 どうした、と詰問する前に理解する。立つことは命令として知っていても、行くという言葉はひょっとしたら知らないのかもしれない。とすると、彼女は幼稚程度の言葉も理解できないんじゃないだろうか。

「犬、行くという意味を知っているか?」

「…………」

 震えながらも頷く姿は、無性に壊したくなる衝動を駆り立てる。

「なら動け。いつまでそうしている」

 厳しい口調で問うが、犬は一向に動かないままその場に立ち尽くす。怪訝に思いなぜ動かないのかと腕を引っ張ると怒られると思ったのか。犬は小さく、本当に微々たる力だが、その足を上げようとした。

 そして、そのまま支えが利かないとばかりに倒れこんだ。

「お、おいっ!」

 慌てて抱き起こすものの、犬の表情には焦りや同様の類は見られない。まったく受身を取らず頭から落ちたのだから意識はないのかと思ったのに、眼はこちらをまだ見ているので、こちらが逆に動揺してしまった。

 そういえば昨日見たときも妙にふらついていたが、もしかして歩けないのだろうか。疲れているかどうかはともかくとして、歩行が困難なほど足の関節がおかしいのであれば。

「歩けないのか?」

 問う言葉は冷淡そのものではあるが、内心は気遣いしっぱなしだ。歩けなければ今後の仕事に支障が出るし、使い物になるならない以前の問題でもある。

 ――痣とかついちまうと、マニアにしか受けがよくないからな。

 あの野郎、契約違反だぞ。歩けないなんて普通考えないだろうが。

「…………」

 犬がこちらの腕を掴み、笑顔で答えた。抱き起こしてくれてありがとうと言いたいようだが、そんな言葉を俺は望んでいないし、俺が聞いたのは「助けて欲しいか」ではない。

 犬のご機嫌取りを終えて、素知らぬ顔で立ち上がる。よれよれと犬が腕に張り付きながら立ち上がり、寄りかかる体勢のままこちらを見上げてくる。

 一歩、前に進むと、酷く不恰好ではあるが犬も前に進んだ。やはり左足がおかしい。一人で歩くには困難なほど、こいつの足は壊れているようだ。

 皮肉なもんだ。左手を失い、利用するために大金をはたいた俺が、左足を壊し、添え木として利用されている。出鼻を挫かれたもいいところじゃないか。

「おい」つかまれた右腕を振り払い、強引に腰へ手をかけた。

「俺はお前の主だ。俺の許可なく腕を取ったり、笑ったりするんじゃない。犬は犬らしく飼い主に尻尾を振って、餌をねだっていればいい」

 近づけた顔と顔がくっつきそうになる。怒りを込めた言葉を犬に向けて威嚇をするも、犬は言葉が通じていないのか、目を開けたまま俺の目を見つめていた。

 群青色の目には、男の顔が反射している。もちろんそれは俺のことで、こいつはなんの怯えも嫌悪もなく、俺を覗いている。それが不思議と嫌な感じはしなかった。

 軽く舌打ちをして、また歩きはじめる。右手にかかる重さを振り払おうとは思っても、こいつは金の成る木だ。丁重に扱わなければ容易く壊れるし、互いの信頼関係だって大切だろう。最低限、片腕で車を使える程度に慣れるまでは、こいつが逃げないよう送り迎えをしなければ。

 

 通ってきた道を一本外れると途端に車通りが少なくなる。幼稚園の横を通ると、ビニールの囲いでプールを作り、幼児たちがわいわいとはしゃいでいた。水をいたずらにかき出しては保育士がホースで水を注ぎ足し、それを求めて幼児たちは一斉に集まろうとして、注意を受けている。

 もう少し進むと人気のないコンビニが見えてくる。よく通りかかる場所なのに売れている様子がまるでないのは多分、雰囲気として入りにくいからかもしれない。全国展開しているチェーン店に対し、照明が著しく暗い所に学生たちが進んではいることはないんだろう。あの角に建つ蕎麦屋も、ひっそりと暖簾を掲げている居酒屋も、定食屋も、東京に比べてはとても静かで、目立つのを拒否するように構えている。

 駅手前に位置する橋を曲がり、土手を二人して歩く。

 清流の音も、通り過ぎていく風も。町並みと同じように目立つほど自己を主張していなかった。

 土手の向かいに足を運び、古びた建物を通り過ぎること二分程度で、家に着く。鋼で出来た階段を二人して上がると軋んだ音をたて、内心崩れるんではないかと思ってしまう。そんな俺の心境とは裏腹に、犬の手はまるで微動だにしなかった。

「着いたぞ。入れ」

 ドアを開けてやり、家の中へと進ませる。おぼつかない足取りで部屋の中に進む間に、上着を適当に放り投げ、風呂の掃除を済ませた。

「先に風呂に入れ。キチンと入念に洗えよ」

 そういって犬を風呂場に追いやり、洗濯かごにバスタオルを入れてを放り込んでおく。あとは勝手に服を脱いでシャワーを浴びて、身体を拭いて出てくるだろう。その時にまた必要なことを教えればいい。

 犬が水浴びをしている間に冷蔵庫の中身を確認し、再び外出しては酒屋でジュースと酒を買い込む。適当につまみなどを買い込んで家に帰れば、シャワーの音はしていなかった。終わったんだろう、部屋と玄関を隔てる引き戸を開ければ、そいつは律義にも正座をして待っていた。

 俺が帰ってきたのが喜ばしいのかは知らないが、そいつは立ち上がろうとはせずにただ俺の顔を見て、小さく微笑んだ。ぼさぼさ髪のまま、化粧は剝がれ落ち、目尻による皺がこれでもかと強調しているが、それ以上に点々と広がる青痣が目についた。

「正座なんてしなくていい」努めて事務的に俺は言った「足が悪いんだろ、痛いなら無理するな」

 だがそう言っても、犬はまだ正座の体勢を崩そうとしなかった。

「こっちに来い」

 そう言って、はじめて犬がこちらに寄ってきた。四つん這いになり、本当の犬のように来る様は、ひどくそれが人間ではないようにも感じ取れた。

 顔は下を向き、一切目線を合わせようとしない。ただ近くに来て俺の前にやってきたと思えば、犬は普通とばかりに下腹部へ顔をうずめ、器用にズボンの上から弄った。

「おい」たまらず髪をつかみ上げ、視線を強制的に合わせる「俺はお前の客じゃねえ」

 横に薙ぐと、簡単に犬は倒れた。踏ん張りが利かないことを考えても、知ったことか。怒る理由があって、こいつは勝手にしようとした。その罰なのだから。

 ため息をつきながら隣の床を叩くと、犬は理解したらしく、隣に身体を起き、身を寄せてきた。

「そういう意味じゃないんだけどな」

「…………」

「俺は日当たりは暑いからこっちに来いといったんだ。なぜ俺にくっつこうとする」

「…………」

「ああもう! 答えなんか期待しちゃいねーよ!」

 やけくそになりながらコップにジュースを注ぎ、犬の前に持ってくる。一瞬たじろいだものの、オレンジ色の不思議な液体を眺める目は、まるで初めて見るもののように興味津津だった。

 しかしコップを差し出したものの、犬は手に取ろうとしなかった。それどころか徐に口を近づけて飲もうとしたので、思わず「待て待て」と言ってしまった。最初の頃の覚悟はどうした自分、冷徹に接するんじゃなかったのか。

「コップくらい持て」

「…………」

「持つこともわからないのか?」

「…………」

 意を解さぬ表情に、怒鳴りつけてやればいいのか、慰めてやればいいか。

 ――子供の頃からこっちの仕事をやってるんだ。もう言葉も忘れかけて、今じゃ自分を『犬』って言うくらいしかできなくなっちまってる。

 前途多難だ。確かに道具として扱うにはこれほど良い物はないが、人として扱おうとすれば子供以下の知能じゃないか。

 よく扱えたなと感心する反面、よく生きていられたなと、この名もない犬に感心する。

「ほら、手で持つんだ」

「…………」

「両手で持て、そう。そのまま口を付けて――」

 くっと。本当に少しだけ、ジュースを口に含んだのだろう。

 ジュースを飲むくらい、今の子供だって普通にできる。そんな常識めいた考えがあったからこそ、自分が軽率に飲むように勧めたのが間違いだったとすぐに気づく。

いきなりむせたと思ったら、勢いよくジュースを噴き出す。言葉を紡ぐ間もなくコップは畳の上に転がり、オレンジ色の染みを広がらせてしまった。すぐさま立ち上がり雑巾で拭き取るが、夏とはいえしばらくは乾かないだろう。ベタつきもするだろうし、ボロいアパートでは虫の出が心配だ。

 拭き終えたと同時に、言いようのない怒りが心を蝕む。金儲けの道具だというのに、いきなり状況は悪化している。これで犬が少しでもしょげていれば大人の対応ができたかもしれないのに、犬は心ここに非ずとばかりに、ただその染みを眺めては、舐めとろうとしていたのだから。

「……やめろ」

 自然と、怒りをぶつけたのは仕方ないことだ。

 まるで人間のように自己主張がなく、ただ従順としている姿は、犬として調教を受けてきたとしか考えようがなかった。追い払うように手を振りかざし、頭を殴りつければ、犬は僅かに怯えたのちに畏怖の目を向け、隅っこで蹲るようにしながらじっとしていた。

 どうにか拭き取り、ベタつきを確認する。だいぶ取れたとはいっても畳だ。良いわけがない。

 自然と舌打ちもでる。与えたのが不味かったのか、それとも飲めなかったのが不味かったのか。そんなの誰だって飲めないやつが悪いに決まっているじゃないか。

 立ち上がり犬に近づくと、犬は俺を見上げたまま動こうとはしなかった。震えることも、言い訳することも、懇願も反省も何もなかった。それが意図的なのか故意に行ったのかを確かめようとして、ふと口元に歪みがあることに気付いた。

「犬、口を開けろ」

 一部の言葉は理解を得ていることに、同情するしかなかった。

 おずおずと開けた口は小さく、何も見えない。

「もっと大きくだ」

 それでもまだ大きくならない。

 だから強引に口の中に指を突っ込み、口元を開けば、途端に皮が破ける感触が指に伝わった。

 痛がって拒絶する犬を身体で抑え込み、中を覗くと、まるで病院に張り出されている写真とさして変わりはなかった。赤いはずの舌は白みがかり、無数の黒い点は口内炎だろうか。歯も数本折れ曲がり、特に酷いのは頬の内側に折れ曲がった歯が刺さっている部分だ。

よくこれで正気を保っていられたものだ。普通の奴なら数分と待たずに痛みで暴れ出すだろうに。

「バカが」誰にでもなく、俺は吐き捨てた「バカの達人だよ、お前は」

「…………」

 病院という案が真っ先に浮かんだが、当然却下だ。保険証もなければどこのどいつかもわからないやつが病院にいって、身元確認なんかされたら説明のしようがない。だがこの傷がどれほど古くて、いつ頃からこうなっていたのかはわからないが、早めに治療をしてやらないといけないのは素人目線でもわかることだ。

「おい犬」

「……?」

「今から俺がお前にとんでもなく痛いことをする。泣くどころか痛すぎて夜も眠れないし、あまりの痛さに俺を恨むかもしれない。むしろ恨め。それくらいの報復行為は甘んじて受けてやる」

「…………」

「だが痛いのを乗り切れば、お前は少しだけ普通の生活を送ることができる。飯を普通に食べたり、甘いのや酸っぱい飲み物を普通に飲むことだってできる」

 今のまま過ごすも良し、もう少しましな生活を望むも良し。それは犬の勝手であり、俺はただそれを補助するだけだ。

 どうせ言葉もわかっていないだろうこの犬に対し、何を俺は言い訳をしているんだろう。説明はキチンとした、だから俺は悪くないとでも言うように。そういった気持ちがあるから、恨まれることの理由付けを勝手にしている。

 一方的に行うのは俺なのに。それをこの犬に、俺は押しつけている。

「どうする、痛いのは嫌か?」

 まるで言っていることが分からないと、犬の表情は語る。

「物を食べたいか?」

『食べる』という単語に反応して、犬は小さく頷く。無論、頷くとわかっているから、そう仕向けた。

 立ち上がり、引き出しの奥にしまっていたペンチを取り出す。濡れた手拭いと薬を用意し、深呼吸する。口内炎の薬があって良かった。歯茎が弱って、抜けやすくなっているのも、不幸中の幸いというべきか。

 手拭いを犬に噛ませ、位置を確認する。犬歯が刺さっているなんて、皮肉以外のなんでもないだろう。

「じっとしてろよ。下手に動いたら、頬に刺さった歯を突き刺しかねない」

「…………」

 そして、長い夕暮れの時間が始まった。


   二.


「農業関係の仕事。という形でいいなら、それなりにあるんだけどな」

 デスクの向かいに座る一之瀬圭吾は、締まりすぎたネクタイを直しながらそういった。

 ハローワークに漂う雰囲気は、絶望と希望、どちらかといえば希望を多く持つ人たちがやってくる。諦めてただ惰性で通う人より、僅かな望みに賭ける人が、自分の望む会社につくために足を運ぶ。とはいえ、それですらも絶望でやってくる人たちと同等程度でしかない。

 ほとんどの人たちは「働けたらそれでいい、適当に働いて、適当に金を稼げれば」という、達観者でも野心家でもない、まるでロボットみたいな考えを持つものばかりが集う。働く場所があるならそれでよし、働く場所がなければそれも運命。そう割り切るやつらが多い。

 そういった人たちを相手に、嫌な顔をせず付き合う業務の人間はたまったものではない。

 かくいう俺も、彼らを困らせるその一人だ。

 金がまだあり、生活にはそこまで困っていない。金がなくなる時になれば、適当に探すし、無ければ無駄な余生を過ごすこともなく死に絶えるだけ。

 達観している者の一人。それをこの場所にきて、良く実感した。

「できれば内職の仕事につきたいんです。農業のような昼夜働くものではなく、個人として技術を必要としているような、そんな仕事は――」

「ないよ。少なくとも今は」

「今は?」

「内職とかっていうのは、ようする下請け業者としてアナログの作業を行うって思う人が多いんだけど、今のご時世そういった関係のものはすべて機械でできる。だから高齢者のいう内職は時代錯誤で、今はパソコンを使ったデータ整理っていうのが主流なのさ」

パソコンか……。

「確かにやってできなくはない作業だけど、芳野くんはパソコン持っていないんだよね?だったら今は内職なんて無いよ」

 パソコンは便利ではあるんだが、スペックに似合わずでかいし壊れやすいといったイメージがあるので、極力買わないようにしている。

 俺一人が家に住んでいて、且つITなどに興味を持てば確かに欲しい機器の一つではあるのだが、事情はそんなにも単純ではない。

「子供でもできるような仕事はありますか?」

「子供? なになに、いーくん結婚でもしたの?」

「茶化さないでください。真剣に聞いているんです」

「残念だけどないね。子供ができる仕事なんかあったら、それこそ仕事を依頼する奴らの頭がおかしいじゃん。仕事は大人がする業務で、アルバイトは学生のする業務。子供は学業が業務さ」

「……頼むよ圭吾、いい加減にしてくれ」

 同年代の級友に、言葉も元に戻ってしまう。

 圭吾のいう仕事は、働くのに不向きな年代、責任能力といったものが付いて回っている。子供の責任どうこうを問うのであれば、初めから教育を放棄した親に問題がある。それをわかっていて、圭吾が暗に教えているのだ。「馬鹿なことを言うな」と。

「いい加減って言われてもなあ。子供でもできる仕事なんて、いー君、仕事ナメてるんじゃない?」

「俺は――」

「ナメていないとして、どうして子供でもできる仕事なわけ? まさかその歳でいまさら引籠り生活を満喫するつもりじゃないだろうね」

「そんな気はない。ただ――」

 ただ、どうしても家にいなければいけない事情ができただけだ。

「子供でもできる、っていうのは言いすぎた。ちょっと今、目を離せないことになっていてさ、どうしても家でできる仕事が欲しいんだ」

「ふぅん……」さして興味がない風に、手前にあるパソコンを叩きはじめた。「別にないわけじゃないけど、まともな仕事じゃないなあ」

「たとえば?」

「広告作り。イメクラのチラシなんてのが主だね」

「それでいい、いつからやれる?」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 予想外の回答だったようで、圭吾もあわてた様子だ。

「イメクラのチラシって言っても、公衆電話とかに張るやつだよ。犯罪に手を貸すことを理解して言ってる?」

「犯罪者になることも殺人鬼になる覚悟もあって言ってる。人は動かなければ死ぬ。そんなのは当たり前のことだろ」

 至って真剣な回答に肩を竦められて答えたのは圭吾だった。冗談と受け取ったのだろう、真面目に話したところで、相手にそれが伝わっていなければ、何の意味もない。

「仕事が欲しいのは本当だ」努めて普段と変わりないように、俺は説いた。「たださっきも言った通り、外に出る仕事はまだできなくてさ。圭吾の紹介でどうにかならないか?」

「簡単に言うねぇ」苦笑交じりに答えた表情にも、ようやく仕事以外の緩みが見え始めた。

 本来こうして話し合うのも久しぶりなのに、こちらの一方的な要求を嫌がりもせずに聞いてくれるのは、おそらく圭吾をおいてほかにいない。もともと友人関係が旨くいっていないのもあるにはあるが、それでなくとも他の奴らはまず挨拶もせず、好奇心をむき出して「腕、どうしたの?」から入る。

 しかしこの一之瀬圭吾は、人の腕のことを見ず、こちらの事情をまるっきり聞かず、俺の顔を見て「久しぶり、元気にしてたかい」と言える奴だ。

 淡白な奴だからこそ薄情にも見えるが、決して悪い奴じゃない。他の奴らの誰よりも大人で、理屈と利益を計れるからこそ、そう見えるだけだ。

「けど隻腕の男でもできる仕事っていったら凄く限られてくるなあ。時間は早急に?」

「いや……しばらく暮らしていけるだけの用意はできてる」

「ならいっそのこと作家にでもなっちゃえば? 著・芳野無花果。みたいな」

 冗談だろう。そんな甘い生活ができれば、古今多くの作品を書いている人たちはもっと多くの賞を受賞しているだろうよ。

「生憎と、パソコンは持ち合わせてない」

「日記のように書いていけばいいんだよ」簡単そうに圭吾は言う。「そう一日に何ページも書こうとするから書けないだけで、何度も書いていくうちに自然と書き方が身につく。面白いと思うけどね、隻腕の男が歩んできた人生の分岐点。その混迷と血路を今ここに。みたいな」

「面倒だな。第一疲れる」

「仕事が欲しいといったのはいー君だよ」

「そうだけどさ」引搔かれた頬をさすると、チクリと痛みが走った。「工業の学校を出たのに、なんで作家として人生再スタートするかね」

「簡単な話だよ。家で仕事が出来て、パソコンを使わず、収入の見込める作業効率を考えてみれば、今の時代なにもない。あるとすれば字や絵とかを書いて一発当てることだ」

 君でもできるとばかりに、圭吾が自信のある声で俺を後押す。出来ないのは出来ないと思うから。自信がないのは経験がないから。

 すべてが揃っているのにうまくいかないのなら、それは評価する人間の問題だ。

「幸いにもいー君は友達が少なかったしね。環境は整っているじゃない」

「よく俺を知っているようで」

「それはそうだよ。僕は君の友達で、君を唯一迷わすことのできる奴だからね」

誰かに言われて迷うのは、自分が未熟であるのと話術の長けている第三者がいるから。自分の意思の弱いところを、彼らは的確に突いてくる。

 なるほど。確かに俺は今、一之瀬圭吾という男に迷いを植え付けられたようだ。

「それじゃあもういいかい? 他のお客さんが待っているからね」

「ああ。だけど意外だったな。圭吾だったらもっといい就職先、狙えたんじゃないか?」

「自分の限界と立場をわきまえた結果さ」

皮肉交じりの苦笑を浮かべて、圭吾が席を立った。


 山形大学の角に並ぶ郵便局を奥へ。くっきりとした轍と並行して進み、稲荷神社の手前を左に曲がると、今は古い屋敷のような酒蔵が姿を現した。

 暖簾に達筆な字で『東光』と書かれているのは、米沢では有名な酒らしい。木の枠でできた引き戸を覘くと、赤黒い玄関が見て取れる。

 そのまま真っ直ぐに進み進路を右にとれば、いつかの大通りに出てくる。山のように積まれたパフェの店、売れているかもわからない土産物売り場。商業高校を過ぎれば、時折コンビニの前で、二組のカップルがアイスを食べているシーンが見られるだろう。東京ではなかなか見られない光景かもしれない。暑そうな学生ズボンをはいた男子生徒が、自転車の後ろに女子を乗せて走らせている二人。手を繋いで、学校であった事を楽しそうに話す二人。初々しく下を向きながら、何を話せばいいか分からなくも傍を離れない二人。吹いた風に乗るように、両手を広げて道脇を歩く女子を男子が眺める二人。

 そのどれもが昔のままに残り、そして忘れ去られた世界だと思えた。

 現代の象徴としてあるコンビニエンスストアも便利というだけであって、彼らのように懐かしさが残るわけではない。あるいは進化を果たし、再び便利になるだけの最先端開発には、彼らのような思い出は残せないだろう。

 俺たち大人は、時代の流れに身を任せていけばいい。そう思うようになってしまったのは、いつからか。遠い昔とばかりに思えてならない。

 手にぶら提げたコンビニの袋を、いたずらにガンガンと手すりにぶつける。薄くて軽く、便利と思えたこの袋でさえも、今では世界をダメにする一つだというのだから。

 人はいつだって、進退を繰り返す。人の生活は確かに豊かになったが、それは同時に世界をダメにした。

 ……くだらない。何を考えていたんだ俺は。

 きっと暑さに頭がやられたのだろう。最近の猛暑は厳しい、風通しのない場所じゃ、すぐに暑さでだらけてしまう。

 いくら東北の一つに数えられているとはいえ、夏には変わりない。暑さは暴力的なまでに、人の思考を簡単に奪うものだ。

 ふと、そこまで考えたところで、ある予感が脳裏をよぎる。

 アパートの階段を上りきり、部屋の前に立つ。確かに俺は部屋を出る時に扉を閉めた。犬に対し「逃げるなよ」という言葉をかけて、窓もなにも開けるようなことはしなかった。

 果たして扉を開ければ、サウナと化した部屋に白い服を着た犬が横たわっていた。

「…………」

 土足のまま部屋にあがり、すぐさま窓を全開にする。扇風機をつけてはそいつの横につけ、日陰に寝かせてから、すぐさま水に濡らしたタオルを頭に当ててやる。

 バカがといった口は、どちらに対して言ったものだろう。わかりきった解答はあるのに、押しつけようとする自分を小突く。

 わかっていたはずじゃないか。こいつは何もできない。自分ではどうすることもできない大人のガキだってことに。

 逃げるなと釘を刺した俺が外に出て、こいつがクソ真面目に待ち続けることは十分予想できたはずだ。それを失念してこの事態を引き起こしたのは間違いなく俺。

 主人が飼い犬の躾もできないで、何をしていたのか。

「買ってきたのが飲料水で良かったな」

 どうでも言いことを考えたいわけじゃない。ただ現実に起こったことから、逃げたかっただけとわかっている。当たり前のことを、当たり前にできない。それを見越して、俺はこいつを使おうと考えていたはずなのに。

 一時間ほどして。ようやく犬がうめき声を上げて、腫れぼったい目を薄く開けた。

「目が覚めたか」

 刺々しい言葉になったと、自分でもわかる。

 温くなったタオルを交換し、身体を起こしてから少しずつ水を飲ませる。自分からコップを持とうとしないため、俺が口に持っていくようにして。

「暑かったら窓を開けろ。扇風機だって回していなければ、すぐにばてるぞ」

「…………」

「わかったか?」

「…………」

 時折顔をしかめるのは、先日切った傷がまだ痛むんだろう。

 普通なら医者に見せるほどの大きく穿った傷を、手元にある軟膏で塗りたくっただけで手当てしているのだ。痛がらない方がおかしい。

 しかしそれでも水を飲むのは、単に命令しているからだけではないと思う。

「ゆっくり飲め。咽るぞ」

「……ッ、ゴフッ、ゴフッ!」

 いわんこっちゃない。

 濡れタオルで口の周りを拭いてやり、様子を見る。青く腫上がった頬をさすれば嫌々をするように首を振るが、それもすぐに収まった。まだ少し朦朧としているのだろう。昨日あれだけ激しかった気性も、今は嘘のように静まり返っている。

「あ……うっ……」

「まだ寝てろ。最近はそれでなくとも暑いんだからな。動くのは夜からだ」

「ああ……、ああっ……」

 重力に逆らうことをしていなかった腕が、ゆっくりとこちらに伸びてくる。恨み辛みをぶつけられるのだとしても、それは驚くことでもない。犬にとって当然の権利であり、自分の意志を持つための大切な行為でもある。

 頬に張ってある絆創膏を乱暴にはがし、傷があらわになる。三本程度の引っかき傷ではあるが、真直ぐ縦に蚯蚓腫れを作り、痛々しさが滲み出ていることだろう。犬自身も瞼を開き、自らつけた傷口に驚いている。

 震える手が、赤い線に触れる。

「ッ!」

 電気が流れるような痛みに、身体を強張らせてしまう。どれほど我慢をしていようとも、突然の痛覚に条件反射してしまう身体が今は情けない。

 しかしそれ以上に身体を強張らせた原因は、犬の方にあった。

 頬を触っていた手は、一度離れたものの、また俺の顔に近づいてくる。だが今度は頬を触らず、頭を通り過ぎ、あろうことか腕を首に回してきた。

 なんだと疑問に思う暇もない。腕に力をこめ、互いに顔を近づけたかと思えば。

「うー……」

 頬の傷を舐めだした。

 犬のように。それこそこいつは何の躊躇もなく、昨日のことを忘れたかのように、何度も何度も頬の傷を舐めとろうとした。

 自然と、あのイライラした臭いが鼻孔をつく。ゴムのような、見えない染みが、まだ犬の身体に残っていることを明確に示している。

「やめろ」右手で押すと、容易く犬は寝転ぶ。「舐めてほしいなんて一言も言ってない」

 だが犬はやめようとしなかった。こちらが近寄って来ないと知ると、今度は手に巻きついた包帯を剝して、自らつけた噛み痕を、丁寧に舐めとりだした。

 指の先から手の甲まで。いっそ甘美とまで評せる舌使いは、何度もやらなければ身に付かない技術だろう。このまま任せておきたい魅惑に心を奪われかけるが、まだ痛みは俺に現実を教え続けてくれる。

 これは間違っていると。

「やめろっ」

 素早く右手を引き、背に隠す。犬は単なる遊びと思ったのか、右手を追おうと両手を伸ばし、再び俺の身体にしなだれかかってきた。

 多分、これは犬なりの表現なんじゃないだろうか。お礼なのか謝罪なのか、防衛本能として昨日のような暴力はまだ理解しているようだし、少なくとも憎んでいるといった感情は見て取れない。

 表情こそ感情の映りが無いが、犬が俺に対してとっている行動を鑑みる限り、これは一種の愛情表現と思っていいのだろうか。

 ……いや、考えが大人すぎる。目の前にいる女は外見が大人でも、頭は子供だ。子供が愛情表現として傷を舐め合うという行為に出るのは、随分と動物的すぎやしないだろうか。大人であれば傷にあえて触るようなことをしないだろうし、子供であれば興味本位で触ろうとする。そう考えることが正しい。

 大人でも子供でもない、動物的に考えるとすれば。

 誰かに教え込まれたとするならば。

 まさに、傷の舐め合いをしているといった言葉が相応しい。

「やめろと言ったはずだっ!」

 近寄ってきた顔を強引に右手でつかみ、畳に叩きつける。最初こそ苦しそうに暴れようとしていた犬も、『俺が望んでいること』だとわかった途端、急に大人しくなった。

 澄んだ群青色の目が俺を見つめ、小さく微笑みを浮かべた。

 殴りたくなる衝動が心の中で暴れ始めている。冷静な思考がまるでできず、ただ怒り任せに弱いものを壊したい。目の前に置いておきたくないとさえ思える女が、その片鱗を見せつつあるんだから。

 ……いや、そもそも。

 悩んでいる自分が、本当であればおかしいのだ。

 掴んでいた手を放し、犬の顔を伺う。乱れた髪が綺麗な顔を汚し、挑発的な目で俺を求めている。押し倒そうとすれば片腕の俺でも簡単にでき、相手とてわかっているとあれば、一体どうして拒む必要があろう。

 喉にせりあがってくる痛みをどうにか飲み込む。きっとこいつは、こうして日々を過ごしてきたはずだ。数多くの男と出会い、求め、別れ、再び出会う繰り返し。俺もその一人だと、思っていなくても理解しているはずだ。俺を挑発していつものようにやり過ごせば、また日常が戻ってくる。主人が変わっただけの日常に、ただ戻るだけだ。

 それを、犬は望んでいるに違いない。自分の日常に戻るために、俺を利用する。

 俺はただこいつを非日常に合わせて使っていればいいだけ。

 ただ、それが果たして自分が苦悩していることかと問われれば。

 きっと、違うと答えるだろう。

「…………」

 決して自分から襲わない飼い犬。

 だが日常に戻ろうと意識している飼い犬が、今そのきっかけを待っている。

「…………」

 ありふれていない日常を再び取り戻そうと、待つ。

 非常識を常識と植え付けられた女は、ただその時を待ち続けていた。

「ふざけんな」目で求め続ける犬に、俺は自戒を込めて言った。「犬なら犬らしく、主人の言うことに従っていればいいんだよ。余計な事をするんじゃねえ」

 腰を上げると、手を掴んできた。弱々しい力を目一杯の力で振りほどき、犬を足蹴にして押入れを開けた。中から取り出しそうとしているのは、どのあたりにでも売っている、丸く畳まれたビニール紐だった。

 きっと振り返れば、あまりの恐怖にひきつった表情を浮かべることだ、なんていう気持は、早々に消えた。憤怒の感情に身を任せ、今から縛りあげようとされる犬は、紐にはまるで興味を示さずに、俺の顔を見ていたからだ。

 言うなれば、疑問にも似た困惑。

「どうしてお前を襲わないかって? どうして誘っても拒むのかって聞きたい顔だな」

 だったら教えてやる。

「俺はな、お前みたいなのが反吐がでるほど嫌いなんだよ!」

 無様に地面に伏せさせ、腕を縛り上げる。


 テーブルに広がった広告用紙をゴミ袋に入れて、白紙の紙を探す。六畳一間の部屋に、衣類やら酒の缶が転がっていれば、見つけるのは難しい、今度掃除でもしてみるか。

 説明書が山積みになっているところを乱雑に漁ると、学生のころに使っていたルーズリーフがでてきた。中身もまだあるし、とりあえずはこれで我慢しよう。

今後の予定を決めるにしても、こいつの状態を快復させない限り、稼ぎが入って来ない。なによりこの身体だ、乱暴に扱えばすぐに壊れるだろうし、丁重過ぎれば主従関係に罅が入る。なんとも加減の難しい役どころだ。

 いくつかのキャッチコピーが浮かんでは、また沈む。短い文章で明確に伝えることができる奴は一種の才能だと思う。なかなか会心の出来という言葉が見つからず、試しに書いてみたものの、語呂が悪かったりよくわからない羅列になったりと一向にはかどらなかった。これで小説を書いてみろと言うのだから、圭吾の言うことも当てにならない。

 外から差し込む明かりも大分なりを潜め、夕闇の暗さが世界を覆いつつあった。カーテンを閉めて窓を閉じ、電気をつけては真っ白な紙と睨めっこを続けていた。あちこちに散らばる紙くずを尻目に、ただどうすれば効率のよい提供方法を与えられるかを考えて。

「うぅー……」

 唸るような声を背後で漏らす犬を無視しながら。

 しかし、どこかで嗅いだ事のある異臭が立ち込めてきたとあれば、振り向かざるを得なかった。真っ白だった服も濡れ、黄色い染みが浮かんできては、こちらの躾がなっていなかったことを示している。

 結局犬をトイレに連れて行き、畳を雑巾で拭き取ったところで、根本的な問題をまずは片付けないといけないことに気がついた。

 あれは犬ではなく、ただ主人のあるがままに従う人形だと考えることで、今は自分の理性を保てている。これ以上面倒事を増やせば生活はおろか、部屋を追い出されかねない。事態を免れるためには、まず犬の自律を導かなければいけないだろう。自分の見通しが甘かったことは、口にしなくてもはっきりしていた。

 数分してからトイレに行けば、腕を縛ったままの犬がこちらを上目に困った顔をしていた。腕も縛られたら紙なんて使えない、そんな当たり前の考えも、まるで想像することができなかった自分に、心の内で毒づく。

 紐を解いてやりしばらく待つが、出てくる様子がなかった。どうしたのかとドア越しに耳を澄ますと、小さく唸るような声が扉の向こう側から聞こえてくる。

 ノックも何もなしに開いて、頭を叩く。自慰行為なんかしてんじゃねえ、こっちはそれどころじゃないっていうのに。やっぱり縛っておくべきだろうか本気で悩む。

 服を着替えさせ、共用の洗濯機に放り込むと、雷のような音が響いた。そういえば今日は花火大会だったことを思い出し、カーテンと窓を開けると。

 綺麗な花が空に輝いていた。

 俺も犬も呆けていたことだろう。ここ近年、働いては寝てを繰り返すことを主としていた俺も久しく花火を見るし、暗い部屋の中で生活していた犬だって、花火を見るのはなかったはずだ。

 虹色に輝く火の粉が満開とばかりに空を舞っては、大きな音とともに消えていく。窓の縁に収まり切らない花は、連続で上がったり、一凛で飾ったりと、大忙しに暗い夜空を明るく染め上げていた。

「おー……」

 夜空を仰ぐ犬も、どうやら気持ちが花火に向いたようだ。腹の底に響く重低音に身体をびっくりさせながら、目はずっと大きな花火を放さない。

 夏の風に乗って、人の喧騒と草の香りが部屋を満たす。空の缶が風で倒れるが、俺も犬も振り返ろうとはしなかった。

 空に咲く花が、とても綺麗だったから。

「……おい犬。お前の名前を言ってみろ」

 空を見ていた犬は言葉に反応して、こちらを振り返った。

「わからないか? 名前だよ。名前」

「……い……、ぬ……。い、ぬ……」

「違う。お前は犬じゃない」

 言っていることが伝わっていないのかと思い、悲しい面持ちの犬に、俺は伝えた。

「お前は『風香』だ。風が香る女。夏草も火薬の匂いも無花果の香りも何もかも風に伝える女。それがお前の名前だ」

「い、ぬ……。いんぬ……いぅぬ」

「俺は芳野無花果だ。そしてお前は風香。芳野風香だ。犬じゃない」

「いぬ、……いぬぅ」

「さあ言え。自分の名前、風香と」

「いぬ、……いぬ」

「風香、お前は風香だ」

 いやいやをするように、風香は首を振る。

「いぬ、いぬ……いぬ」

「風香。俺の名前を言ってみろ?」

「……?」

「俺は芳野無花果だ」

「ぉ……の、いぃしく」

「よしの、いちじく」

「ぉしの、いぃしく」

「お前は、風香」

「ぉしの、いぃしく。ぅあ」

「よしの、ふうか」

「ぉしの、ぅあ、いぬ」

「犬じゃない。風香」

「ぅあ、ぅうあ。ぉしの、ぅうあ」

「お前は、芳野風香」

「ぅうあ、ぉしの」

 大きな破裂音とともに、風香は自分の名前を繰り返した。犬と呼ばれ続けたように、彼女を今後風香と呼び続ければ、きっと元に戻っていくだろうか。自分が人間であること、人間には人間の生活があること、人間らしく生きることを教えることで、こいつを一人の女として使うことができる、

 俺のために動く、女になる。

「ぉしの、ぅうあ」

 何度も噛みしめるように、風香は言葉を続けた。

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